2006/10/17

豚肉と日本人

古代の北海道には野生の猪は生息していなかったことが分かっています。
しかし、その北海道で見つかった縄文時代後期の遺跡から猪の骨が出土しており、体に縦縞があり瓜坊と呼ばれる猪の子供を模した土偶も発見されているのです。

北海道以外でも伊豆諸島や佐渡島など野生猪が生息しなかったはずの地域から猪が飼われていた痕跡が発見されており、これらのことから古代の日本人によって家畜化された猪が野生猪のいない地域にも持ち込まれていたのではないかと推測されています。

大人になれば人間を噛殺すほど獰猛になる猪も子供の内であれば人になつかせることが可能なため、これを飼い慣らすようになったのが家畜化の始まりだと考えられています。

日本で本格的に農耕が行われるようになった弥生時代になると食糧に余裕ができるようになり、余った食糧をエサにして猪の飼育が盛んに行われ始め、やがてこれが豚の飼育へと繋がっていったと見られています。

            ○3008000006

「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、肉食を禁じる聖武天皇の殺生禁断の詔が出される少し前の732年に、聖武天皇の命令で農民が飼っていた40頭の 「猪」が山に放されており、日本人の肉食が全面的に禁止される以前に豚の飼育は禁じられてしまいました。
これにより豚肉食は日本から公式には一時的になくなってしまうのです。

            ○

14世紀の前半になると中国から琉球王国に豚肉食が伝わり、琉球宮廷料理に豚肉が使われるようになります。
17世紀に明から琉球にさつまいもが伝わると、さつまいもが豚の餌に使われるようになり、琉球で養豚は盛んになりました。

沖縄では肉のことを「シシ」といい、通常シシといえば豚肉のことを指します。
沖縄で豚は「鳴き声以外は余すことなく食べ尽くす」といわれ、豚肉は部位によって含む栄養が異なりますが、一頭の豚を残すことなく食べれば栄養バランスは完璧だともいわれています。
豚肉を食べれば悪霊から守られるという言い伝えもあるため、沖縄では豚肉料理が正月に食べられたりもしています。

            ○

ところで、「ぶた」の呼び名の由来は定かにされていませんが、蒙古の言葉の「ボトン」や朝鮮の言葉の「チプトヤチ」、スンダ語の「ビチス」やシャム語の「バチ」など、何れかの語句が転じんて「ぶた」になったのではないかと考えられています。
太っていることから「猪太(いぶと)」と呼ばれていたものが変化して「ぶた」になったのではないかという説もあります。
ちなみに、猪は隠語で「ぼたん」と呼ばれますが、これは「牡丹に唐獅子」のシャレからきているものです。

            ○

1697年に書かれた『本朝食鑑』には「猪」とかいて「ぶた」と読むと説明されたうえで、この時代のぶたは公家の家で飼われていたことが記されています。
しかし、この豚は人間が出す排泄物処理が主な目的で飼われていたもので、豚肉は猟犬のエサなどにされるくらいで公家が豚の肉を食べることはなかったようです。

            ○

豚を汚物処理に使う方法はアジアやヨーロッパなど世界各地で行われていました。

1131年、フランス皇太子フィリップが町中で馬を進めていたとき、一匹の大きな豚が皇太子の馬に猪突猛進したことで皇太子は落馬してしまい、これがもとで皇太子が亡くなってしまうという事件が起きています。
この当時の豚は猪と変わらないほど大きな体格をしており、牙も持っていて気性が荒かったのですが、パリの町ではこの巨大豚を至る所で放し飼いにして汚物などを食べさせていたようです。
フィリップ皇太子が亡くなった事件後、パリの町中で豚を飼育することは禁止されました。

沖縄でも大正時代の頃まで家のトイレは豚小屋と連結して建てられ、これがフールと呼ばれていましたが、昭和になってから衛生上に問題があるとして禁止されています。

            ○

1780年代に書き残されたある文章には「家猪」と書いて「ぶた」と読ませており、中国やオランダとの交易地だった長崎で少数の豚が飼われ食用にされていたことが記録されています。

19世紀前半になると豚の飼育は沖縄から現在の鹿児島である薩摩に伝えられました。
薩摩では豚の骨付き肉を味噌や焼酎で煮込んで黒砂糖を入れる豚骨料理などがつくられるようになり、今や鹿児島の代表的郷土料理の一つになっています。

            ○

3005010099 猪は江戸時代から日本人に食べられていたため、明治の文明開化の時代、猪肉に似た豚肉は牛肉に比べ新味に欠け、新しいものを取り入れる世の流行に合わなかったことから豚肉需要はあまり増えませんでした。
民家近くで飼われた豚に発生した病気が問題になったり、病気の豚が売買される事件が発生するなどしたために、何度か豚の販売が明治政府により禁じられたのも消費が伸び悩んだ原因だったといわれています。

            ○

明治33(1900)年に、明治政府は日本での養豚産業の本格的発展のために欧米から種豚を輸入し始め、明治時代中期になって洋食屋でポークカツレツが食べられるようになると、豚肉を食べる習慣は次第に日本全国に広がっていきました。

明治40(1907)年の豚の出荷頭数は37,000頭でしたが、その5年後には62,000頭にまで増加しており、年間一人当たり豚肉消費量は、明治16(1883)年には4グラムだったものが、明治30(1897)年には122グラム、昭和初期には500グラムと増えており、現在は日本人一人が年間に食べる豚肉は15キログラム程度にまで増えています。

<参考書籍>

岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
赤嶺政信 (2003)『沖縄の神と食の文化』青春出版社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<豚関連>

紅の豚 紅の豚
宮崎駿 森山周一郎 岡村明美


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デリカテッセン <デジタルニューマスター版> デリカテッセン <デジタルニューマスター版>
ジャン=ピエール・ジュネ マルク・キャロ ドミニク・ピノン


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ブタフィーヌさん(1) ブタフィーヌさん(1)
たかしまてつを ほぼ日刊イトイ新聞/佐藤卓


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2006/10/16

豚肉を食べるひと達と食べないひと達

紀元前7000〜3000年には、古代の中国やギリシャ、イラク、ヨルダンで豚が家畜として飼育されていたことが遺跡から出土した豚の骨から分かっています。

            ○

中国で、豚肉を食べることができないイスラム教徒以外の間では、「肉」といえば「豚肉」のことを指します。
中国語で「ぶた」を指す漢字は「猪」と書きますが(「いのしし」は中国語で「野猪」と書きます)、中国語のメニューには、豚肉を使った料理であっても猪とは書かず、単に「肉」としか書かないのが一般的です。
例えば、「炒肉糸(ツァオロウスー)」や「紅焼肉丸(ホンサオロウウアン)」などはそれぞれ「豚肉の細切り炒め」と「豚ひき肉でつくった団子の醤油煮」を意味します。

            ○

古代の中国には子豚の丸焼きを神に捧げる風習があり、これが漢字の「家」という字に表されています。
「家」のウ冠の部分が家を、「豕」の部分は豚を示しています。
「家」という漢字は神に生け贄として供える豚を置く場所を意味していたのです。

           ○

3010904216 豚を山林に放し飼いして山のドングリなどの木の実を食べさせる飼育方法はヨーロッパで発達しました。
冬になる前に山でエサをたっぷり食べた豚はつぶし、ハムやソーセージなどの加工品にして、冬の間の人間の保存食糧にする生活様式が確立されたのです。

かつてハンガリーでは豚の脂身は大変に貴重で、賃金の代わりに豚の脂肪が渡されることもあり、今でも地域によっては、誰かの成功を祈る際に、「彼の豚に脂肪がつきますように」という言い回しをする地方があるといいます。

18世紀には中国産の豚がイギリスに持ち込まれ、これが品種改良されてヨークシャー種(白豚)やバークシャー種(黒豚)がつくられています。
ちなみに英語の「pork(ポーク)」の語源はラテン語の「porcus(ポルクス)」という野豚を指す言葉に由来しています。

            ○

世界中で豚は飼育され食べられていますが、宗教上の理由で豚を食べることができない人達も多くいます。
先に出てきたイスラム教徒もそうです。
『コーラン』の中では2章168節、5章4節、6章146節、16章116節などで豚肉を食べてはならないと戒めています。

ユダヤ教徒も豚を食べることができません。
食に関するタブーの多いユダヤ教では、『旧約聖書』レビ記第11章で、蹄の分かれた反芻動物の肉だけが食べることを許されているのです。
羊や山羊、牛などは食べることができますが、ラクダや兎は反芻動物ではあっても蹄が分かれていないため食べることは許されません。
そして、ブタは蹄は分かれていますが反芻動物ではないのでユダヤ教徒は食べることができないのです。

            ○

なぜイスラム教やユダヤ教でブタを食べてはいけないという戒律があるのか、その理由についてはいくつかの説があります。

異教徒のエジプト人やギリシャ人にとって豚は重要なシンボルだったからというのが一つの説です。
古代エジプトやギリシャで豚は太母の象徴であり、多産な豚は子供が生まれてくる子宮のシンボルでした。
これにより、一神教で異教を厳しく排除したイスラム教とユダヤ教では豚食をタブーにしたという考えです。

二つ目の説は、もっと現実的な話しですが、豚肉を食することで病気に掛かったり寄生虫に害されることが多発したため、豚肉食を禁じてしまったというものです。

そして、もともとイスラム教徒が多く住んだ地域の環境に豚の飼育は適していなかったため、豚肉食が排除されたのだという説もあります。
イスラム教が発展した地域は乾燥地帯が多いのですが、豚の先祖である猪は多湿な山林を好むため、イスラム教徒の生活様式に適合しない猪飼育は排除され、豚を食べることもタブーとして禁じてしまったというのです。

どの説にも一理ある反面、どの説にも部分的に難点があり、なぜユダヤ教徒やイスラム教徒が豚肉を食べなくなったのかは今も議論が続けられています。

<参考書籍>

岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋

<豚関連>

豚肉番付レシピ100—毎日の定番おかずからおもてなし料理まで…パワフル豚肉百科 豚肉番付レシピ100—毎日の定番おかずからおもてなし料理まで…パワフル豚肉百科

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2006/10/05

フォアグラと侯爵のパテ

世界三大珍味といえばキャビアとトリュフそしてフォアグラです。
キャビアとトリュフを人工的に作ることはできませんが、逆にフォアグラは人間が手を加えなければ作ることができません。(関連:「トリュフはなぜ珍味か」)(関連:「キャビアとチョウザメ料理」)

            ○

ガチョウやカモに大量のエサを食べさせてそれらの動物の肝臓を肥大させることでフォアグラは作られます。
通常、動物に無理矢理エサを食べさせれば消化不良を起こして死にますが、大量の水と一緒にエサを与えればガチョウやカモはエサを消化してしまうのです。
この強制的なエサやりのことを「ガヴァージュ」といい、ガヴァージュのエサには蒸したとうもろこしに油と塩を混ぜ込んだものが使われます。
ガヴァージュは毎日6時間毎に行われ、フォアグラ完成までには1ヶ月を要し、一羽のガチョウに使われるエサの総量は25キロ程度だといわれています。
昔は人間1人がガチョウを押さえて、もう1人が漏斗でエサを流しこんでいましたが、現在は機械が使われています。
漏斗状の器具をガチョウの口につっこみ、エサが機械で流し込まれた後にガチョウの首を人間が手でなでるなどして胃に向かってエサを送り込みます。

           ○

家畜化されたガチョウの最古の記録は古代エジプトの遺跡に残されたレリーフです。
いくつかのレリーフが残されていますが、紀元前2500年に亡くなった高官の墓から発見されたレリーフにはガチョウに強制的にエサを食べさせている様子が描かれており、フォアグラを作るためのガヴァージュと同様の作業がこの時代に行われていたことをこのレリーフは示しています。
ただし、エジプト人がガチョウの肥大した肝臓を食べていたのか、食べていたとしたらどのように料理していたのかについては不明です。

          ○

強制的エサやりを行っていた古代エジプト人がガチョウの肝臓を食べる目的でそれを行っていたと決めつけられないのは、後の古代ローマやギリシャ時代に、ガチョウを太らせてその肉を食べるためにガヴァージュを行っていたことが、残された記録で明らかにされているからです。

          ○

古代ローマ帝国がフランスを支配下においたときガチョウを太らせる技術もフランスに伝わりましたが、長い間フランスでも肥大した肝臓が食材として珍重されることはありませんでした。
やはりフランスでも肥満させたガチョウの腿肉を食べることはありましたが、食材にするために意図的にガチョウの肝臓を肥大させることはなかったのです。

          ○

15〜16世紀頃になると、フォアグラをとるためのガヴァージュらしきことがフランスで行われ始めましたが、それでもフォアグラ料理が頻繁に食べられたわけではありません。
フォアグラが食材として注目されるようになったのは、18世紀になってフォアグラでパテが作られるようになってからのことです。
1780年前後のフランスで、ジャン・ピエール・クローズ(Jean Pierre Clause)という料理人がフォアグラのパテである「コンタード風パテ」をつくりました。
ルイ16世に使えていたコンタード侯爵が開くパーティーを前に、招待客が見たこともないような料理を作るようにと料理人のクローズは命じられ、そこで作られたのが後にコンタード風パテと名付けられたガチョウのフォアグラのパテでした。
このパテは好評を博し、後にルイ16世にも献上されたといいます。

その後、ニコラ・フランソワ・ドワイアンという料理人により、フォアグラのパテにトリュフの香りが混ぜられるようになり、フォアグラのパテは最高のパテと賞賛されるようになります。
パテの材料として使われるようになって以降、フォアグラは食材として脚光を浴びるようになったのです。

          ○

フォアグラのパテが盛んに作られるようになった19世紀になると、フォアグラという嗜好品をつくるためにガチョウの口を無理矢理こじ開けてエサを流し込むことに対して非難の声があがるようにもなります。
現在でも動物愛護団体などが中心となってガヴァージュは動物虐待であるという抗議が度々行われており、カリフォルニア州ではガヴァージュによってつくられたフォアグラを州内でつくることを2012年から禁止する法律がつくられています。
一方で、2005年10月に、フォアグラは国の文化遺産であるとした法案がフランスで可決されたりもしています。
最近は鳥インフルエンザの影響で一時的にフォアグラの輸入が禁止されたりなど、その消費量が落ち込んだりもしましたが、今後この食材はどのように扱われていくのでしょうか。

<参考書籍>
宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<フランス料理関連>

調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論
斉須 政雄

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「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋 「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋
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もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本 もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本
田崎 真也

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2006/09/19

魚肉ソーセージと肉食

明治時代に新政府は文明開化のスローガンのもと国民に対して食の西洋化を促しました。
しかし大正時代はもちろんのこと、昭和に入っても日本人の食の中心は米と魚であり、肉食はなかなか家庭で普及していきませんでした。
そのような状況の中、日本人の食を欧米化する切っ掛けの一つとなったのが魚を材料につくられた魚肉ソーセージの登場だったのです。

            ○

最初の魚のすり身を使ったソーセージは大正時代初期に軍用保存食として開発が行われたといいます。
日本にはかまぼこや竹輪があったので、ソーセージを見た日本人は昔からつくられてきた練り物を連想したのかもしれません。

            ○

昭和10(1935)年にマグロの供給がダブつき価格が下落したためマグロ肉を使ったハムのような製品が開発され、「ツナハム」という商品名で販売されました。
しかしツナハムの販売は軌道に乗らず、結局は静かに市場から消えていくことになりました。
魚肉ソーセージが市場に復活するのはそれから20年近く後のことです。

            ○

昭和28(1953)年にアメリカが行ったビキニ環礁での水爆実験によって近くの海域で獲られたマグロが放射能に汚染されていることが判明し、この年のマグロ需要は激減してしまいます。
マグロ価格は急落して市場でさばけないマグロが再び山積みとなりました。
そこで水産業者などがマグロ肉を加工したソーセージの製造を始めたのです。

            ○

以前つくられたツナハムは消費者に受け入れられませんでしたが、魚肉ソーセージが販売され始めた昭和30年前後という時代はツナハムが販売された昭和10年頃とは状況が異なり、魚肉ソーセージには追い風が吹いていました。
昭和30年代は日本人の生活スタイルが洋風化していくちょうど端境期だったのです。

「栄養改善法」が施行され厚生省が国民の栄養改善に関する調査を始めた昭和27(1952)年頃から「食のバランス」ということが盛んに言われるようになります。
たくさんの白米を少しのおかずで食べる食事は不適切とされ、肉食中心の西洋風の食事がブームの兆しを見せ始めます。
米飯中心だった日本人の食生活はパスタやラーメンなどの麺やパンも食べる食事に変わり始め、主食の米で胃を満たす食事からおかずを多く食べる食事へと変化し始めたのです。

西洋料理なども紹介するNHK「きょうの料理」が始まったのは昭和32年で、最初のインスタントラーメンが発売されたのは昭和33年と(関連:「インスタントラーメンの誕生」)、昭和30年代初期に日本人の食生活は目に見えて変化していきました。

            ○

このような時代の流れに魚肉ソーセージは合致していたのです。
それまでソーセージを食べることに不慣れだった日本人にとっても、食べ馴れた魚肉を使ったソーセージは手が出し易い商品でした。
特に洋風なものに憧れながらも新しい食べものを試しかねていた消費者層に魚肉ソーセージは歓迎されたようで、都市部よりも地方で、肉を食べる馴れた人よりも肉食に馴れていない消費者に魚肉ソーセージは好まれたといいます。

魚肉ソーセージはかまぼこや竹輪と同様の食品として分類されていたために当時は保存料を使用することができました。
これにより冷蔵設備のない小売店でも魚肉ソーセージを置くことが可能になり、消費者が魚肉ソーセージを目にする機会も増えました。
しかも材料費を抑えることができた魚肉ソーセージの価格は安く設定されていたため、多くの人達に「ちょっと食べてみようか」という気を起こさせたのです。

            ○

一躍ヒット商品となった魚肉ソーセージの製造会社は急増し、一時は100社以上もの会社がこの分野に参入していました。
丸大食品やマルハなどの水産加工業社だけでなく、伊藤ハムや日本ハムなどの畜産系の会社も魚肉ソーセージ市場に加わりました。
丸大食品やマルハなどは魚肉ソーセージの成功をもとに、逆に畜産分野に事業をその後拡大しています。

発売されて間もない昭和30(1955)年でも魚肉ソーセージは月に1000万本も生産されています。
最も生産量が多かった昭和40(1965)年には、発売当初の頃に比べ800倍以上の量にあたる188万トンが生産されました。

            ○

魚肉ソーセージは畜肉を使ったハムやソーセージのいわば模造品ですが、本物の食肉ハムやソーセージの消費も次第に増加していきます。
昭和30年代になっても日本人が畜肉から摂る動物性タンパクの量は依然多くはありませんでしたが、昭和42(1967)年には食肉ハムとソーセージの生産量が魚肉ソーセージの生産量を追い抜くことになります。
同じ年の昭和42年に米の生産量はピークに達し、翌年からは年々減少し始めました。
子供が好むおかずが卵焼きからハンバーグなどに変わっていったのも昭和40年代のことです。

            ○

昭和63(1988)年に、畜肉やその加工品によるタンパク質摂取量が魚肉や魚肉加工品からの摂取量を史上初めて上回りました。
1990年代の輸入牛肉の自由化や円高の定着などで肉の価格が安くなったことにより肉食は日本の食生活に定着していくことになります。
肉食が奨励された明治時代初期から100年以上を経た昭和の終わりに、肉を食べる習慣が一般家庭にも浸透したわけです。
魚や米が中心だった日本人の食が肉食中心の食へ移行する、そんな時代の象徴的な食べものが魚肉ソーセージだったのです。

            ○

ちなみに魚肉ソーセージを使った料理については、「魚肉館」というホームページに40種類以上のレシピがあります。
「魚肉館」には、市販されている魚肉ソーセージの情報や、なぜ魚肉ソーセージがオレンジ色のフィルムで包まれているかなどの豆知識、魚肉ソーセージをぬか漬けにする実験結果なども掲載されています。

<参考書籍>
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
原田信男(2005)『和食と日本文化—日本料理の社会史』小学館

<昭和関連>

昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年! 昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年!
昭和のいる・こいる

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なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~ なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~
テレビ主題歌 桜井妙子 川田正子

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ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 ALWAYS 三丁目の夕日 通常版
西岸良平 山崎貴 吉岡秀隆

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2006/07/19

羊とチンギス・ハーンの子孫達

最近は大相撲でモンゴル勢が場所を盛り上げていますね。
モンゴルのチンギス・ハーンの時代には兵士達を鍛える訓練の一貫として相撲が行われていたといいますから、あちらの相撲にも長い歴史があります。

          ○

チンギス・ハーンは1206年にモンゴル全土を支配下に置き、遊牧国家モンゴル帝国を創り上げました。

チンギス・ハーンを支えたモンゴル軍といえば今日でも草原を駆け抜ける騎馬軍団を連想するように、馬はモンゴル軍の最も重要な軍事力でした。
しかし、軍にとって大事なのは馬だけではなく、羊も歩く食糧貯蔵庫としてモンゴル軍の大遠征を支える重要な兵站戦略の一部になっていました。

          ○

高原に住むモンゴル人が牛よりも羊を多く飼った理由は環境との適合性だけでなく、彼ら遊牧民の家族構成や生活様式にも関係しています。
冷蔵庫どころか電気もないモンゴル高原では、夏場に家畜をつぶすときには大勢で一気に食べてしまう必要がありました。
牛を一頭食べきるには700人以上の人数が必要ですが、羊であれば10人程度で一頭を食べ尽くすことができるのです。

          ○

ところで、フランスやイタリアのレストランで料理されるラム肉の殆どはオスであることが多いはずです。
羊の群れの中にオスが多いと争いが起きて群れが分裂してしまうため、ヨーロッパでは羊のオスが生まれると種オスに選ばれたもの以外は小さいうちに間引かれてラム肉にされてしまうのです。

生まれる子羊の内ほぼ半分はオスですから、子を産んだメス羊の約半数が子供を失います。
しかし、それらのメスも乳は出します。
その子羊に飲まれることのない乳を人間が乳製品に利用したりしてきたのです。

          ○

Photo_1 しかし、モンゴル高原ではオスの羊も種オス以外は去勢され群れに残されます。
このモンゴル高原の去勢オス羊の文化は、モンゴルやその周辺でオスの子羊を売却する市場が存在しなかったことや、オスを生かしておいても飼育できる環境があったことなどから生み出されたものと考えられています。
モンゴルの遊牧民にとっては大量のラム肉を抱えて移動するよりも、歩く冷蔵庫のような生きたオス羊を連れて歩いた方が経済的だし労力が少なくて済んだのです。

          ○

オス羊を去勢した時に切除された睾丸は捨てられずに穀類などと一緒に煮て食べられてしまいます。
羊の去勢は春から夏にかけて行われます。
冬の間に保存肉を食べきり家畜の乳もまだあまりとれない時期に去勢が行われるので、睾丸は貴重なタンパク源になります。

          ○

高原に住むモンゴル人は、肉に火を直接あてて焼くと火の神様が怒ると信じているため肉を直火で調理しません。
肉の料理に石焼などはありますが、通常は水煮が多いのです。

また、味付けはたいてい塩のみで、ネギの類いを薬味程度に入れることはあってもコショウなどの香辛料を使いません。

冷蔵庫のないモンゴル高原では、保存が難しいため基本的に夏場は家畜をつぶさず肉は食べません。
冬の間は日中でも最高気温が零度を下回るくらい寒くなるので、家の外に出しておけば自然に肉をチルドの状態で保存できます。
肉を食べる冬の時期は肉が傷まないので匂い消しのために香辛料を使う必要がなく、料理の味付けがシンプルになったのかもしれないという推測もされています。

          ○

作家の開高健さんがモンゴルでイトウ釣りに挑戦したときの記録に羊の水煮の話しが出てきます。

「食事といっても主食と副食のけじめがないのである。 たいていは羊のこまぎれ肉の水煮であって、ひとつまみの岩塩だけが調味料である。 これをスプーンでチャポチャポとすすったらそれでおしまい。 朝がそれ、昼がそれ、夜もそれである。 昨日もそれ、今日もそれ、明日もそれである。 夏もそれ、冬もそれである。」

食事に使う調味料が一切ないだけでなく、モンゴルの草原での暮らしには、キッチンやトイレ、書斎、居間などがなく、所番地などなく、モンゴル人が草原に残すゴミは一切なくて、何から何までないと書いた後で開高さんは次のように続けています。

「この徹底ぶりをいちいち眺めていくうちに、”自然”を守るためにはここまで無欲にならなければならないのか、これより他に道はないのだろうかと、感嘆と同時に絶望めいたものも痛感させられる。 この高原の大草原は十三世紀のジンギス汗の時代もまったくこのままであっただろうし、それよりはるか一千年前も、さらに二千年前もこのままであっただろうという思いが胸にくる。」
(開高健(2000)『オーパ、オーパ!!〈モンゴル・中国篇・スリランカ篇〉』 集英社)

<参考書籍>
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会
佐々木道雄 (2004)『焼肉の文化史』明石書店

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