2006/10/13

トマトとヨーロッパ

ヨーロッパにトマトが伝わった当初、ヨーロッパの植物学者達はトマトをマンドラゴラという植物の一種だとみなし、トマトは食用にならないと考えました。
マンドラゴラはアルカロイドという幻覚を引き起こす物質を含んでおり、黒魔術や妊娠促進薬としても使用されていた植物です。
マンドラゴラは黄金色の実をつけ、根は人間のような形をしているためか、マンドラゴラの根を引き抜くと悲鳴が発せられ、その悲鳴を聞いた者は死んでしまうという言い伝えすらありました。
トマトはマンドラゴラと同じナス科植物でマンドラゴラと形が似ていたため、トマトも有毒植物と見なされたのです。
教会などがトマト栽培を禁じたため、トマトは反体制のシンボルのような存在にもなりました。

            ○

177 ヨーロッパの文献でトマトが最初に出てくるのは、1544年にアンドレア・マティオーリが著した『博物誌』だと今のところは言われています。
『博物誌』の中でマティオーリもトマトは扁平球(マンドラゴラ)の異種だとした上で、観察の結果トマトは食べることができると結論づけており、薄切りにしたトマトをバターかオリーブオイルで炒めて塩をふる食べ方を提案しています。
この『博物誌』でトマトは熟すと黄金色になると書かれたたことから、イタリアではトマトを「ポモドーロ(pomodoro)」(黄金のリンゴ)とよぶようになったという説もあります。(関連:「トマトの語源」)

            ○

イタリアでトマトが最初に栽培されたのはナポリでした。
16世紀のナポリはスペインに支配されており、スペインがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰ったものがイタリアに持ち込まれる時はまずナポリに集められていたため、トマトもナポリで栽培が始まったと考えられています。
イタリアでは裕福層の鑑賞用としてトマト栽培が始められましたが、後にナポリの宮廷庭師が観賞植物だったトマトの苗を自分の家に持ち帰り食用にしたといわれています。
観賞用トマトはもちろん食べて死ぬようなものではありませんでしたが、皮が固く酸味が強いため、あまりおいしいものではなかったようです。
トマトを食べた人達により品種改良が行われるようになり、2世紀後には野生種のものに比べ10倍も大きく味も良いトマトが作られることになります。

            ○

フランスでは、スペイン出身でナポレオン三世(1808〜1873)の妃だったウジェニーがある公式晩餐会で料理人に命じてトマト料理を出させたのを境に、トマトは食用だという認識がフランスで浸透したという逸話があるようです。

しかし、1760年にフランスで発刊された植物年鑑のヴィルモラン誌には、観賞植物としてですが既にトマトが紹介されており、1778年版のヴィルモラン誌には食用野菜としてトマトが載せられています。

トマトが普及した当初フランスでは地中海沿岸の南フランスで主に栽培され、南フランス人の中にはトマトで稼いだトマト長者もいたと言われています。
1789年のフランス革命で南フランス人がパリに流入したのを期にフランス全土にトマトが普及したとも言われています。
(これが本当ならばウジェニーが晩餐会にトマト料理を出す以前にフランスでトマトは普及していたことになります)

            ○

19世紀になってトマトの品種改良が本格的に始められました。
トマトがイギリスに伝えられてから、イギリスの気候に合うように低温や日照時間が短い環境で栽培可能な品種が開発されていきます。

イギリスでの最古のトマトの記録は、1751年に植物学者のジョン・ヒルが記したもので、トマトを煮込んだ物やトマトのサラダがイギリスのユダヤ人社会で食べられていると書かれています。
17世紀にはカリブ海諸国でトマトは食用にされていたと考えられており、カリブ海やアメリカとの貿易に携わっていたユダヤ系イギリス人がカリブ海諸島で知ったトマトを本国で広めたという説もあります。

<参考書籍>

シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
内田洋子, シルヴィオ・ピエールサンティ(2003)『トマトとイタリア人』文春新書

<トマト関連>

カルミネ・コッツォリーノ 料理と生活 カルミネ・コッツォリーノ 料理と生活
なし イタリアン・シェフの草分けカルミネ・コッツォリーノ。その人気シェフがトスカーナ地方フィレンツェの魅力を紹介する。豊かな自然が育む新鮮な野菜。文化が造り出した濃厚・芳醇な食材群。南イタリアの太陽をたっぷりと浴びたトマトをふんだんに使った自家製トマトピューレ作りは必見。さらにカルミネによるクッキングレッスン10品のレシピも収録。また合気道やカートなど多彩な趣味もカルミネを作る大切な要素。

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トマトさん トマトさん
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永田 照喜治

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2006/10/09

キャビアとチョウザメ料理

最高級品は宝石並の価格で取引されるキャビアはご存知の通りチョウザメの卵です。
チョウザメはサメに似た体型をしているために、名前に「サメ」が入っていますが、サメの仲間ではなくチョウザメ目チョウザメ科の魚です。
漢字で「蝶鮫」と書くように、体表の一部には蝶の羽のような大きなウロコがついています。
もちろんチョウザメにはサメのような牙はなく、それどころか歯もついていません。
畳み込むようにしてしまってある柔らかな口を突き出してエサを吸い込みます。
チョウザメは2億5000万年前から生息してきたといわれる生きた化石で、鮭のように川で産卵し、孵化した稚魚は川を下って海で成長します。
成魚になるのに10年以上掛かかり、鮭とは異なり産卵後も生き続け、中には100年前後も生きるチョウザメもいるといわれています。

            ○

100年以上前にチョウザメは、太平洋や大西洋、北アメリカ、地中海、カスピ海、バルト海、黒海周辺など北半球の中緯度に位置する川や湖などに広く分布していました。
その頃のアメリカの酒場ではキャビアを無料のつまみとして出していたというほど、チョウザメはありふれた魚だったのです。

            ○

その後、石油の採掘やダム建設工事などによる環境汚染や乱獲、密漁によってチョウザメの数は激減し、今はカスピ海とロシアのボルガ川にしか生息していません。
キャビアの主要生産国はロシアやイラン、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンの五カ国となっています。

19世紀末のロシアのキャビア輸出量は年間100トンを越えていました。
しかし2003年にはロシアのキャビア生産量は50トン、輸出量は20トンにまで落ち込んでいます。
カスピ海沿岸諸国は千万匹単位でチョウザメの稚魚の放流を行っていますが、その生存率は低く密漁は減らないため、2006年にはついにワシントン条約事務局によってカスピ海産キャビアの国際取り引きを禁止する緊急措置がとられています。

            ○

ところで、一口にキャビアといっても、チョウザメの種類によりベルーガ、オショートル、セヴリューガ、ステルリャジ、ベステルなどの分類がされます。
オオチョウザメという種類のチョウザメの卵でつくられたキャビアは最高級品として扱われます。
一匹のオオチョウザメから20キロ弱の卵をとることができ、この卵で作ったキャビアをロシア語の商品名でベルーガ(Beluga)といいます。
ベルーガの次に価格が高いのは、ロシアチョウザメ1匹から5キロ前後とれる卵で作られるオショートル(Oscietra)です。
ベルーガやオショートルに次ぐものがホシチョウザメの卵で作られるキャビアで、商品名をセヴルーガ(Sevruga)といい、ホシチョウザメ1匹からは2キロ以下の卵しかとれません。

            ○

キャビアは粒の大きさにより等級がつけられ、15の等級分けがされます。
大雑把に言って、最高級品のベルーガは大粒のキャビアで、オショートルは中粒、セヴルーガは小粒になります。
ベルーガのキャビアが詰められるビンのフタは青、オショートルは黄色、セヴリューガは赤と色分けがされ、パッケージでキャビアの種類が分かるようになっています。
1番上の等級がつけられるキャビアと1番下の等級のものでは、2倍から3倍近くもの価格差があります。

            ○

キャビアは獲れたてを短時間で処理しないと粒がつぶれて商品価値が著しく下がってしまうため、キャビア作りには熟練の技術が必要となります。
チョウザメから取り出された卵は布のふるいを使って不純物が取り除かれ、その後の水洗いで更に異物が取り除かれます。
きれいになった卵には、卵の1〜2%にあたる塩が混ぜこまれ、熟成させるために2日間ほど寝かせた後にビンに詰められます。

            ○

キャビアの価格はとにかく高く、庶民が気軽に手を出せるものではないということで、キャビアのイミテーション品なども作られています。
代用キャビアには、デンマークで水揚げされるランプフィッシュの卵を黒く着色したものや、タラやホウボウの卵を使ったものがあります。
日本で作られるイミテーション・キャビアにはトビウオの卵を漆黒に染めたものなどもあります。
ラベル表示でイミテーションと断り書きがあればいいのですが、中にはイミテーション品をキャビアとして売る偽物も出回っているそうです。

            ○

親のチョウザメよりもその卵で作られるキャビアの方が昔から有名だったわけですが、地域によっては親のチョウザメの肉を好んで食べる地域もありました。
中国でチョウザメは「鰉魚」とよばれ、かつては皇帝の魚とされていました。
特にチョウザメの軟骨が珍重されていたといいます。

            ○

ロシアではチョウザメの身を塩漬けやマリネにしたり、ソテーやグリルにしてよく食べられたこともあり、ロシアのアムール地方では生のチョウザメ肉にねぎやギョウジャニンニクのような香草の薬味をのせ、塩をふって食べたといいます。
アムールで獲られたチョウザメの肉は地元で食べられ、軟骨は中国に送られていました。

            ○

カスピ海産キャビアの国際取引が禁止される以前は、世界のキャビアの90%はカスピ海で水揚げされたチョウザメで作られていました。
そのカスピ海に面するイランは最上級キャビアのベルーガの生産国でありながら、キャビアを食べることは昔から稀でした。
これはキャビアの価格が高いからだけでなく、鱗のない魚とその卵は食べてはいけないというイスラム教シーア派の教義があったからです。
1983年に、聖職者と専門家の調査の結果に基づいて、チョウザメの尾びれの上には菱形の鱗があるとしてチョウザメの身も卵も食用にして良いとする宗教的解釈がホメイニー師によって示され、これ以降イラン国内でのチョウザメの切り身の消費量は僅かばかり増えたといいます。

            ○

日本でも昔は北海道の川にチョウザメが遡上していたことが分かっています。
このチョウザメは今は標本等でしか見られませんが、1966年にはロシアからチョウザメの稚魚500匹が日本に贈られており、これを期に「日本チョウザメ研究会」がつくられ、後に「国際スタージョン交流会」も設立されています。
国際スタージョン交流会はチョウザメの学術的研究をする会ではないようですが、例会を開いてチョウザメの養殖状況などを発表したり、全国のチョウザメ養殖場を見学するなどの活動を行っているようです(なぜかGoogleではインデックス登録されていないようです)。
国際スタージョン交流会のサイトの情報によれば、日本各地で町おこしのためにチョウザメの養殖に挑戦している地域があるそうですし、釜石市の「暮れ六つ」というお店では養殖したチョウザメの料理が食べられるようです。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
上岡弘二 (1999)『アジア読本 イラン』河出書房新社
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会
沼野充義, 沼野恭子(2006)『世界の食文化〈19〉ロシア』農山漁村文化協会
開高健(1990)『オーパ、オーパ!!〈アラスカ篇 カナダ・カリフォルニア篇〉』集英社
佐藤魚水(1997)『魚の謎解き事典』新人物往来社

<キャビア関連>

ユー・ガット・メール ユー・ガット・メール
ハリー・ニルソン ノエル・ホーガン ドロアーズ・オーリオーダン

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快盗ルビイ 快盗ルビイ
和田誠 小泉今日子 真田広之

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ディーバ ニューマスター版 ディーバ ニューマスター版
ジャン=ジャック・ベネックス リシャール・ボーランジェ

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踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
君塚良一 本広克行 織田裕二

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2006/10/05

フォアグラと侯爵のパテ

世界三大珍味といえばキャビアとトリュフそしてフォアグラです。
キャビアとトリュフを人工的に作ることはできませんが、逆にフォアグラは人間が手を加えなければ作ることができません。(関連:「トリュフはなぜ珍味か」)(関連:「キャビアとチョウザメ料理」)

            ○

ガチョウやカモに大量のエサを食べさせてそれらの動物の肝臓を肥大させることでフォアグラは作られます。
通常、動物に無理矢理エサを食べさせれば消化不良を起こして死にますが、大量の水と一緒にエサを与えればガチョウやカモはエサを消化してしまうのです。
この強制的なエサやりのことを「ガヴァージュ」といい、ガヴァージュのエサには蒸したとうもろこしに油と塩を混ぜ込んだものが使われます。
ガヴァージュは毎日6時間毎に行われ、フォアグラ完成までには1ヶ月を要し、一羽のガチョウに使われるエサの総量は25キロ程度だといわれています。
昔は人間1人がガチョウを押さえて、もう1人が漏斗でエサを流しこんでいましたが、現在は機械が使われています。
漏斗状の器具をガチョウの口につっこみ、エサが機械で流し込まれた後にガチョウの首を人間が手でなでるなどして胃に向かってエサを送り込みます。

           ○

家畜化されたガチョウの最古の記録は古代エジプトの遺跡に残されたレリーフです。
いくつかのレリーフが残されていますが、紀元前2500年に亡くなった高官の墓から発見されたレリーフにはガチョウに強制的にエサを食べさせている様子が描かれており、フォアグラを作るためのガヴァージュと同様の作業がこの時代に行われていたことをこのレリーフは示しています。
ただし、エジプト人がガチョウの肥大した肝臓を食べていたのか、食べていたとしたらどのように料理していたのかについては不明です。

          ○

強制的エサやりを行っていた古代エジプト人がガチョウの肝臓を食べる目的でそれを行っていたと決めつけられないのは、後の古代ローマやギリシャ時代に、ガチョウを太らせてその肉を食べるためにガヴァージュを行っていたことが、残された記録で明らかにされているからです。

          ○

古代ローマ帝国がフランスを支配下においたときガチョウを太らせる技術もフランスに伝わりましたが、長い間フランスでも肥大した肝臓が食材として珍重されることはありませんでした。
やはりフランスでも肥満させたガチョウの腿肉を食べることはありましたが、食材にするために意図的にガチョウの肝臓を肥大させることはなかったのです。

          ○

15〜16世紀頃になると、フォアグラをとるためのガヴァージュらしきことがフランスで行われ始めましたが、それでもフォアグラ料理が頻繁に食べられたわけではありません。
フォアグラが食材として注目されるようになったのは、18世紀になってフォアグラでパテが作られるようになってからのことです。
1780年前後のフランスで、ジャン・ピエール・クローズ(Jean Pierre Clause)という料理人がフォアグラのパテである「コンタード風パテ」をつくりました。
ルイ16世に使えていたコンタード侯爵が開くパーティーを前に、招待客が見たこともないような料理を作るようにと料理人のクローズは命じられ、そこで作られたのが後にコンタード風パテと名付けられたガチョウのフォアグラのパテでした。
このパテは好評を博し、後にルイ16世にも献上されたといいます。

その後、ニコラ・フランソワ・ドワイアンという料理人により、フォアグラのパテにトリュフの香りが混ぜられるようになり、フォアグラのパテは最高のパテと賞賛されるようになります。
パテの材料として使われるようになって以降、フォアグラは食材として脚光を浴びるようになったのです。

          ○

フォアグラのパテが盛んに作られるようになった19世紀になると、フォアグラという嗜好品をつくるためにガチョウの口を無理矢理こじ開けてエサを流し込むことに対して非難の声があがるようにもなります。
現在でも動物愛護団体などが中心となってガヴァージュは動物虐待であるという抗議が度々行われており、カリフォルニア州ではガヴァージュによってつくられたフォアグラを州内でつくることを2012年から禁止する法律がつくられています。
一方で、2005年10月に、フォアグラは国の文化遺産であるとした法案がフランスで可決されたりもしています。
最近は鳥インフルエンザの影響で一時的にフォアグラの輸入が禁止されたりなど、その消費量が落ち込んだりもしましたが、今後この食材はどのように扱われていくのでしょうか。

<参考書籍>
宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<フランス料理関連>

調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論
斉須 政雄

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「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋 「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋
重信 初江

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もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本 もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本
田崎 真也

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2006/09/26

しょうがで羊が買えた時代

根しょうがの露地栽培では春に種しょうがが植えられ、秋には収穫が行われます。
今年に栽培と収穫が行われてすぐに店頭に並べられるしょうがは新しょうがとよばれます。
昨年収穫されて貯蔵されていたものが今年売られる場合、新しょうがと区別するために「古しょうが」とか「ひねしょうが」という呼び名になります。
新しょうがもひねしょうがも根しょうがのことなのです。
葉しょうが(谷中しょうが)も根しょうがと同じ種類のしょうがですが、根しょうがよりも早く収穫され、葉が付いた状態で出荷されます。(関連:「しょうがの甘酢漬け」)

家庭菜園でしょうがを栽培して、秋になって家では食べきれないほどしょうがが収穫できたというおうちもあるかもしれません。
家で栽培していなくてもスーパーなどに行けばしょうがはいつでも無造作に並べられています。
しかし昔のヨーロッパでしょうがは高級品として珍重されていました。

            ○

しょうがは熱帯アジアが原産ですが、熱帯アジアのどの地域かは特定されていません。
一説によればインドが原産地ではないかといわれています。
インド原産地説の根拠の一つになっているのがしょうがの名前です。
英語でしょうがは「ginger(ジンジャー)」ですが、この言葉は以下のように語源をさかのぼることができるといいます。

英語「ginger(ジンジャー)」→ フランス語「gingivre(ジンジブレ)」→ ラテン語「zingiberi(ジンジベリィ)」→ ギリシャ語「zingiberis(ジンジベリィズ)」→ サンスクリット語「singavera(シンカベラ)」→ ドラビダ語「inch ver(インチベル)」

サンスクリット語はインドの古典言語です。
そのサンスクリット語の「singavera(シンカベラ)」はもともと「角の形をしたもの」という意味の言葉ですが、この言葉がしょうがを指す言葉として使われました。
そしてこのサンスクリット語の「singavera」の語源がドラビダ語の「inch ver(インチベル)」だといわれているのです。
ドラビダ語はインド西岸のマラバール海岸地方に有史前に住んでいたドラビダ人が使った言語です。
しょうがを意味する世界の言葉の語源をたどっていくとマラバール海岸地方に行きつき、しかもこの地方では現在でもしょうがの生産が行われていることなどから、しょうがの原産地はインドではないかと考えられているのです。

           ○

しょうがはインドから中国に伝わりました。
中国にしょうがが伝播した当初は揚子江よりも南の地域で栽培が始まり、後に各地にしょうが栽培が広がっていったと考えられています。
マルコポーロが現在の江蘇省の蘇州や福建省を旅しているときに大量の高品質のしょうがが山に積まれているのを目撃しています。
ヨーロッパに比べ中国ではしょうがが格安で取引されていたことにマルコポーロは驚いたと東方見聞録に記されているのです。

            ○

胡椒が伝わる前の時代にしょうがはヨーロッパに持ち込まれ、香辛料の一つとして扱われました。
マルコポーロが中国でしょうがを見た13世紀はもちろんのこと、14世紀になってもヨーロッパにおけるしょうがは高価な香辛料として取引されていました。
450グラムのしょうがが羊一頭と同じ価格であったことが当時の記録に残されているほどです。
しょうがが山積みされ、しかもそれらが安価で取引されているのを見たマルコポーロの驚きも理解できます。

            ○

ヨーロッパとアメリカ大陸の間を商船が行き交うようになった時代に、しょうがは熱帯アメリカでも栽培され始めます。
乾燥させたしょうががアメリカ大陸からヨーロッパに輸送されるようになり、ヨーロッパでのしょうがの価格は庶民でも手が出せるほどに下がりました。

一説によると紀元前3000年頃に創られたといわれるジンジャーブレッドは、15世紀には高級菓子として貴族に好まれていましたが、16世紀にシェイクスピアによって書かれた劇の中には「ジンジャーブレッドが1ペニー」という台詞が出てきており、乾燥しょうががアメリカ大陸から輸入された頃を境にヨーロッパでのジンジャーブレッドも上流階級の菓子から庶民の菓子に変わったことが伺えます。

また、庶民でもしょうがが買える時代になったころ、乾燥しょうがの粉末をビールやノンアルコール飲料のエールに振り掛ける飲み物がイギリスの大衆酒場で作られるようになったとわれており、これがジンジャーエールの始まりだとされています。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社

<しょうが関連>

生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g 生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g

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マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち
マーガレット ウィルバーン Margaret Wilburn

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ジンジャーとフレッド ジンジャーとフレッド
ジュリエッタ・マシーナ フェデリコ・フェリーニ マルチェロ・マストロヤンニ

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2006/09/21

サフランと黄金色の香り

フランス料理のブイヤベースやスペイン料理のパエリヤなどに使われるサフランは別名を「蕃紅花(ばんこうか)」ともいいます。
原産地は南ヨーロッパや西アジアです。
サフランの学名は「crocus sativus」といいますが、サフランとクロッカスは同じクロッカス属に分類されます。

            ○

サフランの紫色の花につく赤い雌しべを採取して乾燥させたものが香辛料としてのサフランです。
サフランは1年に1回しか開花せず、花は2週間しかもちません。
花が枯れる前の2週間という短い期間に人の手で雌しべを摘み取らなくてはならないのです。
しかもサフランの花には細い雌しべが三本しかついていません。
1グラムのサフランを生産するのに500本程度の花が必要になるといわれており、サフランはどうしても高価になってしまうのです。

            ○

Eg05ilaw05 乾燥させたサフランの雌しべを水に浸すと赤色から黄色に変化します。
古代エジプトでは太陽を神として崇める太陽信仰が盛んで、サフランでつくる黄色の染料は太陽を表す色として儀式などに使われていました。

また、クレオパトラは化粧品の一つとしてサフランからつくられた香油をつけていたといわれています。

            ○

古代エジプト時代からサフランは薬としても使われていました。
だいぶ後の時代になりますが、中世のイギリスではサフランが心臓や肺の病気に効くと考えられ、ワインに混ぜたサフランを患者に飲ませていたことがあります。
現代の日本では鎮痛用の漢方薬としても扱われているようです。

            ○

紀元前2600年頃に栄えたクレタ文明の遺跡で発見された壁画にもサフランの絵が描かれています。
後にそのクレタの地を支配した古代ギリシャでも、サフランでつくる黄色は高貴な色として扱われました。
ギリシャ神話に限らず多くの宗教で「神」の象徴は黄金であり、黄金色に近い黄色を出すサフラン染料は珍重されたのです。

            ○

ローマ帝国時代の香辛料は富を示すステータスシンボルでもありました。
香辛料の中でも特に高価なサフランは力を誇示したい上流階級層には打って付けの品でした。
当時、サフランは二日酔いに効き、眠りを深くすると信じられていたため、サフランでつくられた枕が貴族などの間で用いられたりもしました。

            ○

古代アラビアでも黄色は貴い色であったため、サフランは大切な染料の材料として使われています。
一方で、高価な贅沢品だったことから、サフランは堕落の象徴ともされていました。
古代アラビアでは、男にとっては肉とワイン、女にとっては黄金とサフランが人間を堕落させるものの筆頭に上げられていたのです。

            ○

中世のヨーロッパではエーゲ海のレパント地方を中心にサフランが生産されました。
14世紀頃なるとスペインやイタリア、イギリスでもサフランがつくられるようになります。

妖精はパンをサフラン風味のミルクに浸して食べるのだという言い伝えがあるイギリスに、最初に持ち込まれたサフランは盗品だったという話しがあります。

イギリスのエセックス地方のある町からキリストの聖地に赴いた巡礼者が、イギリスに帰国する途中にレパントに立ち寄り、そこでサフランの球根を巡礼用の杖の中に隠して故国に持ち帰ったというのです。

この巡礼者が持ち帰ったサフランの球根の栽培は成功し、サフランのお陰で豊かになったこの町は後にサフロン・ウォールデン(Saffron Walden)という名に変えられ、町の教会の屋根飾りにはサフランの花の彫刻がほどこされたといいます。

イギリスに伝わったサフランについては、十字軍が遠征した先でヘンリー I 世が献上品としてサフランを受け取り自国に持ち帰ったのが最初だという説や、ローマ帝国がイギリスを統治していた時代にサフランが伝えられたという説もあります。

            ○

中世のヨーロッパでもサフランは染料として使われ、高値で取引されていました。
これに目を付けたインド人が、インド料理には欠かせないウコンを原料にしてサフランよりもだいぶ安い値段のサフラン染料の模造品をつくり、「インディアン・サフラン」と名付けてヨーロッパで売って利益を得ていたことがあります。

            ○

サフランの模造品はインド人によって初めてつくられたわけではありません。
古代ローマの博物学者のプリニウスがサフランは偽物が多いと書き残しており、プリニウスが生きた紀元1世紀頃から偽サフランが出回っていたことが分かっています。

中世のヨーロッパではキンセンカやベニバナの花びらを乾燥させたものがサフランの代用品に使われ、「貧乏人のサフラン」とよばれていました。
その他にも柳の根や肉を細かくほぐしたもの、トウモロコシの毛に色をつけたものなど、サフランのモドキというよりは悪質な偽物といえる品が多く出回りました。

            ○

中世ヨーロッパの市場から本物のサフランが追いやられてしまうほど偽サフランが流通してしまったため、ヨーロッパの国々は取り締まりに追われました。
当時のフランスでは偽サフランを売った者に懲役刑を課しています。
1444年のドイツでは偽サフランを扱った商人が逮捕され処刑された記録さえあります。
この商人は自分が売っていた偽サフランと一緒に火あぶりの刑に処せられました。
死ぬ間際の火の中で嗅いだ匂いは自分が売ろうとした偽サフランの匂いだったというなんとも残酷で皮肉な話しです。

            ○

今でもサフランのイミテーション商品がありますが、現在は合成香料や色素でつくったサフランそっくりの色や香りをサフランの細胞を無菌培養したものにつける方法が使われたりしています。

            ○

05ilar12 様々なコピー商品が出回るほどサフランはヨーロッパで人気を得たわけですが、サフランはヨーロッパだけで使われたわけではありません。
香辛料の国インドでは北部のカシュミール地方でサフラン栽培が盛んに行われてきました。
インド料理では味付けされたご飯のプラーオに使われたり、ヨーグルトでつくられるお菓子にサフランが入れられたりしています。

トルコではオスマン帝国が栄えた時代からサフランは「ザフェラン」と呼ばれ、ピラフややはり菓子などに用いられてきました。

            ○

日本でサフランを頻繁に使うという家庭は稀だと思いますが、少し検索してみたところ、通販ではスペイン産サフラン1グラムが約1000円、国内産のものが1グラム1200円弱 ほどの価格で販売されていました。

手に持った重さと値札を見比べて日頃買い物をしている一般庶民としては、1円硬貨と同じ重量で1000円以上の価格は高いと感じてしまいますが、サフランの価値は重さのない色と香りな訳で肉の買い物ではないのですから、重量と価格を見比べるのはやはり意味のないことなのでしょうね。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<サフラン関連>

味道 鉄製パエリアパン32cm AD-655 味道 鉄製パエリアパン32cm AD-655

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薬草 薬草
平野 隆久

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新たなる香辛料を求めて 新たなる香辛料を求めて
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2006/09/11

ザウアークラウトの作り方

千切りキャベツを塩漬けにして発酵させることで作るザウアークラウトは乳酸菌の働きにより酸味と独特の風味を持ちますが、酢は使われていないのでキャベツの酢漬けではありません。(関連:「酢漬けいろいろ」)

「酸っぱいキャベツ」という意味のドイツ語である「ザウアークラウト」という名が広まっているせいか、キャベツの塩漬けといえばドイツを連想する方も多いかもしれません。
確かにドイツでのキャベツの消費量はヨーロッパの他の国と比べても多く、ヨーロッパでドイツ人は「キャベツ野郎」のあだ名で呼ばれることもあるくらいですから、ドイツ人とザウアークラウトとの関係も深いものがあります。

しかしザウアークラウトはドイツだけの食べものではなく、オランダやルーマニア、ポーランド、ロシアなどヨーロッパの中部や北部を中心に昔から食べられてきた漬け物なのです。

            ○

紀元前のヨーロッパで既にザウアークラウトは作られていたという説すらあるようですが、アジアで作られていたものが中世の頃にヨーロッパに伝わったという説が広く受け入れられているようです。
6世紀頃の中国の文献に、キヤベツを米の粥やカラシナ、ウリ、梨などと一緒に瓶の中に入れて、塩や塩水で漬け込んで作る食品についての記述があり、この漬け物は万里の長城建設に従事した労働者に給与の一部として与えられたといいます。
このような漬け物が中央アジアを通じてヨーロッパに伝わってザウアークラウトになったのではないかと考えられています。

            ○

中世以前のヨーロッパでは、キャベツは貧困層が食べる野菜と見なされ、ザウアークラウトも主に地方の貧しい農村などで作られていました。

ドイツの文献にザウアークラウトが初めて登場するのは、1543年に行われた女王の結婚式の記録です。
祝いの宴会でザウアークラウトがレバーの煮物に添えられて来賓に振る舞われたと記されており、これがドイツでのザウアークラウトに関する最古の記録になっています。
女王の結婚式で出されたくらいなので、この頃にはザウアークラウトの「格」も上がっていたということなのでしょう。

            ○

ザウアークラウトの材料には堅い種類の白キャベツなどが使われます。
ザウアークラウトの作り方は国によって多少異なります。
基本的な作り方では、収穫したキャベツを一週間くらい積み重ねて放置するところから始まります。
キャベツを放置するのはキャベツに含まれる水分を減じ、熟成を促すためです。
しばらく放置したキャベツの外側の葉と芯を取り除いた後に、水で洗ってから千切りにして塩をまぶして漬け込みます。
このときに使う塩の量はキャベツの重さの2〜3%程度だそうです。

キャベツを漬け込むときはできるだけ空気が入らないようにギッチリと容器に詰めます。
乳酸菌は塩に強い反面、空気に弱く、逆に人間にとって有害なカビの多くは空気を必要としますが塩には弱いため、キャベツとキャベツの間には塩をよくすり込み空気を抜く必要があるのです。

容器にキャベツを漬け込み、上から蓋をして重しを載せると、翌日からは漬けたキャベツの上に汁が染み出てきます。
この汁を取り除きつつ発酵の完了を待ちます。
気温が高いほど発酵が早く進み、30℃くらいだと1週間で漬け上がりますが、20℃くらいの気温だと3週間程度掛かります。
長く漬けるほど酸味が強くなり、出来上がりはザウアークラウトの酸味の量で決められます。

            ○

現在のザウアークラウト製造にはステンレス製のタンクが使われていますが、昔はワインづくりに使われた古い樽などにキャベツが漬け込まれていました。
樽に漬け込んだ時代以前のポーランドでは地面を掘った溝の内側に板を打ちつけ、そこにキャベツを漬けたといいます。
その溝の中に丸ごとのキャベツとバラしたキャベツの葉を交互に重ね入れ、一番上には千切りキャベツが載せられました。
地方によってはキャベツを漬ける前に湯に通したり、オーブンなどで軽く加熱したり、リンゴや桜の葉、ディルなどをキャベツと一緒に漬け込むこともありました。
キャベツを特製の溝に漬け込んだ後は、その上を棒で叩いたり足で踏みつけたりして中から汁を出し、やはりこの汁を取り除いて更に漬け込みました。

溝を使った時代の後、ポーランドでも樽が使われるようになります。
樽に漬けたキャベツの上には布をかぶせ、その上から蓋をして重しを載せます。
樽の上層部は空気に触れ易いためカビが発生しやすく、カビが繁殖したらそれを取り除き、布と樽の蓋を洗います。
ザウアークラウトを長期保存する場合は、2週間ほど暖かい場所で発酵させてから、地下や倉庫などに樽を移動させていました。

オランダではキャベツを桶に漬け、発酵期間中はこの桶を部屋の中に置いておき、その後温度の低い場所に移していたそうです。

            ○

ブルガリアのザウアークラウトの作り方は、キャベツを丸ごと塩漬けにしてしまいます。
これにホースラディッシュやとうもろこしなどを加え、漬け容器に水を入れます。
毎日2週間、容器の底から水を抜いては新しい水を上から注ぐ作業を続け、その後温度の低い場所に漬け容器を移し、1ヶ月掛けて発酵させました。

            ○

ドイツやオランダからアメリカに移り住んだ人達が移住先でザウアークラウトを伝えたため、現在のアメリカでもザウアークラウトはよく食べられています。
アメリカでローカライズされたザウアークラウトには砂糖が加えらることもあります。

            ○

ザウアークラウトを食べるときは茹でたり炒めたりして加熱してから食べるのが一般的ですが、ヨーロッパなどで便秘の薬として食べる時は、ザウアークラウトが含む乳酸菌の働きを高めるために生で食べたりもするようです。
ザウアークラウトはビタミンCも多く含むため、風邪薬の代わりに煮込んだザウアークラウトが食べられたりもします。
ザウアークラウトを漬けたときに出る汁は、これに豚肉やラード、小麦粉などが加えられスープにして食べられたりもしました。

            ○

1950年代ころまではヨーロッパでは自家製のザウアークラウトが食べられていましたが、現在は家庭でザウアークラウトをつくる家は少なくなり、一般的には市販のものを買うことが多いようです。

<参考書籍>
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋
南直人(2003)『世界の食文化 (18) ドイツ』農山漁村文化協会

<漬け物関連>

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2006/09/04

ジャガイモがつくる世界史

1530年代前半のインカ帝国侵略時に、スペイン人はヨーロッパの人間としては初めてジャガイモを目にしました。(関連:「ジャガイモの原産地」)
インカ帝国の一般庶民が常食していた根にできたコブの名前をスペイン人が尋ねたところ、インカの人々はケチュア語で「パパタ」や「ポテト」などと答えたため、これが語源となって、英語でジャガイモを「ポテト(potato)」、スペイン語では「パタタス(patatas)」と呼ぶようになります。

ヨーロッパ人は初めて見たサツマイモとジャガイモを混同していたようで、いくつかの記録ではジャガイモにもサツマイモにも「ポテト」という単語が使われており、後にこれらの記録について研究した学者を混乱させることにもなりました。

            ○

1576年頃にジャガイモはスペイン本国に伝わりました。
1580年代に入るとヨーロッパでジャガイモは徐々に広まっていき、イタリアやイギリスにも持ち込まれています。
しかし当時のヨーロッパでジャガイモは食用にはされておらず、フランスのブルゴーニュ地方では法律によって食べることが禁じられたりもしています。

            ○

ジャガイモがヨーロッパで食用として直ぐに受け入れられなかったのには三つの理由がありました。Potatosm 第一に、当時のヨーロッパの人達の既成概念では植物は種から繁殖するものであり、根茎によって繁殖するジャガイモは気味悪がられたということがあります。第二に、ジャガイモの形はゴツゴツとして腫瘍を連想させることから、食べれば病気の原因になると考えられ、一部ではジャガイモに催淫効果すらあると信じられたりもしたことが理由に挙げられます。そして最後に、ジャガイモに限らず「新大陸」から伝わった新しい植物について、聖書には食べて良いとも悪いとも当然記述されておらず、ヨーロッパの多くの人はジャガイモを口にすることに抵抗感を覚えたのです。

            ○

しかし、ジャガイモは三ヶ月程度の短い期間に収穫でき、面積に対する収量が小麦などよりも多く、しかも地中で育つため強風や雹(ひょう)の影響を受けないなど栽培上の利点があり、時間が経つにつれヨーロッパの研究者はジャガイモの有用性を認め始めることになります。

しかし、ジャガイモが食べても安全なものだと判明した後も、ヨーロッパでのジャガイモは貧困層の食べものと見なされていました。
そんなジャガイモが食料としてヨーロッパで普及したのは18世紀に起きた大凶作が原因です。
ドイツでジャガイモが定着したのも1770年代の大飢饉後で、国は凶作対策としてジャガイモ栽培を促進させます。
現在のドイツの一地方であるプロセインなどでは全ての小作人がジャガイモを栽培するように命じられ、この命令に背いた者は耳と鼻を削ぐと脅されたりもしました。

            ○

18世紀にヨーロッパで盛んになった啓蒙主義運動の一環として農民向けの小冊子が多く作られ配られましたが、この小冊子もジャガイモ普及に貢献しました。
様々な分野にわたって色々な知識が書かれた小冊子にはジャガイモ栽培についての情報も記載され、この当時に残っていたジャガイモに対する偏見を払拭する役割を担いました。

            ○

1700年代後半に起きた七年戦争で、プロセイン軍に捕虜として捕われたフランス人のパルマンティエは牢獄でジャガイモを食べさせられ、ジャガイモがフランスでも非常食になり得ると確信し、フランスに帰国後そのことを論文にして発表し受賞しています。

パルマンティエはルイ16世にジャガイモを献上し、マリー・アントワネットにはジャガイモの花を送っています。
ジャガイモはナス科植物のため、花はなすの花に似ており、一時フランス社交界ではマリー・アントワネットがつけたジャガイモの花飾りが流行ったりもしました。

パルマンティエは一般庶民の間でジャガイモを普及させるために、パリ郊外にジャガイモ畑をつくり、昼の間は兵隊に警護させ、夜になると兵達をわざと引き上げさせました。
これが気になる近隣住民は夜中にジャガイモ畑に忍び込み、大切に育てられているジャガイモを持ち帰って栽培を始めたといいます。

後に、フランスのジャガイモ料理の一つにジャガイモ普及に努めたパルマンティエの名を取った「パルマンティエ・ポタージュ」という料理が作られています。

            ○

ヨーロッパで最もジャガイモ食が普及した国はアイルランドで、18世紀末までにはアイルランド人は食料の殆どをジャガイモに依存するようになります。
アンデス地方では、病気が発生してもジャガイモが全滅しないように様々な種類のジャガイモを栽培していましたが、当時のヨーロッパではサイズが大きく味にくせの少ない品種のみが栽培されました。
このため、19世紀にヨーロッパで作られていた種類のジャガイモに特有の病気が大発生したときには、その被害は甚大なものとなりました。
1845〜1849年には、アイルランドでもこの病気が蔓延してジャガイモが穫れなくなり、150万人が亡くなる大飢饉が起きています。
その結果、1850年代になって100万人のアイルランド人がもっとましな生活を求めて北米に移り住んだのです。

アメリカでのアイルランド系移民は、ジャガイモ栽培の農具の鋤(スペード)を意味する「スパッド」という蔑称で呼ばれ差別されたりもしましたが、1800年代の一時期にはアメリカの移民のうちアイルランド系は約50%を占め、現在のアメリカでも国民の15%はアイルランド系移民の祖先をもつといわれており、アイルランド系移民はアメリカの人口構成に影響を与える存在となったのです。

            ○

19世紀の大飢饉後、ヨーロッパの研究者はアンデスから病気に強いジャガイモを持ち帰り品種改良を重ねました。
そしてジャガイモはヨーロッパの生活に深く浸透して食文化に多大な影響を与えました。
しかしそれだけでなく、100万人以上の人間をヨーロッパから北米へ大移動させて世界史をも変えてしまったのがジャガイモという植物だったのです。

<参考書籍>
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
南直人(2003)『世界の食文化 (18) ドイツ』農山漁村文化協会
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<ジャガイモ関連>

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加藤 美由紀

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2006/08/25

パスタとマルコ・ポーロ

イタリア料理といわれてパスタを連想するだけでなく、単にイタリアと聞いただけでもパスタを思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
イタリアとパスタの関係は深いものですが、そのイタリアでどのようにパスタが食べ始められたのかやパスタの歴史についてはよくわかっていないことが多いのです。

          ○

当のイタリア人の中にも、あのマルコ・ポーロが中国から乾麺を持ち帰り、それがヨーロッパでパスタになったと信じている人達もいるそうです。
一昔前はイタリア人だけでなく世界中で多くの人がこの伝説じみた話しを信じていました。
この嘘の出所を調べ上げたのは、フランス人の食物史研究家で現在は日仏会館 副理事でもあるフランソワーズ・サバン氏で、全米マカロニ生産者協会(The American National Macaroni Manufacturers Association)が発刊していた「マカロニ・ジャーナル」という業界紙の1929年10月号にマルコ・ポーロとパスタの話しが載せられたことによって、この説が真しやかに広まったということを突き止めました。

          ○

他の学者の指摘で、マルコ・ポーロの口述をまとめた東方見聞録が筆記されるより約20年前の1279年に、ポンチョ・パストーネという人がマカロニが目一杯入った箱を財産として残したことをジェノバの公証人が記録していたことが分かっています。
財産に残すくらいなのでこれは生パスタではなく乾燥パスタだと考えられており、この公式記録によってマルコ・ポーロ以前にもイタリアにパスタがあったことが分かっているのです。

          ○

Pasta1また、マルコ・ポーロがヨーロッパに帰国する100年も前に、シチリア島から30キロ離れたトレビアで製造されていた粉食製品について、アラブの地理学者が書き残しています。
記録で使われている語句から、これは乾燥パスタだったと考えられています。
この記録の中のシチリアの乾燥パスタの説明にアラブ語の「itriyah」という言葉が使われています。
この「itriyah」はアラブで食べられていた麺であったらしいということが分かっており、アラブからシチリアに伝わった麺がパスタになったのだろうと推測され、現在はこれが定説のように扱われることが多いようです。

          ○

事実として、シチリアはアラブの支配下にあった時代もあり、当時のシチリア地方とアラブ間との結びつきは強く、イスラム教徒も多く住んでいました。
このシチリア地方から当時は独立国家だった南イタリアの国々やアラブ方面へ乾燥パスタが輸出されていたことが分かっています。

          ○

シチリアで乾燥パスタが作られていたことが記録された12〜14世紀より以前のイタリアにパスタまたはパスタ状の食べものがなかったのかについては、はっきりとしたことが分かっていません。

古代ローマが建国されるよりも前に、アジアの西部からイタリア半島にやってきたエトルリア人がイタリア中央部に都市国家を創り、紀元前6〜7世紀に繁栄しましたが、このエトルリア人の古墳で見つかったレリーフにラザニアを作る道具らしきものが描かれているという説があります。
はっきりとラザニア作りの道具だと判別できるようなレリーフではないようで、「言われてみれば確かに見える」という程度のもののようです。

今の北イタリアの伝統料理のポレンタのように古代ローマ時代には小麦粉を粥状にしたプルテスと呼ばれるものが食べられていたり、小麦粉を捏ねて薄く焼き、細長く切ってスープに入れるテスタロイという料理もあったようです。
しかし、これらは現在パスタと呼ばれている食品とはかなり異なった食べものです。

          ○

ローマ時代に食べられていた粉食食品とシチリアで作られていたという乾燥パスタの間にはポッカリと穴が空いたように記録につながりがありません。
だからこそマルコ・ポーロがヨーロッパにパスタをもたらしたという話しが信じられてしまう余地があったのです。

          ○

Pasta2 15世紀の初めになるとパスタはナポリでも流行しました。
16世紀になるとイタリア南部はスペインの支配下に入り、政情が安定したことからナポリの町は発展し始めます。
するとナポリとその周辺の農村部との間には格差が生まれ、ナポリ周辺に住む農民がナポリに流入するようになり、17世紀になるとナポリはヨーロッパで最も人口が多い都市になりました。

その頃にナポリでパスタ製造は発展しました。
その理由の一つは、17世紀前のナポリでは生鮮食料品の供給が行き渡っていたため、粉食はあまり重視されていませんでしたが、人口増加によってナポリでの生鮮食料品の供給が追いつかなくなったためだと考えられています。

          ○

日本の江戸時代にも都市部の発達と共に人口が急増したため、米の不足を補い安定的に食糧を供給するために麦や蕎麦をつくることを幕府は奨励し、これがうどんやそうめん、そばなどの粉食の発達につながったことがあります。
ナポリでパスタが発展した状況は、日本の江戸時代の粉食発達の過程と似ていたのではないでしょうか。

          ○

ナポリでのパスタ製造技術発達を後押ししたものに17世紀にナポリでつくられた押し出し式パスタ製造機があります。
これによりパスタは種類を増やし、質が高められ、イタリアを代表する食品の地位を得ていくことになるのです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
内田洋子 (2003)『トマトとイタリア人』文藝春秋
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<パスタ関連>

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2006/07/25

トリュフはなぜ珍味か

トリュフが「世界三大珍味」の一つとされるのは、他のキノコとは異なる独特の繁殖の仕方に謎が多く、人工栽培ができないため希少価値が高いということにも因ります。

まだ詳しくは分かっていませんが、トリュフは柏やハシバミなどの木の根を必要とし、樹木に何かを供給して木の根から何かをもらっているようなのです。
そのため、トリュフは人工的に栽培できず自生したものを採取するしかないのが現状です。
しかもトリュフは地中で生育するため採取するには掘り出さなければならず、見つけだすのに手間が掛かります。

          ○

初めてトリュフを食べたのはユダヤ人の祖とされるヤコブだとする話しがあるようですが、これはまったくの嘘で旧約聖書にそのような記述はありません。

古代ギリシャン時代には健康維持にトリュフを食べるのが良いとピタゴラスが著書に書いたり、紀元1世紀に書かれたローマの料理書にもトリュフ料理のレシピが記されているなど古い文献にもトリュフは登場しています。
しかし、これら古代ギリシャやローマで食されたトリュフは現在のものとは異なるテルファスという食用キノコだったのではないかとう説もあります。

中世になるとトリュフは媚薬的な扱いをうける程度で料理の食材としてはあまり使われなくなりました。

トリュフが再び盛んに用いられるようになったのは14世紀になってからのことです。
フランス料理で、潰したトリュフを肉汁に和えて肉料理に掛けたり、トリュフと牛乳やバターを合わせたものを野菜に掛けるなどソースとしての使われ方が発達し、トリュフは食材としての人気を盛り返しました。

          ○

フランスではトリュフ探しに雌豚、犬、青蝿、人間の鼻などが使われています。
面白い方法にはオート麦を使うものがあります。
これはトリュフの違法採取者が使う方法で、トリュフが生育しそうな木の根元にオート麦の種を蒔いておき、数ヶ月後にオート麦が枯れて育っていない場所を掘り起こすというものです。
理由は分かりませんが、トリュフが育つ場所では他の草が生えないためにこのような方法が使えるのです。

          ○

トリュフはフランスだけで生育するわけではなく、世界十数カ国で30種類以上のトリュフが採られています。
フランスで採られるものではペリゴール産黒トリュフが有名で、「黒いダイヤモンド」とよばれています。
イタリアにはウンブリア産の黒トリュフがありますが、それよりも高価で騒がれるのはピエモンテ地方で採れる白トリュフです。
これらのトリュフに比べて安価なものに中国産があり、これは松の木で繁殖するものです。
日本の中国産トリュフの輸入は1994年に始まっています。
2002年に日本に輸入されたトリュフの70%は中国産だったそうです。

          ○

輸入トリュフには冷凍物か冷蔵物かの違いがありますし季節や気候条件によって価格は変わってきますが、あるサイトでは中国産トリュフが1キロ1万円をきる価格で販売されていました。
フランス産トリュフは中国産の20倍近い価格で、イタリアのピエモンテ産白トリュフはフランス産黒トリュフの3倍以上の値がついていました。
「宝石」だとか「ダイヤモンド」などと呼ばれるのも納得の価格です。
(私事ですが昨晩のおかずは舞茸のバター炒め)

<参考書籍>
宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<関連商品>

お鍋でフランス料理―ビストロの味、田舎の味
パトリス ジュリアン Patrice Julien

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「ル・クルーゼ」で、おいしい和食―お鍋で毎日のごはんをつくろう 「ル・クルーゼ」だから、おいしい料理 「ル・クルーゼ」ひとつで。 「ル・クルーゼ」で、つくりたい料理 生活はアート
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