2006/10/25

トマトケチャップとアメリカと日本

トマトをつぶして裏ごしして皮や種をとり除いたもの、いわゆるトマトピューレを煮詰めて香辛料や調味料を加えたものがトマトソースです。
トマトピューレにタマネギや香辛料、酢、塩などを加えてつくった調味料がトマトケチャップになります。
トマトケチャップの利点は保存性の高さですが、素材の味が活かされているのはトマトソースの方だといえます。

            ○

19世紀頃まで、アメリカではトマトケチャップとトマトソースは明確に区別されていませんでした。
イギリスからアメリカにトマトケチャップが伝わった後(関連:「トマトケチャップのルーツの謎」)、それぞれの家庭が独自のレシピに基づいてトマトケチャップやトマトソースを作っていたため、トマトソースのようなものもトマトケチャップと呼ばれていたからです。

            ○

アメリカでもトマトケチャップは便利な調味料として多用されるようになり、1830年代には工場での大量生産が始まりました。
南北戦争後に缶詰加工業が発展するのと時を同じくして、工場でのトマトケチャップ生産量も増加していきました。

            ○

南北戦争後間もなく、アメリカ人の好みに合わせて甘味を加えたトマトケチャップをマサチューセッツ州でジョシュア・ダヴェンポートが開発します。
ダヴェンポートのケチャップはフィッシュケーキやベイクドビーンズを食べるときに欠かせないソースだと好評を得ました。

1876年にはペンシルバニア州でH. J. ハインツがトマトケチャップの生産を始め、ハインツ社のトマトケチャップが普及すると、アメリカの家庭でケチャップは作られなくなり、市販品のケチャップを買うのが普通になったのです。

            ○

19世紀まで、アメリカではそれぞれのメーカーが多様な材料を使ってさまざまなトマトケチャップを作っていました。
しかし1906年に添加物を規制する法案がアメリカ議会で可決されると、トマトケチャップは完熟トマトにスパイスや酢、砂糖のみで作り、保存料を使わないように義務づけられました。
この規制により液体状のトマトソース風トマトケチャップは市場から消え、現在のトマトケチャップであるドロリとした粘性のあるものに統一されていきました。

            ○

1900年代に普及したホットドッグやハンバーガーにトマトケチャップは欠かせないものとなり、1901年に行われた調査によると、この当時のアメリカの殆どのレストランにトマトケチャップが置かれるようになっていたといいます。
現在アメリカでは1000万トンに近い量のトマトが生産されていますが、その殆どはケチャップやジュースなどの加工品の材料にされており、アメリカの98%を越える家庭でトマトケチャップは常備されているという最近の調査結果もあるといいます。

            ○

アメリカの家庭でトマトケチャップが既に普及していた頃である明治時代の日本では、トマトを食べると髪が赤くなるという噂がはびこっていたためトマトは日本人から敬遠されていました。
そんな中、明治28年(1895)年に、日本で初となるトマトソースを堤氏が製造販売したという記録が残されています。

            ○

日本でのトマトケチャップ普及に貢献したのは、明治8(1875)年に愛知県に生まれた蟹江一太郎氏でした。 
明治32(1899)年に蟹江氏は西洋野菜を栽培し、外国人客が利用するレストラン向けに玉ねぎやキャベツ、にんじんなどを販売し始めました。
しかし、トマトだけはいつも売れ残って畑で腐らせるようなことが続いていたため、これが蟹江氏の悩みの種になっていました。
そんなとき、農事試験場技師からトマトを加工する方法があることを蟹江氏は教えられ、名古屋のホテルの厨房にあった輸入トマトソースを見本にして、自宅の納屋でトマトソース開発に着手したのです。
そしてついに、明治36(1903)年、蟹江氏は独自のトマトピューレを完成させました。
これが現在のカゴメ株式会社の始まりとなったのです。
日露戦争後の明治39年から蟹江氏はトマトソースの生産を本格的に開始し、明治41(1908)年にはトマトピューレに香辛料や調味料を加えたトマトケッチャップを開発して製造を始めました。

明治から大正時代に起きた洋食ブームで日本人がチキンライスやオムライスなどを口にするようになるとトマトソースの需要は増加しました。
トマトソースに比べトマトケチャップの日本での普及は遅れましたが、昭和に入った頃からトマトケチャップの消費も徐々にのびていき、戦後の日本人の食事の西洋化に伴ってトマトケチャップも多くの家庭で使われるようになったのです。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<ソース関連>

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2006/10/23

かぼちゃとハロウィンと冬至

かぼちゃと人との付き合いは古くに始まり、古代ローマ時代にもかぼちゃは健康に良いとして様々なかぼちゃ料理がつくられていたことが知られており、現在も世界中の多くの地域でかぼちゃ栽培は行われています。

            ○

日本では「ナンキン」や「トウナス」、「ボーブラ」など、各地方ごとにかぼちゃの別名が多く残されています。
これは、かぼちゃに様々な品種があることや、中国や南方など複数の経路を通じて日本にかぼちゃが伝播したためだと考えられています。

            ○

かぼちゃが日本に伝わったのは16〜17世紀頃だといわれていますが、もっと限定的に、最初の伝来は1541年7月だったという説もあります。
海難に遭ったポルトガル人が現在の大分県である豊後国(ぶんごのくに)に漂着し、カンボジアで手に入れたかぼちゃの種を領主に献上したのが最初だったという逸話が残されているのです。
豊後に漂着したポルトガル人が持ち込んだかどうかはともかく、「かぼちゃ」という名の語源は国名の「カンボジア」に由来するといわれています。
また、漢字でかぼちゃは「南瓜」と書きますが、これは「南蛮国から伝わった西瓜のようなもの」ということを意味しています。

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Pumpkin 食用のかぼちゃには大別してセイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャの3種類があります。
ニホンカボチャには「菊座」や「鹿ヶ谷」などがありますが、日本の市場で流通しているものの殆どはセイヨウカボチャの「えびす」などです。
国内では主に北海道や鹿児島、茨城などでかぼちゃは生産されており、流通量の40%を占める輸入かぼちゃはニュージーランドやメキシコなどでつくられています。

ペポカボチャには「金糸瓜」という種類のかぼちゃがあり、このかぼちゃは茹でると果肉が麺のようになることから「そうめんかぼちゃ」という別名でも呼ばれています。
メキシコやアメリカで作られるものにスパゲティ・スクォッシュ(Spaghettii Squash)という名のかぼちゃがあり、このかぼちゃの果肉もやはりスパゲティ状になっています。
また、きゅうりに似たズッキーニはかぼちゃの仲間でペポカボチャの一種です。(関連:「きゅうりの白い粉」)

            ○

かぼちゃと言えば、かぼちゃを使ったお祭りのハロウィン(Halloween)があります。
10月31日に行われるハロウィンは、この日を大晦日としたアイルランドのケルト族などのお祭りが起源とされています。
ハロウィンは、後に11月1日のキリスト教の聖人をしのぶ万聖節と関連づけられるようになり、現在は、沼地を漂う人魂を模したジャック・オ・ランターン(Jack-o'-Lantern)と呼ばれるカボチャの提灯を作ったりする子供のためのお祭りになっています。Halloween

ハロウィンが始まったヨーロッパでは、カボチャではなくかぶの一種のルタバガやさとうだいこんなどを使ってジャック・オ・ランターンは作られていましたが、ハロウィンがアメリカに渡ってから、家畜のエサとして栽培されていたペポカボチャが提灯の材料に使われるようになりました。
ペポカボチャは栽培が容易で収量が多いことからアメリカで盛んに生産されていたため、身近にあって利用し易いペポカボチャがルタバガやさとうだいこんの代わりに使われるようになったのです。

            ○

日本にはかぼちゃを冬至に食べる習慣があります。
かぼちゃの本来の旬は国産ものの出荷のピーク時にあたる6〜7月ですが、冬に収穫できる野菜が少なかった昔に、保存性の高いかぼちゃを夏に収穫して冬まで貯蔵しておいて、日が一番短くなる冬至の日にかぼちゃを食べて不足がちになるビタミンなどの栄養を補った先人の知恵から冬至にかぼちゃを食べる習慣が生まれました。
実際、かぼちゃに豊富に含まれるカロテンは粘膜を強くする働きがあるため風邪の菌が気管支や鼻から入り込むのを防ぐ効果があり、かぼちゃが含むビタミンCも風邪予防にもちろん役立ちます。

かぼちゃはには果肉だけでなく種にもタンパク質や脂肪などの栄養が含まれており、その量は落花生よりも多いといわれています。
かぼちゃの種にはビタミンC以外のビタミンも多く含まれ、ミネラルや鉄分も豊富です。

            ○

ところで、丸ごとのかぼちゃを店頭で選ぶ時はかぼちゃのヘタの切り口を見ます。
切り口の断面が2cm程度で水気がなく完全に乾いているかぼちゃは完全に熟してから収穫されたものです。
同じ大きさのものなら重いものの方がよく、表皮がきれいなものよりツメが立たないほど固く深い溝がついた皮をもつものが良いかぼちゃです。
切って売られているものの見極めは簡単で、中身がぎっしりと詰まって色が濃く、隙間を埋めるように種が大きく膨らんでいるものが完熟したかぼちゃです。

そろそろ気温も下がって寒い季節がやってきますので、風邪対策に熟したかぼちゃを選んで食べるのも良いかもしれません。

<参考書籍>

月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版

<かぼちゃ関連>

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古今亭志ん生 名演大全集 26 唐茄子屋政談(上/下)/へっつい幽霊 古今亭志ん生 名演大全集 26 唐茄子屋政談(上/下)/へっつい幽霊
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2006/10/19

落花生とアフリカとアメリカ

南米からアフリカに落花生を伝えたのはポルトガル人でした。
1560年代にはポルトガルが奴隷貿易を行ったアフリカ西海岸で落花生の栽培が始まっていたのです。

            ○

見たこともない実のつけ方をする落花生はヨーロッパや日本に伝わってもすぐに普及することはありませんでしたが、アフリカの人々は落花生に対して拒絶反応を示すことはありませんでした。(関連:「落花生は落ちる花に実が生るのか」)
アフリカの人達が落花生を気味悪がらなかったのは、アフリカにはもともと落花生と同じように地上で花をつけて地中で実を生らせるバンバラマメやゼオカルパマメが栽培されていたためです。
バンバラマメやゼオカルパマメに比べ落花生は収量が多く栄養価も高かったため、アフリカに落花生が伝わると間もなく、それまで作られていたバンバラマメやゼオカルパマメに代わって落花生栽培が主流となりました。

            ○

アフリカの気候条件に合う栽培作物が限られていた中で、落花生は比較的容易に栽培することができ、26%がタンパク質と栄養価の高い落花生はアフリカの人々の不足する栄養を補う食物として役立てられました。
西アフリカで落花生は菓子としてではなく料理の食材として扱われ、炒った落花生と青菜を混ぜ合わせたり、ヤムイモやオクラのスープに入れる料理が作られるようになったのです。
マリやセネガルではトマトやオクラなどと一緒に落花生を煮込んだマフェというシチューがあるように、西アフリカには多彩な落花生入りのシチュー料理があって、部族ごとに独自のレシピがつくられています。

            ○

西アフリカでの落花生栽培は、後の北アメリカでの落花生の普及に密接に関連していくことになります。
2000年前の北アメリカでは先住民が落花生を常食していましたが、入植時代初期の白人系移民達にとって落花生は家畜の餌でしかなく、低所得労働者のみが食べるものだと決めつけて一般的に落花生が口にされることはありませんでした。

そんな中、16世紀後半に西アフリカの人々が奴隷としてアメリカに連れてこられ、プランテーションで強制労働を強いられるようになります。
西アフリカからアメリカまでの航海中にも、落花生は奴隷として扱われた人達の食糧にされていました。
1800年代には、アメリカ南部で綿花生産に従事させられた西アフリカ出身の人達が落花生を栽培し、雇い主から与えられる質素な食事に変化をつけるために盛んに落花生を用いたといわれてます。

            ○

黒人系アメリカ人の歴史の中で南北戦争は一つの大きな転換点となりましたが、この戦争はアメリカにおける落花生の扱われ方にも影響を及ぼしました。
落花生に限らずアメリカ食文化に少なからず影響を与えた南北戦争の勝敗は、アメリカの北部と南部で生産される食糧の違いによっても決せられたと言われています。
南部の殆どが農作地帯であるのに対して、この時代の北部には穀倉地帯はまだできあがっておらず未開拓の土地が多く残されていたため、南北戦争の開戦前には食糧面から見て、北軍より南軍の方が有利だといわれていました。

ところが実際に開戦という事態になると、南部では土中の養分を吸い尽くして土地を疲弊させるタバコや綿ばかりが作られていたため、急に穀物栽培に切り替えても作物はうまく育たず不作が続くことになり、南軍への食糧供給は思うように進みませんでした。

その一方で、北部は工業化を進めていたこともあり、食糧生産状況の情報管理が南部よりも整備されていたことから、食糧の在庫状況を十分に把握して効率的に兵站計画を立てることができたといいます。
しかも農耕に使う耕作機や農機具の大量生産が進んでいたため、北部の需要を上回るほどに農作物の生産性は高められ、余剰作物をヨーロッパに輸出し、貿易で得た利益を戦争の費用にまわすこともできたのです。

            ○

そのため南北戦争が始まると、豊かな北部とは対照的に、南部では深刻な食料不足が発生し、南軍の兵士はそれまで家畜のエサとしてあまり見向きもしなかった落花生を食べ始めるようになります。
南部で戦っていた北軍にも落花生食は伝わり、1865年に戦争が終結して兵達が帰還すると、彼らは落花生が如何においしいかを故郷の人々に教えました。
仕事にあぶれた元兵士が道ばたでピーナッツを売り歩いたこともあり、南北戦争以後、落花生はアメリカ全土で食べられるようになったのです。

            ○

1870年代にはサーカスの興行師だったフィニアス・T・バーナムが、サーカスの見物客にピーナツ(落花生)を売り出し、その後ピーナッツは野球場や劇場でも販売されるようになりました。

19世紀末に、炒ってから挽いたピーナッツに砂糖や塩を加えるなどして作るピーナッツバターをミズーリ州セントルイスの医師が考案しています。
当初は物を食べることが困難な高齢者向けに開発されたピーナッツバターでしたが、ピーナッツバターは子供からも人気を得て幅広い層から食べられるようになりました。
現在アメリカで生産される落花生のうち約50%はピーナッツバターとして加工されているといいます。

            ○

西アフリカから鎖に繋がれ奴隷としてアメリカに連れてこられた人達が、故郷で食べていた落花生をアメリカでも料理に使い、それがスナックやピーナッツバターに形を変えてアメリカ食文化に浸透していきました。
スナックとしてのピーナッツやピーナッツバターが持つ軽い感じや明るいイメージからすると、奴隷制度やプランテーションでの強制労働、戦争での食糧不足などの暗い過去を経て落花生食がアメリカに広まったということは少し意外な感じではあります。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

A peanuts book featuring Snoopy (1) A peanuts book featuring Snoopy (1)
チャールズ M.シュルツ


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ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ
Peanut Butter Wolf ピーナッツ・バター・ウルフ Aトラック


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裏ピーナッツ 裏ピーナッツ
内村光良 さまぁ~ず TIM


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2006/10/02

とうもろこしとアメリカ入植時代

1493年にコロンブスがアメリカ大陸に到達してから間もなく、アメリカ大陸の先住民が栽培していたとうもろこしがヨーロッパに伝わりました。(関連:「とうもろこしと神様」)
しかしすぐにヨーロッパでとうもろこしが受け入れられたわけではありません。
とうもろこしはグルテンを含んでいないため、それまでヨーロッパ人が食べていたグルテンとイースト菌を結びつけて発酵させるようなパンを作ることができなかったためです。(関連:「パンとイースト菌と発酵」)
そのため、ヨーロッパからアメリカに移り住んだ初期の入植者達はアメリカ大陸で初めてとうもろこしやかぼちゃを見ることになり、それらの植物は「新大陸」にやって来たことを最も実感させる目新しい食材だったといいます。

            ○

アメリカ移民の原点とされているのがイギリスからアメリカにメイフラワー号で渡ったピューリタンの人々です。
16〜17世紀のイギリスで教会改革を訴えたキリスト教プロテスタントのグループがピューリタンで、ヨーロッパでは迫害や差別を受けていました。
ヨーロッパ人にとっての「新大陸」であるアメリカ大陸が発見されとき、ピューリタンは、住民の自治による理想的社会の実現と信仰の自由を求めて新天地に移住していったのです。

            ○

1620年、102人のピューリタンを乗せた180トンの帆船のメイフラワー号が現在のアメリカのマサチューセッツ州であるケープコッドに到着しました。
メイフラワー号がケープコッドに着いたのは12月末で、102人の人々は乾パンと乾燥させた牛肉などを食べて農作ができる春まで餓えを凌ぐしかありませでした。
ピューリタンが建設した最初の植民地の周りには魚介類が豊富な海や狩りができる森があったのですが、不慣れな食材や宗派の戒律などのためにそれらを利用することができず、102人の入植者の半数が翌年の春までに餓死や病気で亡くなってしまい、102名のうち29名いた女性は4人しか生き残れませんでした。

            ○

05ilae03 それでも約半数の52人がなんとか生き残ることができたのは、入植地近くに住んでいた先住民ウァムパノーグ族からの援助があったことや、先住民が残した乾燥とうもろこしのお陰だといわれています。 メイフラワー号がアメリカに到着する以前に、アメリカ大陸にやって来たヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘で全滅してしまった先住民部族が、貯蔵庫に乾燥トウモロコシを残していたのです。
昔、北アメリカの先住民が摂取するカロリーの70%近くはとうもろこしで補われていたといわれており、しかも多くの部族には天候不順による農作物の不作に供えて乾燥させたとうもろこしを貯蔵しておく習慣がありました。
この保存用とうもろこしがピューリタン入植地近くで発見されたのです。
この滅亡した部族が残した乾燥とうもろこしによって、52名の入植者は命を繋ぐことができたといいます。

            ○

1621年の春にピューリタン入植者達は先住民の助けを借りて農作を始めました。
このときに入植者達は先住民からトウモロコシの栽培の仕方を教わっています。
とうもろこしは多様な環境下や狭い土地でも栽培することができ、しかも先住民の栽培方法を使えば年に3回もとうもろこしを収穫することが可能でした。
高カロリー食品をつくることができるとうもろこしは、入植者にとっては生き残るための鍵となる植物になったのです。

            ○

1621年の秋に、入植者達にとって新天地で初めて収穫できた農作物や狩りで獲れた獲物を用いて料理が作られ、入植一周年を記念した三日間に渡るパーティーが開かれました。
このパーティーには先住民も招かれ、合わせて約140人の人達が集い、パーティーにやって来た先住民のウァムパノーグ族はポップコーンを持参したといわれています。
七面鳥や鹿、蛤、うなぎなどが料理され、挽き割りとうもろこしにたまごと水を混ぜたものを揚げて作るコーンブレッドやとうもろこしと豆を煮込んだサコタッシュなどもパーティーで振る舞われました。

このパーティーがアメリカの感謝祭の始まりになったと一般的にはいわれており、11月の第4木曜日がアメリカでは感謝祭の祝日に定められています。
現在は収穫に感謝するという当初の意味は薄れ、感謝祭は家族や親しい人達が集う日になっているようですが、七面鳥のローストやサコタッシュは今でも感謝祭の日に食べられています。

            ○

初期の入植者達は生きながらえるのにやっとの思いでとうもろこしを栽培していましたが、それから400年近くが経って、今やアメリカは世界で一番のとうもろこし生産国となり、世界の食を支える立場にあります。

農林水産省の「消費者の部屋」の資料によれば、2000年のとうもろこし生産量は世界で6億トン近くあり、その内の約40%にあたる2億5,320万トンがアメリカで生産されています。
そのアメリカで生産されるとうもろこしの約半分はコーンベルトと呼ばれるアメリカ中西部の五大湖の西と南に広がる平野で作られています。

Map_cornbelt

地図を見ても分かるように、コーンベルトは主にアイオワ州、イリノイ州、インディアナ州、オハイオ州にまたがる非常に広大な地域に広がっています。

先住民が残した乾燥とうもろこしを食い繋いで生き残った入植者達が、先住民が長い年月をかけて培った栽培技術を基礎にして、土を耕してとうもろこしを作ったわけですが、その入植者達が作った最初の小さなとうもろこし畑が後に世界の食料庫とも呼ばれるコーンベルトの礎となったともいえるのではないでしょうか。

<参考書籍>
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<とうもろこし関連>

ドキドキ キャラメルコーン ドキドキ キャラメルコーン

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コーンブレッドの本—レシピに恋したラブストーリー コーンブレッドの本—レシピに恋したラブストーリー
ジェレミー ジャクソン Jeremy Jackson 坂下 洋子

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フィールド・オブ・ドリームス フィールド・オブ・ドリームス
フィル・アルデン・ロビンソン ケビン・コスナー エイミー・マディガン

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2006/08/30

ホットドッグとアメリカ人

アメリカでは年間百数十億個のホットドッグが食べられているといわれ、「National Hot Dog & Sausage Council」のサイトの資料によると、2005年にアメリカ人がホットドッグとソーセージに使った費用は39億ドル(約4,563億円)だそうです。
ホットドッグはアメリカの地域によって食べ方が異なり、ドイツ系移民の多い地方ではザウアークラウトが添えられ、中西部ではチリをかけたもの、ニューヨークではミートソース、カンザスではトロリと溶けたチーズとマスタードが掛けられ、シカゴではケシの実付きのパンが使われます。
今やアメリカの国民食ともいえるホットドッグですが、その始まりと名前の由来についてはあまりはっきりとはしていません。

            ○

一説では、1904年のセントルイス博覧会の会場でソーセージを売っていた発明家が、客が熱いソーセージを手でも持てるようにと、ソーセージと手袋をセットにして渡していましたが、コストを削減するためにソーセージをパンに挟んで渡すことにしたのがホットドッグの始まりとされています。

別の説では、1867年頃にドイツ系移民のチャールズ・フェルトマン(Charles Feltman)というミートパイ売りがワゴンでお湯を湧かしソーセージを茹でてサンドイッチにした新商品を「フランクフルター・サンドイッチ」と名付けてニューヨークのブルックリンで売り出したのがホットドッグの最初だとしています。

            ○

最初のホットドッグについての話しはその他にもいくつかあり、その始まりは定かではありませんが、パンにソーセージを挟んだ食べものは好評を得て急速に広まり、その食べやすさから1890年代末には野球場でも販売されるようになります。
1934年には「ホットドッグ・スタンド」や「ホットドッグ・ビジネス」という言葉が使われるようになりました。Hotdog1

当時のホットドッグ人気を示す確かな記録が残されています。
1939年6月に、現在のエリザベス女王の父母にあたるジョージ6世とエリザベス王妃がアメリカを訪問した際に、フランクリン・ルーズベルト大統領は二人をニューヨークのハイドパークでのピクニックに誘い、公園でホットドッグを振る舞ったのです。このときのメニューはニューヨーク・タイムスの一面で報じられたそうです。

            ○

ホットドッグについてのもう一つの謎はその名前の由来です。
よく使われる話しでは、ある町のフランクフルトソーセージで有名な店で、炒めたソーセージを買って食べた一人の客が「なんだ、ただ熱いだけの犬肉じゃあないか」と憎まれ口を叩いたところ、店の主人は怒らず騒がずそれを商品名に使ってしまい、「Hot Dog」という名が生まれたといいます。

別の説では、球場の売り子が「熱いダックスフンド・ソーセージだよ!!」という売り声と共にホットドッグを売っていたことからヒントを得て、スポーツ漫画家のタッド・ドーガン(Tad Dorgan)がパンの間に入って気持ち良さそうにしている犬の漫画を描き、「ホット・ドッグはいかが」というキャプションをその漫画につけたことからホットドッグの名前が生まれたといいます。
これは話しとしては良くできていますが、実際にこの漫画を目にした人はいないようで、誰かの作り話しだろうといわれているようです。Hotodog2

1800年代にアメリカに移り住んだドイツ人はアメリカにソーセージを持ち込んだだけではなく犬のダックスフンドも連れてきたといわれ、ソーセージとダックスフンドが似ていることから冗談やからかいの意味でHot Dogという言葉が生まれたのではないかともいわれています。
あまり劇的な話しではありませんがこれが最も本当らしい話しではあります。

            ○

アメリカのホットドッグの歴史について語られるとき必ず出てくるのがネイサン・ハンドワーカー(Nathan Handwerker )という人です。
ポーランド系移民のネイサンは、前述のミートパイ売りからホットドッグ売りになったフェルトマンのお店の「Feltman」で雇われ、ホットドッグのパンに切れ込みを入れる仕事に就きました。

あるときにある男が、フェルトマンの店で売られている10セントのホットドッグがもしも5セントだったらもっと売れるだろうにと何気なくネイサンに言ったところネイサンはこれを真に受け、「フェルトマン」や他の店のアルバイトで働いて貯めた300ドルの貯金を全て投資して、1916年にニューヨークのコニーアイランドに自分のホットドッグスタンドを開業し、本当に5セントで売り出したそうです。
価格破壊のホットドッグは大当たりして、その後ネイサンのお店の「Nathan's Famous」は全米にチェーン店をもつ一大企業にまでなります。

ネイサンは休むことなく働いた人のようで、歳をとり引退して息子が社長になってからも、バスに乗って店に様子を見に行っていたそうです。
ある人が「あなたの息子は運転手付きの車で出勤するのに、あなたは何で今だにバスに乗って店に行くんだ」とネイサンに聞いたところ、ネイサンは「私は金持ちの親を持たなかったのでね」と答えたといいます。
ネイサンの店が流行ったのは値段が安かったからだけではなかったようです。

            ○

Nathan's Famous」は最近日本にも進出しましたが、日本での知名度はあまり高いとはいえません。
しかし、毎年7月4日にコニーアイランドで行われるホットドッグの早食い競争の映像をニュースで見たことがある人は多いのではないでしょうか。
2001年から今年まで、日本人の小林尊氏が連覇している大会で、2006年には50本半のホットドッグを12分で食べて小林氏が優勝しました。
この大会のスポンサーが「Nathan's Famous」で、出場者が食べているのももちろん「Nathan's Famous」のホットドッグです。
この大会は1900年代の初めに「愛国心」を見せるために始まったといわれています。
早食いと愛国心がどうつながるのかいま一つ分かりませんが、これはこれでアメリカ人のホットドッグに対する思い入れの強さを現しているのかもしれません。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<ホットドッグ・アメリカ関連>

ホットドッグの丸かじり ホットドッグの丸かじり
東海林 さだお


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ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド

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2006/08/07

唐辛子とカプサイシン

「辛味」という言葉はよく使われますが、人が辛いと感じるのは味を感じているのか、それともただ単に刺激を感じているだけなのかという問題は学者達の間で長い間論じられてきました。
しかし、1997年に人が辛さを感じる仕組みについての論文が発表され、この議論にも終止符が打たれました。
その論文での結論は、人が辛さを感じるのは、唐辛子などに多量に含まれる無味無臭の「カプサイシン」が口の中にある熱や痛みを感じる器官に吸着し刺激を与えることで辛さが生じるのだということです。
つまり日常的に「辛味」とは言いますが、「辛い」という感覚は味ではなく刺激なのです。

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唐辛子ダイエットの話題で頻繁に取り上げられるせいか、最近は唐辛子とカプサイシンがワンセットで語られることが多くなりました。
唐辛子の種がついている胎座とよばれる部分と実と胎座をつなぐ隔壁部が特に多くカプサイシンを含んでおり、高い温度と乾燥した環境下で唐辛子を栽培すると、唐辛子が含むカプサイシンの量は増すといわれています。

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Yun_538唐辛子が入った料理を食べると辛くても止められずに食べ続けたり、しばらく間を開けるとまた食べたくなるようなことがあります。
これはカプサイシンが「陶酔感」を作り出しているからなのです。
「辛さ」とは「痛み」であるため、辛いものを食べたときに生じる痛みを和らげるために脳内からβ-エンドルフィンという鎮痛作用をもつ物質が分泌されます。
β-エンドルフィンは麻薬のモルヒネに似た物質であるため痛みを止めるだけでなく人に至福感や陶酔感、多幸感を持たせる作用もあるのです。
このため我慢ができる程度の辛さであれば、辛い料理を食べることには常習性や習慣性、依存性が生じることになり、ヒーヒー言いながらも唐辛子料理を食べ続けることになります。

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一口に辛いと言っても辛さにも程度があります。
一般的には「ピリピリする」とか「ヒリヒリする」とか「ビリビリする」のように辛さのレベルを主観的に表現しますが、これを客観的な数値で表す方法をつくった学者がいました。
1912年に、米国の薬剤師ウィルバー・L・スコヴィルが唐辛子の辛さの程度を測定する技術を開発したのです。
この方法は現在もスパイスメーカーなどで使用されており、辛さを表す単位には発明者の名をとって「スコヴィル」が使われています。
今日までに存在が知られている唐辛子の中で一番辛くない唐辛子はベルペッパーでスコヴィル値は0度、一番辛いのは日本でも最近は有名な「暴君」の異名をつけられたハバネロで35万度あります。

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唐辛子のカプサイシンは自律神経を刺激してアドレナリンの分泌を促し血管を広げるため、摂取すると血液循環が良くなって体温が上昇し発汗します。
そのため唐辛子を食べると入浴後のようなスッキリ感が残ってストレス解消にもなります。
アフリカのある地域ではミルクティーに白唐辛子を入れたものを風邪薬代わりにして飲むそうです。
唐辛子に含まれるビタミンCを摂取しつつ血流を良くすることで風邪をなおすという意味があるのでしょう。

また、エネルギー代謝が促進されるために体内脂質が分解されるといわれ、「唐辛子ダイエット」と称してダイエット食品としても販売されています。

更に、唐辛子のカプサイシンには抗菌作用や抗酸化作用があるため、食品の腐敗を防止する働きをします。
これを利用している一つの例が唐辛子などに漬けられた韓国のキムチです。

<参考書籍>
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
山本隆(2001)『美味の構造—なぜ「おいしい」のか』 講談社
鄭 大声 (2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<唐辛子関連>

こころと体に効くハーブ栽培78種—ハーブのすばらしい魅力を味わうために
宮野 弘司 宮野 ちひろ
4415015158
ケンタロウのにんにく・とうがらし—Hot + strong recipes
ケンタロウ
4418001417
ピリッカラ唐辛子料理
西川 治
4861900433

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2006/07/31

とうもろこしと神様

日本列島各地で次々と梅雨が明けてきましたね。
スーパーや八百屋では旬のとうもろこしが店頭の目立つところに置かれるようになりました。
やっと夏が来たなという感じがします。

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Coneとうもろこし栽培は紀元前6000〜5000年頃にメキシコで始まったと考えられています。
メキシコ人の祖先が栽培に使った原種の植物が何なのかについては定かになっていません。
南米に自生していた植物ではないかとか、メキシコ高原に生えるテオシントという植物ではないかなど色々な説は出されています。
紀元前2000年頃にはペルーでも栽培が始まり、その後とうもろこし栽培は北米を含むアメリカ大陸で広がりました。

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古代からとうもろこし栽培を行っていたアメリカ大陸のどの地域でもとうもろこしは「聖なる植物」とみなされ、神への供物として大切に扱われました。
とうもろこしの植物学的な起源は定かではありませんが、その始まりについての伝説は至る所に残されています。

その一つの北アメリカの先住民アルゴンキン族の神話です。
あるアルゴンキン族の少年のところに頭に羽飾りをつけた若者が現れ、少年と毎日レスリングをするようになります。
何日かレスリングをした後、その羽飾りの若者は自分を殺して土に埋めるよう少年に命じ、少年は若者の指図通りにしました。
しばらく経ってから少年が羽飾りの若者を埋めた場所を見に行くと、その場所からは羽飾りのような毛を付けた植物が生えていました。Hero
これがとうもろこしだったのです。
狩猟で生計を立てていた少年の父は年老いて狩りに出られなくなることを憂いていましたが、とうもろこしのお陰で狩りに行かなくても生活ができるようになり親子で喜んだというお話しです。

余談になりますが、このように神や祖先の体の一部を土に埋め、埋めたところから主食となるような大事な穀物などが生えたという伝説はなぜか太平洋文化圏を中心に世界中に残されています。

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1493年にアメリカ大陸に到達したコロンブスによって、それまではアメリカ大陸だけで栽培されていたとうもろこしがヨーロッパにも伝えられます。
イタリア人はとうもろこしがトルコから来た穀物だと考え「トルコの穀物」という名で呼びましたが、とうもろこしの原産地をアフリカだと考えたヨーロッパの他の地域では「ギニア・コーン」と呼んだりもしました。

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16世紀にはスペインのカスティーリャ、アンダルシア、カタローニャで、とうもろこしは栽培されました。
1530年代には北イタリアのヴェネトなどでも栽培が始まります。
ヨーロッパで栽培が始まった当初はとうもろこしに対する偏見がありましたが、17世紀になるとそれも徐々になくなり、主食とする地方も出始めました。
北イタリアのとうもろこしのポレンタはこの地域の伝統料理になっています。

<参考書籍>
J・キャンベル, B・モイヤーズ(1994)『神話の力』早川書房
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社

<関連商品>

とうもろこしおばあさん—アメリカ・インディアン民話
秋野 和子 秋野 亥左牟
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パーティークィーン きってね! とうもろこし 1128
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やさいピック とうもろこし MG-1571
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