蕎麦と寺
江戸時代の頃、12月は新蕎麦が食べられる最後の月でした。
霜にあたってから刈り取られたソバの実はおいしいといわれ、一部のソバが12月に収穫され新蕎麦として楽しまれていたのです。(関連:「蕎麦になるソバの実」)
そのようなこともあってか、江戸時代には年越し蕎麦以外にも12月に蕎麦を食べる機会が多かったようです。
例えば12月13日の煤払いの日に掃除をしてくれた人達に蕎麦が供されたり、12月の14日から26日まで江戸の町の各所で開かれた歳の市でも人々は蕎麦を味わいました。
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また、この時代には月末に蕎麦を食べるとお金に困らないとされ、12月以外の月でも月末になると蕎麦を好んで食べることもありました。
これは、当時、金箔を延ばすのにソバ粉が使われたり、金や銀の粉が散ったときにソバ粉を蒔いて吸着させていたことから、げん担ぎに蕎麦が食べられたのだともいわれています。
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「年越し蕎麦」にも縁起かつぎの意味が込められており、江戸時代には「運の蕎麦」や「運蕎麦」ともよばれました。
「大晦日蕎麦」や「除夜の蕎麦」などともいいましたが、この当時に「年越し蕎麦」という言葉は使われていなかったようです。
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昔はソバ粉を捏ねてから延ばして切ったものを「蕎麦切り」といいました。
これが後に縮まって単に「蕎麦」と呼ばれるようになったのです。
蕎麦切り発祥の地には、信州本山宿(現在の塩尻)や甲州栖雲寺(現在の山梨県東山梨群大和村)などが挙げられていますが、これらの場所で最初に蕎麦が打たれたという確証はなく、蕎麦切りの始まりについては定かにされていません。
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日本の文献に蕎麦切りという言葉が最初に出てきたのは長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書で、1574年に定勝寺の仏殿修理が行われた際の寄進記録に蕎麦切りという言葉が記されています。
蕎麦切りをどのように食べたかについて記した最も古い文献は1636年に儒者である掘杏庵が書いた「中山日録」です。
掘杏庵は、蕎麦切りとは冷麦のように細く冷たいものであり、これを醤油に大根の搾り汁とねぎ、細かく削ったかつお節を加えたものにつけて食べたと書き残しています。
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蕎麦切りは茶道を通じて広まったといわれています。
茶道では早くから蕎麦切りを取り入れており、茶道の決まり事に準じて食事をする懐石料理で蕎麦切りを出すようになったのです。
茶道の広まりと共に公家や武士、町人の間に蕎麦切りが普及したのだろうと推測されています。
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蕎麦切りは禅寺を介して庶民の間にも普及していきました。
粉を麺にする方法は僧により中国から日本に持ち込まれたといわれており、ソバ粉から蕎麦切りを作る技術も各地の禅寺から庶民に伝えられたと考えられています。
しかし、蕎麦切りを作るのには手間が掛かるため、地方の庶民は蕎麦切りを日常的に食べるわけにもいかず、ハレの日の食べものとして祭の日や冠婚葬祭の時だけ作っていました。
今でもハレの日に蕎麦を食べる風習が残る地域は多くあります。
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蕎麦と寺との結びつきを表す逸話があります。
1596年に信州松本出身で蕎麦打ち好きな和尚が湯島に創建された道光庵に入ったのだそうです。
この和尚がつくる蕎麦はおいしいと評判になったことから町の人々が寺に押し掛けるようになり、寺はまるで蕎麦屋のようになったといいます。
道光庵の本寺である京都知恩院はこの状況に怒り、「不許蕎麦入境内(蕎麦境内に入るを許さず)」という石柱を道光庵の門前に立てたといいます。
現在でも「○○庵」という名前の蕎麦屋は多くありますが、これは蕎麦で人出が増えた道光庵にあやかろうとして店の名前に「庵」を入れるのが蕎麦屋の名前の一つの定番になったためだといわれています。
<参考書籍>
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社
<蕎麦関連>
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