2007/03/25

タバスコ・ソースの誕生

喫茶店などのテーブルの端に塩やコショウの容器と一緒に置かれていたりする、小さく細長いガラス容器に入った見るからに辛そうな朱色をしたタバスコ・ソースは意外にも百数十年前に作られたという長い歴史を持っています。
タバスコ誕生についてはいくつかのお話しがあるようですが、その中の一つは次のようなものです。

            ○

アメリカで南北戦争が行われていた頃、メキシコのタバスコ州に派兵されていたある兵士が、この地できれいな花をつけるとうがらしを見つけました。
きれいな花を咲かすこのとうがらしを自分の家の庭に植えようと、この兵士はアメリカのニューオリンズに種を持ち帰ったのです。

その後、このとうがらしの種はニューオリンズに住むエドモンド・マキルヘニーという銀行家の手にも渡りました。
マキルヘニーは、南北戦争の戦火から逃れるためニュオリンズからルイジアナ州エーヴァリー島(Avery Island)に移り住み、この島でメキシコのタバスコ州からもたらされた種を蒔きました。
しかし、とうがらしが育つ前に、戦域の拡大によって、マキルヘニーはエーヴァリー島から再びテキサスに疎開しなければなりませんでした。

南北戦争が終わった1865年にマキルヘニーはエーヴァリー島に戻ります。
マキルヘニーがそこで見たものは戦争中に蒔いたとうがらしが成長して実を生らせている光景だったのです。
マキルヘニーはこのとうがらしの実を採り集め、すり潰してから、エーヴァリー島で採れる岩塩と酢を混ぜてソースをつくってみました。
これがタバスコ・ソースの始まりだったといわれています。

マキルヘニーは1868年にタバスコソースを350本の香水の空き瓶に詰めて初めて市場で販売を始めました。
この時に使った香水の瓶の形が、現在のあの小さく細長いタバスコ・ソースの容器の形の原型になったといわれています。

            ○

ところで、南北戦争の時代に兵士がメキシコから持ち帰りタバスコの原材料に使われるようになったとうがらしはタバスコ・ペッパーとよばれています。
このタバスコ・ペッパーは極端に暑かったり寒かったりする厳しい環境では育ち難く、発芽時期には微生物などに対しても弱いという繊細なとうがらしなのです。

タバスコ・ペッパーの苗は非常に敏感で、タバコを吸う人が苗に触っただけでもタバコ中に含まれるウイルスによって成長に影響が出てしまい、タバコを吸う人が植えた苗木とタバコを吸わない人が植えた苗木とでは、はっきりと成長に違いが出てしまうといいます。

            ○

無事にタバスコ・ペッパーが成長し実が生ると、収穫されてすり潰されて濃縮されます。
濃縮されたカプサイシンはオレオレジンとよばれます。
タバスコ・ソースが4万スコヴィルなのに対し、オレオレジンの辛さは100万スコヴィルにもなり、オレオレジンを取り扱うには手袋やゴーグルなどの安全対策が必要となります。(辛さの単位スコヴィルについては「唐辛子とカプサイシン」にあります)
オレオレジンは筋肉弛緩剤の原料とされたり、意外にもお菓子のアメやガムの材料にも用いられています。
(もちろんガムやアメに使用される場合はオレオレジンの濃度はかなり薄められて使われています)

            ○

タバスコ・ペッパーを濃縮するときに出る種子や繊維はタバスコ・ソース造りには不要となります。
しかしこのとうがらしのカスも無駄にはされず、水分が取り除かれた後に精油業者に売られています。
精油業者はこのとうがらしのカスから油を抽出するのです。

            ○

ステンレスとプラスチックが発明される前の時代のタバスコ・ソース工場では、タバスコ・ソースを生産するときに空気中に漂い出てしまう酸によって工場内のコンクリートの床や鉄鋼性の設備が浸食されてしまい、定期的に交換する必要があったといいます。
時代が進むにつれ、浸食対策や原料の保存性を高めるために工場内の設備は改善されたようですが、タバスコ・ソースの基本的製法は発明された当初から殆ど変わっていないといわれています。
今でもタバスコ・ペッパーの濃縮液に岩塩や酢、塩などが加えられ、長期間熟成させて造られているようです。

            ○

南北戦争直後に創られたタバスコ・ソースは、その後アメリカから他国にも輸出されるようになり、国によってはある種の料理には欠かせないソースとして、そして、ある意味「クセになる」味のソースとして広まりました。

それを示す一つの例に、イギリス議会でタバスコ・ソースの取扱が話し合われたという逸話があります。
1932年に、イギリス政府は、自国製品の購入促進のため、外国からの製品輸入量を規制しましたが、マキルヘニー社のタバスコ・ソースは輸入禁止対象品目から外すように数人の下院議員が提案したというのです。
レストランで食べる牡蠣にタバスコ・ソースは必需品であるから、というのがこの提案の理由だったといいます。

            ○

タバスコ・ソースがパリに伝わると、これがカクテルに使われました。
1920年代のことで、タバスコ入りのカクテルはパリで「バケット・オブ・ブラッド」と名付けられました。
この名前はその後「レッド・スナッパー」という名に変わり、1930年代になってニューヨークに伝わると、「ブラッディー・マリー」とよばれるようになったのです。

            ○

ところでタバスコと聞くとどのような料理を連想されますか?
スパゲティやピザを思いつく日本人は多いのではないでしょうか。
しかし、日本ではよく知られているタバスコ・ソースをスパゲティやピザに掛ける食べ方は他の国では必ずしも一般的とはいえません。
特にイタリア人にとっては奇異な食べ方に見えるようです。

タバスコ・ソースが入ってきた頃、日本人の食は急速に洋食化していく時代でした。
同じ頃に一般的に普及し始めたスパゲティやピザにも試しにタバスコ・ソースが振りかけられ、食べてみたらおいしかったので、そのような使い方が日本で広まったのかもしれません。

<参考書籍>

アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋

<タバスコ関連>

タバスコの香り タバスコの香り
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トウガラシ―辛味の科学 トウガラシ―辛味の科学
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2006/10/12

胡椒の魅力

古代ローマ帝国で胡椒は富や権力の象徴とされ、贅沢品として扱われました。
その時代、ヨーロッパへ向けてインド西南部のマラバル地方の海岸から胡椒が送りだされていたのです。(関連:「黒胡椒と白胡椒と緑の胡椒」)
ローマ帝国で胡椒は料理にも使われましたが薬としても用いられ、紀元後92年にスパイス貯蔵施設がローマに建設された際、ドミティアヌス皇帝は国の戦略物資の一つとして胡椒を備蓄させたといいます。

            ○

中世になってもヨーロッパで最も貴重なスパイスといえば胡椒でした。
インドで採られた胡椒がベネチア商人などによってヨーロッパに運ばれており、胡椒商売で利益を上げていたベネチア商人は胡椒のことを「天国の種子」と呼びました。

            ○

粒のままだと何年も保存ができる胡椒はヨーロッパで貨幣同様に扱われ、力のある商人は財力を見せつける意味もあり、大量の胡椒の在庫を抱えていました。
この時代には胡椒による決済や課税が行われ、持参金として胡椒が使われたりもしていたのです。

中世ヨーロッパの裕福層は、今の感覚からすると無分別ともいえる胡椒やスパイスの使い方をしており、食材の味よりもスパイスをより多く使うことを重視していました。
14世紀ころの領主の収入の30%は飲食に費やされ、その飲食費の5%はスパイス代に使われたといわれており、中世の金持ちが客をもてなす料理には大量のスパイスが振りかけられていました。
かつての日本で「舶来品」という言葉があったように、中世頃までのヨーロッパでは「東洋」から運ばれたスパイスにエキゾチックな魅力を感じていたようで、味よりも大量のスパイスを使うことに意味があったのです。

同時代の庶民には、高価な胡椒は手が出し難いものだったため、マスタードが代用品として使われました。
マスタードさえも買えない場合は玉ねぎやにんにく、ねぎの類いが使われましたが、野菜をスパイス代わりに使うことは上流階級から卑下されていた面もあったようです。

            ○

漢字で書く「胡椒」の「胡」は西北方から中国に伝わった外来品を意味し、山椒を表す「椒」に「胡」がついて胡椒という言葉がつくられました。
中国で胡椒やナガコショウが多く使われるようになったのは12〜13世紀以降のことです。
初めは西方から中国に伝わった胡椒ですが、胡椒が多用され始めた時代にはインドネシア産の胡椒が中国で使われていました。
インドネシアの胡椒栽培は11世紀頃から始まり、主な輸出先は中国に限られ、ヨーロッパにも輸出するようになったのは14世紀になってからのとことです。

            ○

日本の正倉院には、中国から薬として持ち込まれたとされる152粒の胡椒が保存されています。
最初に胡椒が伝わってから長い間、日本で料理に胡椒が一般的に使われることはありませんでしたが、江戸時代になってオランダ船が日本に胡椒を持ち込んだ頃から、一部のプロの料理人の間で料理にも使われ始めました。
料理人に使われた以外では、江戸時代の胡椒は旅するときに持ち歩く薬として用いられており、水あたり防止丸薬として服用されたことが記録に残されています。

            ○

江戸時代に胡椒が伝えられたのはとうがらし伝来より後のこととされていますが、なぜか東北や九州の一部の地域ではとうがらしを胡椒と呼ぶ地方があります。
今や全国的に知られるようになった「柚子胡椒」の原料に胡椒は入っておらず、とうがらしが使われているのですが、名前には「胡椒」という語句が入っています。
これは柚子胡椒を作った地方で、とうがらしが胡椒と呼ばれたためです。
(柚子胡椒の名称や作り方については「Matsutani家のホームページ」のこちらのサイトにもありました)

            ○

長期保存した肉のいやな匂いを胡椒が消してくれることもヨーロッパで胡椒がもてはやされた理由の一つです。
日本でも肉食が普及するにつれ胡椒も使われるようになりました。
胡椒の辛味に慣れていない日本人のために、普及品となった卓上胡椒には蕎麦粉が混ぜられ辛味が和らげられました。
このソバ粉が入った胡椒は日本の至る所に置かれるようになり、様々な料理に使われるようになります。
しかし、それ故に、微量のソバを摂取するだけで死亡することもあるソバアレルギーを持つ方にとっては頭の痛い問題になっています。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<胡椒関連>

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2006/10/11

黒胡椒と白胡椒と緑の胡椒

胡椒は熱帯地方に生息するコショウ科の植物です。
現在の主な産地はインド、インドネシア、マレーシア、ブラジルなどですが、原産地はインド西南部のマラバル地方だといわれており、英語の「pepper(ペッパー)」の語源はインドのサンスクリット語の「pippali(ピッパリ)」だと考えられています。

紀元前500年頃にはインドで胡椒が栽培されていたとみられていますが、胡椒栽培が始まる以前に野生の胡椒がインド人によって使われていたと推測されており、紀元前5000〜3000年頃に栄えたインダス文明の時代には胡椒が用いられていたと考えられています。

            ○

胡椒は蔓(つた)をのばし樹木などに巻き付いて育ち、一本の蔓から2キログラム程度の胡椒が採れます。
胡椒を育てる時は挿し木栽培が行われ、挿し木されてから3年経つと実をつけるようになります。

            ○

胡椒には黒胡椒(ブラックペッパー)や白胡椒(ホワイトペッパー)の区別がありますが、どちらも同じ種類の胡椒の木になる実からつくられ、2通りの加工方法があるために2種類の胡椒が流通しているだけで、2種類の胡椒の木があるわけではありません。

黒胡椒は、熟す前の胡椒の実を乾かして発酵させたもので、加工後は水分が抜けるために実の表皮が縮んでクシャクシャと皺がよります。

白胡椒は、熟して赤くなった実を積み重ねて外皮を腐らせるか、水に浸けるなどして皮を柔らかくした後に外皮を取り除き中の実を乾燥させたものです。
昔は足で踏むなどして外皮が取り除かれていました。

生の胡椒の実は緑色をしており、乾燥させたものより辛味は強いのですが、この緑の実も料理に使われます。
タイでは、「ケーン・パー」や「ケーン・ペット」などのカレーの類いや、「パットペット」などの炒め料理に生の胡椒の実や実のついた房がハーブとして使われています。

            ○

乾燥させた胡椒の実を使う場合に、新しいものほど辛味を強く感じます。
胡椒の辛味はピペリンやシャビシンという化学物質が素になっており、ピペリンは常温でも結晶化してしまいます。
乾燥胡椒の方が生の胡椒よりも辛味が弱かったり、乾燥させた胡椒が古くなると辛味が薄れるのはピペリンが結晶化してしまうためです。

            ○

実は、英語の「pepper」の語源となったサンスクリット語の「pippali」は胡椒の仲間ではあってもナガコショウという種類の植物の実を意味する言葉です。
古代ローマ時代にもインドのマラバル海岸からヨーロッパへ向けて海路を通じて胡椒が運ばれていましたが、古代ローマやギリシャ時代において胡椒と言えばナガコショウのことを指していました。
サンスクリット語で普通の丸い胡椒は「マリッチャ」といいます。

ナガコショウは漢方では「ヒハツ」と呼ばれ、3センチほどのツクシの穂に似た房の中に胡椒の実が入っており、房ごと干して使用するため通常の丸い胡椒に対してナガコショウの名がついています。
現在日本では沖縄などで栽培されています。

            ○

「ポブレ・ロゼ」という赤い胡椒があります。
日本ではピンクペッパーという商品名で売られており、最近の料理書のレシピなどでもしばしば目にします。
このピンクペッパーは胡椒ではなく、南米原産のウルシ科植物のコショウボクという植物の果実です。
コショウボクの実を蒸し焼きにして熟した実の赤色を定着させたものです。
最近はコショウボクの実をフリーズドライにしたものが出回っているようです。

<参考書籍>

井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<胡椒関連>

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2006/09/21

サフランと黄金色の香り

フランス料理のブイヤベースやスペイン料理のパエリヤなどに使われるサフランは別名を「蕃紅花(ばんこうか)」ともいいます。
原産地は南ヨーロッパや西アジアです。
サフランの学名は「crocus sativus」といいますが、サフランとクロッカスは同じクロッカス属に分類されます。

            ○

サフランの紫色の花につく赤い雌しべを採取して乾燥させたものが香辛料としてのサフランです。
サフランは1年に1回しか開花せず、花は2週間しかもちません。
花が枯れる前の2週間という短い期間に人の手で雌しべを摘み取らなくてはならないのです。
しかもサフランの花には細い雌しべが三本しかついていません。
1グラムのサフランを生産するのに500本程度の花が必要になるといわれており、サフランはどうしても高価になってしまうのです。

            ○

Eg05ilaw05 乾燥させたサフランの雌しべを水に浸すと赤色から黄色に変化します。
古代エジプトでは太陽を神として崇める太陽信仰が盛んで、サフランでつくる黄色の染料は太陽を表す色として儀式などに使われていました。

また、クレオパトラは化粧品の一つとしてサフランからつくられた香油をつけていたといわれています。

            ○

古代エジプト時代からサフランは薬としても使われていました。
だいぶ後の時代になりますが、中世のイギリスではサフランが心臓や肺の病気に効くと考えられ、ワインに混ぜたサフランを患者に飲ませていたことがあります。
現代の日本では鎮痛用の漢方薬としても扱われているようです。

            ○

紀元前2600年頃に栄えたクレタ文明の遺跡で発見された壁画にもサフランの絵が描かれています。
後にそのクレタの地を支配した古代ギリシャでも、サフランでつくる黄色は高貴な色として扱われました。
ギリシャ神話に限らず多くの宗教で「神」の象徴は黄金であり、黄金色に近い黄色を出すサフラン染料は珍重されたのです。

            ○

ローマ帝国時代の香辛料は富を示すステータスシンボルでもありました。
香辛料の中でも特に高価なサフランは力を誇示したい上流階級層には打って付けの品でした。
当時、サフランは二日酔いに効き、眠りを深くすると信じられていたため、サフランでつくられた枕が貴族などの間で用いられたりもしました。

            ○

古代アラビアでも黄色は貴い色であったため、サフランは大切な染料の材料として使われています。
一方で、高価な贅沢品だったことから、サフランは堕落の象徴ともされていました。
古代アラビアでは、男にとっては肉とワイン、女にとっては黄金とサフランが人間を堕落させるものの筆頭に上げられていたのです。

            ○

中世のヨーロッパではエーゲ海のレパント地方を中心にサフランが生産されました。
14世紀頃なるとスペインやイタリア、イギリスでもサフランがつくられるようになります。

妖精はパンをサフラン風味のミルクに浸して食べるのだという言い伝えがあるイギリスに、最初に持ち込まれたサフランは盗品だったという話しがあります。

イギリスのエセックス地方のある町からキリストの聖地に赴いた巡礼者が、イギリスに帰国する途中にレパントに立ち寄り、そこでサフランの球根を巡礼用の杖の中に隠して故国に持ち帰ったというのです。

この巡礼者が持ち帰ったサフランの球根の栽培は成功し、サフランのお陰で豊かになったこの町は後にサフロン・ウォールデン(Saffron Walden)という名に変えられ、町の教会の屋根飾りにはサフランの花の彫刻がほどこされたといいます。

イギリスに伝わったサフランについては、十字軍が遠征した先でヘンリー I 世が献上品としてサフランを受け取り自国に持ち帰ったのが最初だという説や、ローマ帝国がイギリスを統治していた時代にサフランが伝えられたという説もあります。

            ○

中世のヨーロッパでもサフランは染料として使われ、高値で取引されていました。
これに目を付けたインド人が、インド料理には欠かせないウコンを原料にしてサフランよりもだいぶ安い値段のサフラン染料の模造品をつくり、「インディアン・サフラン」と名付けてヨーロッパで売って利益を得ていたことがあります。

            ○

サフランの模造品はインド人によって初めてつくられたわけではありません。
古代ローマの博物学者のプリニウスがサフランは偽物が多いと書き残しており、プリニウスが生きた紀元1世紀頃から偽サフランが出回っていたことが分かっています。

中世のヨーロッパではキンセンカやベニバナの花びらを乾燥させたものがサフランの代用品に使われ、「貧乏人のサフラン」とよばれていました。
その他にも柳の根や肉を細かくほぐしたもの、トウモロコシの毛に色をつけたものなど、サフランのモドキというよりは悪質な偽物といえる品が多く出回りました。

            ○

中世ヨーロッパの市場から本物のサフランが追いやられてしまうほど偽サフランが流通してしまったため、ヨーロッパの国々は取り締まりに追われました。
当時のフランスでは偽サフランを売った者に懲役刑を課しています。
1444年のドイツでは偽サフランを扱った商人が逮捕され処刑された記録さえあります。
この商人は自分が売っていた偽サフランと一緒に火あぶりの刑に処せられました。
死ぬ間際の火の中で嗅いだ匂いは自分が売ろうとした偽サフランの匂いだったというなんとも残酷で皮肉な話しです。

            ○

今でもサフランのイミテーション商品がありますが、現在は合成香料や色素でつくったサフランそっくりの色や香りをサフランの細胞を無菌培養したものにつける方法が使われたりしています。

            ○

05ilar12 様々なコピー商品が出回るほどサフランはヨーロッパで人気を得たわけですが、サフランはヨーロッパだけで使われたわけではありません。
香辛料の国インドでは北部のカシュミール地方でサフラン栽培が盛んに行われてきました。
インド料理では味付けされたご飯のプラーオに使われたり、ヨーグルトでつくられるお菓子にサフランが入れられたりしています。

トルコではオスマン帝国が栄えた時代からサフランは「ザフェラン」と呼ばれ、ピラフややはり菓子などに用いられてきました。

            ○

日本でサフランを頻繁に使うという家庭は稀だと思いますが、少し検索してみたところ、通販ではスペイン産サフラン1グラムが約1000円、国内産のものが1グラム1200円弱 ほどの価格で販売されていました。

手に持った重さと値札を見比べて日頃買い物をしている一般庶民としては、1円硬貨と同じ重量で1000円以上の価格は高いと感じてしまいますが、サフランの価値は重さのない色と香りな訳で肉の買い物ではないのですから、重量と価格を見比べるのはやはり意味のないことなのでしょうね。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<サフラン関連>

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薬草 薬草
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新たなる香辛料を求めて 新たなる香辛料を求めて
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2006/09/06

とうがらし世界一周

とうがらしの原産地についてはメキシコ説やボリビア中部地方説、アンデス地方説、西インド諸島説などがあり、まだ特定はされていません。

            ○

とうがらしの原産地候補の一つであるメキシコで発掘されたテワカン遺跡の紀元前7000年よりも古い地層から、アボガドの種子と一緒にトウガラシが1960年に発見されています。
このことから狩猟採取を行っていたであろう時代からメキシコではトウガラシを食用としていたことが確認されたのです。
この紀元前7000年よりも新しい層からはとうもろこしやかぼちゃなどに混じってとうがらしが見つかっており、とうがらしはとうもろこしやかぼちゃよりも以前に栽培が始められたと考えられています。

            ○

アメリカ大陸に住んだ人達以外で最初にとうがらしの存在を知ったのは、あのクリストファー・コロンブスです。
苦しい航海の末たどり着き、そこがアジアだと信じた西インド諸島で、島の住民が「aji(アジィ)」とよぶ香辛料をコロンブスは入手しています。
コロンブスはこの「aji」と呼ばれる香辛料を先住民が使う胡椒であると記録しましたが、この「aji」こそが当時のヨーロッパ人にとっては未知のとうがらしだったのです。
コロンブスはインドに到達したと信じて疑わず、その地では「ガンジス川の香りがした」と後に語っていたくらいなので、当時インドで生産されていた貴重で高価な胡椒を手に入れたのだと信じたかったのでしょう。

            ○

1493年3月にコロンブスはとうがらしと共にヨーロッパに帰還しており、このとうがらしがアメリカ大陸から外に出た最初のとうがらしだったとされています。
このコロンブスの航海以前には、東半球に住むアジア人やヨーロッパ人はとうがらしの存在を知らなかったのです。

しかし、コロンブスが持ち帰ったとうがらしが世界中に伝播したわけではありません。
とうがらしもそれを持ち帰ったコロンブスもヨーロッパではさほど注目されませんでした。

            ○

Map_pepper_3

とうがらしの伝播に貢献したのはポルトガルやスペインの商人達でした。

15世紀にブラジル東海岸の交易地ペルナンブコに入ったポルトガル商人がこの地で偶然にトウガラシを発見し、これを船に載せて西アフリカに輸送して交易に使いました。
これ以前に、西アフリカではメレグエタペパーまたはパラダイスグレインと呼ばれるショウガ科の香辛料が胡椒の代用品として使われていましたが、とうがらしが伝わった後はこのショウガ科の香辛料はあまり使われなくなってしまいます。

ポルトガルのガリオン船はトウガラシをインド西海岸中部のゴアにも輸送しています。
胡椒を使い慣れていたインドでとうがらしはすぐさま受け入れられ、1540年代にはとうがらし栽培がインドで急速に広まることになりました。

ポルトガル人は16世紀前半に中国にも唐辛子を伝えています。
四川や雲南などの地方ではもともと山椒を料理に多用していたため、トウガラシもすぐに受容されました。

インドに伝わったトウガラシはマラッカ海峡を経由してマカオなどに渡り、フィリピン諸島にまで伝播していきます。
スペイン人もメキシコからフィリピンへとうがらしを運んでいました。
その後、フィリピン諸島にいたイギリスやオランダの船がアフリカ人奴隷と一緒にトウガラシをアメリカ大陸に輸送しています。

コロンブスが初めてとうがらしを見てから約半世紀という当時としては短い時間でトウガラシは地球を一回りしたことになるのです。

            ○

16世紀にアジアやアフリカ、ヨーロッパにわたる広い地域を支配したオスマン帝国も、とうがらしをヨーロッパに広めるのに一役買いました。
トルコのイスタンブルに首都を置いたオスマン帝国は、インドを支配したときにとうがらしを手に入れ、ハンガリー侵攻時にはとうがらしも一緒にハンガリーに運び込んでいます。
このオスマン帝国軍が持ち込んだとうがらしが、後にハンガリーのパプリカとなったのです。
16〜17世紀にかけてオスマン帝国がヨーロッパ東南部を制圧した際にも、とうがらしはバルカン半島諸国に伝えられています。

            ○

ヨーロッパに伝わったとうがらしはアメリカ大陸から直接持ち込まれたものより、アジア経由で伝わったものが多く、16世紀前半のヨーロッパの記録に出てくるトウガラシは「インドペパー」や「カルカッタペパー」のような名前で呼ばれています。
このことから、とうがらしの原産地はアジアだと思い込んでいたヨーロッパ人が当時は多くいたことが伺えます。

しかし事実は、コロンブスのアメリカ大陸到達以前のヨーロッパやアジアにとうがらしは存在せず、現在一般に知られているような味の麻婆豆腐やトムヤムクン、ペペロンチーノ、唐辛子の入ったキムチ漬けやインドカリーすら1493年以前には作られていなかったのです。

<参考書籍>
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<とうがらし関連>

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2006/08/07

唐辛子とカプサイシン

「辛味」という言葉はよく使われますが、人が辛いと感じるのは味を感じているのか、それともただ単に刺激を感じているだけなのかという問題は学者達の間で長い間論じられてきました。
しかし、1997年に人が辛さを感じる仕組みについての論文が発表され、この議論にも終止符が打たれました。
その論文での結論は、人が辛さを感じるのは、唐辛子などに多量に含まれる無味無臭の「カプサイシン」が口の中にある熱や痛みを感じる器官に吸着し刺激を与えることで辛さが生じるのだということです。
つまり日常的に「辛味」とは言いますが、「辛い」という感覚は味ではなく刺激なのです。

          ○

唐辛子ダイエットの話題で頻繁に取り上げられるせいか、最近は唐辛子とカプサイシンがワンセットで語られることが多くなりました。
唐辛子の種がついている胎座とよばれる部分と実と胎座をつなぐ隔壁部が特に多くカプサイシンを含んでおり、高い温度と乾燥した環境下で唐辛子を栽培すると、唐辛子が含むカプサイシンの量は増すといわれています。

          ○

Yun_538唐辛子が入った料理を食べると辛くても止められずに食べ続けたり、しばらく間を開けるとまた食べたくなるようなことがあります。
これはカプサイシンが「陶酔感」を作り出しているからなのです。
「辛さ」とは「痛み」であるため、辛いものを食べたときに生じる痛みを和らげるために脳内からβ-エンドルフィンという鎮痛作用をもつ物質が分泌されます。
β-エンドルフィンは麻薬のモルヒネに似た物質であるため痛みを止めるだけでなく人に至福感や陶酔感、多幸感を持たせる作用もあるのです。
このため我慢ができる程度の辛さであれば、辛い料理を食べることには常習性や習慣性、依存性が生じることになり、ヒーヒー言いながらも唐辛子料理を食べ続けることになります。

          ○

一口に辛いと言っても辛さにも程度があります。
一般的には「ピリピリする」とか「ヒリヒリする」とか「ビリビリする」のように辛さのレベルを主観的に表現しますが、これを客観的な数値で表す方法をつくった学者がいました。
1912年に、米国の薬剤師ウィルバー・L・スコヴィルが唐辛子の辛さの程度を測定する技術を開発したのです。
この方法は現在もスパイスメーカーなどで使用されており、辛さを表す単位には発明者の名をとって「スコヴィル」が使われています。
今日までに存在が知られている唐辛子の中で一番辛くない唐辛子はベルペッパーでスコヴィル値は0度、一番辛いのは日本でも最近は有名な「暴君」の異名をつけられたハバネロで35万度あります。

          ○

唐辛子のカプサイシンは自律神経を刺激してアドレナリンの分泌を促し血管を広げるため、摂取すると血液循環が良くなって体温が上昇し発汗します。
そのため唐辛子を食べると入浴後のようなスッキリ感が残ってストレス解消にもなります。
アフリカのある地域ではミルクティーに白唐辛子を入れたものを風邪薬代わりにして飲むそうです。
唐辛子に含まれるビタミンCを摂取しつつ血流を良くすることで風邪をなおすという意味があるのでしょう。

また、エネルギー代謝が促進されるために体内脂質が分解されるといわれ、「唐辛子ダイエット」と称してダイエット食品としても販売されています。

更に、唐辛子のカプサイシンには抗菌作用や抗酸化作用があるため、食品の腐敗を防止する働きをします。
これを利用している一つの例が唐辛子などに漬けられた韓国のキムチです。

<参考書籍>
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
山本隆(2001)『美味の構造—なぜ「おいしい」のか』 講談社
鄭 大声 (2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<唐辛子関連>

こころと体に効くハーブ栽培78種—ハーブのすばらしい魅力を味わうために
宮野 弘司 宮野 ちひろ
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ケンタロウのにんにく・とうがらし—Hot + strong recipes
ケンタロウ
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ピリッカラ唐辛子料理
西川 治
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2006/07/28

カレーを初めて見た人達

現在「カリー」と呼ばれる料理にヨーロッパ人が初めて出会ったのは16世紀の終わりから17世紀初め頃のことです。
何人かのオランダ人やポルトガル人がその食べもののことを記録しています。
例えば16世紀末の西インドのゴアに住む人達の様子を記録したオランダ人のリンスホーテンは、インド人達がスープ状のものをご飯の上に掛けて食べていることについて書き残しており、その食べものが「カリ」と呼ばれているとも記しています。

          ○

日本語の「カレー」は英語の「カリー(curry)」が訛ったものですが、「カリー」の語源となったのが、16〜17世紀頃にヨーロッパ人達が記録した言葉「カリ」なのです。
しかし、「カリ」とはタミル語で「油や香辛料で味付けする」とか「調理した野菜または肉」、「焦がす」などの意味を持っていますが特定の料理名を指す言葉ではありません。
カレーを最初に見たヨーロッパ人達の勘違いから「カリー」という料理名が生まれたわけです。

          ○

日本人が最初にカレーを見たのは記録上では1863年のことでした。Indean1
日本人34名の使節団がフランス軍艦に乗船して航海中に、中国の上海でインド人の一行が同じ船に乗ってきました。
食事時になると、日本人がそれまでに見たこともない何かをそのインド人達は食べ始めます。
その様子を日本人団員の一人が記録しています。
「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のドロドロのようなものをかけ、これを手にまぜ、手にて食す。至って汚く人物の者なり」と書いており、カレーという食べものに驚いただけでなく、インド人達が手づかみで食事をしていることにも吃驚しているようです。

          ○

日本人で最初にカレーを口にしたのは1871年に国費留学生として渡米した会津藩士の山川健次郎(当時16歳)だといわれています。
山川さんの記録によると、アメリカに渡る船中で出された食事は若い会津藩士にとっては未経験で口にできない肉料理ばかりで、食べられるものがなくホトホト困ってしまったようです。
そんな中である日の食事に食べ馴れた米の飯が出されました。
しかしご飯の上にはカレーが掛けられてあったのです。
山川さんがカレーを見たのはこの時が初めてで、ドロドロした食べものが気色悪くはありましたが、米の飯を渇望していた最中だったために渋々これを食べました。
これが日本人がカレーを食べた最初だとされています。
しかし、山川氏はカレーのルーが掛かっていないご飯の部分だけを付け合わせの杏の砂糖漬けをおかずにして食べたのだという説もあるようです。

<参考書籍>
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
森枝卓士(1989)『カレーライスと日本人』講談社
井上宏生(2000)『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』平凡社

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B00077D9MC イシバシ・レシピ 後編
石橋貴明
ポニーキャニオン  2005-02-16

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2006/07/17

クローブの香り漂う島と大航海時代

カレーの香りづけや肉料理の匂い消し、ソースやケチャップの材料として使われるクローブはインドネシアのモルッカ諸島が原産地です。

          ○

クローブの名はフランス語で「釘(くぎ)」を指す言葉「クルウ(clou)」に由来します。
これはクローブの形が釘に似ているためです。
中国語でもクローブを「丁子」や「丁香」と書きますが、「丁」は釘を意味します。
中国漢代の文献では、クローブが「ヒヨコの舌」という名で記録されています。
これもやはりクローブの形状から名付けられたものと考えられます。

          ○

2世紀には既にアレキサンドリアがクローブを輸入していたという記録が残っています。
4世紀にはクローブがローマ帝国に伝わっていたことが、その当時のものとされる埋葬品の中からクローブが発見されたことで分かっています。
8世紀頃、クローブはアジアの重要な輸出品になっており、アラブ人がアジアとヨーロッパ間のクローブ貿易を仲介していました。

          ○

中世ヨーロッパでのクローブは貴重品で、クローブなどの香辛料を使うことは一種のステータスシンボルになっていました。
イギリスのヘンリー5世(1387-1422)の時代、ある豪商がヘンリー王に金を貸し、後にこの借金の返済を免除しましたが、王への借金を帳消しにした証と自分の財力を示すために、貴族や他の商人が集まる場で王への借用証書を大量のシナモンとクローブを燃やした火の中に投げ入れてみせました。
これを見たヘンリー五世は「いかなる王もこのような贅沢はできない」と言ったといいます。

          ○

ヨーロッパからクーロブの原産地のモルッカ諸島に最初に乗り込んでいったのはポルトガル人でした。
1500年代の初め頃、フランシスコ・セラーノというポルトガル人を船長とした船がジャワ島などを探検した後、モルッカ諸島のバンダ諸島に到達し、ヨーロッパでは貴重品扱いのクローブがその島々では無造作に生い茂っているのを発見します。
その後、ポルトガルはモルッカ諸島の香料を独占し莫大な利益をあげました。

          ○

バンダ諸島にクローブが林立していたのはこの地がクローブの生育に適していたのはもちろんですが、クローブの生命力の強さにもよります。
クローブの木は土中の水分や養分を吸い取る力が強いため、クローブの周りには他の樹木が生えなくなり、クローブ林が生まれるのです。
また、インドネシアのこの地域では、子供が生まれるとクローブの木を植える習慣が且つてあり、この習慣もバンダ諸島にクローブが繁茂していた理由の一つとされています。

          ○

ポルトガルの成功を見たオランダも17世紀になって東南アジアへの航路を開拓し始めます。
そしてポルトガル人とモルッカ諸島現地人との不仲や、ポルトガルの国力低下に乗じてオランダがポルトガルに代わってモルッカ諸島の香料を占有するようになります。

クローブの価格をコントロールするため、オランダはモルッカ諸島の人々に対してオランダ人以外にはクローブを売らないように命じました。
栽培地もモルッカ諸島の特定地域に限定し、指定地以外に生えていたクローブは伐採したり焼却したりしてしまいます。
約200年もの間、オランダは世界のクローブ貿易を独占し続けました。

しかし、そのうちオランダ人以外へのクローブの密売が増え、1770年にはフランス人がモルッカ諸島からクローブの苗木を持ち出し、フランス領の島でクローブ栽培を成功させます。
その後、南米や西インド諸島、アフリカなどでもクローブの栽培が始まり、オランダのクローブ貿易独占は終焉を迎えます。
現在、アフリカのタンザニアのザンジバル諸島は原産地のモルッカ諸島をしのぐクローブの産地になっています。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版

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