2006/10/19

落花生とアフリカとアメリカ

南米からアフリカに落花生を伝えたのはポルトガル人でした。
1560年代にはポルトガルが奴隷貿易を行ったアフリカ西海岸で落花生の栽培が始まっていたのです。

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見たこともない実のつけ方をする落花生はヨーロッパや日本に伝わってもすぐに普及することはありませんでしたが、アフリカの人々は落花生に対して拒絶反応を示すことはありませんでした。(関連:「落花生は落ちる花に実が生るのか」)
アフリカの人達が落花生を気味悪がらなかったのは、アフリカにはもともと落花生と同じように地上で花をつけて地中で実を生らせるバンバラマメやゼオカルパマメが栽培されていたためです。
バンバラマメやゼオカルパマメに比べ落花生は収量が多く栄養価も高かったため、アフリカに落花生が伝わると間もなく、それまで作られていたバンバラマメやゼオカルパマメに代わって落花生栽培が主流となりました。

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アフリカの気候条件に合う栽培作物が限られていた中で、落花生は比較的容易に栽培することができ、26%がタンパク質と栄養価の高い落花生はアフリカの人々の不足する栄養を補う食物として役立てられました。
西アフリカで落花生は菓子としてではなく料理の食材として扱われ、炒った落花生と青菜を混ぜ合わせたり、ヤムイモやオクラのスープに入れる料理が作られるようになったのです。
マリやセネガルではトマトやオクラなどと一緒に落花生を煮込んだマフェというシチューがあるように、西アフリカには多彩な落花生入りのシチュー料理があって、部族ごとに独自のレシピがつくられています。

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西アフリカでの落花生栽培は、後の北アメリカでの落花生の普及に密接に関連していくことになります。
2000年前の北アメリカでは先住民が落花生を常食していましたが、入植時代初期の白人系移民達にとって落花生は家畜の餌でしかなく、低所得労働者のみが食べるものだと決めつけて一般的に落花生が口にされることはありませんでした。

そんな中、16世紀後半に西アフリカの人々が奴隷としてアメリカに連れてこられ、プランテーションで強制労働を強いられるようになります。
西アフリカからアメリカまでの航海中にも、落花生は奴隷として扱われた人達の食糧にされていました。
1800年代には、アメリカ南部で綿花生産に従事させられた西アフリカ出身の人達が落花生を栽培し、雇い主から与えられる質素な食事に変化をつけるために盛んに落花生を用いたといわれてます。

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黒人系アメリカ人の歴史の中で南北戦争は一つの大きな転換点となりましたが、この戦争はアメリカにおける落花生の扱われ方にも影響を及ぼしました。
落花生に限らずアメリカ食文化に少なからず影響を与えた南北戦争の勝敗は、アメリカの北部と南部で生産される食糧の違いによっても決せられたと言われています。
南部の殆どが農作地帯であるのに対して、この時代の北部には穀倉地帯はまだできあがっておらず未開拓の土地が多く残されていたため、南北戦争の開戦前には食糧面から見て、北軍より南軍の方が有利だといわれていました。

ところが実際に開戦という事態になると、南部では土中の養分を吸い尽くして土地を疲弊させるタバコや綿ばかりが作られていたため、急に穀物栽培に切り替えても作物はうまく育たず不作が続くことになり、南軍への食糧供給は思うように進みませんでした。

その一方で、北部は工業化を進めていたこともあり、食糧生産状況の情報管理が南部よりも整備されていたことから、食糧の在庫状況を十分に把握して効率的に兵站計画を立てることができたといいます。
しかも農耕に使う耕作機や農機具の大量生産が進んでいたため、北部の需要を上回るほどに農作物の生産性は高められ、余剰作物をヨーロッパに輸出し、貿易で得た利益を戦争の費用にまわすこともできたのです。

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そのため南北戦争が始まると、豊かな北部とは対照的に、南部では深刻な食料不足が発生し、南軍の兵士はそれまで家畜のエサとしてあまり見向きもしなかった落花生を食べ始めるようになります。
南部で戦っていた北軍にも落花生食は伝わり、1865年に戦争が終結して兵達が帰還すると、彼らは落花生が如何においしいかを故郷の人々に教えました。
仕事にあぶれた元兵士が道ばたでピーナッツを売り歩いたこともあり、南北戦争以後、落花生はアメリカ全土で食べられるようになったのです。

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1870年代にはサーカスの興行師だったフィニアス・T・バーナムが、サーカスの見物客にピーナツ(落花生)を売り出し、その後ピーナッツは野球場や劇場でも販売されるようになりました。

19世紀末に、炒ってから挽いたピーナッツに砂糖や塩を加えるなどして作るピーナッツバターをミズーリ州セントルイスの医師が考案しています。
当初は物を食べることが困難な高齢者向けに開発されたピーナッツバターでしたが、ピーナッツバターは子供からも人気を得て幅広い層から食べられるようになりました。
現在アメリカで生産される落花生のうち約50%はピーナッツバターとして加工されているといいます。

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西アフリカから鎖に繋がれ奴隷としてアメリカに連れてこられた人達が、故郷で食べていた落花生をアメリカでも料理に使い、それがスナックやピーナッツバターに形を変えてアメリカ食文化に浸透していきました。
スナックとしてのピーナッツやピーナッツバターが持つ軽い感じや明るいイメージからすると、奴隷制度やプランテーションでの強制労働、戦争での食糧不足などの暗い過去を経て落花生食がアメリカに広まったということは少し意外な感じではあります。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

A peanuts book featuring Snoopy (1) A peanuts book featuring Snoopy (1)
チャールズ M.シュルツ


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ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ
Peanut Butter Wolf ピーナッツ・バター・ウルフ Aトラック


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裏ピーナッツ 裏ピーナッツ
内村光良 さまぁ~ず TIM


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2006/07/14

オクラとアフリカ

オクラの露地ものの旬は7月から9月にかけてです。
オクラの表面にはうぶ毛が生えていますが、この毛がびっしりと生えたオクラは出荷されてまだ間がなく新鮮であることを示しています。

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(上の地図が見られない方はこちらをどうぞ)

オクラの原産地はアフリカです。
東アフリカのビクトリア湖(上の地図ではケニヤの西端、タンザニアの北端に接している殆ど赤道上に位置する湖)の北、エジプトの南にスーダンがありますが、そのスーダンの都市ハルツーム(Khartoum)を流れる白ナイル川付近で完全な野生のオクラが発見されたことから、この地域がオクラの原産地だとされています。

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2000年前のエジプトでもオクラが栽培されていた記録が残されており、人間とオクラのつきあいは意外と長いことが分かっています。

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英語でもオクラは「okra」とよびます。
「オクラ」の語源は西アフリカの言葉だというのが定説です。

しかし、西アフリカのどの国の言葉が元になっているのかは分かっていません。
ナイジェリア(Nigeria)に「igbo」という「淑女の指」を意味する言葉があり、これが語源だという説や、ガーナ(Ghana)の言葉に由来するという説もあります。

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フランス語でオクラは「ゴンボ」ですが、これはアンゴラ(Angola)でオクラを意味する「キンゴンボ」という言葉が語源になっています。

米語になると転じて「ガンボ」になり、アメリカ南部のオクラが使われる代表的ケイジャン料理の名前にもなりました。

18世紀頃に、西アフリカから奴隷として連れてこられた人達がオクラをアメリカに持ち込んだのですが、この奴隷の歴史が料理名の「ガンボ」に名残をとどめているのです。

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検索してみたところガンボのレシピがいくつか出てきました。

cotton@dltさんのサイト「The Kitchen DLT」ではガンボスープの写真や非常に詳細なレシピが紹介されています。
こちらのサイトではアメリカ南部の食文化の情報が盛り沢山です。

”基本的に実在しないレストラン”のサイト「The Kolis Inn Restaurant」ではこちらにガンボの作り方があります。
こちらのサイトでも、アメリカ料理やケイジャン/クレオール料理のレシピが山ほど紹介されています。

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江戸時代の終わり頃に初めて日本へオクラが持ち込まれましたが、この時は普及せずに終わりました。

明治になって、再度アメリカから日本にオクラが導入され、その際にオクラは「アメリカネリ」と名付けられています。
「ネリ」とはトロロアオイのことです。

1970年代になって、オクラは日本の一般家庭でも使われるようになりました。

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西アフリカの多くの地域では、ヒエやトウモロコシなどの雑穀の粉を練って、固めの粥のようにしたものが食べられています。
この固い粥を団子状にして、オクラを使ったソースをつけて食べる料理が西アフリカの代表的な食事の一つになっています。
柔らかい団子でソースをすくい取るようにしながら食べるため、このソースにはとろみが必要で、それにはオクラが出す粘りが適しているのです。

通常、日本ではオクラの実の部分しか市場に出まわりませんが、アフリカでは葉も食べられています。

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オクラは真夏の暑い頃に次々と花を咲かせ実をならすことから、アフリカでは結婚する花嫁に対して、「オクラのようにたくさん子供をつくってね」という言いまわしがあります。
それくらいアフリカでは生活に密着した野菜だということでなのでしょう。

<参考書籍>

日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ―おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
小川了(2004)『世界の食文化〈11〉アフリカ』農山漁村文化協会

<アフリカ関連>

ウイ・アー・ザ・ワールド ウイ・アー・ザ・ワールド
USA・フォー・アフリカ


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世界の車窓から 世界一周鉄道の旅 6 アフリカ大陸 世界の車窓から 世界一周鉄道の旅 6 アフリカ大陸
石丸謙二郎 溝口肇


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