2006/10/20

糸ひき納豆と塩辛納豆

ヨーロッパやアフリカそして北南米では豆を煮て食べることが多いようです。
インゲンやエンドウ、ソラマメなどは確かに煮ておいしく食べることができるのですが、昔から日本で食べられてきた大豆は煮込み料理にはあまり向きませんでした。

大豆をそのまま煮ると大豆に特有の臭みが出てしまうためです。
しかも、ただ煮ただけの大豆は消化に悪く、人体に害となる成分が完全には分解されないため、ガスが腸内に溜ったり消化吸収が不十分になるなど不都合なことが多く起きてしまいます。
そこで大豆を食べる国では特別な豆の加工方法が発達しました。

            ○

日本での大豆の利用法としては大豆のタンパク質を取り出して豆腐にしたり、大豆を発酵させて味噌や醤油のようにして用いる方法が主流になりました。
そしてもう一つの大豆加工法が発酵食品の一つである納豆です。

            ○

大豆を発酵させ糸ひき納豆に変える納豆菌は、大豆中の人間が消化できない多糖類を食べてくれたり、人間の消化を邪魔する酵素を分解してビタミンなどの栄養に変えてくれます。
しかも、納豆菌が大豆から栄養を吸収する際には、組織を壊すことで大豆を柔らかくするのと同時に大豆中のタンパク質を分解して旨味成分のアミノ酸などをつくる働きをしてくれるのです。

            ○

ところで、日本には「納豆」の名がつく食品が2種類あります。
一つは前述の糸ひき納豆なわけですが、「塩辛納豆」と呼ばれる発酵食品もあるのです。

日本で一般に食されている糸がひく納豆は白大豆を煮てから納豆菌を繁殖させてつくられますが(関連:「納豆をつくる納豆菌」)、塩辛納豆をつくるときは、麹菌を繁殖させた煮大豆を塩水に3〜4ヶ月つけ込んで発酵が行われ、大豆のタンパク質は麹菌によってアミノ酸に転化されます。
塩辛納豆は、外見は黒く、溜まり醤油や八丁味噌の風味に似ており、匂いは糸ひき納豆とは異なります。
この違いは発酵させる微生物が異なるためで、糸ひき納豆も塩辛納豆も呼称に「納豆」の語句が入っていますが、この二つはまったく異なる大豆発酵食品といえます。

            ○

塩辛納豆が登場する最古の文献は6世紀に中国で書された『斉民要術』で、塩辛納豆は「鼓」として記されており、塩を入れる「塩鼓(エンシ)」と塩を入れない「淡鼓(タンシ)」の二つの鼓の作り方が書かれています。

日本では糸ひき納豆がつくられる以前の奈良時代に塩辛納豆が中国から伝えられました。
その当時の日本で塩辛納豆をつくっていた宮内省でも、『斉民要術』と同様に、塩辛納豆を「鼓」と書いて「くき」と呼んでおり、「塩辛納豆」という呼称が使われるようになったのは平安時代の頃と考えられています。
室町時代になると「唐納豆」の名でよばれ、その後、寺でつくられる機会が多かったことから「寺納豆」とよばれるようにもなりました。

            ○

寺の納豆と言えば、納豆の語源は藁苞に納めた豆の意味だという説がありますが、「納豆」の「納」とはお寺の台所の意味の「納所」のことであり、納豆という言葉は「納所の豆」を意味しているという説もあるのです。

            ○

寺納豆と呼ばれた塩辛納豆は関東よりも関西で多く用いられました。
京都の大徳寺や静岡県の浜名湖近くの大福寺でつくられた塩辛納豆が有名だったことから、塩辛納豆には「大徳寺納豆」や「浜納豆」の別名もあります。

江戸時代中期頃になると味噌や醤油、そして糸引き納豆が多用されるようになり、塩辛納豆の生産量は次第に減少していき、他の大豆発酵食品よりも目立たぬ存在になってしまったようです。

<参考書籍>

柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

いつものご飯に納豆さえあれば いつものご飯に納豆さえあれば
藤田 雅子


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遊び尽くし まめに納豆クッキング 遊び尽くし まめに納豆クッキング
石塚 昇一郎


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乾燥納豆 5.5g*30包 乾燥納豆 5.5g*30包

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2006/10/04

糠と漬物と乳酸菌

日本の記録に漬物が初めて出てくるのは奈良時代の木簡で、瓜や青菜の漬物という言葉が記されています。
平安時代になると漬物について書かれた文章は多くなり、この時代に漬け物の露天売りがいたと読める記述も残されています。
室町時代後期になると漬物は店舗でも販売されるようになっていました。
そして日本の漬物の歴史の中で革命的ともいえるぬか漬けが登場したのは17世紀末から18世紀初め頃のことです。
味噌漬けや塩漬けとは異なり、きちんと管理すれば何度でも使うことができるぬか床に漬けるぬか漬けは、すぐに庶民の間で広まりました。

            ○

糠(ぬか)は白米の外側についており玄米が精米されるときに取り除かれますが、この糠に塩と水を混ぜて発酵させたものが「ぬか床」または「ぬか味噌」とよばれるものです。(関連:「米と糠(ぬか)」)
ぬか味噌の原料の米糠には炭水化物やたんぱく質、脂質、無機質、ビタミンなどが含まれています。

            ○

ところで、ビタミンB1は、明治43(1910)年に日本人の鈴木梅太郎博士によって米糠から発見されたものです(後に島園順次郎博士によってビタミンB1の 欠乏が脚気の原因であることが解明されました)。
数あるビタミンの中で、鈴木博士が発見したビタミンB1が世界で最初に発見されたビタミンなのです。
鈴木博士は発見したこの栄養素に「オリザニン」という名を付けましたが、その翌年に同じ栄養素を発見したポーランドの化学者カシミール・フンクは、生命(vita)に必要な有機化合物のアミン(amine)という意味で「vitamine」という名をこの栄養素に付けています。
「vitamine」は後に「ビタミン(vitamin)」という名に改められ、世界的にこのビタミンという名称が使われるようになったため、ビタミンの第一発見者はフンクであったかのように扱われてしまった歴史があります。

            ○

3005000062 ぬか漬けにした野菜はそのビタミンB1を多く含んでいます。
野菜を糠に漬けるとぬか床の中に含まれる塩の浸透作用によって野菜の細胞から水分が外に流出し、糠に多量に含まれるビタミンB1やその他の栄養素が野菜細胞の水分が抜けたその隙間に入り込むため、ぬか漬けを食べればビタミンB1などを摂取することができるのです。

ぬか床を継続的に使用しているときに、ぬか床にザルなどを押し込んで染み出てくる水分を取り除き、新たにぬかと塩を補充する作業が必要になりますが、この水は塩の浸透作用で野菜から出たものなのです。

            ○

ぬか漬けの効用は糠の栄養が野菜に移るだけではありません。
ぬか味噌の中の微生物が促す発酵作用によって、ぬか漬けにした野菜の栄養は増加します。
1グラムのぬか味噌の中には1億以上の乳酸菌や酵母、酪酸菌などの微生物が繁殖しており、これらの微生物は糠の栄養をもとに活発に働いて糠を発酵させ、米糠の成分を乳酸やアルコールなどに転化します。
乳酸菌による発酵で作られる様々な有機酸と香り成分は野菜の青臭さを隠して、うま味と酸味をつくる働きをするのです。

            ○

ぬか漬けは殺菌の面から見ても優れた保存処理方法です。
腐敗菌などの有害菌は繁殖するのに空気を必要とし、塩分や酸に弱いという性質があります。
ぬか床の中の塩には野菜の細胞の働きを止めて腐敗がすすむのを防ぐ目的もありますが、有害菌の働きを抑制する働きもあるのです。
また、乳酸菌による発酵によって酸が作られるため、ぬか床の中は有害菌が活動できなくなるpH(ペーハー)3.8以下の状態がつくられます。
ぬか床を毎日かき混ぜると、ぬか床表面で繁殖するカビは空気から遮断され、ぬか床の中の塩と酸で殺菌されてしまうのです。

            ○

ぬかをかき混ぜるのは殺菌のためだけでなく、ぬか漬けをおいしくするためにも必要な作業となります。
漬けた野菜から出る水分でぬか床の中の水分が増えると、水分を好む乳酸菌が増え、乳酸菌が増えすぎると漬け物の味は酸っぱくなってしまいます。
乳酸菌は空気を嫌うことから、ぬかをかき混ぜることで乳酸菌の増加をコントロールしてぬか漬けの酸味を調節することができるのです。
また、臭気の素となる酪酸菌も空気に弱いため、ぬか床をかき混ぜるとやな匂いも抑えることができます。

            ○

今の時期は秋なすをぬか漬けにする機会も多いかもしれません。
しかしなすを糠にただ漬けるだけでは、なすは変色してしまい、せっかくのきれいな紫色があせてしまいます。
乳酸発酵によって酸性になったぬか床の中で、茄子に含まれるアントシアン系色素が酸に反応するためにこの変色は起こります。

なすを漬けるときには釘やミョウバンを入れると色よく漬かるといわれています。
ぬか床に古釘やミョウバンを入れると、釘の鉄イオンやミョウバンのアルミニウムイオンと茄子の色素が結合して安定した色を保つことができるためです。
また、鉄釘を入れて漬けたなすは鉄分を多く含むようになり、ミョウバンを入れたものは歯ごたえがよくなるという効果もあります。

            ○

このようにぬか床の中の目に見えない栄養素や微生物による発酵作用の効用については最近になって解明されてきたことです。
しかし、日本人の祖先は栄養学や発酵学を学ばなくても経験と知恵を生かしてぬか漬けの栄養や保存性を高め、味や色の良い漬物をつくる方法を編み出したのです。
その成功の裏には、試しに作っては食べてみる地道な努力や、数々の失敗もあったはずです。
多くの先人の失敗のおかげで現在おいしいぬか漬けが安心して食べられるのだと考えると、いつものぬか漬けも違った食べものに見えてくるかもしれません。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
高橋素子(2004)『Q&A ご飯とお米の全疑問』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社

<ぬか漬け関連>

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2006/09/28

納豆と納豆菌

納豆の作り方の基本は、煮た大豆を40℃以上の温度のもとに置いて、枯草菌(こそうきん)の一種である納豆菌を煮大豆に植え付けて繁殖させることにあります。

            ○

昔はこの納豆菌を繁殖させるために稲の藁を利用していました。
稲藁一本には一千万個以上も納豆菌が付着しているためです。
もちろん、納豆が作られ始めた頃の日本人が納豆菌の存在や科学的な発酵のメカニズムを知っていたわけではありません。
最初に納豆ができたのも偶然からではないかと考えられており、それを示唆するような伝説もいくつか残されています。(関連:「納豆伝説」)

            ○

日本の糸ひき納豆に似た食品は朝鮮半島や東南アジアでもみられ、東南アジアにはラワンやバナナの葉で煮大豆を包んで発酵させる方法があります。
東アジアや東南アジアから納豆作りが日本に伝播した可能性もありますが、納豆は日本が独自に開発した食品だとする説も多く唱えられており、納豆の発祥地は定かになっていません。

            ○

奈良時代には、醤油や味噌作りのもとになる大豆麹を得るために煮大豆を稲藁の上に広げ、その上に更に藁をかぶせる方法がとられていました。
藁の中には麹菌も納豆菌もいるのですが、藁の中の温度が40℃以下のときは麹菌が繁殖し、40℃を越えると納豆菌が繁殖します。
温度計がない奈良時代には、藁の中の温度を知るには手で触った感じで測るしかありません。
藁と煮大豆で麹菌をつくるつもりが、失敗して藁の中の温度を上げすぎてしまったために納豆菌が繁殖してしまい、煮大豆が納豆菌によって発酵してしまったのが納豆の始まりだという説もあります。
大陸から納豆の作り方が伝わったのではなく、納豆は日本人によって創りだされたのだと、『食(く)あれば楽あり』などの著者で発酵の専門家である小泉武夫先生はいくつかの本の中で力説されています。

            ○

ところで、納豆を食べることが庶民の間に普及したのは江戸時代になってからのことです。
江戸時代に売られていた納豆は今でいう挽き割り納豆に似ていて、包丁で納豆を叩いた「叩き納豆」というものが売られていました
行商の納豆売りが叩き納豆を担いで江戸の町中を売り歩きました。
この江戸時代の納豆売りは秋から冬にかけてみられる季節のものでした。
暑い炎天下で納豆を売り歩いていると高温のために発酵が進みすぎてしまうため、夏に納豆を売り歩くことはできなかったのです。
昔の納豆売りがどのような売り声で納豆を売り歩いていたかは、こちらの落語の『石返し』やこちらの『孝行糖』などのまくらの部分を聞いてみて下さい(本編もおもしろいです)。

            ○

江戸で売られた納豆を作るときは、ざるに藁をしいてその上に煮大豆をのせ、その上にフタをするようにまた藁をのせて、これを地下に一晩置いて発酵させていました。
その作り方から「一夜納豆」とか「ざる納豆」という呼び名がつけられました。
江戸の町以外の関東や東北、京都、九州では煮大豆を藁苞で包んで発酵させるやり方が主流でした。

            ○

地方で自家用の納豆がつくられる場合には、発酵温度の40℃を保つために色々な方法が用いられていました。
こたつや湯たんぽを使って藁苞に包んだ煮豆を温めたり、茨城の一部では地面にあけた穴の中で火を焚き、温度を上げた穴の中に煮豆が入った藁苞を入れて穴に土をかぶせてフタをする方法がとられていました。
岩手県では雪の中に藁苞が埋められたり、いくつかの地方には堆肥の中に藁苞を埋める方法などもありました。

明治時代になると旧江戸の東京でも藁苞を用いた納豆つくりが一般的になります。
また、この頃から、販売される納豆には辛子がつけられるようになったといいます。

            ○

明治38(1905)年に、納豆が出すネバネバ粘る物質から納豆菌を取り出して培養することに東大の沢村誠博士が成功しています。
納豆菌は沸騰させた湯の中でも20分間は生き続けるため、稲の藁を20分弱煮出すと藁につく納豆菌以外の菌は死んでしまい、納豆菌だけを取り出すことができます。
藁を煮た液を細菌が繁殖できる環境に置くと、納豆菌だけを純粋培養できるのです。

            ○

納豆菌が培養できるようになった後、人工的に培養した納豆菌で納豆を作る技術が開発されました。
そして、藁苞でつくった納豆の商品としての販売は禁止されてしまいます。
藁で包んで納豆を作る方法では納豆菌だけでなく雑菌も繁殖する恐れがあるためです。

現在商品として販売されている納豆は、雑菌が混じらないように培養した納豆菌を煮大豆に吹き付ける方法で作られており、これが滅菌された容器に詰められて売られているのです。

藁で包まれている納豆が店頭に置かれていることもありますが、あれもやはり純粋培養した納豆菌を煮大豆に植え付けて作られた納豆であり、藁は高温で殺菌された容器として使われているだけで、煮豆を藁苞に包んで発酵させたものではありません。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

TWINBIRD 発芽玄米・納豆・ヨーグルトメーカー  HQ-2000 TWINBIRD 発芽玄米・納豆・ヨーグルトメーカー  HQ-2000

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納豆レシピ93 納豆レシピ93
上村 泰子

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ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女 ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女
東海林 さだお

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2006/08/31

くさやとくさや汁とくさや菌

くさやが作られ始めたのは八丈島であるとも、新島であるともいわれています。
くさや発祥地と考えられている八丈島や新島だけでなく、現在は、大島、式根島、三宅島、神津島など他の伊豆諸島や小笠原諸島でもくさやは生産されています。

            ○

くさやの原料には脂の少ない魚が向くとされており、伊豆諸島近海で獲れるトビウオ、ムロアジ、クサヤムロなどが使われています。
地元では、自分の家で食べるくさやにはブダイやサメ、時期が過ぎて脂が落ちたさんまなどが使われたといいます。

            ○

くさやの作り方は、まず材料となる魚を開き内臓を取り除きます。
昔はくさやの加工場から出る魚のアラは豚の餌にされて、魚は余すところなく使われました。
開いた魚を少しとろみがあって茶色い「くさや汁(くさや液)」に漬けます。
魚をくさや汁に浸けて暫くすると魚の身に塩分が入り込み、比重が変化することで魚はくさや汁の表面に浮き上がってきます。
くさや汁には10〜24時間程度つけ込み、その後天日に干して完成です。

            ○

くさや作りがいつ頃始まったのか定かではありませんが、江戸時代中期以降のことだと考えられています。
江戸時代の伊豆諸島は幕府の直轄地であり、新島などは流刑地でもありました。
耕地が少なく漁業を生活の糧としていたため、元禄の頃まで年貢は米ではなく塩で納めていました。
そのため自分たちが使う塩にもこと欠くほどで、年貢の塩を確保するために塩を節約せねばならず、魚の塩干しを作るときに使う塩水を捨てずに繰り返し使うようになったのです。
繰り返し使われた塩水の中には魚のタンパク質が溶け出して発酵し、これが後にくさや汁と呼ばれるくさやを作るときに欠かせない浸け汁となりました。
くさや汁に浸けて作った魚の干物は普通の塩水に浸けて干したものより長期間保存できることを当時の伊豆諸島の人達は経験的に知りました。
海が少し荒れると船が出せなくなる時代に、保存期間を延ばせるくさやの技法は島の人達にとっては生活を支える画期的な新技術だったのです。

            ○

江戸の市場でくさやは他の干物よりもランクが下で、現在のように酒の肴として珍重されてはいませんでした。
1829年の江戸の記録には、伊豆諸島から送られたくさやのことが単に「干し魚」と記されており、「くさや」の呼び名は明治時代になってからできたといわれています。
焼いた時のに匂いがとても臭いことから明治時代の東京でくさやと呼ばれはじめたのが語源になったといわれています。
昔の新島ではくさやを「しょっちるぼし」とよんでいたようです。
「しょっちる」は秋田の「しょっつる」と同様に塩汁のことを意味しました。

            ○

現在のくさやの老舗店には300年以上も使われ続けているくさや汁があり、大きな店の地下には100年以上も熟成を重ねたくさや汁が10トン以上も貯蔵されているそうです。

同じくさや汁を連続して使うとくさやができなくなるので、何回か使用したくさや汁は暫く休ませる必要があります。
暫く使わなかったくさや汁には新しい魚の切り身を入れて栄養が補給されます。
このように維持管理され長期間使われ続けるくさや汁は古いものほど干物の旨味がよく出るといわれています。

            ○

くさや汁にはコリネバクテリウム・クサヤ(通称くさや菌)という乳酸菌の一種が繁殖しており、くさや菌が発酵を起こすことで魚の中に含まれるタンパク質や脂質が分解されます。
臭いの素となるアンモニアや硫黄化合物、油状の液体で強い臭いの酪酸などもくさや菌によって作られます。
くさや菌は繁殖力が強く雑菌を寄せ付けません。
そのため、くさや汁は腐敗せずに長期間保存することができるのです。

            ○

くさやの生産地ではお腹の具合が悪くなったときに、くさや汁をぬるま湯で薄めて整腸剤の代わりに飲んでいたこともあるようです。
乳酸菌の一種のくさや菌を体内に取り入れ、腸内の雑菌などを排除するのです。
また、乳酸菌が腸内でつくるビタミンも体調回復に役立ちます。
江戸時代の人はお腹の調子が悪くなると、同様に糠味噌をぬるま湯に溶いて飲んだといいます。

            ○

明治時代の新島地方の嫁入りでは、家のくさや汁を嫁ぐ娘に持たせることもあったといいます。
かつて地方によっては、嫁入りの娘に一つかみの糠を持たせるという習慣がありました。
モンゴルでも娘が嫁ぐ時に羊の発酵乳を一杯持たせ、相手方の発酵乳の容器に入れる習慣があるといいます。
発酵食品が生活に根付いている地域での似通った婚礼習慣です。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会

<珍味・焼物関連>

ごくらくちんみ ごくらくちんみ
杉浦 日向子

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キャプテンスタッグ(CAPTAIN STAG) 遠赤炭火風卓上ガス網焼きコンロ M-6350 キャプテンスタッグ(CAPTAIN STAG) 遠赤炭火風卓上ガス網焼きコンロ M-6350

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煙を抑える魚網焼き器 味王 煙を抑える魚網焼き器 味王

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2006/08/28

かつお節と漁師の甚太郎

インドとスリランカの西南に位置するモルディブ諸島にはモルディヴ・フィッシュとよばれるかつお節に似た食材があります。
モルディブ・フィッシュは水分含有量が20%以上あり、ナイフで削ることができる程度に柔らかく日本の荒節に似たものです。
モルディブ・フィッシュと日本のかつお節の関係は定かになっていませんが、モルディブ・フィッシュが南方から日本に伝わったのではないかと推測している人達もいるようです。

           ○

モルディブ・フィッシュが太古の日本に伝来したかどうかは謎ですが、日本でかつお節は鎌倉時代より以前には作られていたことが分かっています。
しかし当時のかつお節はかつおを蒸してから天日で干し固めて作られるだけのもので、生のものより保存性は高くても旨味は外ににじみ出てしまっていて、とても出汁を取る目的には使えない代物だったようです。

           ○

現在に伝わるかつお節の製法(関連:「かつお節の作り方」)が開発されたのは江戸時代のことです。
藁を燃やして乾燥させるだけだった昔ながらの製法を改良したのが、江戸時代に生きた甚太郎という名の紀州出身の漁師だったといわれています。
1674年に甚太郎がナラやカシの薪を焼いてかつおの切り身を燻し、冷やしてはまた燻す「燻乾法」を考案したのだという話しが残されています。
燻乾法でつかわれる燻煙によってかつお節の保存性は増し、魚の臭いも消す効果が得られました。

           ○

更にかつお節の質を高めた技術が、やはり江戸時代中期頃から行われるようになった「カビ付け」です。
カビ付けは鰹節の表面に「鰹節菌」という人体に無害のカビを繁殖させ、かつお節内に残る水分を吸収させて節内の水分量を減じる作業です。
鰹節菌が分泌する酵素がかつおの脂を分解するため、この技術を使って作られるかつお節を出汁に使ってもだし汁に脂は浮きません。

           ○

甚太郎が考案したとされる燻乾法とその後に開発されたカビ付け技術はかつお節を木材のように硬く仕上げて保存性を高め香りと旨味が増す画期的新技術で、一世紀の間にこれらの製法が日本全国に広まったといわれており、それ以降かつお節は出汁として多用されるようになります。

           ○

燻乾法とかび付け技術開発以前、かつお節は「堅魚」とか「煮堅魚」などと書いて単に「かつお」と呼ばれていましたが、甚太郎の鰹節が出まわるようになってから「鰹節」の名がついたといわれています。
かつお節の語源ははっきりしませんが、「燻し」の「ぶし」をとってかつおぶしになったという説や、木のように節があることからかつおぶしになったという説もあるようです。

           ○

実は、燻乾法やカビ付け技術の開発経緯については確かな記録が残っている訳ではなく、漁師の甚太郎のこともなかば伝説的な話しとして残されています。
一説では、紀州で漁をしていた甚太郎が海難事故にあって土佐に流され、紀州で作られていたかつお節の製法を土佐に伝え、土佐のかつお節が全国的に有名になって燻乾法も日本中に広まったという話しになっています。
その他にも、土佐の播磨屋という店の宮尾佐之助が甚太郎のスポンサーとなって新式のかつお節の製法を開発させたという話しがあったり、カビつけ技術を開発したのはこの播磨屋の宮尾佐之助だったなどの言い伝えすらあるようです。

少なくとも甚太郎という伝説的漁師が生きたとされる江戸時代中期を境にかつお節の質が格段に向上したことは確かなようです。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
江原 恵 (1986)『料理物語・考—江戸の味今昔』河出書房新社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<鰹節・出汁関連>

男に生まれて  江戸鰹節商い始末 男に生まれて  江戸鰹節商い始末
荒俣 宏

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マルシマ かつおだしの素 10g*50袋 マルシマ かつおだしの素 10g*50袋

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2006/08/22

かつお節の作り方

かつお節はその製造工程の段階によって節に名前がつけられ、それぞれ異なったかつお節として区別されています。
まず「生利節(なまりぶし)」が作られ、その後は手が加えられるごとに「荒節(あらぶし)」、「裸節(はだかぶし)」となり、最終的には「本枯節(ほんがれぶし)」が作られます。

          ○

工程の最初にかつおが捌かれますが、小型のかつおは三枚に下ろされ、大型のものは三枚に下ろされたものが更に背と腹に分けられて四本の節がつくられます。
節が四つに分けられたときは背側の身が雄節(おぶし)、腹側は雌節(めぶし)と呼ばれ、小型のかつおが3枚に下ろされた場合には、その半身は亀節(かめぶし)と呼ばれます。
亀節からは繊細な味の出汁がとれるとして、吸い物用には亀節を使うというこだわりをもつ料理人もいるそうです

          ○

かつおを下ろしたときに出るかつおのハラワタはかつお節には使われないので、土佐では江戸時代の頃からこのワタを塩辛にするようになりました。
この塩辛は「酒盗(しゅとう)」 と名付けられ、酒に合うつまみとして今でも作り続けられています。

          ○

かつおの切り身は大釜で1時間から1時間半程度煮られた後に、身から小骨が取り除かれ乾燥させられます。
ここまでの状態になったものが「生利節(なまりぶし)」とよばれます。
乾燥作業が施されているとはいっても生利節はまだ水分を多く含んでいて柔らかく、魚臭さが残るため出汁を取るためには使えず、和え物や酢の物にして食べられます。
生節を削いだものは、しょうが醤油につけたり大根おろし醤油につけてもおいしく食べられます。

          ○

生利節には、蒸籠に並べて煙と熱をあてて乾燥する「焙乾(ばいかん)」という作業と、常温で一晩冷やす「罨蒸(あんじょう)」という作業が何度か繰り返し施され、「荒節(あらぶし)」とよばれる節に変わります。
罨蒸作業によって節内の水分は均等に行き渡るようになります。
罨蒸中に節の外側にも水分は染み出てきますが、節には布が被せられて水分の蒸発が防がれます。
10〜15回も焙乾と罨蒸が繰り返されると節はカチンコチンに堅くなります。
荒節の段階でもまだ魚臭さは残っていますが、濃厚な出汁を必要とする麺つゆや味噌汁などの出汁をとるのに荒節は向いており、削り節などにも加工されます。

          ○

荒節を削って整形したものが「裸節(はだかぶし)」で、別名「鬼節(おにぶし)」とも呼ばれるものです。

          ○

裸節は1〜2日程度天日で干された後、「カビつけ」のために通気のよくない部屋に置かれます。
カビつけは、裸節にカビを繁殖させて節内の水分をカビに吸収させることで水分を更にとばす作業です。
カビつけにより節内の水分含有量は10数パーセントにまで下がります。

かつお節づくりには麹カビの一種の鰹節菌が利用されますが、もちろんこの菌は人体には無害です。
この鰹節菌がかつお節の水分を取り除くだけでなくカツオの脂を分解する酵素を出す役割を果たしています。
酵素により魚臭さの元になる脂質は分解され、旨味の素になるイノシン酸は増加します。

ヨーロッパのような乾燥している地域では、カマンベールチーズやブルーチーズなどで例外的に使われる以外は、乾燥を嫌うカビを使って保存性を高める方法はあまり使われていません。
日本は雨量も多く湿度も高いため、カビを繁殖させるには適しており、かつお節のカビつけのような製法も生み出されてきたのです。

節の表面がカビで覆われる度にカビは払い落とされ、払い落としては再び鰹節菌の胞子が植え付けられる作業が何回か繰り返されて、カビつけの工程には約100日程が費やされます。

          ○

カビつけ作業が施されると成分が濃縮され香りの良い本枯節(ほんがれぶし)がついにできあがります。
ここまでの工程の中で繰り返される乾燥と熟成によって節内の水分は殆ど無くなるため、上等のかつお節二本を互いに打ちつけると、カキンカキンと金属バットで硬球を弾き返すときのような音が響きます。
味と香りが研ぎすまされた本枯節は幅広い用途に使うことができます。

<参考書籍>

高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店
一島英治(2002)『発酵食品への招待—食文明から新展開まで』裳華房
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<かつお節関連>

木曽工芸 木曽檜鰹節削り器 木曽工芸 木曽檜鰹節削り器

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大海 淳
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2006/08/18

からすみ親子

からすみの名産地の長崎では「からすみ親子」という言い方があるそうです。
これは「鳶が鷹を生む」と同じで「平凡な親から非凡な子が生まれる」ことの喩えです。

ボラが「平凡な親」の喩えにされるのは、ボラの卵を原料とするからすみが高価な珍味として扱われるのに、親の方のボラの身は臭みがあっておいしくないという思い込みがあるからでしょう。
たしかに、ボラは微生物を食べるために、川底に溜る生物の遺体や排泄物を泥と一緒に取り込んでしまうため、水底が汚れているとボラの身は臭くなってしまいます。
ボラの若魚は暖かい季節に河口近くまでやってくるのですが、この身は特に泥臭いといわれます。

          ○

ボラは出世魚で、ハク→オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドと成長するにつれ名が変わります。
老成魚のトドが「とどのつまり」の由来だと一般的にはいわれており、世間知らずを意味する「おぼこ」という言葉はボラの稚魚の名前のオボコが語源になっているといわれています。

          ○

ボラは生まれてから2〜3年は内湾で過ごしますが、4歳くらいの秋になると産卵のために外海に出て行きます。
外洋に出ると臭みが薄れるため、産卵期の1〜2月のボラは寒ボラと呼ばれおいしいとされます。
ボラの目は脂瞼という膜で覆われており、冬期にはこの脂肪の膜は厚さを増すのですが、目が潤んで見えるほど脂質が厚くなっているものの方が味が良いとされています。
ボラは刺身やあらい、塩焼き、バター焼き、味噌汁などにして食べられます。

ボラが食べる泥の中に含まれる有機物の影響でボラの胃壁は発達しており、胃の出口付近が固い塊のようになっています。
この塊の形が算盤(そろばん)の玉に似ていることから「ソロバン玉」と呼ばれ、塩焼きにするとコリコリとした食感が楽しめる珍味中の珍味として扱われています。

台湾ではボラの胃を乾燥させたものが食べられますが、これはガムのように弾力があるそうです。

名古屋には、ボラの内臓を取り除き、空いた隙間に具を詰めて焼く「イナまんじゅう」という料理などもあります。

          ○

カラスミボラと呼ばれる産卵期をむかえた4歳のボラは群れとなって長崎県の野母崎(のもざき)(左の地図マークの辺り)の沖を回遊して産卵場所に向かいます。この頃に取られるボラの卵巣の質は最高だとされています。 国内では和歌山や静岡、高知などでもからすみはつくられています。 最近はエジプトやオーストラリアからも輸入されていますが、最高な時期にとれた卵巣を使う長崎野母崎産からすみは別格扱いで、その中でも左右対称のからすみは特に上物として扱われます。

野母崎にはからすみの語源についての言い伝えがあります。 1588年に、当時は単に「ボラの真子」とよばれていたからすみを、長崎代官が長崎名産として豊臣秀吉に献上しました。 秀吉はこれを気に入り、代官にこの珍味の名を聞きました。 「ボラの真子」では面白みがないので何か気の利いた名前はないかと代官は思案し、「唐の墨」に似ていることから「からすみ」という食べものですと答えたといいます。それ以来からすみの名が使われるようになったという話しがあるそうです。

          ○

江戸時代の野母崎は、九州地方の大名の参勤交代時の献納品を運搬するための寄港地として使われ賑わいました。
野母崎を利用する商人や大名から大量のからすみの需要があったため、長崎奉行の大事な仕事の一つはからすみの確保と管理だったといいます。
その頃から、越前のうにや三河のこのわたと並んで、からすみは三大珍味の一つとされていたのです。

          ○

からすみを製造するときは、まず雌のボラの腹が特殊な包丁で開かれ、卵巣が傷つかないように取り出されます。
取り出された卵巣は水で洗われてから、表面に塩がすり込まれ、その後一週間ほど塩に漬け込まれます。
それから、水に7〜8時間程度浸けられて塩が抜かれてから板に並べられ、重しで軽く圧力を掛けられたり形が整えられたりしながら寒風と天日の下で10日間ほど乾かされて完成します。

          ○

台湾ではボラを烏魚(ウーユイ)といい、からすみを烏魚子(ウーユイツー)といいます。
福建省や広東省の中国人が高雄の辺りに漁に行き、一部の漁師達がそこに住みついたときにボラとからすみが台湾に伝わったとされています。
台湾のからすみは日本のように高級品扱いされず、屋台で売られるビーフンにもからすみが入れられたりするようで、これはイタリア料理でパスタに粉末からすみを入れるのと同様に調味料のようにして使われているわけです。
からすみを火で炙ってからスライスしてにんにくや大根の薄切りと一緒に食べたりもしますが、これは正月によく食べられるようです。

          ○

イタリアのシチリア島では、薄皮を破らないように取り出されたマグロの卵に塩を染み込ませ、重しがのせられて更に塩漬けにされ、その後風通しの良いところで乾燥されたものが作られており、これがブータルグと呼ばれています。
マグロの卵のブータルグは最終的には四角く形が整えられ重さは7キロになるといいます。
ボラの卵を使った同様の製法でつくられるもの、つまりはからすみ状のものは、イタリアのサルデーニャ島、フランス領のコルシカ島、チュニジア、エジプト、トルコなどで作られており、スライスしてオイルや酢、コショウをかけて食べられています。

<参考書籍>

講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
岩井保 (2002)『旬の魚はなぜうまい』岩波書店
周 達生 (1994)『中国食探検—食の文化人類学』平凡社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋

<酒の肴関連>


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2006/08/09

塩辛は調味料

古代メソポタミアでは魚の塩漬けと大麦の粥が主食になっていたといわれています。
昔のアラビア海沿岸などの乾燥地帯でもマグロやサーディーンを塩漬けにして食べており、古代エジプトの遺跡からも魚を塩漬けにする様子が描かれたレリーフが発掘されています。
魚の塩漬けや塩水漬けは古代から続く保存方法なのです。

          ○

魚に塩をして乾燥させる食品には干物や鰹節がありますが、魚を乾燥させずに生のまま塩に漬けておくと、酵素の作用や微生物の働きで発酵が起こり魚のタンパク質は分解されていきます。
うま味成分がつくられながら魚の形は次第に崩れていき塩辛状になりますが、さらに発酵がすすむと液状の魚醤になってしまいます。

          ○

魚を塩漬けにして発酵させたものは液状になった魚醤と完全に液状になっていない塩辛の二つに大別できますが、更に塩辛を、液体に固形状のものが含まれるものと、材料をすり潰してから発酵させたペースト状になったものとに分けることができます。
日本人にとって固形が残った塩辛の最も一般的な例はイカの塩辛ですね。
ペースト状塩辛の例にはベトナムのマム・ロク、マレーシアのプラチャン、インドネシアのトラシなどがあって、これらの材料には小エビなどが使われています。

          ○

室町時代以前の日本人は塩辛のことを「ししびしお」と呼んでおり、魚だけでなく鹿肉や兎肉も塩辛状に塩漬けしていました。
これが中世になって「うおびしお」と呼ぶようになります。
この頃になると獣肉の塩辛が作られなくなったことからこの呼び名に変わったのだといわれています。

          ○

江戸時代の初めころまで塩辛は調味料としても使われていました。
江戸時代初期に刊行された『百姓伝記』(1680年)には、東海地方の農漁村で味噌の代わりに塩辛をすり潰したものを大根や菜っ葉を煮るときの調味料として使っていたことが記録されています。

          ○

しかし江戸時代も中期・後期となるにつれ、イカやカツオ、アミ、ウニ、ナマコの腸(このわた)、鮎の内臓や卵(うるか)(関連:「鮎の香り」)などが塩辛にされるようになり、次第に塩辛は調味料として使われるのではなく珍味として食べられるようになっていきます。
それにつれ「うおびしお」と呼ばれていたものが「塩辛」の名に変わってしまいました。

          ○

テレビでグッチ裕三さんが茹でたジャガイモの上にバターとイカの塩辛をのせた一品料理を作っていたり、道場六三郎さんがイカや野菜を古いイカの塩辛で炒めたり、パスタ本にイカの塩辛パスタなどのレシピが載っているのを見たときに、「ワァ〜、新しい料理法だ」と感心したことがありましたが、塩辛を調味料に使うのは新しいどころか昔からあった料理法で、今の日本人が忘れかけている使い方なのですね。

<参考書籍>
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語 』岩波書店
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期』河出書房新社
石毛 直道 (2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会

<塩辛・グッチ裕三関連>

手作りの味 塩辛づくし 手作りの味 塩辛づくし
内山 高典 室橋 裕和

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グッチ裕三のパパッとレシピ
グッチ裕三

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2006/07/10

納豆伝説

7月10日は「納豆の日」です。

1981年に関西納豆工業共同組合が関西の人にもっと納豆を食べてもらおうと、PRのために語呂合わせで「なっ(7)とう(10)」の日をつくったのが始まりです。

1992年には全国納豆共同組合連合会が改めて全国的に7月10日を「納豆の日」としました。
納豆PRのためにつくられた「納豆の日」ですが、この「納豆の日」をPRするために、全国納豆協同組合連合会が主催して、納豆の普及に貢献した著名人に「納豆クイーン」や「納豆キング」の称号と賞を毎年送っているようです。
ちなみに、2005年度の納豆クイーンは華原朋美さん、その前年は上戸彩さんと佐藤藍子さんでした。

          ○

ところで、最初の糸ひき納豆がどのようにしてつくられたのかは今のところ分かっていません。

弥生時代には、祝いの品など大事なものが藁でできた藁苞(わらずと)に入れられ、藁苞が現在の包装紙や桐箱のように使われていたので、その時代に、たまたま誰かが煮豆を藁苞に入れておいたところ煮豆が糸を挽いてしまい、勇敢にもこれを試しに食べてみたというのが納豆の始まりだったのではないかという推測もあります。

現在、祝いの品を藁苞に入れることは一般的にはありませんし、スーパーなどで売られる納豆も発泡スチロールや紙の容器に入れられているものが殆どですね。

          ○

納豆の始まりについて書かれた文献は残っていませんが、納豆にまつわる様々な言い伝えは各地に残されています。

その最も古いものの一つは聖徳太子の納豆伝説です。
聖徳太子が馬に餌として煮豆を与え、その余りを藁苞に入れて木の枝に吊るしておいたところ、藁苞の中の煮豆は糸を引いて粘りがでてしまいました。
しかし、これを食べてみたところ美味しかったというお話しです。

          ○

平安時代後期に起きた「前九年の役」で戦った八幡太郎義家の陣中で、藁の中に放置しておいた馬の餌用の煮大豆が糸を引いてしまったのが糸引き納豆の始まりだとする言い伝えが関東より北の各地に多く残されています。

前九年の役で八幡太郎義家が行軍した軌跡と現在糸引き納豆がよく食べられている地域とは重なっており、これが研究者の間などでは納豆ロードとよばれています。

また、義家の敵方だった安倍宗任(むねとう)が戦に敗れて筑紫に流され、流刑の地で糸ひき納豆の作り方を伝えたという話しが残されていたり、京都周辺から義家の援軍として東北に派兵された兵が納豆の製法を持ち帰ったという話しもあります。

現在、納豆が多く消費される地域は関東や東北、京都周辺、北九州と全国に点在していますが、これらの地域は義家軍や安倍宗任が関係した地域と奇妙に一致しているのです。

          ○

文献に納豆が出始めた当初は「糸引大豆」として記されていました。

「納豆」という字が出てくる最古の文献は、11世紀の芸能や世相が書かれた『新猿楽記』だといわれており、その中に「精進物、春、鹽辛納豆」と書かれています。

<参考書籍>

柳田友道(1991)『うま味の誕生―発酵食品物語 』岩波書店
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
一島英治(2002)『発酵食品への招待―食文明から新展開まで』裳華房

<関連商品>

納豆―原料大豆の選び方から販売戦略まで
渡辺 杉夫

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