2006/10/27

さつまいもと中国と沖縄

さつまいもは、いくつかのルートを通じてアメリカ大陸から世界に広まっていったと見られており(関連:「さつまいも太古の海を渡る」)、15世紀末から16世紀頃にスペイン船によって中米からフィリピンに運ばれたルートもさつまいもの主要伝播経路の一つだと考えられています。

そして、スペインの貿易地だったルソン島(現在のフィリピンのマニラ)から、16世紀後半にさつまいもは中国南部に伝えられました。
一説によると、中国福建省の商人がルソンでさつまいもの苗を入手し、故郷に持ち帰って栽培したのが中国でのさつまいも栽培の始まりとなり、1594年に福建省で起きた飢饉が切っ掛けとなって、さつまいもが飢饉対策になることが知られるようになり、中国全土へさつまいも栽培が普及していったといわれています。

さつまいもの皮が紅紫色だったことから、当時の中国では「朱薯」としたり、外国から伝えられた芋という意味で「蕃藷」と書き表したりしました。

            ○

Potato 中国でさつまいも栽培が広まりつつあった16〜17世紀に、中国福建省の対岸に位置する琉球(現在の沖縄)にもさつまいもは伝えられました。

1597年に宮古島にさつまいもが伝来したという説があります。
宮古島の真氏砂川旨屋(しんしすながわしんや)というひとが海難に遭って中国まで流され、そこでさつまいもを知り、故郷に戻るときにさつまいもの蔓を持ち帰ったという話しが残されているのです。
しかし、この話しが事実だとしても、このときのさつまいも栽培は失敗に終わっており、さつまいもが普及するには到らなかったようです。

            ○

沖縄でのさつまいも普及の歴史で必ず登場するのが野国総管(ぬぐんそうかん)と儀間真常(ぎましんじょう)の二人です。
中国で飢饉が起きた時にさつまいもによって多数の命が救われたことを中国進貢船で中国に渡っていた琉球の野国総管が知り、1605年に鉢植えにした三品種のさつまいもの苗を持ち帰って故郷の野国村で栽培を始めました。
その後、野国総管は近隣の村にもさつまいも栽培を広めましたが、これを儀間真常(ぎましんじょう)という人が聞きつけ、さつまいもの苗を貰い受けて自分の領地である垣花村(現在の那覇市山下町)で栽培の研究を重ねたといいます。
数年後に琉球で大飢饉が起きたとき、さつまいもを栽培していた地域では餓死者が出なかったことから、新常が中央の王府にさつまいも栽培の重要性を説き、その後10年間でさつまいも栽培は琉球王国全体に広められました。

            ○

T990911農耕の歴史が始まってから、琉球でも稲や麦など様々な穀物の栽培が試みられましたが、珊瑚礁の島であることから耕作に適した土地が少なく、しかも貧土が多かったため農作物の生産性は低く、高温多湿の気候や毎年起こる台風や旱魃などによる被害も多発したため、琉球での農作はなかなかうまくいかず度々飢饉が起きていました。

その点、さつまいもは地中で生育するため少雨や強風に耐えることができ、気候条件の厳しい琉球でも栽培が可能だったのです。
狭い土地から多くのエネルギーを得ることができるさつまいも栽培は琉球の地で急速に広まりました。
さつまいもとその葉が一緒に味噌汁にされるなどして、さつまいもは庶民の主食となり、貧しい家では殆どの食事がさつまいも中心になりました。
後に琉球でさつまいもは豚の餌としても用いられるようになり、養豚も盛んになっています。(関連:「豚肉と日本人」)
さつまいもの伝来以降、琉球に住む人達の栄養状態は改善され、人口も増加していくことになりました。

            ○

その後、琉球で「ンム」とよばれたさつまいもは薩摩に伝わり、そして日本全国に広まっていきました。
さつまいもがある程度日本で普及した頃、薩摩が既にさつまいもの主産地となっていたためか、日本での呼び名は「さつまいも」になりましたが、現在でも南九州ではさつまいものことを「唐いも」や「琉球いも」と呼んでいるそうです。

<参考書籍>

坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<さつまいも関連>

半分のさつまいも 半分のさつまいも
海老名 香葉子


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沖縄離島の島あそび島ごはん 沖縄離島の島あそび島ごはん
今村 治華


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キャプテンスタッグ 焼きいも用石<3kg> M-5532 キャプテンスタッグ 焼きいも用石<3kg> M-5532

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2006/10/17

豚肉と日本人

古代の北海道には野生の猪は生息していなかったことが分かっています。
しかし、その北海道で見つかった縄文時代後期の遺跡から猪の骨が出土しており、体に縦縞があり瓜坊と呼ばれる猪の子供を模した土偶も発見されているのです。

北海道以外でも伊豆諸島や佐渡島など野生猪が生息しなかったはずの地域から猪が飼われていた痕跡が発見されており、これらのことから古代の日本人によって家畜化された猪が野生猪のいない地域にも持ち込まれていたのではないかと推測されています。

大人になれば人間を噛殺すほど獰猛になる猪も子供の内であれば人になつかせることが可能なため、これを飼い慣らすようになったのが家畜化の始まりだと考えられています。

日本で本格的に農耕が行われるようになった弥生時代になると食糧に余裕ができるようになり、余った食糧をエサにして猪の飼育が盛んに行われ始め、やがてこれが豚の飼育へと繋がっていったと見られています。

            ○3008000006

「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、肉食を禁じる聖武天皇の殺生禁断の詔が出される少し前の732年に、聖武天皇の命令で農民が飼っていた40頭の 「猪」が山に放されており、日本人の肉食が全面的に禁止される以前に豚の飼育は禁じられてしまいました。
これにより豚肉食は日本から公式には一時的になくなってしまうのです。

            ○

14世紀の前半になると中国から琉球王国に豚肉食が伝わり、琉球宮廷料理に豚肉が使われるようになります。
17世紀に明から琉球にさつまいもが伝わると、さつまいもが豚の餌に使われるようになり、琉球で養豚は盛んになりました。

沖縄では肉のことを「シシ」といい、通常シシといえば豚肉のことを指します。
沖縄で豚は「鳴き声以外は余すことなく食べ尽くす」といわれ、豚肉は部位によって含む栄養が異なりますが、一頭の豚を残すことなく食べれば栄養バランスは完璧だともいわれています。
豚肉を食べれば悪霊から守られるという言い伝えもあるため、沖縄では豚肉料理が正月に食べられたりもしています。

            ○

ところで、「ぶた」の呼び名の由来は定かにされていませんが、蒙古の言葉の「ボトン」や朝鮮の言葉の「チプトヤチ」、スンダ語の「ビチス」やシャム語の「バチ」など、何れかの語句が転じんて「ぶた」になったのではないかと考えられています。
太っていることから「猪太(いぶと)」と呼ばれていたものが変化して「ぶた」になったのではないかという説もあります。
ちなみに、猪は隠語で「ぼたん」と呼ばれますが、これは「牡丹に唐獅子」のシャレからきているものです。

            ○

1697年に書かれた『本朝食鑑』には「猪」とかいて「ぶた」と読むと説明されたうえで、この時代のぶたは公家の家で飼われていたことが記されています。
しかし、この豚は人間が出す排泄物処理が主な目的で飼われていたもので、豚肉は猟犬のエサなどにされるくらいで公家が豚の肉を食べることはなかったようです。

            ○

豚を汚物処理に使う方法はアジアやヨーロッパなど世界各地で行われていました。

1131年、フランス皇太子フィリップが町中で馬を進めていたとき、一匹の大きな豚が皇太子の馬に猪突猛進したことで皇太子は落馬してしまい、これがもとで皇太子が亡くなってしまうという事件が起きています。
この当時の豚は猪と変わらないほど大きな体格をしており、牙も持っていて気性が荒かったのですが、パリの町ではこの巨大豚を至る所で放し飼いにして汚物などを食べさせていたようです。
フィリップ皇太子が亡くなった事件後、パリの町中で豚を飼育することは禁止されました。

沖縄でも大正時代の頃まで家のトイレは豚小屋と連結して建てられ、これがフールと呼ばれていましたが、昭和になってから衛生上に問題があるとして禁止されています。

            ○

1780年代に書き残されたある文章には「家猪」と書いて「ぶた」と読ませており、中国やオランダとの交易地だった長崎で少数の豚が飼われ食用にされていたことが記録されています。

19世紀前半になると豚の飼育は沖縄から現在の鹿児島である薩摩に伝えられました。
薩摩では豚の骨付き肉を味噌や焼酎で煮込んで黒砂糖を入れる豚骨料理などがつくられるようになり、今や鹿児島の代表的郷土料理の一つになっています。

            ○

3005010099 猪は江戸時代から日本人に食べられていたため、明治の文明開化の時代、猪肉に似た豚肉は牛肉に比べ新味に欠け、新しいものを取り入れる世の流行に合わなかったことから豚肉需要はあまり増えませんでした。
民家近くで飼われた豚に発生した病気が問題になったり、病気の豚が売買される事件が発生するなどしたために、何度か豚の販売が明治政府により禁じられたのも消費が伸び悩んだ原因だったといわれています。

            ○

明治33(1900)年に、明治政府は日本での養豚産業の本格的発展のために欧米から種豚を輸入し始め、明治時代中期になって洋食屋でポークカツレツが食べられるようになると、豚肉を食べる習慣は次第に日本全国に広がっていきました。

明治40(1907)年の豚の出荷頭数は37,000頭でしたが、その5年後には62,000頭にまで増加しており、年間一人当たり豚肉消費量は、明治16(1883)年には4グラムだったものが、明治30(1897)年には122グラム、昭和初期には500グラムと増えており、現在は日本人一人が年間に食べる豚肉は15キログラム程度にまで増えています。

<参考書籍>

岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
赤嶺政信 (2003)『沖縄の神と食の文化』青春出版社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<豚関連>

紅の豚 紅の豚
宮崎駿 森山周一郎 岡村明美


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デリカテッセン <デジタルニューマスター版> デリカテッセン <デジタルニューマスター版>
ジャン=ピエール・ジュネ マルク・キャロ ドミニク・ピノン


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ブタフィーヌさん(1) ブタフィーヌさん(1)
たかしまてつを ほぼ日刊イトイ新聞/佐藤卓


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2006/10/10

マグロのトロはなぜ高いか

縄文時代の頃からマグロは食べるために獲られていましたが、日本人には長い間不人気な魚でした。
特にマグロのトロは猫も食わないという意味で「猫またぎ」とよばれた時代もあったほどです。
昭和初期頃までマグロのトロは家庭のおかずやネギマ鍋にされるくらいで、すしネタに使われることはありませんでした。
日本人がトロを食べるようになったのは昭和30年代以降で、日本人が脂質の多い食べものを好むようになってからマグロのトロは一般的に普及しました。

            ○

マグロのトロといっても、全ての種類のマグロからトロがとれるわけではありません。
北半球の日本近海や大西洋、地中海にいるクロマグロ、そして南半球のオーストラリアのタスマン沖で泳ぐミナミマグロからトロはとれます。
クロマグロは別名をホンマグロといい、英語ではブルーフィンと呼ばれています。
ミナミマグロは日本の河岸での別名をインドマグロといい、英語名ではサザーンブルーフィンとされています。(関連:「マグロの格付と冷凍技術」)

            ○

日本近海でも獲れるクロマグロは、小さい目のものの方が品質が良く、ムラなく全体的に柔らかく弾力のある皮を持つマグロの身は品質が高いといわれています。
尻尾を切ったときの切り口を見る場合には、切り口の真ん中が赤く、その外側はピンク色になっているものが良いクロマグロです。

            ○

Maguro_parts クロマグロの背側の身は背筋カミ、背筋ナカ、背筋シモの三つに区分されており、腹側も同様に頭の方から順に腹筋カミ、腹筋ナカ、腹筋シモと区別されます。 背筋カミは赤身の中級品で、背筋ナカは赤身の高級品、背筋シモは赤身の下級品として扱われます。 トロの脂にはマグロの内蔵を守る役割があり、内臓を取り囲むようにしてついています。 腹筋カミがトロの高級品、腹筋ナカはトロの中級品、そして腹筋シモがトロの下級品として扱われます。

大雑把に言って腹近くの身が大トロになり、その上の部分が中トロになります。 
大トロの部分は脂質含有量が30%弱程度あり、冬期になれば40%にまで増え、非常に柔らかくまさにとろけるような食感を与えてくれます。
中トロは赤みが強く大トロほどに脂はありませんが食べた時の食感はなめらかです。
腹筋カミの大トロ部分でも筋が入る部分と霜降りと呼ばれる筋の入らない部分があり、日本では霜降り部分を好む人が多いようです。

脂ということでいえば、エラ下のカマと呼ばれる部位や頭の部分には大トロよりも多くの脂質が含まれていますが、こちらはあまりにも脂が多く、生で食べるよりも炙るなどして熱を加えたうえで食べられています。

            ○

日本近海でとれるマグロで有名なのが大間のマグロですが、大間のマグロでおいしいとされるのは赤身の部分です。(関連:「マグロの血合は伊達じゃない」)
クロマグロの赤身には他のまぐろよりも旨味成分が多く含まれています。
マグロの赤身で価格が最も高いのは胴体真ん中の背筋ナカの部分です。
尾に近い背筋シモは背筋ナカの赤身よりも赤みが強く鉄さびの香りがして、それを好む人もいますが、背筋シモの身は背筋ナカや背筋カミより価格は安くなります。

            ○

マグロを解体した場合、刺身に使えるのは皮がついた状態でマグロ全体の60%、皮を取り除いた状態で50%程度になります。
1匹のマグロの半分程度しか刺身には使えないのです。
トロに限定するとマグロの全重量の15%程度しかありません。

            ○

Toro 天然マグロのトロのにぎりが1カンで2000〜3000円、クロマグロの大トロでは1カンあたり4000円くらいになってしまうのは、巨大なマグロからトロはほんの少量しかとることができないからです。
回転寿司や宅配寿司で安いトロのにぎりを出すことができるのは、天然ものよりも脂質を多く含む養殖マグロのトロを使っているからで、養殖ものを使ったにぎりは一カンあたり300〜350円程度の価格になります。

            ○

鳥インフルエンザやBSE感染牛の問題があって鶏肉や牛肉の消費が減少したことや、健康に配慮して魚を好む人達が増えたことなどからアメリカや中国でマグロの消費量が伸びており、日本へのマグロ供給量が減っている現状があります。
マグロのトロの旨さをアメリカ人や中国人が知ってしまったことで、日本の寿司店で出されるトロのにぎりの値段はこれから増々高くなっていく可能性があるのです。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社上田 武司 (2003)『魚河岸マグロ経済学』集英社
堀武昭 (1992)『マグロと日本人』日本放送出版協会
成瀬宇平(2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式』河出書房新社

<トロ関連>

すし職人が教える江戸前寿司—寿司ダネの捌き方から握り方まで本格江戸前極上の33品 すし職人が教える江戸前寿司—寿司ダネの捌き方から握り方まで本格江戸前極上の33品
金内 秀夫 成美堂出版編集部


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誰でもできるおいしいすしの握りかた 誰でもできるおいしいすしの握りかた
東京すしアカデミー


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達人直伝 回転寿司のさ・すし・せ・そ 達人直伝 回転寿司のさ・すし・せ・そ
柳生 九兵衛


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2006/09/27

鮭とアイヌ

日本の沿岸で獲られる秋鮭の漁獲数は全体で6,000万尾程度で、その内の80%程度が北海道で獲られています。
その北海道を含む北方地方の先住民であるアイヌの言葉で夏の食べものを意味する「サクイベ」が鮭の語源だという説があります。
他の説では、アイヌの言葉で乾物にした魚を意味する「サットカム」が鮭の語源になったとされています。

            ○

アイヌの言葉では「神の魚」を意味する「カムイチェ(カムイ=神、チェ=魚)」や、「本当の食べもの」という意味の「シペ」が鮭を指す言葉です。

アイヌ語で家屋は「チセ」といい、チセが5〜10戸集まった集落は「コタン」といいます。
アイヌは鮭が遡上する川の上流にコタンをつくり、鮭の産卵場所よりも上流にコタンができることはありませんでした。
アイヌの生活圏は鮭の産卵場所を中心に発展していったのです。

            ○

本州でも鮭を獲るときのしきたりや風習が各地方にあり、それらに従って鮭は獲られましたが、鮭漁に関するアイヌの儀礼は厳格なものでした。
それは鮭がアイヌの生活や信仰に密接に関係していたことに因ります。

アイヌの伝説では、魚の神である「チェプ・アッテ・カムイ」が持つ袋の中に鮭は存在しており、魚の神がその袋の口を開けると鮭が川を登ってくるとされています。
もし人間が鮭に対する礼儀を失すると鮭は人間の非礼を神に訴え、魚の神は怒って二度と袋の口を開けなくなり、鮭は川を遡上しなくなるとアイヌの伝説は教えています。

            ○

鮭が川の上流に登ってくる時期の前に、アイヌは「湾の神」や「河口の神」、「川の神」に祈り、川を汚さず不浄なものを入れないという誓いをたて、多くの鮭を川に登らせて下さいと神々に祈願します。

            ○

鮭が登ってくる時期になると川岸に祭壇を設け、「アシ・チェ・ノミ」という新しい鮭を迎える儀式が行われます。(以下ではアシリチェップノミと表記)
この儀式では最初に川を登って来る鮭が神に供えられます。
このときに鮭を獲る漁具はマレという鉤銛(かぎもり)が使われ、マレクで鮭を川から引き揚げた後は、鮭を神に捧げる言葉を唱えつつ、柳やミズキで作られた飾りの付いたイサパキクニと呼ばれる棒で鮭の頭を叩きます。
川に最初に登ってきた鮭にこのように人間が対することで、アイヌの神は満足するのです。

            ○

最初の鮭を迎える儀式が行われた後の漁期には、川中に杭を打って一個所作った出口から出てくる鮭を獲る漁や地引き網や刺し網を使った漁も行われました。
アイヌの漁法の中には犬を利用したものもあり、一匹の「漁犬」が一日に100匹近い鮭を獲ったといいます。

アイヌが鮭を獲った時は、カラスの分として鮭一匹を河原の砂利の上に置き、狐の分としてもう一匹を木陰に置く風習がありました。
そしてアイヌは自分たちに必要な分の鮭だけを獲り、決して獲りすぎることはありませんでした。

            ○

産卵後の鮭は「ホッチャレ」と呼ばれます。
これは、産卵後の鮭は脂が抜けてしまって味が落ちるので誰も獲らずに「放っておく」ということから生まれた言葉だという説があります。
アイヌ語で「尻からばらまく」という意味の「ホ・チャリ」が語源になったという説もあるようです。

アイヌは産卵が終わった鮭のいわゆるホッチャレを干物にしていました。
産卵前の脂がのった鮭を干しても虫がわいたり脂が酸化してしまい保存性が低くなるのに対して、ホッチャレは脂が抜けているため乾燥させれば10年以上も保存できたといいます。
アイヌの一家族で600尾以上の鮭と700尾以上のマスを乾物にし、それらを高倉式倉庫に貯えていました。
アイヌが干し鮭を食べるときはこれを水につけて柔らかくして、アザラシや熊の脂をつかって山菜などと一緒に煮込んだりして料理しました。

            ○

アイヌの慣習では、先に出てきた鮭が遡上する直前と最初の鮭が登ってきたときに行われる儀式と、更に鮭の産卵が終わったときに行われる鮭漁の終了を告げる儀式があり、これら三つの儀礼はアイヌにとって大事な神事でした。

しかし明治時代になり北海道は狩猟の場から農耕の地に変えられていきす。
アイヌは土地を取り上げられ、アイヌの伝統的漁法は明治政府により禁じられて、アイヌの風習も規制されてしまったのです。

その後、遡上してくる鮭を迎える祭事のアシリチェップノミは100年以上途絶えていましたが、1981年に札幌アイヌ文化協会などが中心となって復活されています。
今年も 9月18日に、復活してから25回目になるアシリチェップノミが行われ、秋鮭がアイヌの神にささげられました。

<参考書籍>
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会

<アイヌ関連>

萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM 萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM

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アイヌのうた アイヌのうた
民族音楽 萱野茂・平取アイヌ文化保存会 貝澤あさの

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CDエクスプレス アイヌ語 CDエクスプレス アイヌ語
中川 裕 中本 ムツ子

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2006/09/25

かつおの刺身の季節

かつおには島の周辺を回遊している群れと、南北や東西に移動している群れとがあります。
かつおが生息している場所はだいたい地図で示した海域になります。

Map_bo

日本近海に回遊してくるのはフィリピン沖とマリアナ海域から北上してきたかつおだと見られており、これらの海域は日本にやって来るかつおの産卵場所だとも考えられています。
かつおは生まれてから1年後には体長が15センチ以上になり、成魚は時速60kmで泳ぐようになります。

            ○

日本近海では2月頃になると南西諸島や小笠原の近くにかつおがやって来ます。
3月頃になると鹿児島や四国沖を北上しており、4月頃には紀州沖に達しています。
土佐沖から紀州沖にかつおの群れが到来している頃、この群れとは別の一群が御前崎沖や伊豆諸島近海に現れます。
これはマリアナ諸島から小笠原諸島にかけての海域から北上して来た群れだと考えられています。

4〜5月に房州沖や銚子沖まで移動するとかつおはその海域にしばらく留まります。
夏になるとまた北上を始め、銚子沖から福島常磐沖を経由して三陸沖に向かいます。
10月には北海道沖や南千島沖にまで至ります。

            ○

水揚げされる港によって多少時期は異なりますが、例えば関東では初夏の5月頃に水揚げされたかつおが「初鰹」とよばれています。

また、南の海から北海道沖に向かっている時期のかつおが「上りかつお」とよばれるものです。
上りかつおはまだ栄養を充分に貯えていないため脂肪がついておらず、身はあっさりとした味わいがあります。
この時期のかつおは刺身にすると水っぽく感じるのでタタキにしたり、かつお節に加工されます。
かつお節菌がかつおの身に含まれる脂肪を分解することでかつお節はつくられますが、これにはある程度の時間を要します。
脂が多い身でかつお節をつくろうとしても脂が分解される前に酸化してしまうため、かつお節をつくるには脂肪が少ない上りかつおの身の方が向いているのです。(関連:「かつお節の作り方」)

            ○

9〜10月頃に気温が下がり始めるとかつおは北上を止めて南下し始めます。
この南下するかつおは「戻りかつお」とか「下りかつお」とよばれます。
秋に獲れるかつおはそれまでにエサを存分に食べて大きく成長しているので、身には脂が非常にのっています。
上りかつおにくらべて下りかつおは3倍程度も多く脂質を貯えています。
上りかつおでも東北辺りまで北上したものは既にある程度の脂がのっているため刺身で食べてもおいしいのですが、かつおの刺身といえば秋の戻りかつおを好む人は多いようです。
かつおは傷むのが早いため昔は寿司ネタにはされませんでしたが、最近は冷蔵輸送や冷蔵設備が整っているので寿司店で扱われることも珍しくはなくなりました。
日本人の脂を好む傾向に合わせて戻りかつおやなるべく脂の乗ったかつおを仕入れる寿司屋が多くなっているといいます。

            ○

3008000015 毎年かつおは殆ど同時期に同じようなルートを通って回遊するため、日本人にとっては春や秋の風物詩のような存在になっています。 しかし、このかつおの回遊ルートは不変というわけではありません。

東北地方の古い地層から発見されたかつおの骨の研究から、紀元前6000〜3000年頃にあたる縄文時代前期から中期頃にかけての時代には、東北地方で多くのかつおが獲られていたことが判明しています。
しかし縄文時代も後期になると東北で獲られたかつおの量は激減したことも研究から分かっており、この漁獲量の変化の原因は黒潮の流れが変わったためだと推測されています。
近年でも、昭和の初め頃までは日本海側でもかつお漁が盛んに行われた港がありましたが、現在は日本海側を泳ぐかつおは非常に少なくなったという事例があります。

            ○

2006年9月23日付け日経新聞に、かつおの卸値が高騰しているという記事がありました。
原因は9月になっても海水温が高いためにかつおの南下が遅れており、それに加え台風が立て続けに日本の近海を通過したため、戻りかつおとして市場に並ぶものの入荷量が少ないためだそうです。

毎年あたりまえのように日本人が口にしている日本近海もののかつおですが、海水温が例年とは異なる変化をしたり海流の位置がちょっと変わっただけでもかつおは回遊ルートを変える可能性があるのです。
あるとき突然かつおが日本にやって来なくなるという心配もないとはいえないのかもしれません。

<参考書籍>
宮下章(2000)『鰹節』法政大学出版
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式―達人だけが知っている“味覚の黄金律”を初めて明かす!』河出書房新社

<かつお関連>

磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!! 磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!!
東京サザエさん学会

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1000ピース 鰹 10-821 1000ピース 鰹 10-821

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愛蔵版 初ものがたり 愛蔵版 初ものがたり
宮部 みゆき

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2006/09/12

里芋と人里

里芋には糖質とタンパク質が結びついた糖タンパク質の一種であるムチンや食物繊維のガラクタンが含まれており、これらが里芋の粘りのもとになっています。
里芋の皮をむいてすぐに煮ると吹きこぼれてしまうのは、煮汁の中でこれらの粘りのもとになる物質が出てきて泡立つためです。

里芋を煮るときは、吹きこぼれを防ぐために2〜3分ほど下茹でをしてから水で洗って里芋表面の粘りを出す物質を取り除く準備が必要になります。
里芋の粘りの素になる物質は塩に溶ける性質があるので、煮る前に里芋を塩でもむか、下茹でする時に塩を入れることで里芋の粘りを抑えることもできます。

            ○

下ゆでなど余計に一手間が必要になるせいなのか、里芋のネバネバに含まれる強いアクが皮膚などに付くと痒くなったりするせいなのか、最近の里芋はジャガイモなど他の芋に人気を奪われてしまっています。
しかし、日本人の里芋食の歴史は非常に長く、稲作が盛んに行われる以前の縄文時代でも里芋の栽培は行われていたと考えられているほどです。

            ○

里芋は熱帯地方で栽培され始めたタロイモの一種で(関連:「タロイモ・ヤムイモが渡った南の海」)、タロイモの仲間の中では最も北緯が高い場所で栽培されています。

古代の日本人が最初に集落をつくって生活を始めた土地は日照条件が良く、水辺が近くにあるような場所だったはずだと考えられています。
そのような土地はタロイモが好む土地でもありました。
そのためタロイモは自然と人が住む「里」近くで作られるようになったと考えられており、山にできる芋の山芋に対して里で作られる芋なので里芋と呼ばれるようになったのが名前の由来であろうといわれています。(関連:「山芋のとろろと山薬」)

             ○

ところで、京都の伝統野菜に「えびいも」という芋があります。
えびいもは里芋と別種の芋というわけではなく、「唐芋(とうのいも)」という種類の里芋を特別な方法で栽培することで、エビのような縞柄の皮とエビのような反り返った形状がつくられる里芋の一種です。

1700年代後半に京都祇園の「いもぼう平野家」の初代当主の平野権太夫が、長崎から京都に運ばれた唐芋を引き受け、これを丁寧に栽培したところ海老のような芋ができたことからえびいもの名が付けられたといわれています。
えびいもを栽培するには4月頃に種芋が植えられ、5月からは「土寄せ」と呼ばれる作業が行われます。
「土寄せ」は毎月少しづつ土を載せていく作業で、8月までには40センチ程度の土が入れられます。
徐々に加えられる土の重さで芋がエビのように反り返り、皮には縞模様ができるのだそうです。
もともとは京都の南部で栽培されていましたが最近は北部でも栽培されています。

えびいもは通常の里芋よりも粘りが強く煮込んでも形が崩れません。
えびいもを使った料理に、棒ダラの甘辛煮と一緒に煮る「芋棒」という京都料理があります。

            ○

2006年9月3日付けの『Yomiuri Online』に、山形市の馬見ヶ崎川河川敷で、3トンの里芋と6トンの水、1.2トンの牛肉を材料として、2台のショベルカーと100人のスタッフを動員して、3万食の芋煮汁を作る芋煮会が催されたという記事がありました。

このような大規模なものは特別ですが、秋になると東北地方では里芋を使った芋煮会があちらこちらで行われます。
里芋が穫れる時期が米の収穫時期と重なることから、東北の芋煮会には収穫祭の意味あいもあるようです。
それに加えて、稲の品種改良が行われる以前は米を安定的に収穫することは難しく、米が足りなくなったときに東北地方の食を里芋が支えたという歴史があることから、東北の人達にとっての芋煮会は食糧確保がままならなかった昔を偲ぶという面もあるといいます。

群馬県で里芋は「陰の俵」とよばれ、九州では「食芋(けいも)」と呼ばれたりもしており、これら里芋の別名は里芋が準主食扱いされていた時代の名残だと考えられています。

            ○

以前は八月の十五夜には枝豆と里芋を食べ、九月の十三夜には皮付きの里芋と栗を食べる習慣があり、今でも地方によっては十五夜に里芋が茹でられたりするようです。
正月には雑煮の中に里芋を入れるという習慣が多くの地域で見られ、正月三箇日は餅の代わりに里芋を食べるという地方すらあります。
このように日本の祭事に使われてきたことからも分かるように、里芋は日本人にとって特別な食べものとして扱われてきたのです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか 麺. イモ, 茶 』日本放送出版協会
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会

<芋煮会関連>

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2006/09/08

マグロの血合は伊達じゃない

日本近海に生息するマグロは5〜7月頃にフィリピン沖や沖縄の八重山列島沖で卵を産みます。
意外にもあの巨大な魚から生まれる卵は直径が約1ミリです。
卵から孵って2ヶ月もすると10センチ程度の大きさに成長し、1年後の体長は50センチ程度になり体重は3キロにまで増えます。

            ○

日本近海のマグロは3月頃に沖縄近くの海から北上を始め、Map_bonito その後九州の南まで来ると、太平洋の黒潮にのって北へ向かうグループと日本海側の対馬海流にのって移動するグループに分かれます。 太平洋側のグループは春から夏にかけて高知や紀州、房総沖近辺を泳ぎ、日本海側グループは同じ時期に富山や佐渡沖辺りを北上しています。 冬になると太平洋側グループも日本海側グループも本州と北海道の間の津軽海峡に達します。

            ○

津軽海峡に面する青森県大間近くの海底には溝があり、この溝をマグロの大群が通り道にしていることから大間ではマグロ漁が盛んに行われています。
70〜80年代には大間にマグロがやって来なくなり、大間でのマグロの水揚げは一時的に殆ど無くなったこともありましたが、90年代以降、マグロは大間近くを再び回遊するようになりました。
この近辺で獲れるマグロの肉は良質でマグロ本来の味が楽しめるとして、近海物のクロマグロといえば大間と言われるくらいに特別扱いされています。

            ○

以前は北海道の余市や礼文でもマグロが水揚げされましたが、現在は獲れなくなってしまったようです。
1980年代に造られた青函トンネルや、1993年に起きたマグニチュード7.8の北海道南西沖地震が、北海道にまで回遊していたマグロのコースに影響を与えたためにマグロが北海道に来なくなったのではないかと噂されましたが、本当の原因は分かっていません。

            ○

日本の南の海で生まれたマグロは、2〜3年間は太平洋ルートか日本海ルートを南北に回遊しますが、その後太平洋を東に渡り、アメリカのカルフォルニア沖に移動します。
3〜4年の間カルフォルニア沖にいて成魚になると、マグロはまた日本の近海に戻ってきて回遊します。
そのように回遊を続けるマグロの寿命は短いもので5〜6年、長いもので15年程度といわれています。

            ○

マグロは通常時速60キロ程度で泳いでおり、最速で時速160キロまでスピードを出します。
しかもマグロは昼夜に関係なく泳ぎ続け、眠っている間はスピードを落としますが眠りながらも泳ぐことを止めません。
これはマグロが推進することでエラに海水を送り込み、海水中の酸素を体内に吸収し続けなければならないからです。
エラ近くには薄い膜をもつ動脈があり、この薄膜を通じて海水中の酸素を体内に取り入れます。
マグロが高速で泳いでいる最中に網にかかったりすると、吸収する酸素が減り、血中の酸素量が急激に低下するため直ぐに死んでしまいます。

            ○

この酸素を取り込む仕組みとも関係していますが、マグロの体温は高く保たれ、海域によってはマグロの体温の方が海水温よりも数十℃も高くなる場合すらあります。Bonito_blad
マグロは時速60キロ以上の高速で長距離を泳ぐため、酸素吸収を行う動脈から海水によって熱が奪われ、動脈中の血液の温度は下がります。
この動脈は体の側面の皮の下を静脈と平行するように走っています。
これら動脈と静脈からは毛細血管が体の中心に向かって網目状に伸びており、海水で冷やされた低温の血が流れる動脈の毛細血管と、体から発せられる熱で温められた血が流れる静脈の毛細血管が絡み合うように並んでいることから、動脈と静脈の間で熱交換が行われ、マグロの体内温度は一定に保たれるようになっているのです。
背中側の肉と腹側の肉の間にあるこれら毛細血管の集まりがマグロの血合とよばれる部分です。

マグロの筋肉の温度が10℃上昇すると、その筋肉が生み出すパワーは3倍になることが分かっています。
この静脈と動脈の間で行われる熱交換の仕組みにより体の中心部の温度が高く保たれ、マグロの筋肉は広大な太平洋を泳ぎきるためのパワーを生み出すことができるのです。

            ○

マグロが延縄の針などに掛かって逃げようとして長時間暴れ回ったりすると、体温は上昇するのにエラに入る海水が冷却の役目を果たさなくなるため、体内に溜った熱によって身が焼けてしまい、肉がバサバサになって味が落ちるといわれています。
特にキハダマグロの暴れ方は激しいそうです。
また、暴れることで筋肉中の乳酸が増えて味が落ちるとも言われており、延縄で獲れたマグロを使いたがらない料理人もいるといいます。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
上田武司(2003) 『魚河岸マグロ経済学』集英社
岩井保 (2002)『魚河岸マグロ経済学』岩波書店

<マグロ関連>

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2006/08/15

ゴーヤー料理とビタミンC

「苦瓜(にがうり)」は別名「つるれいし」といい、沖縄の方言では「ゴーヤー」と呼ばれますが、沖縄の中でも宮古島ではゴーラー、与論島ではゴーウイとなります。
今やゴーヤーという呼び名の方がにがうりより一般的になってしまっているようなので、ここでもゴーヤーと呼ぶことにします。

          ○

ゴーヤーの原産地は東南アジアで、14世紀末に中国に伝わったといわれています。
16〜17世紀頃、日本に伝わったと考えられていますが明確には分かっていません。
中国語で苦瓜(にがうり)を「クーグヮー」と言い、これがゴーヤーの語源ではないかという説があります。

          ○

調査によると、2000年以前は日本人の約半数しかゴーヤーの名を知りませんでしたが、九州・沖縄サミットやNHK朝の連続ドラマ小説「ちゅらさん」の「ゴーヤーマン」などのおかげでゴーヤーの呼び名が全国的に広まりました。
現在では99.7%と日本人のほぼ全員がゴーヤーを知るようになっています。

          ○

インドには手のひらサイズで色の濃い細かいイボがついたゴーヤーがあったり、台湾ではイボが大きくクリーム色のものが出まわっていたりします。
タイでは長くて色が薄い種類がマラ・チーン、丸く色が濃いものがマラ・キーノックと呼ばれています。

          ○

名護市にある「ゴーヤーパーク」ではアジアや北南米など世界中のゴーヤーが栽培されているそうです。
ゴーヤーパークのサイトにはゴーヤーの歴史やレシピ情報があり、ゴーヤー茶やゴーヤー青汁なども販売され、もちろんゴーヤーパークの情報もあります。

          ○

今はハウス栽培があるので一年中店頭に並ぶゴーヤーですが、露地栽培されたゴーヤーは6〜8月に掛けてが旬です。
日照時間が長いほどゴーヤーの苦味は増すといわれています。
形が大きくて白っぽい色で、イボの一つ一つが大きいゴーヤーは苦味が比較的少ないものです。
持ったときにズシリと重く表面に弾力のあるものが良いゴーヤーで、反対に古くなってくると表面のイボからしなび始め、皮に黒っぽい斑点が出てきます。
ゴーヤーは中の白いワタの部分から傷みだすので、ワタと種を取り除きラップで包んで冷蔵すると保ちが長くなります。

          ○

レモンの約1.5〜2倍、キュウリの約5〜6倍のビタミンCがゴーヤーには含まれているともいわれ、ゴーヤーはビタミンC含有量が多い野菜の一つです。
しかもゴーヤーのビタミンCは加熱しても壊れ難いといわれています。
ゴーヤーには肌に良い成分も含まれているらしく、沖縄ではゴーヤーの葉は汗もを治すとされ、小さい子供を行水させるときにゴーヤーの葉を揉んで入れたりもしたそうです。

          ○

栄養が摂れて食欲を増進するゴーヤーを使った料理も様々です。
イタリア料理のパプリカのマリネのように、ゴーヤーを直火で黒く焼いてから水で洗って皮をとり、種などを取り除いて薄切りにしてオリーブ油とポン酢を混ぜたものをかけたり、鰹節と醤油をかけてみても美味しいですね。

タイの中華系の家庭では、厚めに輪切りにしたゴーヤーの中をくり抜いてそこに豚のひき肉を詰め、これをスープで煮込んだものがよく作られます。
ゴーヤーの苦味が豚肉のうま味と相まって爽やかな感じのするスープで、暑いところで食べるのにはピッタリです。

純和風にゴーヤーをぬか漬けにすると、暑い時期に合う夏の味の漬け物ができます。

ゴーヤーや紅イモをスライスして水気をきってから片栗粉をまぶし、170〜180℃の油で揚げたものに塩をふるゴーヤーチップスや紅イモチップスが沖縄では食べられるようです。
先日のTBS系の番組「チューボーですよ!」でも作られていましたが、なるほど美味しそうでした。

しかし日本で一番有名なゴーヤー料理といえばやはりゴーヤーチャンプルでしょう。
元々は、豆腐が入った炒め物がチャンプルーで豆腐抜きのものはタシヤーと呼ばれていたのが、戦後になってから豆腐を入れるかどうかに関係なくチャンプルーとよばれるようになったようです。
沖縄と同様に豚肉がよく食べられるベトナムでもゴーヤーと豚肉を炒めた料理は作られています。

<参考書籍>

吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
吉川敏男・上野年勇(2004)『体にいい沖縄野菜健康法』実業之日本社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館

<ゴーヤー関連>


おいしいゴーヤを召し上がれ―春夏秋冬を楽しむ健康レシピ&カラダに効く知識 おいしいゴーヤを召し上がれ―春夏秋冬を楽しむ健康レシピ&カラダに効く知識
秋好 憲一

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ちゅらさんファンブック 新装版 ちゅらさんファンブック 新装版
NHK番組制作班+編集スタッフ

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天下無敵のゴーヤーマン☆ 天下無敵のゴーヤーマン☆
ガレッジセール 岡田憲和 丸山和範

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2006/08/11

鮑(あわび)はパワーの象徴

鮑(あわび)と日本人の結びつきは古来から続いてきたものです。
縄文時代の貝塚から鮑の貝殻が発掘されたり、弥生時代の日本人の風習を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には日本人は鮑を好むと記されたりもしました。
804年頃の伊勢神宮の最古の儀式記録にも鮑が奉納されたという記述があります。
武士の時代になっても鮑は不老不死の象徴として出陣や帰陣の際の祝いの食膳に出されたりしました。
古代から日本人は鮑を食べるだけでなく、鮑には特別なパワーが秘められていると考え、神仏に供えたり儀式に使ったりしてきたのです。

          ○

祝儀で使われる「熨斗(のし)」とはもともと熨斗鮑(のしあわび)のことを指しました。
熨斗鮑とはあわびをごく薄くスライスして伸ばして乾燥させたもので、「伸ばす」ということが「末永く続く」ということにつながり、お祝い事の進物に熨斗をつけるようになったといわれています。Noshi

平安時代に残された文献の『延喜式(えんぎしき)』の中にも朝廷への貢ぎ物として熨斗が記録されており、この頃から熨斗は存在していたことが分かっています。

ただし、現在一般的には熨斗と言っても鮑は使われず印刷か熨斗を模した代用品が使われています。
家にあった祝儀袋をスキャンしてみました。真ん中の黄色く長細いものが熨斗鮑を模したものです。(画像をクリックすると拡大します)

          ○

鮑は片思いの恋の喩えとして和歌などにも詠まれてきました。
鮑は巻貝なのですが、まるで二枚貝が割れてしまったような外見をしていることから片思いの象徴とされ、歌の中で隠喩的に使われたのです。

 伊勢のあまの 朝な夕なに 潜(かづ)くとふ 
  鮑(あわび)の貝の 片思(かたも)ひにして
            『万葉集』詠み人しらず

          ○

このような歌が詠まれたからか、寿司職人の隠語ではあわびを「片思い」と呼びます。
寿司職人用語では、鮑の貝殻につく筋肉を「ホシ」、身のざらざらした部分は「ミミ」、外套幕(がいとうまく)は「ヒモ」、内臓を「ワタ」と言い表します。

          ○

日本近海で食用になる鮑にはメガイアワビ、クロアワビ、マダカアワビ、エゾアワビの4種類があります。
クロアワビは生息数が減少していることもあり、この中でも特に高級品として扱われています。
クロアワビの北方系の鮑がエゾアワビであることから、北海道で獲ったエゾアワビを暖流の海域に移して養殖することも行われています。
マダカアワビは秋が旬ですが、クロアワビなどは夏の今が旬です。

<参考書籍>
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<鮑関連>

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし 五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし
古今亭志ん生(五代目)

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祝儀袋・不祝儀袋 表書きのマナー 祝儀袋・不祝儀袋 表書きのマナー
岩下 宣子

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食材魚貝大百科 全4巻
多紀 保彦 中村 康夫
4582545750

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2006/08/04

アナゴと江戸前

アナゴは一年中獲れますが、夏場に大量に獲れることから旬は夏とされています。
アナゴを選ぶ時には体表にヌメリがあるものがよく、開いたものを選ぶときは身が厚くついて血液が真っ赤なものが味のよいものです。
しかし食べ過ぎで太っているものは腹から腐るのが早いと言われています。
太めのアナゴを選ぶのであれば下半身の身が旨く、細いものだったら上半身の味が良いとされています。

          ○

アナゴといえば「江戸前の穴子」が有名ですが、「江戸前の海」とはもともと「江戸城の前の海」のことを指しました。
しかし、江戸時代にも「江戸前」の範囲は明確になっていなかったことが当時の記録から分かっています。
江戸時代の何人かの漁師が奉行所に漁業権に関する訴状を何度か提出していますが、それらには異なった範囲で「江戸前」の定義がされています。
江戸前の海はそこに面したいくつかの村で共用されていましたから、範囲の定義が認められるかどうかは江戸前の魚の漁業権を獲得できるかどうかに関わる大問題だったのです。

          ○

このように江戸時代にも問題になった「江戸前」の範囲ですが、2005年になって水産庁の「豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会」(小泉武夫会長)が「江戸前とは東京湾全体を指す」と定義しました。
これは歴史上最も広い範囲を指す「江戸前」の定義になるのでしょうが、本来の「江戸前」の海域で今は漁が行われていませんので、魚を獲っていない場所を「江戸前」と呼んでも仕方がなく、現在の漁場を網羅するには東京湾一帯に江戸前の範囲を広げなければならなかったという訳があったようです。

          ○

それだけ範囲を広げても近頃市場で流通するアナゴで江戸前のものは少なくなっています。
国産アナゴ自体が最近は少なくなり韓国産が多く出まわっていますが、国産のものより味は落ちるといわれます。
韓国産アナゴは魚体がくすみ光沢がなくて皮が固そうに見えます。

          ○

ところで穴子の人気料理といえばやはりにぎり寿司でしょう。
寿司職人の間では、握る前にネタに手を加えることを「仕事をする」といい、この仕事を必要とするネタを食べるとその店のレベルが分かるといわれています。
そして穴子も「仕事」に手間が掛かるネタの一つです。

穴子は生では食べられないので煮たものを握りますが、穴子を煮るときに酒を入れないで煮ると冷めてから穴子のゼラチン質が固まり、握るときに穴子の身が崩れ易くなります。
穴子の握り寿司を食べた感想で「握る直前にアナゴをサッと炙っており手が込んでいる」という寸評を目にしたりしますが、穴子が柔らかく煮られて身を固くしないように置かれているならば、握る前の一炙りは必要ないのだという意見もあります。

穴子などにつかう「ツメ」は穴子などを煮た後の煮汁を濾してから砂糖、醤油、味醂、酒を加え、穴子の骨などと一緒に煮詰めたものです。
真新しい煮汁で穴子を煮ると穴子の脂が煮汁に溶け出して身がパサついてしまうため、脂の混じった煮汁が濾されて何度も使われます。
ツメをつくるにはコトコトと時間を掛けて煮詰める必要があります。
時間を短縮するために片栗粉を入れて手抜きをする店もありますが、これでは食感が悪くなりツメを冷蔵保存する間に水っぽくなって味は落ちてしまいます。

<参考書籍>
セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社
講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典  』講談社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
旅の文化研究所 (2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<すし・穴子関連>

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