2007/01/21

蕎麦と江戸の屋台

江戸時代には行商人が天秤棒に様々な商品をぶら下げて町の中を売り歩いていました。
火を持ち歩いて暖かい食べものを売り歩く商人もおり、蕎麦も夜間に屋台で売られていたのです。
夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていました。
蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となりました。

            ○

火を扱う屋台は度々火事の元になったため、江戸時代を通じて徳川幕府は夜蕎麦売りなどを再三禁じようとしましたが、この規制はあまりうまくいかず、蕎麦の屋台売りも排除されることはありませんでした。
むしろ江戸の火事は屋台を増やす切っ掛けになったともいわれています。

1657年に江戸の町の三分の二が焼失してしまう大火事があり、これ以降、江戸の屋台店が増加したのです。
大火後の再建による復興景気で職人の給料が暴騰し、地方の職人も江戸に流れこむようになり、この激増した職人達を目当てにした振り売りと呼ばれる屋台が増えたためです。
その中でも夜中に売られる蕎麦やうどんは人気がありました。

            ○

当時の夜蕎麦売りの営業期間は立冬(今でいえば11月初め頃)から冬の終わりまでの間でした。
夜蕎麦売りが冬期に限られたのは江戸時代の生活習慣に関連しています。

江戸時代は日の出と日の入りに合わせて食事が摂られ、燃料節約のため夕食後はなるべく早く就寝していました。
冬の間は夕食事間が早く朝食時間が遅いことから夜中に小腹がすくこともありました。
しかし一度消した火をおこし直すのは手間が掛かり、お腹が減っても起き出して夜食を作ることはこの時代簡単ではありませんでした。
そこで、冬期の夜蕎麦売りが江戸の庶民から便利に使われていたのです。

            ○

屋台蕎麦屋が出始めた頃から夜蕎麦売りは「夜鷹蕎麦」と呼ばれるようになりました。
この夜鷹蕎麦の夜鷹とは、夜の街角に立ち色を売る女性のことを意味したという説があります。
このような女性達が夜蕎麦売りの常連客だったことから夜鷹蕎麦の名がついたといいます。

夜鷹蕎麦の名の由来についてはもう一つ説があります。
江戸時代には鷹匠用につくられる「お鷹蕎麦」と呼ばれる蕎麦がありました。
暴れん坊将軍』でお馴染みの徳川吉宗の時代に、このお鷹蕎麦を屋台で販売することが許可され、そのお鷹蕎麦の屋台販売の殆どが夜に行われたことから夜鷹蕎麦の名がついたともいわれています。

夜鷹蕎麦という呼び名は幕末まで使われました。

            ○

この当時、一人の元締めが数十人の夜蕎麦売りを雇い、蕎麦の材料や屋台を支給し商売をさせていました。
材料を支給すると言っても、夜蕎麦売りが出始めた頃のメニューには「ぶっかけ」とよばれるかけそばしかありませんでした。
「ぶっかけ」とは、荷物運びの人足が素早く立ち食いできるように冷たいツユをかけた蕎麦のことで、出始めの頃は下賎な食べものとされていました。

その後、温かいツユを使ったぶっかけが売られ始めると、温かいぶっかけが「かけ」と呼ばれるようになり、それまでぶっかけと呼ばれた冷たい蕎麦は「もり」とよばれるようになったといわれています。(もりそばの名の由来は「蕎麦と江戸っ子」)

            ○

1700年代後半になると「しっぽく」と呼ばれる蕎麦が風鈴蕎麦で売られるようになりました。
風鈴蕎麦は屋台蕎麦の一種ですが、夜鷹蕎麦より若干品質の高いものを夜鷹蕎麦より少し割高に売る屋台で、呼び声をだすかわりに屋台の屋根の下につけた風鈴の音で客に蕎麦売りが来ていることを知らせていました。

この風鈴蕎麦で売られるようになったしっぽくはもともと関西で始まったものです。
蕎麦の上に卵焼き、蒲鉾、松茸、椎茸、慈姑などをのせたものがしっぽく蕎麦で、これが後の「おかめ」になりました。
もっとも、江戸時代の夜蕎麦屋台で売られたしっぽくはそんな豪勢な蕎麦ではなく、竹輪のみがのせられていたようです。

ちなみに、天ぷら蕎麦や鴨南蛮などのメニューも江戸時代の蕎麦屋が考案したものです。
この頃には、馬鹿貝の貝柱をのせた「霰」や揉んだ浅草海苔をのせた「花巻」というメニューもあったといいます。

            ○

江戸時代末期になると夜鷹蕎麦は次第に消えていくことになります。
これは18世紀後半から店舗営業の蕎麦屋が増加したことが一因にありました。

1787年には江戸の蕎麦屋の店舗数は65軒しかありませんでしたが、1860年には3763軒になっていたという記録も残されています(現在、東京都内にある蕎麦屋は6000軒程度)。

また、明治時代になって文明開化の大号令が出されると、古いものが敬遠され新しいものが歓迎された世の風潮の高まりや生活習慣の変化もあって蕎麦自体の人気も下降し、屋台の蕎麦売りも次第に必要とされなくなっていったのです。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

東京 五つ星の蕎麦 東京 五つ星の蕎麦
見田 盛夫


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移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ 移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ
烏川 清治


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江戸っ子は何を食べていたか 江戸っ子は何を食べていたか
大久保 洋子


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2007/01/14

蕎麦と江戸っ子

蕎麦発祥の地がどこなのかについてはよく分かっていませんが(関連:「蕎麦と寺」)、蕎麦が商品として最初に売られ始めた場所は大阪だったという説があります。
豊臣秀吉が大阪城を築城するときに大阪には多くの人足や職人が集められ、この労働者を目当てにした「砂場」と呼ばれる蕎麦を商いする店が大阪の町で多く見られるようになったのだといわれています。

            ○

関東に蕎麦を売る店が増えたのも江戸の町が開発された頃のことです。
徳川家康が駿府から関東に国替えさせられたとき、多くの商人が徳川家康と共に江戸に移り住み、この中には駿河で蕎麦を売っていた商人も含まれていました。
この駿河から江戸に移住した蕎麦屋の人達が、後に華開く江戸の蕎麦文化の重要な礎の一部となっていったのです。

            ○

蕎麦つくりの歴史の初期頃、蕎麦は短時間茹でられてから蒸籠で蒸されていました。
これは、当時、蕎麦打ちに「つなぎ」が殆ど使われていなかったためです。
うどんに使われる小麦粉は粘りを出すグルテンを含んでいますが、ソバ粉にはそれが含まれていません。
そのため、つなぎ無しで打った蕎麦を長時間茹でると切れたり溶けてしまったりするため、蒸して加熱されていたのです。
このことから当時の蕎麦は「せいろうそば」とか「蒸し蕎麦」の名で呼ばれていました。

現在の「もりそば」の名は蒸し蕎麦が蒸籠に盛り上げられていたことに由来しています。
「ざるそば」はもともと竹ざるに盛られていたことからこの名が付けられましたが、いつの間にか海苔が掛けてあるものがざるそばと呼ばれるようになりました。

            ○

1700年代初期の江戸では主に菓子屋が蕎麦をつくっていました。
つなぎを使わずにソバ粉だけで打たれた蕎麦を茹でるのは簡単ではなく、蒸す技術を持った菓子屋が副業として蒸し蕎麦を販売していたのです。
しかし中には蕎麦の方が菓子よりもよく売れる店も出てくるようになり、次第に蕎麦を専門に売る店が増えていきました。

            ○

1700年代後半になると、江戸ではうどんよりも蕎麦の方が人気を得るようになります。
関西ではうどん、関東では蕎麦が好まれるという傾向が見られるようになったのはこの時代の頃からです。
関西ではうどんの原料となる小麦の栽培地が多かったのに対し、関東には火山灰が堆積した土地が多かったため、そのような土壌に合うソバ栽培が関東で盛んになり、このことが関東で蕎麦が好まれる一因になったと考えられています。

            ○

江戸で蕎麦の消費が増えるようになると、蕎麦打ちが効率よく行えるように次第に「つなぎ」が使われ始めました。
江戸時代に書かれた『料理物語』には、蕎麦を打つ時のつなぎに豆腐や重湯を使う方法が記されています。
豆腐ではなく大豆を水に浸けてからすり潰した「呉汁」と呼ばれるものをつなぎとして入れると蕎麦の保存性が高まるということも江戸時代中期頃に発見されています。
この呉汁は青森の一部の地方では今でも使われているものです。
その後、蕎麦職人達の試行錯誤の末、蕎麦のつなぎとしては小麦粉を使うのが一般的になっていきました。

            ○

二八蕎麦の名はソバ粉とつなぎの小麦粉を混ぜる割合が8対2であったことに由来しているという説があります。
そうではなく、長い間、江戸時代の蕎麦の値段が十六文だったため、二八の十六のシャレからこの名がついたのだという説や、江戸時代の蕎麦一杯の量は一人で二杯食べて丁度お腹がふくれるくらいしかなく、一杯が八文で二杯食べると十六文になることから二八そばと言われるようになったという説もあり、二八そばの語源については諸説ありますが本当のところは分かっていません。

            ○

江戸時代の蕎麦の盛りが少なかったのは蕎麦屋がケチったからというより、それが江戸の流行だったからです。
江戸っ子の間では小食であることを「江戸腹」と言い、これが粋とされていました。
山盛りにされたものを腹一杯食べるのは粋とは言えず、蕎麦も小盛りにされたものが江戸っ子に好まれていたのです。

            ○

この「粋」を愛した江戸っ子にとって、蕎麦は最も粋な食べものの一つでした。
また、「粋」に「艶」はつきものだったことから、粋な食べものの蕎麦は江戸っ子に「艶」を連想させていたようです。

江戸時代の蕎麦屋の二階は逢い引きによく使われたようですし、吉原の遊び客が「ここに来る前に蕎麦を食べてきた」と遊女に言えば、遊女から「粋な人」と思われたともいいます。
現代の日本でも、イタリア料理を食べるとかフレンチのお店に行くということにオシャレな響きがありますが、それに近い印象が江戸時代の蕎麦や蕎麦屋にあったのかもしれません。

            ○

ところで、江戸時代の蕎麦職人は蕎麦を細くつくれるようになればなるほど、高い給料がもらえたといいます。
これは細い蕎麦が江戸っ子の「粋」感覚に合致していたからです。

しかし単に細い麺であれば粋であるというわけではありませんでした。
そうめんも細長い麺ですが、江戸っ子がそうめんを粋な食べものと見なしていなかったことでもそのことが分かります。

細いのに茹でても切れずにコシのある蕎麦を食べさせるには高い技術が必要になります。
色や香り、食感などの要素が上手く組み合わさり、切れそうなほど細い麺にそれらの要素が一つにまとめられ、しかもその高度な技術がこれ見よがしに誇張してみせられるのではなく、ただ「細さ」という一点だけでさり気なく表現される蕎麦という食べものは江戸っ子の「粋」感覚に合っていました。
そのため、蕎麦は細ければ細いほど粋であるとされ、細い蕎麦をつくれる職人は「粋」を提供できる人として高給を得ることができたのです。

<関連書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88 そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88
国松 靖弘


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江戸の満腹力—時代小説傑作選 江戸の満腹力—時代小説傑作選
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江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック 江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック
吉田 悦子 神田雑学大学


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2007/01/07

蕎麦と寺

江戸時代の頃、12月は新蕎麦が食べられる最後の月でした。
霜にあたってから刈り取られたソバの実はおいしいといわれ、一部のソバが12月に収穫され新蕎麦として楽しまれていたのです。(関連:「蕎麦になるソバの実」)
そのようなこともあってか、江戸時代には年越し蕎麦以外にも12月に蕎麦を食べる機会が多かったようです。
例えば12月13日の煤払いの日に掃除をしてくれた人達に蕎麦が供されたり、12月の14日から26日まで江戸の町の各所で開かれた歳の市でも人々は蕎麦を味わいました。

            ○

また、この時代には月末に蕎麦を食べるとお金に困らないとされ、12月以外の月でも月末になると蕎麦を好んで食べることもありました。
これは、当時、金箔を延ばすのにソバ粉が使われたり、金や銀の粉が散ったときにソバ粉を蒔いて吸着させていたことから、げん担ぎに蕎麦が食べられたのだともいわれています。

            ○

「年越し蕎麦」にも縁起かつぎの意味が込められており、江戸時代には「運の蕎麦」や「運蕎麦」ともよばれました。
「大晦日蕎麦」や「除夜の蕎麦」などともいいましたが、この当時に「年越し蕎麦」という言葉は使われていなかったようです。

            ○

昔はソバ粉を捏ねてから延ばして切ったものを「蕎麦切り」といいました。
これが後に縮まって単に「蕎麦」と呼ばれるようになったのです。
蕎麦切り発祥の地には、信州本山宿(現在の塩尻)や甲州栖雲寺(現在の山梨県東山梨群大和村)などが挙げられていますが、これらの場所で最初に蕎麦が打たれたという確証はなく、蕎麦切りの始まりについては定かにされていません。

            ○

日本の文献に蕎麦切りという言葉が最初に出てきたのは長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書で、1574年に定勝寺の仏殿修理が行われた際の寄進記録に蕎麦切りという言葉が記されています。

蕎麦切りをどのように食べたかについて記した最も古い文献は1636年に儒者である掘杏庵が書いた「中山日録」です。
掘杏庵は、蕎麦切りとは冷麦のように細く冷たいものであり、これを醤油に大根の搾り汁とねぎ、細かく削ったかつお節を加えたものにつけて食べたと書き残しています。

            ○

蕎麦切りは茶道を通じて広まったといわれています。
茶道では早くから蕎麦切りを取り入れており、茶道の決まり事に準じて食事をする懐石料理で蕎麦切りを出すようになったのです。
茶道の広まりと共に公家や武士、町人の間に蕎麦切りが普及したのだろうと推測されています。

            ○

蕎麦切りは禅寺を介して庶民の間にも普及していきました。
粉を麺にする方法は僧により中国から日本に持ち込まれたといわれており、ソバ粉から蕎麦切りを作る技術も各地の禅寺から庶民に伝えられたと考えられています。
しかし、蕎麦切りを作るのには手間が掛かるため、地方の庶民は蕎麦切りを日常的に食べるわけにもいかず、ハレの日の食べものとして祭の日や冠婚葬祭の時だけ作っていました。
今でもハレの日に蕎麦を食べる風習が残る地域は多くあります。

            ○

蕎麦と寺との結びつきを表す逸話があります。
1596年に信州松本出身で蕎麦打ち好きな和尚が湯島に創建された道光庵に入ったのだそうです。
この和尚がつくる蕎麦はおいしいと評判になったことから町の人々が寺に押し掛けるようになり、寺はまるで蕎麦屋のようになったといいます。
道光庵の本寺である京都知恩院はこの状況に怒り、「不許蕎麦入境内(蕎麦境内に入るを許さず)」という石柱を道光庵の門前に立てたといいます。
現在でも「○○庵」という名前の蕎麦屋は多くありますが、これは蕎麦で人出が増えた道光庵にあやかろうとして店の名前に「庵」を入れるのが蕎麦屋の名前の一つの定番になったためだといわれています。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88 そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88
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関西の蕎麦101軒—美味しい店 関西の蕎麦101軒—美味しい店
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千葉のうまい蕎麦73選 千葉のうまい蕎麦73選
大浦 明


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2006/12/09

パスタの世界への広まり

17世紀頃から政情の安定化に伴いナポリの町では人口が増加し、これによって生鮮食品の供給が不足してパスタなどの小麦粉食品が重視されるようになり、ナポリでパスタ製造機が発達しました。(関連:「パスタ製造機」)
18世紀から19世紀にかけて産業革命が起きると、パスタ製造機は更に飛躍的な進歩を遂げました。
それ以前は人力で動かされていたパスタ生地押し出し機械は蒸気機関を使用した圧搾機に取って代わられ、製粉機や生地をこねる機械も考案されるなど、次々と新しいパスタ製造機が登場したのです。

            ○

05ilaq33

パスタ製造機の発達によりパスタの生産性は著しく向上しました。
パスタ発祥地と考えられているシチリアでも(関連:「パスタとマルコ・ポーロ」)、16世紀頃のパスタの価格はパンの3倍もしており、一般庶民はパスタを日常的に食べてはいませんでしたが、産業革命時に発明されたパスタ製造機や従来品が改良されたおかげでパスタ生産量は増加し、これに伴いパスタの価格は下がり、かつては高級品に近い食べものだったパスタは労働者の食べものへと変わっていったのです。

            ○

産業革命前の北イタリアでは他地域からの商品流通が少なく、南イタリア産乾燥パスタも北イタリアでは常食されず、代わりに生パスタが食べられていました。
この歴史の影響は現在のイタリア食文化にも現れており、ラザニアやカネッローニ、ラビオリ、タッリャテッレなど生パスタを用いて作られた伝統料理はイタリア北部に多く、スパゲティやマカロニなどの乾燥パスタを使ったものは南イタリア料理に多いのです。

19世紀になって温風乾燥機が登場したことで、乾燥パスタ製造は最初の工程である小麦粉を捏ねるところからの乾燥を行う最後の工程までを一貫して機械で行えるようになり、それまでは乾いた気候の南イタリアで作られていた乾燥パスタが北イタリアでも製造されるようになりました。
また、この時代にヨーロッパの産業や商業の中心が地中海沿岸諸国から欧州北方諸国に移っていった事情もあって、イタリア国内でも南部よりも北部の方が地理的に重要となり、 乾燥パスタの生産拠点も南イタリアから北イタリアへと移されていったのです。
この時代に北イタリアで創業されたヴィトーニやデ・チェッコなどのパスタ製造会社は現在でも大手パスタメーカーとして知られています。

            ○

ナポリのパスタ職人が発展させたパスタ製造でしたが、産業革命後には北イタリアが生産拠点となり、北イタリアで大量生産されるようになったパスタはイタリア全土に広まっていきました。
19世紀にはフランスやドイツなどイタリア周辺国にもパスタを食べる文化が伝わり、イタリアから移住した人達によってアメリカへもパスタは広められて行ったのです。

            ○

05ilaq30 日本でも明治の初めには西洋料理店でマカロニ料理が出されるようになっていました。
しかし、この時代の多くの一般庶民がパスタを認知していたわけではなく、明治5(1872)年に発刊された「西洋料理指南」では、「我が国にはマカロニを作る器械がないのでうどんの形につくって図の長さに切って代用する」といったマカロニ料理の説明がされています。

明治の初めに役所に提出された西洋料理店の開業許可申請書の中では、マカロニが素麺と訳されていました。
明治時代のマカロニのその他の和名としては、「穴あきうどん」「管通麺」「イタリア管麺」「管麺」「管状そうめん」などがあり、スパゲティーには「西洋うどん」や「西洋そうめん」「イタリアうどん」などの名が付けられていたようです。

            ○

日本で国産マカロニが初めてつくられたのは明治40年代のことでした。
新しいタイプのうどんの乾麺をつくり、これを横浜に住む西洋人に売り込みに行った新潟県加茂町の石附吉郎氏が、お客の西洋人からマカロニを見せられて、逆にこういうタイプの麺を作って欲しいと要望されました。
これを切っ掛けとして石附吉郎氏はマカロニ製造機を独自開発し、この石附吉郎氏のマカロニ製造機によって作られたマカロニが日本で最初の国産マカロニになったといわれています。

            ○

その後、昭和7年には兵庫で輸入器械を使ったマカロニの大量生産が始められていますが、この頃は一部の高級レストランでしかマカロニは使われておらず、国内需要が少ないことから国産マカロニは輸入品に対抗できませんでした。

日本でパスタ消費が伸びたのは日本の食が洋風化し始めた昭和30年以降のことです。(関連:「インスタントラーメンの誕生」「魚肉ソーセージと肉食」)
昭和30年頃、米が大豊作になったことから小麦粉の供給が過剰になり、市場でダブついた小麦粉を使って製麺会社が「オーマイ・カット・マカロニ」や「マ・マーマカロニ」を試作しています。
ちょうどこの頃、ハンバーグなどの洋食が流行し始めたことから、それらの料理の付け合わせにマカロニが使われるようになり、日本でのパスタ消費量も増加していくことになったのです。

<参考書籍>

大矢復(2002)『 パスタの迷宮』洋泉社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
石毛直道(2006)『麺の文化史』講談社学術文庫

<パスタ関連>

Berndes パスタパン OL1000 Berndes パスタパン OL1000

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コトコトパスタ—おいしいイタリア。心をこめて作る本格パスタ コトコトパスタ—おいしいイタリア。心をこめて作る本格パスタ
金子 琴美

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100万人が選んだ大絶賛パスタ—COOKPAD 100万人が選んだ大絶賛パスタ—COOKPAD
クックパッド

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2006/11/21

パスタ製造機

イタリア語で「pasta(パスタ)」とはもともと小麦粉を捏ねた生地のことを指し、英語では「paste(ペースト)」にあたる語句です。
パスタには生パスタと乾燥パスタがありますが、これらの違いは単に乾燥の有無だけではありません。
生パスタを作るときは「普通小麦」が用いられますが、乾燥パスタにはタンパク質を多く含み硬質の「デュラム小麦」が使われるのです。
デュラム小麦は硬すぎて細かい粉にできないため、パンをつくるのには向いていません。
うどんもスパゲティも小麦から作られますが、これらの麺が異なる食感をもっているのも使用される小麦粉の硬度が違うためなのです。

また、全粒粉が用いられるということも乾燥パスタの特徴の一つで、乾燥パスタがたいてい黄色がかっているのは小麦を精白していない全粒粉が使われていることに因ります。

            ○

05ilaq34乾燥パスタは機械で生地を押し出す方法でつくられますが、この製法は17世紀のナポリで始められました。(関連:「パスタとマルコ・ポーロ」)
それ以前は生地を薄くのばして細く切る、日本のうどんのような切り麺タイプのパスタしかありませんでした。
ワインをつくるときに使われたブドウ搾りの圧搾器具を応用してパスタ製造機は作られ、ネジの螺旋運動を利用して穴から小麦の生地を押し出すことでパスタが作られるようになったのです(アジアでも米粉などで押し出し麺がつくられますが、アジアの押し出し麺はテコの原理でピストンを押すような方式で作られます)。

            ○

乾燥パスタの中でも特に馴染み深いものに細長いスパゲティがあります。スパゲティの語源はイタリア語で「紐」を意味する言葉の「spago」だと考えられており、「spago」の縮語形である「spaghetto」という語句の複数形が「spaghetti(スパゲティ)」に転じたといわれています。

            ○

もう一つ世界的に有名なパスタにマカロニがあります。
英語で「macaroni」、イタリア語では「maccheroni」と呼ばれるマカロニの語源はイタリア語の「マカーレ(挽き割る)」に由来するという説が定説になっているようです。

            ○

05ilaq32 マカロニも練った小麦粉を圧搾して穴から絞り絞り出すことでつくられますが、先にいくほど細くなっている漏斗状の管が容器の底についており、その管の真ん中に棒状のピンが差し込まれていることで、空洞のパスタが穴から絞り出されるという仕組みになっています。
マカロニ製造機が作られた当初はマカロニも長いパスタとしてつくられていましたが、その後短くカットされるようになったようです。
マカロニの穴はパスタに熱が早く通るために作られたとか、ソースがパスタにからみ易くなるために空けられたなどの説がありますが、穴空きパスタが作られた明確な理由は分かっていません。

湿度の低いナポリの気候はもともと乾燥パスタの製造に最適でしたが、ナポリ産パスタを象徴する穴空きパスタのマカロニが考案されたことでナポリからのパスタ輸出量は増加し、17世紀から19世紀を通じてナポリ産パスタはヨーロッパで主流となりました。

            ○

押し出し麺タイプのパスタが機械で作られるようになって以降、圧搾機の穴の形状を変えたり生地に野菜のペーストが混ぜられるなど色々な工夫がなされ、マカロニの他にも様々な形のパスタが作られるようになりました。
その内のいくつかを上げておきます。

スパゲッティーニ・・細いスパゲティ
ヴァーミセリ・・・・極細のスパゲティ
リガトーニ・・・・・大型のマカロニ
トルテッリーニ・・・指輪の形のパスタ
ルオーテ・・・・・・車輪型パスタ
リガティーニ・・・・細長いマカロニ
フジッリ・・・・・・ねじれた管状パスタ
パッパルデッレ・・・幅広パスタ
ファルファッレ・・・蝶型のリボン状パスタ
コンキリエ・・・・・貝殻形パスタ
コンキリエッテ・・・コンキリエを小さくしたもの
ルマーケ・・・・・・カタツムリ型パスタ
ペンネ・・・・・・・ペン先状パスタ
エリケ・・・・・・・螺旋状パスタ
オレッキエッテ・・・耳型パスタ

<参考書籍>

大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
石毛直道(2006)『麺の文化史』講談社学術文庫

<パスタ関連>

ピアッティー パスタメーカー C-119 ピアッティー パスタメーカー C-119

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DeLonghi キッチンマシン シェフクラシック KM4000 DeLonghi キッチンマシン シェフクラシック KM4000

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2006/10/06

蕎麦になるソバの実

ソバは種を蒔いてから収穫できるまでに約75日掛かります。
春に種が蒔かれたものは夏に収穫され、夏に種を蒔いたものは秋ソバとして秋に収穫されます。

ソバはタデ科植物です。
涼しい気候で育ち、気温だけで見るならばヒマラヤの標高4300メートル地点などでも生育することが可能です。
貧土や非常に乾燥した環境でも育ち、病気や害虫の被害が少ないという栽培する上での利点があります。
しかも、ソバの葉は成長が速く地表に射す日光を遮り、ソバの根からは他の植物の生育を妨げる物質が分泌されるため、ソバ畑の地表には雑草が生え難くなるということもソバ栽培に手間が掛からない理由の一つになっています。

栽培するには良いこと尽くめに聞こえますが、ソバが実をつけるには主に蜜蜂などの虫による受粉が必要になるため、花が咲いても結実するのは20〜30%程度で、収穫できる実が少ないということがこの栽培植物の欠点といわれています。

            ○

3005000066 ソバの原産地はシベリアからインドにかけての東アジアといわれており、中国南部から北部に伝わったものが朝鮮半島を経由して日本に伝播したとする説が有力視されています。

縄文時代前期の遺跡からソバの種子や花粉が発見されていることから、紀元前4000年よりも前にソバ栽培は始められていたという説があります。
日本では野生種や自生するソバが発見されていないため、栽培用のソバが縄文時代に日本に持ち込まれたのだと考えられているのです。
出土した中で最も古いソバの種子は北海道渡島のハマナス遺跡から発見されたもので、その他にも全国の十数ヶ所の遺跡でソバの花粉や種子が出土しています。

しかし、縄文時代や弥生時代の遺跡から出土したソバの実は後の時代に混じった可能性も否定できず、証明が可能な範囲でソバ栽培が確実に行われていたといえるのは5世紀頃とされています。
『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』にソバという言葉が出てこないことから、これらの文献が編集された時代よりも後に栽培が始まったとする説もあるのです。

            ○

ソバの古語の「ソバムギ」がソバの語源だとされており、ソバムギとよばれていたものが縮められて単に「ソバ」と呼ばれるようになったといわれています。
「ソバムギ」の「ソバ」とは「稜(そば)」と書き、「稜」とは物の角を意味します。
ソバの葉は三角で実も三角錐の形をしていることから、角のある麦という意味で「ソバムギ」とよばれたのです。

            ○

ソバが最初に文献に登場するのは722年に元正天皇が出した詔で、米の凶作に備えて晩稲、ソバ、大麦、小麦を植えよと命じたものです。
その次にソバが出てくる記録は839年に任明天皇が畿内でソバを栽培せよとした詔でした。
当時ソバといえば非常食であり日常的に食べるものではなかったのか、任明天皇の命令書が出された後は、飢饉が多発した平安末期になるまでソバは文献に現れなくなります。

            ○

ところで、ソバは五色といいます。
これは、ソバの根は茶色で茎は赤、葉は緑、実は黒、そして実の中身は白いという意味です。
麺の蕎麦のおいしさを決める要素の殆どはソバ粉の質だといわれ、そのソバ粉の原料となるのが外皮に包まれた実の中身の白い部分です。

            ○

ソバの実の外皮を取り除くことを「抜きにする」といいます。
外皮だけを取り除き中身の白い部分がきれいに取り出されたものは「丸抜き」とよばれ、中の実が2〜3つに割れているものは「上割れ」、更に細かく割れているものは「小割れ」といいます。

昔は「抜き臼」というソバの外皮を取り除く専用の石臼がありましたが、現在では高速回転するベルトにソバの実を打ちつけて外皮をとる機械が使われるのが普通です。
臼で外皮を取り除く場合は皮だけが取れずに実が砕けてしまうものが全体の七割にもなりますが、機械で皮を取る方法では、皮が取られて実が割れない、いわゆる丸抜きとよばれる状態の実が九割になります。

            ○

ソバの外皮を完全に取り除くほど、麺にしたときの色は白くなります。
抜き臼を使ったときに上割れや小割れ状態になってしまった実は再び臼で挽かれることで粉にされ、その時に外皮は殆ど取り除かれますが、粉となった外皮はそば粉に混じってしまうため、蕎麦の出来上がりは黒っぽくなります。
また、蕎麦の色はつなぎで入れる小麦粉の量にも左右され、ソバ粉に混ぜる小麦粉の量が多ければ多いほど、できあがる蕎麦の色は白くなります。

ソバの外皮は繊維質で消化に悪く、味を良くする成分を含んでいません。
黒みがかった蕎麦の方がおいしいという話しもありますが、ソバの外皮が混じったことで麺の蕎麦の色が黒っぽくなっている場合もあり、一概に色だけで蕎麦のおいしさが決まるとは言えないようです。

<参考書籍>
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版

<蕎麦関連>

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池波正太郎 小林桂樹 柴俊夫


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古今亭志ん生(五代目)


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2006/08/25

パスタとマルコ・ポーロ

イタリア料理といわれてパスタを連想するだけでなく、単にイタリアと聞いただけでもパスタを思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
イタリアとパスタの関係は深いものですが、そのイタリアでどのようにパスタが食べ始められたのかやパスタの歴史についてはよくわかっていないことが多いのです。

          ○

当のイタリア人の中にも、あのマルコ・ポーロが中国から乾麺を持ち帰り、それがヨーロッパでパスタになったと信じている人達もいるそうです。
一昔前はイタリア人だけでなく世界中で多くの人がこの伝説じみた話しを信じていました。
この嘘の出所を調べ上げたのは、フランス人の食物史研究家で現在は日仏会館 副理事でもあるフランソワーズ・サバン氏で、全米マカロニ生産者協会(The American National Macaroni Manufacturers Association)が発刊していた「マカロニ・ジャーナル」という業界紙の1929年10月号にマルコ・ポーロとパスタの話しが載せられたことによって、この説が真しやかに広まったということを突き止めました。

          ○

他の学者の指摘で、マルコ・ポーロの口述をまとめた東方見聞録が筆記されるより約20年前の1279年に、ポンチョ・パストーネという人がマカロニが目一杯入った箱を財産として残したことをジェノバの公証人が記録していたことが分かっています。
財産に残すくらいなのでこれは生パスタではなく乾燥パスタだと考えられており、この公式記録によってマルコ・ポーロ以前にもイタリアにパスタがあったことが分かっているのです。

          ○

Pasta1また、マルコ・ポーロがヨーロッパに帰国する100年も前に、シチリア島から30キロ離れたトレビアで製造されていた粉食製品について、アラブの地理学者が書き残しています。
記録で使われている語句から、これは乾燥パスタだったと考えられています。
この記録の中のシチリアの乾燥パスタの説明にアラブ語の「itriyah」という言葉が使われています。
この「itriyah」はアラブで食べられていた麺であったらしいということが分かっており、アラブからシチリアに伝わった麺がパスタになったのだろうと推測され、現在はこれが定説のように扱われることが多いようです。

          ○

事実として、シチリアはアラブの支配下にあった時代もあり、当時のシチリア地方とアラブ間との結びつきは強く、イスラム教徒も多く住んでいました。
このシチリア地方から当時は独立国家だった南イタリアの国々やアラブ方面へ乾燥パスタが輸出されていたことが分かっています。

          ○

シチリアで乾燥パスタが作られていたことが記録された12〜14世紀より以前のイタリアにパスタまたはパスタ状の食べものがなかったのかについては、はっきりとしたことが分かっていません。

古代ローマが建国されるよりも前に、アジアの西部からイタリア半島にやってきたエトルリア人がイタリア中央部に都市国家を創り、紀元前6〜7世紀に繁栄しましたが、このエトルリア人の古墳で見つかったレリーフにラザニアを作る道具らしきものが描かれているという説があります。
はっきりとラザニア作りの道具だと判別できるようなレリーフではないようで、「言われてみれば確かに見える」という程度のもののようです。

今の北イタリアの伝統料理のポレンタのように古代ローマ時代には小麦粉を粥状にしたプルテスと呼ばれるものが食べられていたり、小麦粉を捏ねて薄く焼き、細長く切ってスープに入れるテスタロイという料理もあったようです。
しかし、これらは現在パスタと呼ばれている食品とはかなり異なった食べものです。

          ○

ローマ時代に食べられていた粉食食品とシチリアで作られていたという乾燥パスタの間にはポッカリと穴が空いたように記録につながりがありません。
だからこそマルコ・ポーロがヨーロッパにパスタをもたらしたという話しが信じられてしまう余地があったのです。

          ○

Pasta2 15世紀の初めになるとパスタはナポリでも流行しました。
16世紀になるとイタリア南部はスペインの支配下に入り、政情が安定したことからナポリの町は発展し始めます。
するとナポリとその周辺の農村部との間には格差が生まれ、ナポリ周辺に住む農民がナポリに流入するようになり、17世紀になるとナポリはヨーロッパで最も人口が多い都市になりました。

その頃にナポリでパスタ製造は発展しました。
その理由の一つは、17世紀前のナポリでは生鮮食料品の供給が行き渡っていたため、粉食はあまり重視されていませんでしたが、人口増加によってナポリでの生鮮食料品の供給が追いつかなくなったためだと考えられています。

          ○

日本の江戸時代にも都市部の発達と共に人口が急増したため、米の不足を補い安定的に食糧を供給するために麦や蕎麦をつくることを幕府は奨励し、これがうどんやそうめん、そばなどの粉食の発達につながったことがあります。
ナポリでパスタが発展した状況は、日本の江戸時代の粉食発達の過程と似ていたのではないでしょうか。

          ○

ナポリでのパスタ製造技術発達を後押ししたものに17世紀にナポリでつくられた押し出し式パスタ製造機があります。
これによりパスタは種類を増やし、質が高められ、イタリアを代表する食品の地位を得ていくことになるのです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
内田洋子 (2003)『トマトとイタリア人』文藝春秋
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<パスタ関連>

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2006/08/23

インスタントラーメンの誕生

8月25日は「ラーメン記念日」に定められています。
今から48年前の8月25日に最初のインスタントラーメンが市場に登場したのを記念してのことです。
「ラーメン記念日」の頃に「インスタントラーメン発明記念館」で過去に開催された「ラーメン記念日フェスタ」では、世界初の量産インスタントラーメンであるチキンラーメンの無料試食会などが行われたりしています。

そのチキンラーメンを創ったのは日清食品の創業者である安藤百福氏です。

          ○

昭和22〜23(1947〜1948)年頃の戦後間もない大阪梅田で、安藤百福氏は二つのことに気づきこれがインスタントラーメン開発の切っ掛けになったといいます。
一つは、食べものは気力や体力、知力の源であって、食こそが大事なものだということです。
食糧難で飢えに苦しむ人達を見たり、戦争中に冤罪で拘留された際に留置場内で食べものを奪い合う拘留者を見たときに、「食こそが最も崇高なものだ」という考えに安藤氏は至りました。
食足りて世は平らかになるという意味の「食足世平(しょくそくせへい)」は安藤氏が好んで使う言葉です。

インスタントラーメン開発の切っ掛けになったもう一つの出来事は、この時代の大阪梅田で中国からの引揚者がラーメン屋台を始めたことで、この店が大変に繁盛しているのを見て、安藤氏は日本人は本当に麺類が好きなのだと感じたといいます。

          ○

これらの光景を見たことや、当時は米よりも小麦粉の方が入手し易かったという事情があったり、国が援助物資の小麦粉を日本人に馴染みのある麺に使うことを奨励せずにパン製造を支援していたことに疑問を持ったこともあって、国がやらないのであれば自分が一般の人達が気軽に食べられるラーメンを創ってやろうと安藤氏は決意し、自宅の庭に小さな小屋を建ててここでインスタントラーメンの開発を始めました。
開発にあたって「美しくて飽きのこない味」、「保存性の高いもの」、「調理に時間や手間が掛からないもの」、「安価なもの」、「安全で衛生的なもの」をつくることを安藤氏は目標に立てました。

          ○

ラーメンのスープは、西洋でも東洋でも受け入れられ、ヒンズー教徒やイスラム教徒でも食べることができる鶏を使ったチキン味にしました。 Chicken2 スープを開発していた頃、家で食べるために仮死状態にしておいた鶏が突然暴れだしてしまい、これを見た安藤氏の息子さんは鶏肉が食べられなくなってしまったそうです。 しかし鶏肉を食べることができない子でも鶏ガラスープのラーメンは喜んで食べました。 このことから、チキンスープを使うことに安藤氏は自信を深めたといいます。

          ○

インスタントラーメンが創られる中で開発された最も重要な技術の一つは麺を油で揚げることです。
お湯を掛けるだけで短時間に復元する乾燥麺の開発は、天ぷら屋で天ぷらが揚がるところを見ていてヒントを得たといいます。
麺を油で揚げると、水分が蒸発するときに麺に細かな穴があくため、短時間でお湯を麺に浸透させることができることに気づいたのです。(関連:「コシヒカリやデンプンのα化」)
しかも、高温の油で揚げることは麺の殺菌にもなります。

          ○

開発を決意してからなんと10年の歳月をかけインスタントラーメンは完成されました。
最初は手作業で一日に300食程度が作られ、昭和33(1958)年8月25日に、大阪市中央卸売り市場に最初のチキンラーメンが卸されました。
当時のキャッチコピーは「お湯をかけるだけ2分でOK」というもので、価格は35円でした。
その頃のうどん玉は6円で乾麺は25円だったこともあり、35円のチキンラーメンを卸問屋に持ち込んでも最初は相手にしもらえませんでした。
しかしチキンラーメンは店頭に置かれるとすぐに売れてしまうことから、問屋からの注文が相次ぐようになったといいます。
サンシー殖産として始まった安藤氏の会社は、チキンラーメンが発売された年に日清食品となりました。
その翌年には、インスタントラーメンは年間7,000万食(!)も生産さるようになり、昭和35(1960)年に森永製菓が発売した「インスタントコーヒー」が人気商品となったこともあって、「インスタント」という言葉がこの時代のキーワードとなり、インスタントラーメンの需要は急速に拡大していくことになります。

          ○

Noodle_1 昭和37(1962)年には明星食品が麺とスープを別にした「支那筍入り明星ラーメン」の発売を始め、これによりスープの味を調合することが容易になりました。
昭和41(1966)年にはサンヨー食品が発売を始めた「サッポロ一番」に初めて乾燥ねぎがつけられています。
同じ年に発売された明星食品の「明星チャルメラ」のスープの味はホタテがベースにされ、麺にはより質の高い小麦が使われて味の差別化が図られるようになります。
昭和43(1968)年にはダイヤ食品がノンフライ麺を発売するなど、1960年代には様々なインスタントラーメンが次々と登場したわけですが、最初のインスタントラーメンであるチキンラーメンの製法はその後の多種多様なインスタントラーメンが作られるときの基本となりました。

          ○

富士総合研究所が行った「20世紀の世界をうならせたメイド・イン・ジャパン」という意識調査では、二位のカラオケや三位のヘッドホーンステレオを抑えてインスタントラーメンが一位に選ばれています。
(四位以下は、家庭用ゲーム機、コンパクトディスク、カメラ技術、黒澤明、ポケットモンスター、自動車技術、寿司と続きます)

最初は問屋に相手にされなかったインスタントラーメンですが、日本即席食品工業協会のホームページにある資料によれば、現在の日本でのインスタントラーメン消費量は年間54.4億食、世界中では年間857億食のインスタントラーメンが食べられているそうです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店

<ラーメン関連>

インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福 インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福
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魔法のラーメン発明物語―私の履歴書 魔法のラーメン発明物語―私の履歴書
安藤 百福

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食欲礼賛 食欲礼賛
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安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない 安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない
鈴田 孝史

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インスタントラーメン発明物語 インスタントラーメン発明物語
インスタントラーメン発明記念館

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2006/08/16

そうめんの元祖

「そうめん」と「うどん」と「ひやむぎ」は何が違うのでしょう。
日本農林規格(JAS)では、そうめんのことを「小麦粉を原料とした直径1.3mm以下の乾麺」と規定しています。
直径が1.3mmから1.7mmまでのものは「ひやむぎ」、1.7mm以上の太さになると「うどん」に分類されます。
現在これらの麺はほとんど同じ原料を使って機械で製麺されているため、太さで分類されているのですが、そうめんとひやむぎ、またはそうめんとうどんは本来異なるタイプの麺です。

          ○

そうめんは、小麦粉に塩と水を加えてこねたものの表面に粘りを出すための油を塗り、これをロープのように延ばして二本の棒に巻き付けた後、それらの棒を反対方向に引き離してロープ状の生地を糸のように細長く引き延ばすことで作られます。
うどんを作るときも小麦粉に水と塩を加えて練りますが、油は使われず塩だけでねばりが出され、これがワンタンの皮のように広げられてから包丁で細長く切り出されます。

          ○

そうめんのように作られる麺を「延べ麺」、うどんのような麺を「切り麺」として区別できます。
うどんを冷やして食べるようになったとき、うどんをより細く切ったことからひやむぎが生まれたといわれ、うどんとひやむぎは兄弟とも言えます。
うどん・ひやむぎの切り麺兄弟とそうめんとでは家系が異なるようなものなので、これらの麺が全て従来の製法でつくられているならば、体型が太いか細いかの外見だけで区別されることはなかったでしょう。
ただし日本農林規格でも、そうめんの原料に油が使われる場合には、これを「手延べそうめん」に分類しています。

          ○

麺生地を延ばすそうめんの製法は鎌倉時代に中国から伝わり、僧院などで盛んに作られ、室町時代にはそうめん作りの技法が確立されたと考えられています。
そうめんは仏への供え物として扱われたり精進料理に使われたことから一般にも広く普及しました。
伝来時には中国語の「索麺(ソーミエン)」として持ち込まれたのに、室町時代になって「索麺」と書き表すだけでなく「素麺(そうめん)」という表記も使われ始めたのは、中国語で精進料理のことを「素菜(スーツァイ)」といい、索麺が精進料理として食べられたために素麺とも書くようになったのだという説もあります。

          ○

では鎌倉・室町時代に伝わった索麺がそうめんの始まりかというとそうとも言えません。
それ以前の食べものにそうめんの原型ともいえるものがあるからです。
それは奈良時代に中国から伝わった「索餅(さくべい)」で、日本では「麦縄(むぎなわ)」とも呼ばれたものです。
この索餅が登場する文献の『延喜式』には、材料として米粉と小麦粉と塩を1:2.5:0.09程度の割合で使うことが書かれていますが、作り方は詳述されておらず、どのように食べられたかについては後世になって二つの説が唱えられました。

          ○

一つは、索餅とは麺であり、太い麺だった索餅が鎌倉時代に普及した細いそうめんの源流だとする「索餅 = 麺」説で、以前はどちらかというとこの説の方が有力でした。

しかし伊藤汎氏の著書『つるつる物語—日本麺類誕生記』で、江戸時代の文献で「索餅」と「素麺」という言葉が同じ箇所で使われているものがあることが指摘されたり、『延喜式』に記された材料で細長い麺状の食べものができるのかなどの疑問もあって、次第にもう一つの説である「索餅 = 菓子」説が支持されるようになってきたようです。
中国語で「索餅」とは「索(なわ)のような小麦粉製品」という意味だから、練った小麦粉を延ばして二本の縄をより合わせたようにしたものが索餅だと考え、小麦粉を練って延ばすところは素麺と共通するところではあるが、索餅は麺ではなく菓子だったと捉えているのが「索餅 = 菓子」説です。

以前「七夕と索餅と酒」という題で索餅のことにふれたときは、「索餅 = 麺」説をとる石毛直道氏の『文化麺類学ことはじめ』などを参考にしたため、「索餅は蒸したり茹でたりして汁につけて食べた麺だと考えられているが、油で揚げた菓子だという説もある」と多少「索餅 = 麺」説よりの書き方になりました。
索餅は麺だったのか菓子だったのかを示す決定的な証拠はまだ出ていないようですが、今は「索餅 = 菓子」説の方が定説として扱われていることが多いようです。

<参考書籍>

石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
NHK取材班(1990)『麺、イモ、茶人間は何を食べてきたか 麺、イモ、茶 』日本放送出版協会
伊藤汎氏(1987)『つるつる物語—日本麺類誕生記』築地書館

<そうめん関連>


山一の島原手延胡麻めん 黒胡麻 白胡麻 山一の島原手延胡麻めん 黒胡麻 白胡麻

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2006/07/27

ベトナムの麺料理 フォー

ベトナムの麺といえばまず「フォー」の名前が上がるのではないでしょうか。

フォーの原料は米粉です。
ベトナム南部地方でよく食べられる「フーティエウ」も殆どフォーと同じ作り方になりますが、フーティエウには米粉だけでなくキャッサバも加えられるため、フォーよりもフーティエウの方がコシがあります。

          ○

フォーの作り方は、最近の日本人にはおなじみの「ゴイクォン(生春巻き)」で使われるライスペーパーを作る工程と途中までは同じです。05phbk06
ライスペーパーを細く切り出したものがフォーになります。

ライスペーパーの伝統的な作り方は、最初に米を水にしばらく浸けます。
次に米と米を浸けていた水を一緒に石臼で挽きます。
臼からは水溶き米粉のようなものが出てくるので、この白い液を薄く広げて蒸し固めます。
これを乾燥させるとライスペーパーになるのですが、ライスペーバーが半乾きの状態のときに麺状に切るとフォーになります。

          ○

粉に水などを加えてある程度の硬さにしてから包丁で細く切る麺の作り方は唐代の中国で考案された方法で、その後アジアに広がりました。
ベトナムのフォーもこの切り出し麺タイプになります。

フォーを作る時に蒸す工程が入っていることからも、フォーが中国料理の影響を受けているのが分かります。
蒸すという調理法は古代中国の時代から使われてきました。
点心などで見られるように蒸す方法は中国料理を特色づける要素の一つです。
そしてベトナム料理でも蒸し料理は多くあり、ベトナム食文化に中国食文化が取り入れられた現れの一つでもあります。

          ○

秦の始皇帝が中国を統一したときにベトナム北部も中国の植民地となり、約1000年ものあいだベトナムは中国から支配を受けました。
約10世紀にわたり中国の支配下にあった北部ベトナムのキン族は、中国支配の時代が終わった後に南下して中部ベトナムと南部ベトナムに攻め入り、現在ベトナムとなっている領土を統治することになります。
そのため全国的にベトナムの料理には中国料理の影響が色濃く出ており、まるでベトナム料理が中国料理の一地方料理であるかのように「中国料理化」されている部分も見られるのです。

          ○

その反面、ベトナムは中国文化に対する反発も持っていたようで、ベトナム文化が完全に中国文化と同化することはありませんでした。
キン族がベトナム統治を押し進めるにつれ中国料理の技法もベトナム全土に広まりましたが、一方では、中部ベトナムに影響したインド文化や南部ベトナムに影響した東南アジア文化が中国料理の影響を受けたキン族の食文化と混じり合い、独特なベトナム食文化を形作ることになりました。

          ○

その食文化混合の跡がフォーの中にも残っているのです。

フォーには、牛骨スープをつかう 「フォー・ボー」と鶏スープをかける「フォー・ガー」があり、それぞれの動物系スープがそれぞれのフォーの味のベースになりますが、フォー・ボーとフォー・ガーのどちらのスープにも加えられて味の土台となるのが「ニョクマム」です。

05phbk10_1 ニョクマムは、イワシやムロアジの類いの魚を原料とした魚醤で、ベトナムの代表的調味料として頻繁に料理に使われるため、ベトナム料理の味の核になるといってもいいくらい重要な調味料です。
中国で発達した大豆発酵食文化は日本を含む東アジアでは受け入れられましたが、厳重に発酵温度をコントロールする必要がある麹菌を使う味噌などは気温の高い東南アジアでは造ることが難しく、ベトナムではニョクマム、タイではナンプラー、カンボジアではトゥックトレイなど、東南アジアでは魚醤文化が発達しました。

中国の麺料理に非常に似通ったフォーですが、醤油ではなく東南アジア料理の特色となる魚醤のニョクマムが使われ、ニョクマムや香菜の味と香りが相まうベトナム料理独特の風味を持つ麺料理になっているのです。

          ○

また、フォーには酸味を加えるのにライムを絞り入れたりしますが、ここにも東南アジア料理の要素が見られます。
東南アジアでは酢よりも柑橘類が多く使われました。
これは、この地域ではドブロクが主流だったことに関係があるという説があります。
酢が造られるようになるには酒が大規模に醸造される程に文明が発達する必要があるといわれます。
各家で小規模に酒を造っている程度では、酒は酢に転換される前に消費されてしまいます。
家庭でつくられるドブロクが主流の地域では、貴重品の酒がもとになる酢ではなく、もっと手に入り易いレモンやライムが料理に使われたのだろうと推測されています。
日本でも酢の大量生産が始まったのは酒の大規模醸造が安定的に行えるようになった江戸時代以降からでした。(「酢の歴史」

          ○

中国料理の製法で作られた米粉の麺、東南アジアの味を代表する魚醤のうま味と塩味、ライムの酸味、それらが器の中で渾然一体となっている一杯のフォーを味わうとき、地理的そして歴史的要因によってベトナムが中国や東南アジアの他国から影響され、独特の食文化を形作ったことが実感できるのです。

<参考書籍>
森枝卓士(2005)『世界の食文化 (4) ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』 農山漁村文化協会
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<関連商品>

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