« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006/12/31

大根いろいろ

世界に類がないほど日本では各地で多種多様な大根がつくられています。
日本に数多くある大根の品種は大きく三つに分類することができます。

            ○

一つは明治時代に日本に持ち込まれた紅色のラディッシュとも呼ばれる二十日大根です。
二十日大根はヨーロッパ系の小型大根で、サラダなどにして食べられています。

            ○

そしてあとの二種類は、根の部分に含まれる澱粉の量が少なく水分量が多い品種と、逆に澱粉量が多く水分が少ないものとに大別できます。

日本に最初に伝わった大根は澱粉が少なく水分の多いタイプの大根だったと考えられています。
「練馬大根」「三浦大根」「青首大根」「方領大根」「守口大根」「聖護院大根」「田辺大根」「桜島大根」などがこのタイプに入ります。

澱粉が多く水分が少ないタイプの大根は根の部分が硬く保存性にすぐれ、強い辛味を持つという特徴があり、漬け物の材料として利用されています。
中部地方や東北地方で多く栽培されており、京都の「鼠大根」や「辛味大根」はこの型に含まれます。

            ○

大根は澱粉や水分の量によって分類される他に、その祖先にあたる品種で区別される場合もあります。
例えば、愛知県春日井市原産の宮重系大根や、神奈川県三浦半島原産の三浦系大根、美濃早生系大根、京都の聖護院系大根などの系統で区別されるのです。

現在の市場で多く出回っている青首大根は宮重系です。
練馬大根も宮重系大根をルーツとしており、江戸時代に江戸近郊で品種改良された宮重系大根が練馬大根になったといわれています。

            ○

全国的に流通しているわけではないのに知名度の高い品種に桜島大根があります。
知名度の高さはご存知の通りその巨大な大きさ故です。
桜島大根は小さいものでも4キログラム、大きいものになると30キログラムもあり、過去最大のものとしては45キログラムという記録が残されています。
170年以上前の薩摩藩の記録にこの大根についての記述があり、桜島大根の栽培の歴史もかなり長いといえます。
桜島大根は愛知の方領大根の変種から作られたという説や、桜島に自生していた浜大根が原種だという説、国分大根を西桜島に持ち込んで栽培してみたところ桜島大根が誕生してしまったという話しもあり、そのルーツには諸説があります。

            ○

江戸時代末に尾張から現在の京都市左京区聖護院に長大根が持ち込まれ、短いものを掛け合わせて栽培していくうちに丸形の大根ができるようになりました。
この丸い大根が後に聖護院大根と呼ばれるようになったのです。
聖護院大根はおでん用の大根として有名です。
(聖護院大根について、「千枚漬の材料として有名」と紹介しましたが、千枚漬で全国的に有名になった京野菜は聖護院かぶでした。上記のように訂正させて頂きます。)

            ○

京都原産の大根には辛味大根もあります。
辛味大根は京都市北区鷹ヶ峰で400年以上前から栽培され始めたと言われており、やはり長い歴史をもつ品種です。

            ○

その他の変わり種大根としては、2メートルにも成長し粕漬けの材料にされている名古屋の守口大根や、外皮が褐色になる黒大根などがあり、一口に大根といってもその色や形は千差万別です。

            ○

名の通った大根の有名品種の原産地は大都市近郊が多いようです。
肥料といえば下肥(排泄物)に頼っていた江戸時代に、都市部で回収した肥やしを川船に載せて上流に運び、川の上流地域でこの下肥を使って野菜が栽培されていました。
上流域でつくられた野菜は船に載せられて消費地である下流域の都市部に運ばれ、都市部で消費された野菜はやがて下肥に変わり再び野菜栽培に使われたわけで、この野菜と下肥のサイクルが確立されていたことが、大都市近郊で優れた大根の品種が誕生した理由の一つだと考えられています。
例えば練馬や宮重、聖護院などはそれぞれ江戸、名古屋、京都の近郊に位置し、これらの地から練馬大根や宮重大根、聖護院大根が誕生しているのです。

            ○

ところで、日本人は様々な品種の大根をつくり、品種の特徴に合わせた色々な大根料理を考え出しました。
「大根おろし」という食べ方も日本人によって考案されたといわれています。
大根おろしは江戸時代には既に食べられていたことが記録により確認されていますが、それ以前にも大根おろしが食べられていたかどうかは定かにされていません。
ただ、江戸時代に辛味の少ない大根が栽培されるようになり、また同時代に醤油の大量生産が可能になって一般庶民でも醤油を使えるようになったという状況を考えると、大根おろしという食べ方が江戸時代に始まったとする説は有力なようです。

            ○

大根おろしは大根が持つ特質の一面を引き出すための調理法といえます。
大根をおろすと、大根の組織内に含まれる配糖体に酵素が作用して4メチル3ブテニル芥子油という辛子に似た物質がつくられ、大根おろしは辛味をもつようになります。
また、芥子油に含まれる硫黄分はうま味や風味の素になるのです。

            ○

よく大根おろしは焼魚に添えられますが、これは非常に理にかなった食べ方です。
大根にはジアスターゼ酵素が含まれており、消化し難い魚と一緒に大根おろしを食べれば、そのジアスターゼ酵素が澱粉の消化を助けてくれます。
また、焼魚の焦げた部分に含まれるといわれる発がん性物質を分解するオキシダーゼ酵素や、古くなった魚に含まれる有害な過酸化脂質を分解する酵素なども大根には含まれており、焼魚と一緒に大根おろしを食べれば、おいしいだけではなく体のためにも良いことが最近の研究で分かってきているのです。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<大根関連>

オラ、だいこんくん オラ、だいこんくん

by G-Tools
第6巻 大根・かぶ・白菜・クッキング 第6巻 大根・かぶ・白菜・クッキング
414033200X


by G-Tools
大根も値切れる女—デキる女性の駆け引きのコツ 大根も値切れる女—デキる女性の駆け引きのコツ
ウェンディ ケラー Wendy Keller 北村 礼子


by G-Tools
考える大根 大根読本―「食と農」の博物館特別企画『大根フェスタ』記念発刊 考える大根 大根読本―「食と農」の博物館特別企画『大根フェスタ』記念発刊
東京農業大学 東京農業大= 東農大= 東京農大= 「良い食材を伝える会」


by G-Tools

| | トラックバック (0)

2006/12/24

大根は大陸からやって来た

大根は地中海沿岸が原産地であるという説があります。
そうではなくて大根の野生種が中央アジアで生まれ、それがヨーロッパ方面と中国方面に伝播していったのだと考えている研究者もいるようです。

            ○

仮に大根が中央アジアで生まれたとしても、既に紀元前2200年という大昔に、エジプトでも大根が栽培されていました。
ピラミッド建設に従事していた労働者に、玉ねぎやにんにくと共に大根が配給されていたという記録が残されているのです。

古代ギリシャでも紀元前には大根が食べられていました。
この時代のギリシャでは、大根が金の器に盛られ神前に供えられていたようで、この野菜が珍重されていたことが伺えます。

            ○

紀元前1100年に編纂された中国最古の辞書『爾雅(ジガ)』にも大根についての記述があります。
中国で大根は「盧葩(ルパ)」や「莢菔(ラパ)」、「羅蔔(ロポ)」と呼ばれていたこともあったようです。
インドネシアで大根を意味する言葉の「lobak(ロバ)」は中国語の蘿蔔が語源になっていると考えられています。
日本語で千切りにした大根を「千六本」といいますが、これも中国語で大根の千切りを意味する「繊羅蔔(チェンロポ)」という言葉に由来しているのです。

            ○

日本に大根が伝わったのは紀元前三世紀ころの縄文時代後期頃という説があります。
弥生時代には里の周辺で里芋や豆などと共に大根が栽培されていました。

8世紀に書かれた日本最古の文献である『古事記』にも大根が出てきます。
『古事記』の中に仁徳天皇の歌があり、この歌の中に大根が詠み込まれているのです。

つぎねふ 山城女の 木鍬持ち
うちし大根 根白の 白腕
纏かずば来ばこそ 知らずとも言はめ

この歌で仁徳天皇は皇后の腕が大根のようだとしており、皇后の腕の白さを褒めるための比喩として大根が使われています。
仁徳天皇の別の歌には「於朋泥(おほね) 」として大根が詠み込まれたものがあるようですが、『古事記』の中の仁徳天皇の歌に登場する「大根(おほね)」という表記が日本の文献に出てくる最古のダイコンについての記述とされています。

            ○

日本ではダイコンを「大根(おほね)」と呼ぶ他に「土大根(つちおおね)」と呼んでいた時代もあったようですが、江戸時代になると「だいこん」という呼び名が一般的に定着しました。

その江戸時代には、大根は米や麦などと同格の食品として扱われ、飢饉対策の面から大根栽培は重視されていたといいます。

長い歴史を経て、外来の野菜であった大根は、まるでもともと日本に自生していた植物のように日本人には馴染み深い野菜となりました。
現在でも日本では、じゃがいもに次いで大根が最も生産量が多い野菜であり、日本人の食とは切っても切り離せない食材であると言えます。

            ○

日本の大根栽培の長い歴史の中で、太さや大きさが異なる様々な品種の大根がつくられました。
しかし、もしも同じ品種が店頭で売られている場合は、太くてズッシリと重いものを選んだ方が良いようです。
重量があるものは生育が良く水分を多く含んでいる証拠だからです。
その他の良品の見分け方としては、根の数が少なく白い部分の外皮が滑らかでツルッとした感じのものを選ぶと良いといいます。
カットされているものを選ぶときは、断面にスが入っておらず、きめが細かくて水分を多く含んだ感じのものを選ぶと良いようです。

大根に葉をつけたままにしておくと、葉が養分を吸収してしまい、白い根の部分の栄養が減少してしまうので、葉付きの大根を購入後は、なるべく根に近いところで葉を切り落としてから保存して下さい。
もちろん葉の部分は捨てるのではなく、漬物や味噌汁、細かく切って炒めて食べてもおいしいですね。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<大根関連>

OXO 大根グレーター OXO 大根グレーター

by G-Tools
おでんくん だいこん先生 S おでんくん だいこん先生 S

by G-Tools
あおくび大根ほっこり帖 あおくび大根ほっこり帖
サダタロー


by G-Tools

| | トラックバック (0)

2006/12/16

昆布がとれない沖縄の昆布料理

昆布の収穫は8月で、暑い夏ほど良い昆布が採れます。
養殖物には1年ものや2年ものがありますが、2年以上成長すると昆布は切れてしまうので、3年ものの昆布が市場に出まわることは稀です。

            ○

日本で採られる食用昆布には10種類ほどあり、昆布の全生産の約9割は北海道産のものです。
その中でも「利尻昆布」はよく知られていますが、利尻昆布の他にも「羅臼昆布」や「日高昆布」「真昆布」「長昆布」などがあります。

利尻昆布を用いた出汁は上品な味わいが楽しめ、特に関西で好まれています。
利尻昆布の根元の三角形の部分だけを切り取った「根昆布」は出汁用として出回っています。

関西でも京都では真昆布が使われることが多いようです。
真昆布の中にも「白口浜」と「黒口浜」があり、白口浜は煮物にすると良く、黒口浜は吸い物に向いています。
真昆布や利尻昆布は極薄く削られて「おぼろ昆布」に加工されたり、圧縮された真昆布の葉先が削られて「とろろ昆布」が作られたりしています。

長さが6メートルにもなる日高昆布は「ミツイシコンブ」とも呼ばれ、柔らかくて早く熱が通ることから煮昆布にされたり、香りがよいことから出汁をとるのに使われます。

羅臼昆布は別名を「オニコンブ」ともいい、全体生産量の1パーセント以下しか採られていませんが、濃厚な味の出汁がとれる高級品として珍重されています。

            ○

出汁(だし)は旨味や香りの素となり、まろやかな風味を出して深みのある味をつくります。
伝統的な日本料理では油があまり使われなかったため、塩味を緩和するために出汁が多用されるようになったと考えられています。

昆布はグルタミン酸を多く含み、これが旨味の素となります。
昆布出汁のうま味の素がグルタミン酸であることは明治41(1908)年に池田菊苗氏により発見されました。

ちなみにかつお節の旨味成分がイノシン酸であることは大正2(1913)年に小玉新太郎氏により発見され、椎茸のうま味成分がグアニル酸であることは昭和35(1960)年に国中明氏により発見されています。

英語でもうま味は「umami」といい、中国語では「鮮味」と書き表されます。

            ○

プロの料理人は夫々工夫して昆布出汁をとっており、そのやり方は店により様々ですが、基本的には昆布に水を吸収させることで昆布のうま味成分が溶出されています。
昆布が海の中にあっても出汁が出てしまわないのは、昆布が生きているうちは、細胞内の物質が海中に溶け出てしまうのをその細胞膜が防いでいるためです。
最近の研究では、60℃のお湯に昆布を30分間漬けておくのが最もおいしい昆布出汁をとる方法だという結果も出されているようです。

            ○

縄文時代の遺跡である島根県の猪目洞窟や青森県の亀ヶ岡遺跡からは海草類が出土しており、古代から日本人が海藻を食べていたことが知られています。
平安時代初期に編纂された『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、蝦夷(えぞ)の族長の須賀君古麻比留(すがきみのこまひる)が昆布を献上したことや、須賀君古麻比留よりもだいぶ前の時代から昆布の献上が行われていたことが記されており、かなり古い時代から日本人が昆布を食べていたことが伺えます。

            ○

奈良時代には既に「昆布」という言葉がありました。
一説では昆布の語源はアイヌ語の「コンブ」に由来しているといわれています。
昆布が不老長寿の仙薬の一つとされていた中国には、周代の頃に「綸布(クワンプ)」というものがあったことがわかっており、この「クワンプ」が日本語の「こんぶ」の語源になったという説もあるようです。

            ○

平安時代に編まれた辞典である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、昆布が「比呂米(ひろめ)」や「衣比須目(えびすめ)』の名で登場しています。
昆布の幅広い形に由来して「比呂米(ひろめ)」という名が付けられ、採れる場所に由来して「衣比須女(えびすめ)」(夷布)の名がつけられました。

            ○

古来から宮廷などでは出汁をとるのにかつお節が使われましたが、生臭ものを遠ざけた寺院ではかつお節の代わりに昆布が用いられ、精進料理では昆布が欠かせない食材となりました。
昆布出汁は寺院から庶民の間に広まったのだとする説もあるほどです。
また、室町時代になると昆布は煮物にも用いられるようになりました。

            ○

現在、日本で昆布の消費が最も多いのは沖縄県です。
しかし昆布は沖縄では採れません。
江戸時代に、江戸や大阪と北海道の間を航行する北前船(きたまえぶね)の航路が開かれ、北海道の海産物が江戸や大阪に流通するようになりました。
1700年代の末頃、黒糖を積んだ琉球の船と、昆布を載せた松前からの船が同時期に堺の港に入り、黒糖と昆布の取引が行われ、琉球の砂糖が松前に渡り、蝦夷の昆布が琉球に運ばれるようになったといわれています。
松前から関西へは綿花を栽培するための肥料として鰊(にしん)も運ばれていましたが、このにしんを昆布で巻いた「昆布巻き鰊」はこの時代に作られたものです。

            ○

この時代に琉球は日本の薩摩藩と中国の両方から支配されていました。(関連:「沖縄料理の中の琉球史」)
薩摩藩は、鎖国中で海外との貿易が禁じられていたにも関わらず、琉球から中国へ献上品を運ぶ船が航行していたのを利用して、北海道産の昆布を琉球の船に載せて中国へ輸出して利益を得ていました。
1800年代前半には、琉球から中国へ輸送された品の内の約8割は昆布だったこともあり、これはその当時の日本の昆布生産量の約1割に相当する量に相当します。

19世紀には那覇に「昆布座」が設けられ、この頃に昆布は沖縄の一般家庭にも普及しています。
野菜を作るのに適した土地が少なく、夏期には野菜の保存も難しい沖縄では、乾燥させた昆布は野菜の代用食として重宝されたのです。

            ○

沖縄で使われる昆布は日高昆布や長昆布が主で、これらの昆布は本土での需要が少なく、産出される殆どが沖縄で消費されています。
沖縄には、昆布を出汁としてではなく野菜のようにして使う料理が多くあります。
刻み昆布を炒めたクーブイリチーや白身魚を昆布で巻いた昆布巻き、昆布の煮付け、昆布と豚肉、かまぼこ、椎茸を一緒に炒め煮にしたり、ソーキ汁にも昆布が使われています。

            ○

昆布にはミネラルや旨味のもとのアミノ酸が豊富に含まれており、食物繊維やカルシウムも多く、高血圧や高コレステロールの人が食べると良いとされています。
沖縄で長寿の人が多い理由の一つは昆布を使った料理が多いからなのかもしれません。

<参考文献>

講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
緒方修・吉川敏男(2004)『体にいい沖縄野菜健康法』実業之日本社
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会

<昆布関連>

ステン 昆布切鋏 S-KH ステン 昆布切鋏 S-KH

by G-Tools
野崎洋光のだしポット 500ml 000FK0091 野崎洋光のだしポット 500ml 000FK0091

by G-Tools
iwaki パイレックス 村上祥子のだしポット 700ml 7005D-MU iwaki パイレックス 村上祥子のだしポット 700ml 7005D-MU

by G-Tools

| | トラックバック (5)

2006/12/09

パスタの世界への広まり

17世紀頃から政情の安定化に伴いナポリの町では人口が増加し、これによって生鮮食品の供給が不足してパスタなどの小麦粉食品が重視されるようになり、ナポリでパスタ製造機が発達しました。(関連:「パスタ製造機」)
18世紀から19世紀にかけて産業革命が起きると、パスタ製造機は更に飛躍的な進歩を遂げました。
それ以前は人力で動かされていたパスタ生地押し出し機械は蒸気機関を使用した圧搾機に取って代わられ、製粉機や生地をこねる機械も考案されるなど、次々と新しいパスタ製造機が登場したのです。

            ○

05ilaq33

パスタ製造機の発達によりパスタの生産性は著しく向上しました。
パスタ発祥地と考えられているシチリアでも(関連:「パスタとマルコ・ポーロ」)、16世紀頃のパスタの価格はパンの3倍もしており、一般庶民はパスタを日常的に食べてはいませんでしたが、産業革命時に発明されたパスタ製造機や従来品が改良されたおかげでパスタ生産量は増加し、これに伴いパスタの価格は下がり、かつては高級品に近い食べものだったパスタは労働者の食べものへと変わっていったのです。

            ○

産業革命前の北イタリアでは他地域からの商品流通が少なく、南イタリア産乾燥パスタも北イタリアでは常食されず、代わりに生パスタが食べられていました。
この歴史の影響は現在のイタリア食文化にも現れており、ラザニアやカネッローニ、ラビオリ、タッリャテッレなど生パスタを用いて作られた伝統料理はイタリア北部に多く、スパゲティやマカロニなどの乾燥パスタを使ったものは南イタリア料理に多いのです。

19世紀になって温風乾燥機が登場したことで、乾燥パスタ製造は最初の工程である小麦粉を捏ねるところからの乾燥を行う最後の工程までを一貫して機械で行えるようになり、それまでは乾いた気候の南イタリアで作られていた乾燥パスタが北イタリアでも製造されるようになりました。
また、この時代にヨーロッパの産業や商業の中心が地中海沿岸諸国から欧州北方諸国に移っていった事情もあって、イタリア国内でも南部よりも北部の方が地理的に重要となり、 乾燥パスタの生産拠点も南イタリアから北イタリアへと移されていったのです。
この時代に北イタリアで創業されたヴィトーニやデ・チェッコなどのパスタ製造会社は現在でも大手パスタメーカーとして知られています。

            ○

ナポリのパスタ職人が発展させたパスタ製造でしたが、産業革命後には北イタリアが生産拠点となり、北イタリアで大量生産されるようになったパスタはイタリア全土に広まっていきました。
19世紀にはフランスやドイツなどイタリア周辺国にもパスタを食べる文化が伝わり、イタリアから移住した人達によってアメリカへもパスタは広められて行ったのです。

            ○

05ilaq30 日本でも明治の初めには西洋料理店でマカロニ料理が出されるようになっていました。
しかし、この時代の多くの一般庶民がパスタを認知していたわけではなく、明治5(1872)年に発刊された「西洋料理指南」では、「我が国にはマカロニを作る器械がないのでうどんの形につくって図の長さに切って代用する」といったマカロニ料理の説明がされています。

明治の初めに役所に提出された西洋料理店の開業許可申請書の中では、マカロニが素麺と訳されていました。
明治時代のマカロニのその他の和名としては、「穴あきうどん」「管通麺」「イタリア管麺」「管麺」「管状そうめん」などがあり、スパゲティーには「西洋うどん」や「西洋そうめん」「イタリアうどん」などの名が付けられていたようです。

            ○

日本で国産マカロニが初めてつくられたのは明治40年代のことでした。
新しいタイプのうどんの乾麺をつくり、これを横浜に住む西洋人に売り込みに行った新潟県加茂町の石附吉郎氏が、お客の西洋人からマカロニを見せられて、逆にこういうタイプの麺を作って欲しいと要望されました。
これを切っ掛けとして石附吉郎氏はマカロニ製造機を独自開発し、この石附吉郎氏のマカロニ製造機によって作られたマカロニが日本で最初の国産マカロニになったといわれています。

            ○

その後、昭和7年には兵庫で輸入器械を使ったマカロニの大量生産が始められていますが、この頃は一部の高級レストランでしかマカロニは使われておらず、国内需要が少ないことから国産マカロニは輸入品に対抗できませんでした。

日本でパスタ消費が伸びたのは日本の食が洋風化し始めた昭和30年以降のことです。(関連:「インスタントラーメンの誕生」「魚肉ソーセージと肉食」)
昭和30年頃、米が大豊作になったことから小麦粉の供給が過剰になり、市場でダブついた小麦粉を使って製麺会社が「オーマイ・カット・マカロニ」や「マ・マーマカロニ」を試作しています。
ちょうどこの頃、ハンバーグなどの洋食が流行し始めたことから、それらの料理の付け合わせにマカロニが使われるようになり、日本でのパスタ消費量も増加していくことになったのです。

<参考書籍>

大矢復(2002)『 パスタの迷宮』洋泉社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
石毛直道(2006)『麺の文化史』講談社学術文庫

<パスタ関連>

Berndes パスタパン OL1000 Berndes パスタパン OL1000

by G-Tools
コトコトパスタ—おいしいイタリア。心をこめて作る本格パスタ コトコトパスタ—おいしいイタリア。心をこめて作る本格パスタ
金子 琴美

by G-Tools
100万人が選んだ大絶賛パスタ—COOKPAD 100万人が選んだ大絶賛パスタ—COOKPAD
クックパッド

by G-Tools

| | トラックバック (4)

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »