2007/03/25

タバスコ・ソースの誕生

喫茶店などのテーブルの端に塩やコショウの容器と一緒に置かれていたりする、小さく細長いガラス容器に入った見るからに辛そうな朱色をしたタバスコ・ソースは意外にも百数十年前に作られたという長い歴史を持っています。
タバスコ誕生についてはいくつかのお話しがあるようですが、その中の一つは次のようなものです。

            ○

アメリカで南北戦争が行われていた頃、メキシコのタバスコ州に派兵されていたある兵士が、この地できれいな花をつけるとうがらしを見つけました。
きれいな花を咲かすこのとうがらしを自分の家の庭に植えようと、この兵士はアメリカのニューオリンズに種を持ち帰ったのです。

その後、このとうがらしの種はニューオリンズに住むエドモンド・マキルヘニーという銀行家の手にも渡りました。
マキルヘニーは、南北戦争の戦火から逃れるためニュオリンズからルイジアナ州エーヴァリー島(Avery Island)に移り住み、この島でメキシコのタバスコ州からもたらされた種を蒔きました。
しかし、とうがらしが育つ前に、戦域の拡大によって、マキルヘニーはエーヴァリー島から再びテキサスに疎開しなければなりませんでした。

南北戦争が終わった1865年にマキルヘニーはエーヴァリー島に戻ります。
マキルヘニーがそこで見たものは戦争中に蒔いたとうがらしが成長して実を生らせている光景だったのです。
マキルヘニーはこのとうがらしの実を採り集め、すり潰してから、エーヴァリー島で採れる岩塩と酢を混ぜてソースをつくってみました。
これがタバスコ・ソースの始まりだったといわれています。

マキルヘニーは1868年にタバスコソースを350本の香水の空き瓶に詰めて初めて市場で販売を始めました。
この時に使った香水の瓶の形が、現在のあの小さく細長いタバスコ・ソースの容器の形の原型になったといわれています。

            ○

ところで、南北戦争の時代に兵士がメキシコから持ち帰りタバスコの原材料に使われるようになったとうがらしはタバスコ・ペッパーとよばれています。
このタバスコ・ペッパーは極端に暑かったり寒かったりする厳しい環境では育ち難く、発芽時期には微生物などに対しても弱いという繊細なとうがらしなのです。

タバスコ・ペッパーの苗は非常に敏感で、タバコを吸う人が苗に触っただけでもタバコ中に含まれるウイルスによって成長に影響が出てしまい、タバコを吸う人が植えた苗木とタバコを吸わない人が植えた苗木とでは、はっきりと成長に違いが出てしまうといいます。

            ○

無事にタバスコ・ペッパーが成長し実が生ると、収穫されてすり潰されて濃縮されます。
濃縮されたカプサイシンはオレオレジンとよばれます。
タバスコ・ソースが4万スコヴィルなのに対し、オレオレジンの辛さは100万スコヴィルにもなり、オレオレジンを取り扱うには手袋やゴーグルなどの安全対策が必要となります。(辛さの単位スコヴィルについては「唐辛子とカプサイシン」にあります)
オレオレジンは筋肉弛緩剤の原料とされたり、意外にもお菓子のアメやガムの材料にも用いられています。
(もちろんガムやアメに使用される場合はオレオレジンの濃度はかなり薄められて使われています)

            ○

タバスコ・ペッパーを濃縮するときに出る種子や繊維はタバスコ・ソース造りには不要となります。
しかしこのとうがらしのカスも無駄にはされず、水分が取り除かれた後に精油業者に売られています。
精油業者はこのとうがらしのカスから油を抽出するのです。

            ○

ステンレスとプラスチックが発明される前の時代のタバスコ・ソース工場では、タバスコ・ソースを生産するときに空気中に漂い出てしまう酸によって工場内のコンクリートの床や鉄鋼性の設備が浸食されてしまい、定期的に交換する必要があったといいます。
時代が進むにつれ、浸食対策や原料の保存性を高めるために工場内の設備は改善されたようですが、タバスコ・ソースの基本的製法は発明された当初から殆ど変わっていないといわれています。
今でもタバスコ・ペッパーの濃縮液に岩塩や酢、塩などが加えられ、長期間熟成させて造られているようです。

            ○

南北戦争直後に創られたタバスコ・ソースは、その後アメリカから他国にも輸出されるようになり、国によってはある種の料理には欠かせないソースとして、そして、ある意味「クセになる」味のソースとして広まりました。

それを示す一つの例に、イギリス議会でタバスコ・ソースの取扱が話し合われたという逸話があります。
1932年に、イギリス政府は、自国製品の購入促進のため、外国からの製品輸入量を規制しましたが、マキルヘニー社のタバスコ・ソースは輸入禁止対象品目から外すように数人の下院議員が提案したというのです。
レストランで食べる牡蠣にタバスコ・ソースは必需品であるから、というのがこの提案の理由だったといいます。

            ○

タバスコ・ソースがパリに伝わると、これがカクテルに使われました。
1920年代のことで、タバスコ入りのカクテルはパリで「バケット・オブ・ブラッド」と名付けられました。
この名前はその後「レッド・スナッパー」という名に変わり、1930年代になってニューヨークに伝わると、「ブラッディー・マリー」とよばれるようになったのです。

            ○

ところでタバスコと聞くとどのような料理を連想されますか?
スパゲティやピザを思いつく日本人は多いのではないでしょうか。
しかし、日本ではよく知られているタバスコ・ソースをスパゲティやピザに掛ける食べ方は他の国では必ずしも一般的とはいえません。
特にイタリア人にとっては奇異な食べ方に見えるようです。

タバスコ・ソースが入ってきた頃、日本人の食は急速に洋食化していく時代でした。
同じ頃に一般的に普及し始めたスパゲティやピザにも試しにタバスコ・ソースが振りかけられ、食べてみたらおいしかったので、そのような使い方が日本で広まったのかもしれません。

<参考書籍>

アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋

<タバスコ関連>

タバスコの香り タバスコの香り
ローズマリー・クルーニーとペレス・プラード ローズマリー・クルーニー ペレス・プラード楽団


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トウガラシ―辛味の科学 トウガラシ―辛味の科学
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2007/03/18

そら豆嫌いなピタゴラス

日本でそら豆は秋にまかれ春になると収穫が始まります。
一番おいしくなるのは4月から6月の間です。
そら豆は収穫された後にみるみる鮮度が落ちるため、朝採りのものをその日の内に食べるのが理想といわれます。

            ○

そら豆の原産地は地中海沿岸から中近東にかけての地域です。
紀元前2500年頃のものと考えられる湖上住居跡がスイスで発見され、その遺跡からそら豆が発見されており、太古から人間がそら豆を用いてきたことが分かっています。

            ○

古代ローマやギリシャでは乾燥そら豆にニンニクとタマネギを加えた料理を食べていたようです。
また、ギリシャでそら豆は投票での投票札代わりにも利用されていました。

            ○

古代においてそら豆は儀式にも利用されています。
そら豆には死者の魂が宿ると考えられていたからです。

紀元前5世紀頃のエジプトでは、死者の魂が宿るそら豆を神官が嫌ったため、庶民もそら豆を食べなかったということが記録に残されています。
古代ローマやギリシャでもそら豆は死者の魂や出産と結びつけて考えられており、死者の供養にそら豆が用いられました。

            ○

地中海や中近東を中心に栽培が始まったそら豆はその後アジアにも伝わり、中国ではあの豆板醤の原料にされたのです。

四川料理「天悠」の自家製調味料』によれば、豆板醤は長江沿いにある四川省郫県(ピィシェン)などで生まれ、豆板醤の「豆板」とはそら豆のことを指し、正しくは「豆瓣」と書くようです。
日本のスーパーなどで販売されている豆板醤は発酵期間が短く辛味だけが強調されていますが、長時間の熟成で旨味をたっぷり含んでいるのが本来の豆板醤の特徴だといいます。

四川の伝統的豆板醤造りでは、夏の暑い時期に乾燥させたそら豆を砕いて皮を取り除き、一晩水に浸けた後、水を切ってからカボチャの葉などで覆います。
すると数日でカビが繁殖するので、これに塩や小麦粉、そしてとうがらしや花椒(かしょう)などをを加えて壺に入れて熟成させて造られます。

            ○

そら豆は中国から日本に伝来したと考えられていますがその時代は明らかになっていません。
ただ、室町時代末期の文献にそら豆の栽培について書かれたものがあるようです。

「まめ」とは、形が「まるみ」を帯びていることに由来した言葉だという説があります。
そして「そらまめ」という言葉は、そら豆が生っているときにサヤが空を向いているためにその名がつけられたといいます。
そら豆は「蚕豆」とも書きますが、これはサヤの形が蚕に似ているためだという説や、蚕の季節に豆がなるためだという説があるようです。

            ○

ところで、そら豆の原産地である地中海周辺や中近東地域のスペイン、イタリア、ギリシャ、アルメニア、ユダヤなどではそら豆アレルギーの人が多くいます。
これは遺伝的病気だと考えられており、特にそら豆を生で食べたり花粉を吸うと発症しますが、加熱したそら豆でも発症の危険があるようです。
このアレルギーをもつ子供が花粉を吸った場合、ショック症状を起こして一日から二日の間に死亡することがあり、大人でも回復までに四週間ほど掛かります。

            ○

3010920170 紀元前6世紀頃の古代ギリシャの哲学者であるピタゴラスもそら豆アレルギーだったのではないかといわれています。
ピタゴラスは、弟子達にそら豆を食べたり、そら豆畑に近づくことを禁じていたからです。

ピタゴラスの最後についてはいくつかの説がありますが、その一つはそら豆に関連しています。
敵に追われて逃走したソクラテスはそら豆畑に行き当たり、そら豆畑に入る以外に逃げ道がなくなったため、やむなく逃げるのを断念して敵に捕まって処刑されたというのです。

ピタゴラスも死者の魂がそら豆に宿ると信じていたようなので、そのためにそら豆を食べることを弟子達に禁じたとも考えられますが、死を目前にしてそら豆畑に入ることを嫌ったのだとしたら、苦しいアレルギー症状よりも死を選んだのではないかとも想像されるのです。

<参考書籍>

吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社

<そら豆関連>

ピタゴラ装置DVDブック1 ピタゴラ装置DVDブック1
ピタゴラ装置


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そらまめくんのベッド そらまめくんのベッド
なかや みわ


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からだイキイキ!豆食生活—大豆・いんげん豆・えんどう豆・そら豆etc. からだイキイキ!豆食生活—大豆・いんげん豆・えんどう豆・そら豆etc.
ユーイーピー 永山 久夫


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2007/03/11

キャベツとレタスは似て非なるもの

キャベツは一年中店頭に並ぶ野菜ですが、秋に種が蒔かれて3月から5月頃に掛けて収穫されるものは春キャベツと呼ばれます。
通称を春玉といいます。
春キャベツは全体的に丸い形をしており、葉が柔らかいのが特徴です。
冬期に栽培するため温暖な地域でつくられ、愛知県や千葉県銚子、神奈川県三浦などが主産地になっており、群馬県の前橋でつくられる春キャベツも有名です。

            ○

春に種が蒔かれ夏から秋に掛けて収穫されるキャベツは夏秋キャベツといいます。
甘味のあるのが特徴です。
夏秋キャベツは高原で栽培されるため、高原キャベツとも呼ばれ、群馬県嬬恋や長野県産のものがよく知られており、岩手県や北海道も主産地です。

            ○

冬キャベツは秋や冬に収穫されるキャベツです。
平べったい形をしており、葉が白いのが特徴で、冬玉とも呼ばれます。
愛知県渥美町や千葉県などが主産地になっています。

            ○

春キャベツや夏秋キャベツの葉は水分を多く含んでいるため柔らかく、生で食べるのに向いており、冬キャベツの葉は煮ても形が崩れないので煮込み料理に最適です。

            ○

640design1 キャベツとレタスは似ていますが、レタスがキク科植物の一年草(または二年草)であるのに対して、キャベツはアブラナ科で本来多年草の植物です。(関連:「レタスやサラダ菜」)
そのためキャベツの花は菜の花に似ています。
最近のDNAによる調査によって、キャベツや白菜、カラシナなどのアブラナ科野菜の大元の原産地は中央アジアだということが判明しています。

            ○

やはりアブラナ科植物で「青汁」の原料にもされるケールはキャベツの祖先だと考えられています。
ケールはもともと地中海沿岸地方に自生していましたが、これが各地に広まり、その環境に合わせて改良が施され、ブロッコリーやカリフラワー、コールラビ、芽キャベツなどが生まれました。

キャベツもケールからの改良野菜の一つとして誕生したのです。
海岸地域に自生していたキャベツの祖先にあたる植物は、強い日差しや乾燥に耐えるため厚い葉を持っていたと考えられており、これが現在のキャベツの一つの特徴である厚い葉に受け継がれているといわれています。

            ○

キャベツの祖先であるケールは結球しない植物です。
キャベツが球状になるように改良されたのは1150年代のドイツだといわれています。(関連:「ザウアークラウトの作り方」)

日本へは1706年にオランダ人によって初めてキャベツがもたらされました。
しかしこのキャベツは食用ではなく、球形にならない花のように葉が開く植物で、紅夷菘(おらんだな)の名前が付けられていました。
これが後に観賞用として「葉牡丹」へと改良されていったのです。

            ○

現在食用にしている球形キャベツが日本に持ち込まれたのは幕末のころです。
しかしこの当時は横浜や函館に住む欧米人が小規模に栽培していただけでした。

明治29年になると、ようやく東京近郊でもキャベツ栽培が行われるようになり、一般市場にキャベツが出回るようになります。
それまで、キャベツは玉菜(たまな)や中国名の甘藍(かんらん)の名で呼ばれていましたが、この頃の文献には「キャベイジ」という呼び名も登場し始めています。
明治時代に洋食が流行するにつれキャベツの消費も伸びていき、その後、キャベツは日本人にとって欠かせない野菜の一つになっていったのです。

            ○

ところで、キャベツを買うときは、中型で、切り口の芯が500円玉より小さく新しいものを選ぶのがポイントです。
芯の切り口がひび割れしているものは避けた方が無難です。
隙間なく葉がぎっしり詰まったものが良いキャベツで、同じ大きさなら持ってみて重いものの方が良品です。
軽い方が良いとされるレタスとは逆です。(関連:「レタスやサラダ菜」)
丸ごとではなくカットされた状態でも売られていますが、仮に1/4にカットされたキャベツは丸ごとのものに比べて1.6倍も呼吸量が多いため、より早く品質が落ちてしまいます。

            ○

キャベツの葉にはビタミンCとカロテンが多く含まれています。
また、キャベツはビタミンUを含んでおり、このビタミンUは胃の粘膜を強化したり胃潰瘍を防ぐ働きをします。
胃腸薬で有名な「キャベジン」はキャベツの成分から作られているといいます。
ただしビタミンUは加熱すると容易く壊れてしまいます。
ビタミンUを摂取するにはキャベツを生で食べたほうが良いようです。
柔らかい春キャベツを千切りにして食べたり、味噌をつけてバリバリ食べるのはおいしいだけでなく、胃にも優しいということです。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社

<キャベツ関連>

便利小物 キャベツワイド スライサー  C-3629 便利小物 キャベツワイド スライサー  C-3629

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月とキャベツ 月とキャベツ
篠原哲雄 山崎まさよし 真田麻垂美


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小林カツ代のキャベツ大好き 小林カツ代のキャベツ大好き
小林 カツ代


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2007/03/04

筍の選び方とゆで方

竹の若芽であるたけのこの旬は4月から5月に掛けてです。
「筍」という字は「旬内に竹の子となり、旬外に竹となる」という意味からきています。
通常たけのこを採るときは、地表から芽が出る寸前か、芽が少し出たところを掘り出します。
芽が出てそのまま10日も放っておくとたけのこは竹になってしまいます。

            ○

99012 たけのこを採るために育てられている竹には孟宗竹(もうそうちく)や淡竹(はちく)、苦竹(まだけ)などがあります。
孟宗竹の皮には毛が生えており、淡竹の皮は赤紫色をしています。
また、孟宗竹は淡竹よりも太いのが特徴です。
苦竹のたけのこは初夏に出回り、苦味が強いもので、そのため苦竹という字が宛てられたようです。

            ○

一番生産量が多いのは孟宗竹のたけのこです。
「モウソウチク」の名は中国の『二十四孝』に出てくる孟宗の話しに由来しています。
たけのこを食べたいという病気の母親のために、孟宗が真冬にたけのこを探したところ、雪中に生えるたけのこを見つけて掘り出し、このたけのこを食べた母親は病を治すことができたという親孝行のお話しです。

            ○

孟宗竹は別名を江南竹といいます。
これは孟宗竹の原産が中国の江南地方であるためです。
温暖地域で育つ竹であるため、日本では岩手県より北の地域では生育しません。

孟宗竹が日本に入ってきたのは1700年代前半の江戸時代の頃です。
中国から琉球を経て薩摩に入り、1800年代前半に江戸の薩摩藩邸に移植されました。

            ○

淡竹や苦竹も平安時代の初期に中国から日本に伝来したといわれていますが、これらの竹は日本に古来から自生していたという説もあるようです。

            ○

Yun_205たけのこは見た目で雄と雌の区別をすることがあります。
形が円錐形状でずんぐりとした感じで、色が白っぽいものは雌筍とよばれ、長い円錐形で色が黒っぽいものは雄筍とよばれます。
雌筍を白子、雄筍を黒子と呼ぶこともあるようです。
一般的に雌筍の方が味は良いとされています。

            ○

ところで、穂先が黄色いたけのこは日に当たった時間が短いことを示してます。
逆に穂先が黒っぽくなったものや濃い緑色をしたものは穂先が地上に突き出た後、時間が経ってから掘り出されたもので、日に当たった時間が長いために筋張ってえぐみが出ている可能性があります。 
全体的に淡い黄色をしているのが良いたけのこで、切り口が白く瑞々しい感じのするものが良品です。
逆に切り口が茶色くなってぬるぬるしたものは古いたけのこです。

            ○

掘ったばかりのたけのこにはアクが少なく刺身にして食べることもできますが、時間が経つとアクが強まるので、店先で売られているものを食べるには、二時間は茹でる必要があります。

たけのこは皮がついたままの状態で茹でますが、穂先は斜めに切り落とし、皮には切れ込みを入れます。
たけのこを皮ごと茹でるのは、皮の内側の温度を一定に上昇させることで繊維質を柔らかくする時間を短縮できるのと、皮の中に含まれる亜硫酸塩の働きで繊維が柔らかくなり筋っぽさが減るためです。
しかし皮付きで茹でるとアクが外に出にくくなるため、穂先を切り落としたり皮に切れ込みを入れて、えぐ味のもととなるホモゲンチジン酸やシュウ酸を茹で汁の中に出し易くするのです。

茹で汁には米糠や米のとぎ汁を入れます。
糠やとぎ汁を入れることで、これらの中に含まれるでんぷん粒子がゆで汁に浮かび、アクを吸着してくれるのです。
糠を使う場合、水1.8リットルに入れる糠の量は一握りが目安になります。
掘り出してから時間が経ってアクが強くなったたけのこを茹でるときは、米糠やとぎ汁の他にタカノツメを入れると良いようです。

            ○

Bamboo店で売られるたけのこの水煮のひだの部分に白い固まりがついていることがあります。
この白いものはたけのこが含むチロシンという物質です。
茹でている間に茹で汁にチロシンが溶け出し、その後固まったものなのです。

チロシンはタンパク質を構成するアミノ酸の一種です。
もちろん無害であり、新陳代謝を促す働きがあります。

たけのこに含まれる栄養は少ないのですが水溶性食物繊維であるセルロースを多く含んでおり、このセルロースがコレステロールの摂取を抑制する働きをしてくれます。

そして、栄養よりも何よりも、日本人にとってたけのこは春の味覚です。
若竹煮や天ぷら、たけのこご飯などを楽しみながら、春の到来を感じることができる食材なのです。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社

<たけのこ関連>

タケノコの丸かじり タケノコの丸かじり
東海林 さだお


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雅竹 特上青竹アジロ編み弁当 小 70-042B 雅竹 特上青竹アジロ編み弁当 小 70-042B

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ご飯用保存容器 竹炭 真空おひつ SV-2188 ご飯用保存容器 竹炭 真空おひつ SV-2188

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2007/02/18

金富良醤油と長崎商人

中国で茄醤(チェジャン)といえば一種のトマトソース、豆板醤(トウバンジャン)はとうがらし味噌を指します。
その他の醤(ジャン)として、胡麻を使った芝麻醤(チーマージャン)、アミを使った蝦醤(シャァジャン)なども有名です。
そして醤(ジャン)の一種である醤油は、中国語で「ジャンユー」と発音されます。
醤油の「油」は液体のことであり、醤油とは醤から搾り取った液体を意味しています。

中国の醤油には大きく分けて、生抽(ションチョウ)、老抽(ロオチョウ)、甜醤油(テイエンジャンヨウ)の三種類があり、生抽は日本でいう濃い口醤油、老抽は溜り醤油に似ています。
甜醤油は砂糖や香辛料が加えられた、とろみがある醤油です。

            ○

大豆を使った醤は中国から朝鮮半島にも伝わり、今でも味噌や醤油の類いは韓国料理でも欠かせない調味料です。(関連:「醤油と金山寺味噌」)

日本の溜り醤油のように、韓国でも大豆味噌を造るときに出る液を熟成させて醤油が造られました。
韓国では、毎年新しい醤油を造るとその前年に造られた醤油は陳醤(チンジャン)とよばれ、造ってから一年以上経った陳醤は一つの容器に集められました。
容器に入れられた陳醤は日向で保存されたため水分が次第に蒸発し、時間の経過と共に濃い色と味の醤油へと変化することになります。

10年や20年も保存される陳醤もあり、少し色の濃い陳醤は煮物やチゲに用いられ、長期保存して色がもっと濃くなったものは薬飯(ヤクパン)などに使われました。
反対に色が重視されるクックなどの料理には新醤油が使われるなど、韓国では料理によって熟成度が異なる醤油が使い分けられたのです。

            ○

大豆発酵食品が発達した北東アジアに比べ、東南アジアは魚醤が多用される魚醤文化圏といわれますが、大豆醤油がまったく使われないわけではありません。

タイでは主に二種類の醤油が使われています。
一つが「白醤油」を意味する「シーユ・カウ」、もう一つが「黒醤油」を意味する「シーユ・ダム」です。
「シーユ・カウ」は日本の薄口醤油に似ており、「シーユ・ダム」は中国でいう甜醤油のことで甘くとろみがあります。

インドネシアにも「ケチャップ・アシン」と「ケチャップ・マニス」と呼ばれる二種類の醤油があります。
「ケチャップ・アシン」は「塩辛い醤油」という意味であり、「ケチャップ・マニス」は「甘い醤油」を意味しています。

            ○

インドネシアといえば、日本が江戸時代に鎖国をしていたころ、「出島貿易」の一つとして日本の醤油はインドネシアを経由してヨーロッパに輸出されていました。

1775年に日本に滞在したスウェーデン人の植物学者であり医者でもあったカール・ツンベルグが著した「日本紀行」にも、日本製醤油がバタビア、インド、ヨーロッパに輸出されていると書き残されています。

            ○

オランダのアムステルダム国立博物館には、17世紀の長崎の出島からオランダ人によってヨーロッパに運ばれたという伊万里焼き風の醤油壺が保管されています。

この壺にはオランダ語で「日本の」という意味の「JAPANSCH」という言葉と、醤油を意味する「ZOYA」、そしてポルトガル語で商人を意味する「COMPRADOR」という語の略として「CPD」の印字があります。

17世紀の長崎出島に、「COMPRADOR」という語をもとにして名付けられたと思われる、「金富良」という長崎商人達が設立した店があり、この店が輸出した「金富良醤油」がヨーロッパに運ばれ、当時のヨーロッパでかなりの高値で取引されていたのです。

金富良醤油はルイ14世が食べた料理にも使われたという逸話も残されています。
ただし、この頃のヨーロッパでの醤油は味付けに使われるというよりも香りづけとして香辛料のように使われていたようです。

            ○

現在、醤油はアメリカでも広く使われていますが、以前のアメリカでは醤油の臭いが南京虫の臭いに似ているとされ、醤油はバグソースと呼ばれて日本人差別の一つにもなっていました。
1950年代の初期、そのようなアメリカ人の醤油蔑視の傾向は変わることになります。
朝鮮戦争で日本に駐留した多くの米兵が醤油の味を知ったことが、アメリカでの醤油普及のきっかになったのです。

1971年にはウイスコンシン州でアメリカ産大豆を使ったアメリカ人向けの醤油が造られるまでになり、その後、健康志向で日本食が注目されたこともあってアメリカでの醤油の消費は増々増えていきました。

            ○

ところで、最近は世界中で日本の醤油が流通するようになったためか、「マギーブイヨン」で有名なマギー社の名はキッコーマン醤油のもととなった野田醤油を創立した茂木家の名前からとられたものであり、「マギーブイヨン」の味や香りは醤油をもとにしてつくられたのだという話しを聞くことがあります。

しかし、マギーのサイトにある「マギーのこだわり」には、「マギー」というブランドが、1846年にスイスに生まれたジュリアス・マイケル・ヨハネス・マギー氏によって作られたとありますので、「茂木」から「マギー」ができたという話しは眉唾ものといった感じがします。

(この件について本当のところをご存知の方は教えて下さい)

<参考書籍>

森浩一(1987)『味噌・醤油・酒の来た道—日本海沿岸諸民族の食文化と日本』小学館
嵐山光三郎・鈴木克夫(1990)『お醤油の来た道—味の謎への探険隊』徳間書店
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期—日本料理草創期』河出書房新社
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂
黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社

<醤油関連>

ユウキ食品 ナムルの素(醤油味) 140g (3入り) ユウキ食品 ナムルの素(醤油味) 140g (3入り)

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世界の調味料100—ダイニングテーブルの一流品 世界の調味料100—ダイニングテーブルの一流品

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くずし割烹—調味醤油で素材を活かす くずし割烹—調味醤油で素材を活かす
枝国 栄一

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2007/02/11

下り醤油や最上醤油

中国から日本に伝わった醤は日本で味噌として発展し、その味噌を造るときに出る上澄み液が「溜り」とよばれる調味料として使われるようになって、これが醤油の元祖となりました。(関連:「醤油と金山寺味噌」)
室町時代にはこの溜りが上流階層の食事で頻繁に使われるようになったといいます。
室町時代以前、刺身は酢や酢みそに付けて食べられていましたが、これらに代わって醤油が使われ始めたのも室町時代のことです。

            ○

「醤油」という言葉も室町時代の頃から使われ始めたと考えられています。
「醤油」の文字が出てくる最古の文献は、1559年に公家によって書かれた日記だといわれています。
この日記に「醤油の小桶を送る」という記述があるのです。
ただしこの日記に出てくる醤油が本当に調味料である醤油を指しているのかは定かではないため、調味料としての「醤油」という言葉の使用が確認できる最も古い文献は、江戸時代より少し前になる1597年に書かれた『易林本節用集(えきりんぼんせつようしゅう)』であるという説もあるようです。

            ○

室町時代の溜りと呼ばれた醤油は、大豆でつくる大豆麹に食塩を混ぜてから丸めたものを発酵させ、この玉から垂れてくる液を集めてつくられていました。
この製法では大量の醤油を造ることはできないため、この時代の醤油は正月料理やお盆用料理に限って使われる貴重な調味料として扱われていたといいます。

            ○

安土桃山時代になると醤油の生産方法が改善されていき、生産量も徐々に増えていきました。
この頃になると、炒ってから搗いた大麦を煮大豆に混ぜ込んで麹菌をつくり、ここに水と塩を加え、時々かき混ぜながら75日間寝かせて発酵させ、最終的には布製の袋で濾しとるという方法で醤油が造られ、「一番醤油」や「生揚げ」の名称で呼ばれていました。

            ○

江戸時代も元禄の頃になると、麹菌を造るのに大麦だけでなく小麦も加えられるようになります。
これは今でいう「濃口醤油」製造の始まりであり、時代が進むと大麦を混ぜる量は次第に減っていき、後に小麦だけが使われるようになったのです。

            ○

江戸時代の初め頃、関東で消費される醤油の殆どは関西で製造されていました。
江戸で「下り醤油」と呼ばれた上方産醤油は、輸送費が掛かることから関東で非常に高価なものとなり、酒と値段が変わらないという時代もあったようです。

江戸時代初期の関東でも醤油は僅かに造られていましたが、酒と共に上方文化の象徴として扱われた高品質の関西産醤油は関東産のものより2倍近く価格が高かったといいます。

蕎麦をツユに少しだけ付けるのが粋な食べ方だという考えは、醤油の価格が高かった頃の江戸の蕎麦屋が麺つゆを倹約するために吹聴したことによってできたという説もあります。

            ○

17世紀後半になると、野田の高梨家や茂木家で醤油が造られるようになり、江戸での醤油の大量生産が本格的に始まったことから、関東における関西産醤油の消費量は次第に減っていきました。

関東の醤油主産地の一つとなる銚子に醤油作りを伝えたのは、醤油発祥地ともされている湯浅出身の浜口儀兵衛らだったといわれています。
紀州と房州の間には黒潮が流れているため、湯浅近くで海難に遭って銚子あたりまで流された人がこの当時多くおり、このような人達の中にも銚子の醤油造りに貢献した人がいたのではないかとも推測されています。

            ○

江戸時代末期にインフレによる物価上昇が大きな問題となり、幕府は強制的に全ての物の価格を30〜40%下げる政策をとったことがありました。
しかし醤油造りはコストを抑えたり品質を落とすことはできないとして、醤油価格引き下げに対して醤油製造家達が猛反対しています。
この醤油製造家達の訴えは幕府により認められため、野田や銚子で造られる一部の醤油価格は例外的に据え置かれ、他と区別するためにこれらの醤油には「最上醤油」という名称がつけられました。
これに次ぐ物には「次最上」、その下のものには「極上」という名が付けられましたが、これらの等級名はつい最近までブランド名のようにして使われ続け、醤油のラベルにも表記されていたのです。

            ○

ところで現在の醤油には、代表的な「濃口醤油」の他にも、「淡口醤油」や「溜り醤油」「白醤油」「甘露醤油」「生醤油」「減塩醤油」などがあります。
以下がそれぞれの醤油の特徴です。

濃口醤油 
一般的に醤油と言えば濃口醤油を指し、日本の醤油生産額の90%はこの濃口醤油が占めています。
関東で発達した醤油で、野田や銚子、兵庫県の高砂などが主産地となっています。

淡口醤油 
関西での消費が多い醤油です。
濃口醤油より色が薄いのですが塩味はやや強めです。
素材の色を生かして料理したいときに使われます。
製法は濃口醤油とほぼ同じですが、大豆を蒸すときや小麦を炒る工程で色がつかないように工夫されています。

溜り醤油
醤油の元祖といわれています。
とろみがあり、色が濃く、味も濃いのが特徴で、刺身や煮物に使われたりしています。
中部地方での消費が多いようです。

白醤油 
淡口醤油に似ていますが淡口醤油より色が薄く金色に近い色をしています。
江戸時代に紀州でつくられたといわれ、やはり中部地方での消費が多い醤油です。

甘露醤油
濃口醤油の製法と同じように造られますが、濃口醤油に塩水が使われるのに対して、甘露醤油では塩の代わりに生醤油が使われているため、味や香りはきわめて濃厚です。
山口県柳井でつくられ関西で使われています。

生醤油
火入れをしていない醤油で香りのよい醤油です。
加熱しても香りが残るため煮物料理などに好んで使われたりしています。

減塩醤油
濃口醤油と基本的には同じ製法でつくられていますが、使用する塩分の量は約50%になっています。
塩分の摂り過ぎに気をつけなければならない人向きの醤油です。

<関連書籍>

森浩一(1987)『味噌・醤油・酒の来た道—日本海沿岸諸民族の食文化と日本』小学館
嵐山光三郎・鈴木克夫(1990)『お醤油の来た道—味の謎への探険隊』徳間書店
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期—日本料理草創期』河出書房新社
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂
黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社

<醤油関連>

平安時代の醤油を味わう 平安時代の醤油を味わう
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日本の味 醤油の歴史 日本の味 醤油の歴史
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2007/02/04

醤油と金山寺味噌

日本の漬物や塩辛、納豆などの発酵食品の起源を辿っていくと中国の醤(ショウ)にまで遡ることができます。(関連:「塩辛は調味料」「納豆と納豆菌」)
醤(ショウ)とは材料に塩や酒を加え発酵させた調味料のことです。
紀元前3世紀という昔に、中国には100種類以上の醤があったという記録が残されているそうです。
醤がつくられ始めた頃は動物の肉や魚肉が材料として使われていましたが、後に穀物などの植物性の材料も使われるようになり、そのような醤が醤油の元祖にあたります。

            ○

穀物でつくられる醤についての記述が出てくる最古の文献は1世紀頃の中国で書かれた『論衡』です。
紀元1世紀かそれ以前から、大豆を原料とした「豆醤(トウショウ)」や黒大豆を使った「鼓(クキ)」など、植物性の醤がつくられるようになったと考えられています。

大豆を使った醤には日本の味噌に近い固形の発酵調味料や、大豆に小麦を加えた甘い味噌である麺醤がありました(「麺醤」は「甜面醤」や「甜醤」ともいいます)。
そしてもう一つの系統に「醤油」(または「清醤」)という液状の醤があったといいます。
「醤油」の名に使われる「油」という字は「あぶら」が原料として使われたということではなく、トロトロとした粘度のあるものを意味しています。

            ○

大豆を使った醤は朝鮮半島に伝わり、その後平安時代の頃、日本に伝来して「ひしお」という和名がつけられました。
日本に伝わった当初の醤は液状のものではなく固形状で粒の残った固めのものであり、味噌の元祖ともいわれています。
日本人の嗜好に合うように醤が味噌へと発展していく過程で、もう一つ枝分かれして出てきたのが日本の醤油です。

            ○

日本で最初の醤油がどこでつくられたかについては、名古屋であるとか関西であるなど諸説があり定かではありません。
様々ある説の中の一つに、紀州の湯浅が醤油の発祥地だとするものがあります。
西方寺の覚心禅師がこの地に径山寺味噌を伝え、これが後に醤油になったというものです。

1249年、覚心禅師は日宋貿易船に乗って中国に渡り、杭州の径山興聖万寿禅寺で修行しました。
中国で覚心禅師は虚無僧の尺八を学び、1254年にこれを日本に持ち帰って虚無僧尺八の開祖になっています。

径山寺で覚心禅師は尺八だけでなく「鼓(クキ)」の作り方も学び、日本に帰ってからその作り方を湯浅で教えたといわれています。
これが後に「金山寺味噌」と呼ばれるようになった味噌です。

ある時、金山寺味噌を造っている過程で、味噌を発酵させる容器から濃い色をした汁が垂れ落ちているのに覚心禅師は気づいたといいます。
覚心禅師が試しにこれをなめてみると、この味噌から染み出た液の味はとても良く、調味料として使えることを発見したということで、これが日本での醤油の始まりになったという言い伝えがあるのです。

            ○

日本の各地で、味噌の上に押し込んだザルに浮き出る上澄み液が調味料として使われるようになると、これが「溜り」とよばれるようになりました。
もともと「味噌溜り」と呼ばれていたものが短縮されて「溜り」という名になったもので、これが「溜り醤油」の語源ともなったのです。

            ○

現在、味噌は大豆と米と麦を蒸してから麹と塩を混ぜ、発酵させてつくられます。
一方、醤油は大豆に小麦粉と食塩水を混ぜて作られます。
豆に麹菌を直接つけて発酵させてつくられるのが醤油であり、米や麦についた麹菌によって間接的に豆を発酵させることでつくられるのが味噌なのですが、この発酵方法の違いが二つの調味料に異なった特徴を与えることになります。
味噌に比べて、大豆を直接的に発酵させる醤油の製法は大豆をより分解することになり、鋭い味がつくられますが、醤油に含まれる大豆の栄養価は味噌よりも少なくなります。
逆に、味噌をつくる過程では大豆の栄養価は保たれますが、味噌の味は醤油に比べてボケた感じがするのです。

<参考書籍>

森浩一(1987)『味噌・醤油・酒の来た道—日本海沿岸諸民族の食文化と日本』小学館
嵐山光三郎・鈴木克夫(1990)『お醤油の来た道—味の謎への探険隊』徳間書店
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期—日本料理草創期』河出書房新社
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂
黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社

<醤油関連>

Hario しょうゆさし・丸 166ml SUM-2BU Hario しょうゆさし・丸 166ml SUM-2BU

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これさえあれば—極上の調味料を求めて これさえあれば—極上の調味料を求めて
藤田 千恵子


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水・塩・みそ・しょうゆ—これでわかる本物 水・塩・みそ・しょうゆ—これでわかる本物
オーガニック研究会


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2007/01/21

蕎麦と江戸の屋台

江戸時代には行商人が天秤棒に様々な商品をぶら下げて町の中を売り歩いていました。
火を持ち歩いて暖かい食べものを売り歩く商人もおり、蕎麦も夜間に屋台で売られていたのです。
夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていました。
蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となりました。

            ○

火を扱う屋台は度々火事の元になったため、江戸時代を通じて徳川幕府は夜蕎麦売りなどを再三禁じようとしましたが、この規制はあまりうまくいかず、蕎麦の屋台売りも排除されることはありませんでした。
むしろ江戸の火事は屋台を増やす切っ掛けになったともいわれています。

1657年に江戸の町の三分の二が焼失してしまう大火事があり、これ以降、江戸の屋台店が増加したのです。
大火後の再建による復興景気で職人の給料が暴騰し、地方の職人も江戸に流れこむようになり、この激増した職人達を目当てにした振り売りと呼ばれる屋台が増えたためです。
その中でも夜中に売られる蕎麦やうどんは人気がありました。

            ○

当時の夜蕎麦売りの営業期間は立冬(今でいえば11月初め頃)から冬の終わりまでの間でした。
夜蕎麦売りが冬期に限られたのは江戸時代の生活習慣に関連しています。

江戸時代は日の出と日の入りに合わせて食事が摂られ、燃料節約のため夕食後はなるべく早く就寝していました。
冬の間は夕食事間が早く朝食時間が遅いことから夜中に小腹がすくこともありました。
しかし一度消した火をおこし直すのは手間が掛かり、お腹が減っても起き出して夜食を作ることはこの時代簡単ではありませんでした。
そこで、冬期の夜蕎麦売りが江戸の庶民から便利に使われていたのです。

            ○

屋台蕎麦屋が出始めた頃から夜蕎麦売りは「夜鷹蕎麦」と呼ばれるようになりました。
この夜鷹蕎麦の夜鷹とは、夜の街角に立ち色を売る女性のことを意味したという説があります。
このような女性達が夜蕎麦売りの常連客だったことから夜鷹蕎麦の名がついたといいます。

夜鷹蕎麦の名の由来についてはもう一つ説があります。
江戸時代には鷹匠用につくられる「お鷹蕎麦」と呼ばれる蕎麦がありました。
暴れん坊将軍』でお馴染みの徳川吉宗の時代に、このお鷹蕎麦を屋台で販売することが許可され、そのお鷹蕎麦の屋台販売の殆どが夜に行われたことから夜鷹蕎麦の名がついたともいわれています。

夜鷹蕎麦という呼び名は幕末まで使われました。

            ○

この当時、一人の元締めが数十人の夜蕎麦売りを雇い、蕎麦の材料や屋台を支給し商売をさせていました。
材料を支給すると言っても、夜蕎麦売りが出始めた頃のメニューには「ぶっかけ」とよばれるかけそばしかありませんでした。
「ぶっかけ」とは、荷物運びの人足が素早く立ち食いできるように冷たいツユをかけた蕎麦のことで、出始めの頃は下賎な食べものとされていました。

その後、温かいツユを使ったぶっかけが売られ始めると、温かいぶっかけが「かけ」と呼ばれるようになり、それまでぶっかけと呼ばれた冷たい蕎麦は「もり」とよばれるようになったといわれています。(もりそばの名の由来は「蕎麦と江戸っ子」)

            ○

1700年代後半になると「しっぽく」と呼ばれる蕎麦が風鈴蕎麦で売られるようになりました。
風鈴蕎麦は屋台蕎麦の一種ですが、夜鷹蕎麦より若干品質の高いものを夜鷹蕎麦より少し割高に売る屋台で、呼び声をだすかわりに屋台の屋根の下につけた風鈴の音で客に蕎麦売りが来ていることを知らせていました。

この風鈴蕎麦で売られるようになったしっぽくはもともと関西で始まったものです。
蕎麦の上に卵焼き、蒲鉾、松茸、椎茸、慈姑などをのせたものがしっぽく蕎麦で、これが後の「おかめ」になりました。
もっとも、江戸時代の夜蕎麦屋台で売られたしっぽくはそんな豪勢な蕎麦ではなく、竹輪のみがのせられていたようです。

ちなみに、天ぷら蕎麦や鴨南蛮などのメニューも江戸時代の蕎麦屋が考案したものです。
この頃には、馬鹿貝の貝柱をのせた「霰」や揉んだ浅草海苔をのせた「花巻」というメニューもあったといいます。

            ○

江戸時代末期になると夜鷹蕎麦は次第に消えていくことになります。
これは18世紀後半から店舗営業の蕎麦屋が増加したことが一因にありました。

1787年には江戸の蕎麦屋の店舗数は65軒しかありませんでしたが、1860年には3763軒になっていたという記録も残されています(現在、東京都内にある蕎麦屋は6000軒程度)。

また、明治時代になって文明開化の大号令が出されると、古いものが敬遠され新しいものが歓迎された世の風潮の高まりや生活習慣の変化もあって蕎麦自体の人気も下降し、屋台の蕎麦売りも次第に必要とされなくなっていったのです。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

東京 五つ星の蕎麦 東京 五つ星の蕎麦
見田 盛夫


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移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ 移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ
烏川 清治


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江戸っ子は何を食べていたか 江戸っ子は何を食べていたか
大久保 洋子


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2007/01/14

蕎麦と江戸っ子

蕎麦発祥の地がどこなのかについてはよく分かっていませんが(関連:「蕎麦と寺」)、蕎麦が商品として最初に売られ始めた場所は大阪だったという説があります。
豊臣秀吉が大阪城を築城するときに大阪には多くの人足や職人が集められ、この労働者を目当てにした「砂場」と呼ばれる蕎麦を商いする店が大阪の町で多く見られるようになったのだといわれています。

            ○

関東に蕎麦を売る店が増えたのも江戸の町が開発された頃のことです。
徳川家康が駿府から関東に国替えさせられたとき、多くの商人が徳川家康と共に江戸に移り住み、この中には駿河で蕎麦を売っていた商人も含まれていました。
この駿河から江戸に移住した蕎麦屋の人達が、後に華開く江戸の蕎麦文化の重要な礎の一部となっていったのです。

            ○

蕎麦つくりの歴史の初期頃、蕎麦は短時間茹でられてから蒸籠で蒸されていました。
これは、当時、蕎麦打ちに「つなぎ」が殆ど使われていなかったためです。
うどんに使われる小麦粉は粘りを出すグルテンを含んでいますが、ソバ粉にはそれが含まれていません。
そのため、つなぎ無しで打った蕎麦を長時間茹でると切れたり溶けてしまったりするため、蒸して加熱されていたのです。
このことから当時の蕎麦は「せいろうそば」とか「蒸し蕎麦」の名で呼ばれていました。

現在の「もりそば」の名は蒸し蕎麦が蒸籠に盛り上げられていたことに由来しています。
「ざるそば」はもともと竹ざるに盛られていたことからこの名が付けられましたが、いつの間にか海苔が掛けてあるものがざるそばと呼ばれるようになりました。

            ○

1700年代初期の江戸では主に菓子屋が蕎麦をつくっていました。
つなぎを使わずにソバ粉だけで打たれた蕎麦を茹でるのは簡単ではなく、蒸す技術を持った菓子屋が副業として蒸し蕎麦を販売していたのです。
しかし中には蕎麦の方が菓子よりもよく売れる店も出てくるようになり、次第に蕎麦を専門に売る店が増えていきました。

            ○

1700年代後半になると、江戸ではうどんよりも蕎麦の方が人気を得るようになります。
関西ではうどん、関東では蕎麦が好まれるという傾向が見られるようになったのはこの時代の頃からです。
関西ではうどんの原料となる小麦の栽培地が多かったのに対し、関東には火山灰が堆積した土地が多かったため、そのような土壌に合うソバ栽培が関東で盛んになり、このことが関東で蕎麦が好まれる一因になったと考えられています。

            ○

江戸で蕎麦の消費が増えるようになると、蕎麦打ちが効率よく行えるように次第に「つなぎ」が使われ始めました。
江戸時代に書かれた『料理物語』には、蕎麦を打つ時のつなぎに豆腐や重湯を使う方法が記されています。
豆腐ではなく大豆を水に浸けてからすり潰した「呉汁」と呼ばれるものをつなぎとして入れると蕎麦の保存性が高まるということも江戸時代中期頃に発見されています。
この呉汁は青森の一部の地方では今でも使われているものです。
その後、蕎麦職人達の試行錯誤の末、蕎麦のつなぎとしては小麦粉を使うのが一般的になっていきました。

            ○

二八蕎麦の名はソバ粉とつなぎの小麦粉を混ぜる割合が8対2であったことに由来しているという説があります。
そうではなく、長い間、江戸時代の蕎麦の値段が十六文だったため、二八の十六のシャレからこの名がついたのだという説や、江戸時代の蕎麦一杯の量は一人で二杯食べて丁度お腹がふくれるくらいしかなく、一杯が八文で二杯食べると十六文になることから二八そばと言われるようになったという説もあり、二八そばの語源については諸説ありますが本当のところは分かっていません。

            ○

江戸時代の蕎麦の盛りが少なかったのは蕎麦屋がケチったからというより、それが江戸の流行だったからです。
江戸っ子の間では小食であることを「江戸腹」と言い、これが粋とされていました。
山盛りにされたものを腹一杯食べるのは粋とは言えず、蕎麦も小盛りにされたものが江戸っ子に好まれていたのです。

            ○

この「粋」を愛した江戸っ子にとって、蕎麦は最も粋な食べものの一つでした。
また、「粋」に「艶」はつきものだったことから、粋な食べものの蕎麦は江戸っ子に「艶」を連想させていたようです。

江戸時代の蕎麦屋の二階は逢い引きによく使われたようですし、吉原の遊び客が「ここに来る前に蕎麦を食べてきた」と遊女に言えば、遊女から「粋な人」と思われたともいいます。
現代の日本でも、イタリア料理を食べるとかフレンチのお店に行くということにオシャレな響きがありますが、それに近い印象が江戸時代の蕎麦や蕎麦屋にあったのかもしれません。

            ○

ところで、江戸時代の蕎麦職人は蕎麦を細くつくれるようになればなるほど、高い給料がもらえたといいます。
これは細い蕎麦が江戸っ子の「粋」感覚に合致していたからです。

しかし単に細い麺であれば粋であるというわけではありませんでした。
そうめんも細長い麺ですが、江戸っ子がそうめんを粋な食べものと見なしていなかったことでもそのことが分かります。

細いのに茹でても切れずにコシのある蕎麦を食べさせるには高い技術が必要になります。
色や香り、食感などの要素が上手く組み合わさり、切れそうなほど細い麺にそれらの要素が一つにまとめられ、しかもその高度な技術がこれ見よがしに誇張してみせられるのではなく、ただ「細さ」という一点だけでさり気なく表現される蕎麦という食べものは江戸っ子の「粋」感覚に合っていました。
そのため、蕎麦は細ければ細いほど粋であるとされ、細い蕎麦をつくれる職人は「粋」を提供できる人として高給を得ることができたのです。

<関連書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88 そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88
国松 靖弘


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江戸の満腹力—時代小説傑作選 江戸の満腹力—時代小説傑作選
細谷 正充


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江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック 江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック
吉田 悦子 神田雑学大学


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2007/01/07

蕎麦と寺

江戸時代の頃、12月は新蕎麦が食べられる最後の月でした。
霜にあたってから刈り取られたソバの実はおいしいといわれ、一部のソバが12月に収穫され新蕎麦として楽しまれていたのです。(関連:「蕎麦になるソバの実」)
そのようなこともあってか、江戸時代には年越し蕎麦以外にも12月に蕎麦を食べる機会が多かったようです。
例えば12月13日の煤払いの日に掃除をしてくれた人達に蕎麦が供されたり、12月の14日から26日まで江戸の町の各所で開かれた歳の市でも人々は蕎麦を味わいました。

            ○

また、この時代には月末に蕎麦を食べるとお金に困らないとされ、12月以外の月でも月末になると蕎麦を好んで食べることもありました。
これは、当時、金箔を延ばすのにソバ粉が使われたり、金や銀の粉が散ったときにソバ粉を蒔いて吸着させていたことから、げん担ぎに蕎麦が食べられたのだともいわれています。

            ○

「年越し蕎麦」にも縁起かつぎの意味が込められており、江戸時代には「運の蕎麦」や「運蕎麦」ともよばれました。
「大晦日蕎麦」や「除夜の蕎麦」などともいいましたが、この当時に「年越し蕎麦」という言葉は使われていなかったようです。

            ○

昔はソバ粉を捏ねてから延ばして切ったものを「蕎麦切り」といいました。
これが後に縮まって単に「蕎麦」と呼ばれるようになったのです。
蕎麦切り発祥の地には、信州本山宿(現在の塩尻)や甲州栖雲寺(現在の山梨県東山梨群大和村)などが挙げられていますが、これらの場所で最初に蕎麦が打たれたという確証はなく、蕎麦切りの始まりについては定かにされていません。

            ○

日本の文献に蕎麦切りという言葉が最初に出てきたのは長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書で、1574年に定勝寺の仏殿修理が行われた際の寄進記録に蕎麦切りという言葉が記されています。

蕎麦切りをどのように食べたかについて記した最も古い文献は1636年に儒者である掘杏庵が書いた「中山日録」です。
掘杏庵は、蕎麦切りとは冷麦のように細く冷たいものであり、これを醤油に大根の搾り汁とねぎ、細かく削ったかつお節を加えたものにつけて食べたと書き残しています。

            ○

蕎麦切りは茶道を通じて広まったといわれています。
茶道では早くから蕎麦切りを取り入れており、茶道の決まり事に準じて食事をする懐石料理で蕎麦切りを出すようになったのです。
茶道の広まりと共に公家や武士、町人の間に蕎麦切りが普及したのだろうと推測されています。

            ○

蕎麦切りは禅寺を介して庶民の間にも普及していきました。
粉を麺にする方法は僧により中国から日本に持ち込まれたといわれており、ソバ粉から蕎麦切りを作る技術も各地の禅寺から庶民に伝えられたと考えられています。
しかし、蕎麦切りを作るのには手間が掛かるため、地方の庶民は蕎麦切りを日常的に食べるわけにもいかず、ハレの日の食べものとして祭の日や冠婚葬祭の時だけ作っていました。
今でもハレの日に蕎麦を食べる風習が残る地域は多くあります。

            ○

蕎麦と寺との結びつきを表す逸話があります。
1596年に信州松本出身で蕎麦打ち好きな和尚が湯島に創建された道光庵に入ったのだそうです。
この和尚がつくる蕎麦はおいしいと評判になったことから町の人々が寺に押し掛けるようになり、寺はまるで蕎麦屋のようになったといいます。
道光庵の本寺である京都知恩院はこの状況に怒り、「不許蕎麦入境内(蕎麦境内に入るを許さず)」という石柱を道光庵の門前に立てたといいます。
現在でも「○○庵」という名前の蕎麦屋は多くありますが、これは蕎麦で人出が増えた道光庵にあやかろうとして店の名前に「庵」を入れるのが蕎麦屋の名前の一つの定番になったためだといわれています。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

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