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2007/01/21

蕎麦と江戸の屋台

江戸時代には行商人が天秤棒に様々な商品をぶら下げて町の中を売り歩いていました。
火を持ち歩いて暖かい食べものを売り歩く商人もおり、蕎麦も夜間に屋台で売られていたのです。
夜蕎麦売りの屋台は、天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっていました。
蕎麦売りは天秤棒をかついで移動し、これが降ろされると天秤棒の両端に付いた箱が屋台の柱となりました。

            ○

火を扱う屋台は度々火事の元になったため、江戸時代を通じて徳川幕府は夜蕎麦売りなどを再三禁じようとしましたが、この規制はあまりうまくいかず、蕎麦の屋台売りも排除されることはありませんでした。
むしろ江戸の火事は屋台を増やす切っ掛けになったともいわれています。

1657年に江戸の町の三分の二が焼失してしまう大火事があり、これ以降、江戸の屋台店が増加したのです。
大火後の再建による復興景気で職人の給料が暴騰し、地方の職人も江戸に流れこむようになり、この激増した職人達を目当てにした振り売りと呼ばれる屋台が増えたためです。
その中でも夜中に売られる蕎麦やうどんは人気がありました。

            ○

当時の夜蕎麦売りの営業期間は立冬(今でいえば11月初め頃)から冬の終わりまでの間でした。
夜蕎麦売りが冬期に限られたのは江戸時代の生活習慣に関連しています。

江戸時代は日の出と日の入りに合わせて食事が摂られ、燃料節約のため夕食後はなるべく早く就寝していました。
冬の間は夕食事間が早く朝食時間が遅いことから夜中に小腹がすくこともありました。
しかし一度消した火をおこし直すのは手間が掛かり、お腹が減っても起き出して夜食を作ることはこの時代簡単ではありませんでした。
そこで、冬期の夜蕎麦売りが江戸の庶民から便利に使われていたのです。

            ○

屋台蕎麦屋が出始めた頃から夜蕎麦売りは「夜鷹蕎麦」と呼ばれるようになりました。
この夜鷹蕎麦の夜鷹とは、夜の街角に立ち色を売る女性のことを意味したという説があります。
このような女性達が夜蕎麦売りの常連客だったことから夜鷹蕎麦の名がついたといいます。

夜鷹蕎麦の名の由来についてはもう一つ説があります。
江戸時代には鷹匠用につくられる「お鷹蕎麦」と呼ばれる蕎麦がありました。
暴れん坊将軍』でお馴染みの徳川吉宗の時代に、このお鷹蕎麦を屋台で販売することが許可され、そのお鷹蕎麦の屋台販売の殆どが夜に行われたことから夜鷹蕎麦の名がついたともいわれています。

夜鷹蕎麦という呼び名は幕末まで使われました。

            ○

この当時、一人の元締めが数十人の夜蕎麦売りを雇い、蕎麦の材料や屋台を支給し商売をさせていました。
材料を支給すると言っても、夜蕎麦売りが出始めた頃のメニューには「ぶっかけ」とよばれるかけそばしかありませんでした。
「ぶっかけ」とは、荷物運びの人足が素早く立ち食いできるように冷たいツユをかけた蕎麦のことで、出始めの頃は下賎な食べものとされていました。

その後、温かいツユを使ったぶっかけが売られ始めると、温かいぶっかけが「かけ」と呼ばれるようになり、それまでぶっかけと呼ばれた冷たい蕎麦は「もり」とよばれるようになったといわれています。(もりそばの名の由来は「蕎麦と江戸っ子」)

            ○

1700年代後半になると「しっぽく」と呼ばれる蕎麦が風鈴蕎麦で売られるようになりました。
風鈴蕎麦は屋台蕎麦の一種ですが、夜鷹蕎麦より若干品質の高いものを夜鷹蕎麦より少し割高に売る屋台で、呼び声をだすかわりに屋台の屋根の下につけた風鈴の音で客に蕎麦売りが来ていることを知らせていました。

この風鈴蕎麦で売られるようになったしっぽくはもともと関西で始まったものです。
蕎麦の上に卵焼き、蒲鉾、松茸、椎茸、慈姑などをのせたものがしっぽく蕎麦で、これが後の「おかめ」になりました。
もっとも、江戸時代の夜蕎麦屋台で売られたしっぽくはそんな豪勢な蕎麦ではなく、竹輪のみがのせられていたようです。

ちなみに、天ぷら蕎麦や鴨南蛮などのメニューも江戸時代の蕎麦屋が考案したものです。
この頃には、馬鹿貝の貝柱をのせた「霰」や揉んだ浅草海苔をのせた「花巻」というメニューもあったといいます。

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江戸時代末期になると夜鷹蕎麦は次第に消えていくことになります。
これは18世紀後半から店舗営業の蕎麦屋が増加したことが一因にありました。

1787年には江戸の蕎麦屋の店舗数は65軒しかありませんでしたが、1860年には3763軒になっていたという記録も残されています(現在、東京都内にある蕎麦屋は6000軒程度)。

また、明治時代になって文明開化の大号令が出されると、古いものが敬遠され新しいものが歓迎された世の風潮の高まりや生活習慣の変化もあって蕎麦自体の人気も下降し、屋台の蕎麦売りも次第に必要とされなくなっていったのです。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

東京 五つ星の蕎麦 東京 五つ星の蕎麦
見田 盛夫


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移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ 移動販売で成功する本—みんなでHAPPYになろうよ
烏川 清治


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江戸っ子は何を食べていたか 江戸っ子は何を食べていたか
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2007/01/14

蕎麦と江戸っ子

蕎麦発祥の地がどこなのかについてはよく分かっていませんが(関連:「蕎麦と寺」)、蕎麦が商品として最初に売られ始めた場所は大阪だったという説があります。
豊臣秀吉が大阪城を築城するときに大阪には多くの人足や職人が集められ、この労働者を目当てにした「砂場」と呼ばれる蕎麦を商いする店が大阪の町で多く見られるようになったのだといわれています。

            ○

関東に蕎麦を売る店が増えたのも江戸の町が開発された頃のことです。
徳川家康が駿府から関東に国替えさせられたとき、多くの商人が徳川家康と共に江戸に移り住み、この中には駿河で蕎麦を売っていた商人も含まれていました。
この駿河から江戸に移住した蕎麦屋の人達が、後に華開く江戸の蕎麦文化の重要な礎の一部となっていったのです。

            ○

蕎麦つくりの歴史の初期頃、蕎麦は短時間茹でられてから蒸籠で蒸されていました。
これは、当時、蕎麦打ちに「つなぎ」が殆ど使われていなかったためです。
うどんに使われる小麦粉は粘りを出すグルテンを含んでいますが、ソバ粉にはそれが含まれていません。
そのため、つなぎ無しで打った蕎麦を長時間茹でると切れたり溶けてしまったりするため、蒸して加熱されていたのです。
このことから当時の蕎麦は「せいろうそば」とか「蒸し蕎麦」の名で呼ばれていました。

現在の「もりそば」の名は蒸し蕎麦が蒸籠に盛り上げられていたことに由来しています。
「ざるそば」はもともと竹ざるに盛られていたことからこの名が付けられましたが、いつの間にか海苔が掛けてあるものがざるそばと呼ばれるようになりました。

            ○

1700年代初期の江戸では主に菓子屋が蕎麦をつくっていました。
つなぎを使わずにソバ粉だけで打たれた蕎麦を茹でるのは簡単ではなく、蒸す技術を持った菓子屋が副業として蒸し蕎麦を販売していたのです。
しかし中には蕎麦の方が菓子よりもよく売れる店も出てくるようになり、次第に蕎麦を専門に売る店が増えていきました。

            ○

1700年代後半になると、江戸ではうどんよりも蕎麦の方が人気を得るようになります。
関西ではうどん、関東では蕎麦が好まれるという傾向が見られるようになったのはこの時代の頃からです。
関西ではうどんの原料となる小麦の栽培地が多かったのに対し、関東には火山灰が堆積した土地が多かったため、そのような土壌に合うソバ栽培が関東で盛んになり、このことが関東で蕎麦が好まれる一因になったと考えられています。

            ○

江戸で蕎麦の消費が増えるようになると、蕎麦打ちが効率よく行えるように次第に「つなぎ」が使われ始めました。
江戸時代に書かれた『料理物語』には、蕎麦を打つ時のつなぎに豆腐や重湯を使う方法が記されています。
豆腐ではなく大豆を水に浸けてからすり潰した「呉汁」と呼ばれるものをつなぎとして入れると蕎麦の保存性が高まるということも江戸時代中期頃に発見されています。
この呉汁は青森の一部の地方では今でも使われているものです。
その後、蕎麦職人達の試行錯誤の末、蕎麦のつなぎとしては小麦粉を使うのが一般的になっていきました。

            ○

二八蕎麦の名はソバ粉とつなぎの小麦粉を混ぜる割合が8対2であったことに由来しているという説があります。
そうではなく、長い間、江戸時代の蕎麦の値段が十六文だったため、二八の十六のシャレからこの名がついたのだという説や、江戸時代の蕎麦一杯の量は一人で二杯食べて丁度お腹がふくれるくらいしかなく、一杯が八文で二杯食べると十六文になることから二八そばと言われるようになったという説もあり、二八そばの語源については諸説ありますが本当のところは分かっていません。

            ○

江戸時代の蕎麦の盛りが少なかったのは蕎麦屋がケチったからというより、それが江戸の流行だったからです。
江戸っ子の間では小食であることを「江戸腹」と言い、これが粋とされていました。
山盛りにされたものを腹一杯食べるのは粋とは言えず、蕎麦も小盛りにされたものが江戸っ子に好まれていたのです。

            ○

この「粋」を愛した江戸っ子にとって、蕎麦は最も粋な食べものの一つでした。
また、「粋」に「艶」はつきものだったことから、粋な食べものの蕎麦は江戸っ子に「艶」を連想させていたようです。

江戸時代の蕎麦屋の二階は逢い引きによく使われたようですし、吉原の遊び客が「ここに来る前に蕎麦を食べてきた」と遊女に言えば、遊女から「粋な人」と思われたともいいます。
現代の日本でも、イタリア料理を食べるとかフレンチのお店に行くということにオシャレな響きがありますが、それに近い印象が江戸時代の蕎麦や蕎麦屋にあったのかもしれません。

            ○

ところで、江戸時代の蕎麦職人は蕎麦を細くつくれるようになればなるほど、高い給料がもらえたといいます。
これは細い蕎麦が江戸っ子の「粋」感覚に合致していたからです。

しかし単に細い麺であれば粋であるというわけではありませんでした。
そうめんも細長い麺ですが、江戸っ子がそうめんを粋な食べものと見なしていなかったことでもそのことが分かります。

細いのに茹でても切れずにコシのある蕎麦を食べさせるには高い技術が必要になります。
色や香り、食感などの要素が上手く組み合わさり、切れそうなほど細い麺にそれらの要素が一つにまとめられ、しかもその高度な技術がこれ見よがしに誇張してみせられるのではなく、ただ「細さ」という一点だけでさり気なく表現される蕎麦という食べものは江戸っ子の「粋」感覚に合っていました。
そのため、蕎麦は細ければ細いほど粋であるとされ、細い蕎麦をつくれる職人は「粋」を提供できる人として高給を得ることができたのです。

<関連書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88 そば通—江戸ソバリエが選ぶ旨い蕎麦88
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江戸の満腹力—時代小説傑作選 江戸の満腹力—時代小説傑作選
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江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック 江戸ソバリエ—蕎麦を極めるソバのソムリエオフィシャル・ハンドブック
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2007/01/07

蕎麦と寺

江戸時代の頃、12月は新蕎麦が食べられる最後の月でした。
霜にあたってから刈り取られたソバの実はおいしいといわれ、一部のソバが12月に収穫され新蕎麦として楽しまれていたのです。(関連:「蕎麦になるソバの実」)
そのようなこともあってか、江戸時代には年越し蕎麦以外にも12月に蕎麦を食べる機会が多かったようです。
例えば12月13日の煤払いの日に掃除をしてくれた人達に蕎麦が供されたり、12月の14日から26日まで江戸の町の各所で開かれた歳の市でも人々は蕎麦を味わいました。

            ○

また、この時代には月末に蕎麦を食べるとお金に困らないとされ、12月以外の月でも月末になると蕎麦を好んで食べることもありました。
これは、当時、金箔を延ばすのにソバ粉が使われたり、金や銀の粉が散ったときにソバ粉を蒔いて吸着させていたことから、げん担ぎに蕎麦が食べられたのだともいわれています。

            ○

「年越し蕎麦」にも縁起かつぎの意味が込められており、江戸時代には「運の蕎麦」や「運蕎麦」ともよばれました。
「大晦日蕎麦」や「除夜の蕎麦」などともいいましたが、この当時に「年越し蕎麦」という言葉は使われていなかったようです。

            ○

昔はソバ粉を捏ねてから延ばして切ったものを「蕎麦切り」といいました。
これが後に縮まって単に「蕎麦」と呼ばれるようになったのです。
蕎麦切り発祥の地には、信州本山宿(現在の塩尻)や甲州栖雲寺(現在の山梨県東山梨群大和村)などが挙げられていますが、これらの場所で最初に蕎麦が打たれたという確証はなく、蕎麦切りの始まりについては定かにされていません。

            ○

日本の文献に蕎麦切りという言葉が最初に出てきたのは長野県木曽郡大桑村定勝寺の古文書で、1574年に定勝寺の仏殿修理が行われた際の寄進記録に蕎麦切りという言葉が記されています。

蕎麦切りをどのように食べたかについて記した最も古い文献は1636年に儒者である掘杏庵が書いた「中山日録」です。
掘杏庵は、蕎麦切りとは冷麦のように細く冷たいものであり、これを醤油に大根の搾り汁とねぎ、細かく削ったかつお節を加えたものにつけて食べたと書き残しています。

            ○

蕎麦切りは茶道を通じて広まったといわれています。
茶道では早くから蕎麦切りを取り入れており、茶道の決まり事に準じて食事をする懐石料理で蕎麦切りを出すようになったのです。
茶道の広まりと共に公家や武士、町人の間に蕎麦切りが普及したのだろうと推測されています。

            ○

蕎麦切りは禅寺を介して庶民の間にも普及していきました。
粉を麺にする方法は僧により中国から日本に持ち込まれたといわれており、ソバ粉から蕎麦切りを作る技術も各地の禅寺から庶民に伝えられたと考えられています。
しかし、蕎麦切りを作るのには手間が掛かるため、地方の庶民は蕎麦切りを日常的に食べるわけにもいかず、ハレの日の食べものとして祭の日や冠婚葬祭の時だけ作っていました。
今でもハレの日に蕎麦を食べる風習が残る地域は多くあります。

            ○

蕎麦と寺との結びつきを表す逸話があります。
1596年に信州松本出身で蕎麦打ち好きな和尚が湯島に創建された道光庵に入ったのだそうです。
この和尚がつくる蕎麦はおいしいと評判になったことから町の人々が寺に押し掛けるようになり、寺はまるで蕎麦屋のようになったといいます。
道光庵の本寺である京都知恩院はこの状況に怒り、「不許蕎麦入境内(蕎麦境内に入るを許さず)」という石柱を道光庵の門前に立てたといいます。
現在でも「○○庵」という名前の蕎麦屋は多くありますが、これは蕎麦で人出が増えた道光庵にあやかろうとして店の名前に「庵」を入れるのが蕎麦屋の名前の一つの定番になったためだといわれています。

<参考書籍>

俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社

<蕎麦関連>

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国松 靖弘


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