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2006/11/30

ねぎから生まれた萌葱色と浅葱色

ねぎはユリ科の多年草です。
確かな原産地は不明ですが中央アジアや中国の西部地方で栽培され始めたのではないかと考えられています。
紀元前30年代の中国でも皇帝の食事用にねぎがつくられていたことが記録に残されています。
冬期の間も囲いと屋根で覆われた畑の中で昼夜火が燃やされ、今でいう温室栽培のような環境で皇帝用のねぎが大切に栽培されていたことが書き残されているのです。
2千年前の中国の文献の『礼記(らいき)』では、ねぎは「野菜の中の筆頭」だとさえ述べられており、当時の中国でねぎが珍重されていたことが伺えます。

            ○

日本の平安時代中期に作られた辞書である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の記述を根拠として、ねぎは中国から日本に伝えられたと考えられています。

ねぎの日本での古名は「き」といい、このことから室町時代にはねぎを隠語で「一文字(ひともじ)」ともいいました。
ねぎの総称をとして「き」という呼び名が使われ、「き」には「葱」という字が宛てられました。
江戸中期に編まれた国語辞書『倭訓栞』によれば、「き」という名は「臭気」の「気」に由来しているといいます。

            ○

「葱(き)」の根と考えられた部分(実際には葉の基部)を食べることから、次第に「根葱」と書き表すようになり、「白根」や「根深(ねぶか)」という別名も付けられました。
「分け葱(わけぎ)」とは葱が株分かれしているという意味であり、「浅つ葱(あさつき)」は比較的香りが弱い葱ということに名前の由来があります。

色を表す言葉の「萌葱(もえぎ)」とは「葱(き)の芽のような緑色」のことを指しました。
「浅葱(あさぎ)」という色はもともと薄い青緑色を指す言葉でしたが、何時しか水色を意味する言葉として使われるようになりました。
「萌黄」や「浅黄」と書かれる場合もあるようですが、これは読みをもとにした宛て字であって本来の意味を表しているとはいえません。

            ○

長ねぎには大きく分けて、白い部分が多い根深ねぎと緑の部分が多い葉ねぎがあります。
根深ねぎは中国北部地方で作られるようになり、その後、南部で葉ねぎが作られるようになったと考えられています。
日本へは奈良時代の頃に両種類のねぎが持ち込まれ、関東では根深ねぎが、関西では葉ねぎが好まれるようになりました。
根深ねぎを作るには、ねぎの白い部分を作るために耕土を20〜30センチ掘り、ねぎが伸びる度に土を掛けて日光から遮断する必要があります。
火山灰のローム層が堆積している関東では深い穴が掘り易い柔らかい耕土が多いのに対して、関西では花崗岩や粘土が混じった堅い土壌が多く、層も薄いため土寄せする必要のない葉ねぎが主流になったと考えられています。
また、冷涼な気候でねぎを栽培した方が軟泊(なんぱく)させるのに適しており、このことも関東で根深ねぎが好んで栽培された理由の一つではないかといわれています。
ちなみに、葉ねぎの方が栄養価は高いといわれますが、根深ねぎの緑の部分にもカロテンが豊富に含まれています。

            ○

根深ねぎには千住ねぎ系の深谷ねぎや加賀太ねぎ系の下仁田ねぎなどがあり、葉ねぎには九条ねぎ系の九条太ねぎや九条細ねぎなどがあります。
深谷ねぎは埼玉県深谷で盛んに栽培されており、茎が太くて柔らかいという特徴があります。
九条太ねぎは葉ねぎの代表格で西日本で多く消費されています。
九条太ねぎに形が似ていて葉肉の薄いものが九条細ねぎで、博多万能ねぎはこの仲間になります。

下仁田ねぎは群馬県の特産で甘味を多く含んでいるため鍋に向いており、ねぎの王様と呼ぶ人さえいます。
下仁田ねぎ栽培の歴史は二百数十年ともいわれ、江戸時代に将軍家や大名にも献上されたことから「殿様ねぎ」の別名もありました。
下仁田ねぎの発祥地が甘楽群西牧村大字西野牧字小出屋であったため、明治時代には「西牧ねぎ」の名で流通されていましたが、農産物の産地としては下仁田の方が知名度があったので「下仁田ねぎ」の名に変えられたといいます。

            ○

ところで、禅宗の寺の門前に「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)という石碑が置かれているのを見かけることがあります。
この石碑の文言は韮(にら)やにんにくなど、臭いの強いねぎ類の野菜や酒の寺への持ち込みとそれらを摂取した人の入門を禁じることを意味してます。
精神統一が求められる禅宗の修行で強壮作用があるねぎ類は修行の妨げになるとして修行僧から遠ざけられたのです。
確かにねぎ類が含むアリシンには殺菌作用やビタミンB1の吸収を促進させる働きがあり、ねぎ類を食べることで活力や強壮作用を高める効果が期待できます。
また、アリシンには喉の痛みや咳を抑える働きもあり、ちょっとした風邪対策にねぎを食べることは有効です。
11月から12月に掛けてねぎは一番おいしくなります。
忙しい師走を乗り切るために、旬のねぎを意識して食べてみては如何でしょうか。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
張競(1997)『中華料理の文化史』筑摩書房
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<ねぎ関連>

生姜と葱の本—蘇先生の家庭薬膳 たっぷり食べて体質改善 生姜と葱の本—蘇先生の家庭薬膳 たっぷり食べて体質改善
蘇 川博 下川 憲子


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野菜園芸大百科〈18〉ネギ・ニラ・ワケギ・リーキ・やぐら性ネギ 野菜園芸大百科〈18〉ネギ・ニラ・ワケギ・リーキ・やぐら性ネギ
農文協 農山漁村文化協会=


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2006/11/25

ふぐちりは文化そのもの

ふぐは11月から2月にかけてが旬です。
主産地は山口や愛知、福岡、静岡で、最近は韓国からの輸入ふぐも流通しています。
食用にされるのは「まふぐ」「とらふぐ」「しょうさいふぐ」「からすふぐ」の4種ですが、その中でもとらふぐは最高級品として扱われています。

            ○

ふぐといえば冬の味覚の代表格の一つとして有名ですが、もう一つふぐと聞いて連想されるのがふぐが持つ猛毒です。
青酸カリの10倍の強さがあり、サリンと同程度の毒性があるといわれるテトロドトキシンがふぐ毒となる物質です。
2ミリグラムが致死量というテトロドトキシンが人間の体内に入ると唇や指先に痺れが生じ、腹痛や嘔吐などの症状を示した後に呼吸困難に陥り、摂取してから6時間ほどで死に至ります。

            ○

040801078 一般的にふぐは肝臓と卵巣に強力な毒を持ち、身には毒が無いか弱い毒しか含まれていません。
しかし、ふぐの種類や生息域などで有毒部位や毒の強さは異なり、同じ海域にいる同じ種類のものでも個体差があります。
例えばとらふぐは1〜4月頃の菜種の季節に毒が強くなることから、この季節のとらふぐは「菜種ふぐ」とも呼ばれ区別されます。
また、ドクサバフグなどのように身にも強い毒性物質を持つ種類のふぐもいるのです。

            ○

貝塚から出土したふぐの骨によって、有史前から日本人はふぐを食べていたことが知られています。
室町時代までは身しか食されなかったふぐですが、桃山時代より後になると毒性のある内臓やその近くの部位を食べるひとが増え、ふぐによる中毒死が増加したことが分かっています。
しかし、ふぐの危険部位がなぜ桃山時代以降になって食べられるようになったのか、その理由は分かっていません。
もちろん桃山時代の当時でもふぐ毒の危険性については認識されており、その頃の尾張ではふぐを売買した者は禁錮5日の刑、他人からもらって食べた場合でも禁錮3日の刑に処せられたことが記録に残されています。

            ○

生簀(いけす)で無毒の餌を与えて養殖したふぐは毒を持たないという最近の調査結果から、テトロドトキシンはふぐの体内で作られるのではなく、体外から入った毒性物質が蓄積されて作られるということが明らかにされています。
海中にいるビブリオ・アルギノリティカスやビブリオ・ダムセラなどの細菌が貝などに入り込み、これらがエサとしてふぐに食べられると、ふぐの体内が毒性を帯びるようになるのです。

ふぐ自身はテトロドトキシンに対して、他の魚よりも300倍以上の抵抗力を持っています。
外敵を牽制するためにふぐがテトロドトキシンを体内に蓄積するようになったという推測もありますが、雌ふぐが雄ふぐを誘惑する際の性フェロモンとしてもテトロドトキシンが使われていると見られており、なぜふぐがテトロドトキシンを持つようになったのかについて本当の理由は分かっていません。

            ○

ところで、ふぐは漢字で「河豚」と書きますが、これは中国の揚子江を遡るふぐの様子が豚に似ていたことからこの字が宛てられたといわれています。

日本の奈良や平安時代に河豚は「ふく」とよばれており、この「ふく」の名のいわれについてはいくつかの説があります。
ふぐの腹が「膨(ふく)れる」からとか、「ふくべ(ヒョウタン)」の形に似ていたからというようにその姿に由来しているという説があったり、ふぐは口から水を「吹く」からというようにその習性から名付けられたのだと考える人達もいます。

            ○

ふぐの英語名の「puffer」や「blowfish」もふぐが水を吹くところから名付けられたものです。
「puffer」には「ぷっと吹くもの」という意味があり、「blow」にも「フッと吹く」とか「吹きつける」という意味があるのです。
英語でふぐを「balloonfish」とも呼びますが、これはふぐが脹れた様子から付けられた名前だと考えられます。

            ○

日本では江戸時代になると「ふく」は「ふぐ」と呼ばれるようになりました。
しかし、今でも九州や山口県下関など一部の地域では「福」にかけてふぐを「ふく」と呼んでいるようです。

関西ではふぐを「鉄砲」と呼んだりもします。
「鉄砲の玉にあたる」ことが「河豚にあたる」ことに掛けられ、「ふぐ」が「鉄砲」と江戸でよばれるようになり、その呼び名が関西に伝わって定着したといわれています。

            ○

040801077 江戸時代のふぐ料理と言えば味噌汁にすることが多かったようですが、現在の代表的ふぐ料理の一つは「てっちり」です。

「ちり鍋」とは魚介を使った鍋のことで、「ちり鍋」の「ちり」とは鍋に魚の切り身を入れた際にその身が「ちりちり」と縮まることに由来しています。
鱈のちり鍋を「たらちり」、鯛のちり鍋を「たいちり」というのと同様に、鉄砲(ふぐ)をちり鍋にするから「てっちり」というわけです。

鍋の具材が食べ尽くされる頃には、ふぐの身に多く含まれるグルタミン酸やアミノ酸などの旨味がスープにたっぷりと溶け出しており、このため鍋そのものよりも最後につくられる雑炊を楽しみにする人も多いようです。

            ○

もう一つの代表的ふぐ料理はふぐの刺身ですが、これは「鉄砲の刺身」が縮まって「てっさ」とよばれています。
ふぐの身の脂質含有量は0.3%と少なく、反対にコラーゲンが多く含まれています。
そのためふぐの身は硬く締まっており、通常の刺身のように厚く切ると噛み切ることができないため、透き通るほど薄く切って盛りつけされます。

            ○

ふぐを使った変わった食べものに、江戸時代に作られ始めた石川県金沢の特産品で「ふぐの卵巣の糠漬け」という食べものがあります。
ふぐの卵巣には人間の大人を20人近く殺すことができる量のテトロドトキシンが含まれていますが、この卵巣を使った漬物なのです。

ふぐの卵巣の糠漬けをつくるには、まず卵巣が真水で洗浄され、塩分濃度が30%の塩水に約1年間漬けられます。
その後、麹と塩漬けにした鰯(いわし)を加えた糠に真水で塩抜きされた卵巣が最短でも2年、通常は3〜4年は漬け込まれます。
糠の中で繁殖している乳酸菌や発酵微生物がテトロドトキシンを二酸化炭素と水と窒素に分解してしまうため、猛毒のふぐの卵巣でも食べることが可能となるのです。

            ○

坂口安吾が書いたものに、「ふぐを食べて死んだ多くの人達のおかげで現在の我々は安心してふぐちりが食べられるのであって、これこそが文化というものだ」という主旨の文章があるようです。
真水にさらしたり塩水に漬ける工夫が施され、3年以上もの時間を掛けてようやく完成するふぐの卵巣の糠漬けの製法が確立されるまでにはいったい何人の人達が犠牲になったのでしょうか。
大鍋のスープをスプーン一杯の量まで煮詰めて作った濃厚な味わいの一滴を連想させるような、ふぐの卵巣のぬか漬けという形に凝縮された多くの人々の努力や試行錯誤に思いを馳せずにはいられません。

<参考書籍>

セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
岩井保 (2002)『旬の魚はなぜうまい』岩波書店
講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<ふぐ関連>

フグの飼い方—淡水フグから海水フグまで フグの飼い方—淡水フグから海水フグまで
アクアライフ編集部


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鍋奉行になる 鍋奉行になる

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古今亭志ん生 名演大全集 3 らくだ/強情灸/親子酒/宿屋の富 古今亭志ん生 名演大全集 3 らくだ/強情灸/親子酒/宿屋の富
古今亭志ん生(五代目)


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2006/11/21

パスタ製造機

イタリア語で「pasta(パスタ)」とはもともと小麦粉を捏ねた生地のことを指し、英語では「paste(ペースト)」にあたる語句です。
パスタには生パスタと乾燥パスタがありますが、これらの違いは単に乾燥の有無だけではありません。
生パスタを作るときは「普通小麦」が用いられますが、乾燥パスタにはタンパク質を多く含み硬質の「デュラム小麦」が使われるのです。
デュラム小麦は硬すぎて細かい粉にできないため、パンをつくるのには向いていません。
うどんもスパゲティも小麦から作られますが、これらの麺が異なる食感をもっているのも使用される小麦粉の硬度が違うためなのです。

また、全粒粉が用いられるということも乾燥パスタの特徴の一つで、乾燥パスタがたいてい黄色がかっているのは小麦を精白していない全粒粉が使われていることに因ります。

            ○

05ilaq34乾燥パスタは機械で生地を押し出す方法でつくられますが、この製法は17世紀のナポリで始められました。(関連:「パスタとマルコ・ポーロ」)
それ以前は生地を薄くのばして細く切る、日本のうどんのような切り麺タイプのパスタしかありませんでした。
ワインをつくるときに使われたブドウ搾りの圧搾器具を応用してパスタ製造機は作られ、ネジの螺旋運動を利用して穴から小麦の生地を押し出すことでパスタが作られるようになったのです(アジアでも米粉などで押し出し麺がつくられますが、アジアの押し出し麺はテコの原理でピストンを押すような方式で作られます)。

            ○

乾燥パスタの中でも特に馴染み深いものに細長いスパゲティがあります。スパゲティの語源はイタリア語で「紐」を意味する言葉の「spago」だと考えられており、「spago」の縮語形である「spaghetto」という語句の複数形が「spaghetti(スパゲティ)」に転じたといわれています。

            ○

もう一つ世界的に有名なパスタにマカロニがあります。
英語で「macaroni」、イタリア語では「maccheroni」と呼ばれるマカロニの語源はイタリア語の「マカーレ(挽き割る)」に由来するという説が定説になっているようです。

            ○

05ilaq32 マカロニも練った小麦粉を圧搾して穴から絞り絞り出すことでつくられますが、先にいくほど細くなっている漏斗状の管が容器の底についており、その管の真ん中に棒状のピンが差し込まれていることで、空洞のパスタが穴から絞り出されるという仕組みになっています。
マカロニ製造機が作られた当初はマカロニも長いパスタとしてつくられていましたが、その後短くカットされるようになったようです。
マカロニの穴はパスタに熱が早く通るために作られたとか、ソースがパスタにからみ易くなるために空けられたなどの説がありますが、穴空きパスタが作られた明確な理由は分かっていません。

湿度の低いナポリの気候はもともと乾燥パスタの製造に最適でしたが、ナポリ産パスタを象徴する穴空きパスタのマカロニが考案されたことでナポリからのパスタ輸出量は増加し、17世紀から19世紀を通じてナポリ産パスタはヨーロッパで主流となりました。

            ○

押し出し麺タイプのパスタが機械で作られるようになって以降、圧搾機の穴の形状を変えたり生地に野菜のペーストが混ぜられるなど色々な工夫がなされ、マカロニの他にも様々な形のパスタが作られるようになりました。
その内のいくつかを上げておきます。

スパゲッティーニ・・細いスパゲティ
ヴァーミセリ・・・・極細のスパゲティ
リガトーニ・・・・・大型のマカロニ
トルテッリーニ・・・指輪の形のパスタ
ルオーテ・・・・・・車輪型パスタ
リガティーニ・・・・細長いマカロニ
フジッリ・・・・・・ねじれた管状パスタ
パッパルデッレ・・・幅広パスタ
ファルファッレ・・・蝶型のリボン状パスタ
コンキリエ・・・・・貝殻形パスタ
コンキリエッテ・・・コンキリエを小さくしたもの
ルマーケ・・・・・・カタツムリ型パスタ
ペンネ・・・・・・・ペン先状パスタ
エリケ・・・・・・・螺旋状パスタ
オレッキエッテ・・・耳型パスタ

<参考書籍>

大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
石毛直道(2006)『麺の文化史』講談社学術文庫

<パスタ関連>

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2006/11/16

キムチいろいろ

韓国の一般家庭の食事では常に2〜3種類のキムチが食卓に並べられるのが普通のようです。
「ペーチュキムチ」「ムルキムチ」「カクトゥギ」の3種類のキムチを出すのがいわば基本形で、おかずを多くつくる家ほど常備しているキムチの種類は多いといいます。

            ○

基本キムチ3種の中で日本で一番浸透したのは白菜を漬ける「ペーチュキムチ」でしょう。(関連:「キムチと唐辛子と白菜」)
しかし、日本で売られている七割以上の白菜キムチは「浅漬け白菜キムチ」であり、韓国ではこの浅漬けキムチを「コッチョリキムチ」と呼んで十分に発酵させたキムチとは区別しています。
「コッチョリ」の「コッ」は「表だけ」、「チョリ」には「漬ける」という意味があり、つまりは短い時間漬けて作られる浅漬けを指している言葉なのです。
コッチョリキムチは暖かい季節に和え物のようにして作られ、夏場にはきゅうりなどが使われたりします。

            ○

「ムルキムチ」はもともと「ナバッキムチ」と呼ばれていましたが、日本への輸出用ナバッキムチに「水キムチ」の名が付けられたことから、しばらくして韓国でもナバッキムチが水キムチを意味する「ムルキムチ」という名で呼ばれるようになりました。
薄塩で漬け込まれるためムルキムチは色よく漬け上がり見た目がきれいなことから、李朝の宮廷料理でしばしばつくられたキムチです。
乳酸により発酵して酸味を帯びた漬け汁に薬味が加えられたものが飲まれたり、この漬け汁と牛肉からとれたスープを合わせたものが冷麺のスープに用いられたりもします。

ムルキムチは江戸時代の日本でも作られたことが当時の文献から分かっています。
江戸時代の日本ではムルキムチを「キミすい」と呼んでおり、1711年に朝鮮から来日した使者のために日本側の接待役がキミすいを用意したという記録が残されているのです。

            ○

日本では「カクテキ」とも呼ばれる「カクトゥギ」は大根だけで漬けたキムチです。
カクトゥギを作る際には材料の大根をサイコロ状に切りますが、大根を切るときに出る音が「ガックトック」と鳴る感じがすることが名前の由来になったといわれます。

            ○

韓国には数十種類のキムチがあるといわれています。
多様なキムチがつくられるようになった理由の一つに地域による寒暖の差があります。
冬期が長い朝鮮半島北部の平安道では、発酵させた米のとぎ汁に丸ごとの大根などを漬けて作るムルキムチの一種のトンチミ(冬漬)や白キムチを意味するペッキムチなど、塩気を抑えたキムチが好まれ、塩辛を入れたキムチはあまり作られません。
気温が低い地域では保存性を高めるために入れる塩の量を抑えることができ、素材の旨味や漬け上がりの色を重視した塩をあまり使わないキムチが多く作られたのだと考えられます。

平安道よりも北に位置する咸鏡道ではカレイや明太(ミョンテ)の名で呼ばれるスケソウダラなどの魚類を漬け込んだものが作られたり、開城(ケソン)には「ポサムキムチ」というキムチなどもあります。
「ポサムキムチ」の「ポ」とは「風呂敷」のことで、「サム」には「包む」という意味があり、ポサムキムチとは具材を白菜で包んで漬け込んだキムチのことです。

            ○

朝鮮半島南部では腐敗を防ぐためにとうがらしやにんにくが多用され、少し塩辛い味のキムチが作られるのが特徴です。
韓国でも北の寒い地域である江原道などでは強い塩味のキムチは好まれず、唐辛子もあまり使われませんが、暖かい地域の全羅道や慶尚道などではキムチにとうがらしや塩が多く用いられ、アミやヒシコイワシ、グチの塩辛などを入れた濃厚な味のキムチが好まれる傾向があります。

            ○

とうがらしやにんにく、果物、塩辛などと一緒に具材を漬け込むと複雑な味わいのキムチを作ることができます。
日本人が1ヶ月に食べる塩辛の量は平均200グラム程度ですが、韓国ではキムチを漬けるときに塩辛やその汁を入れるため、平均して大人1人が1ヶ月に約1キロの塩辛を食べるといわれています。
塩辛を使う場合、腐敗防止のために通常はとうがらしも一緒に漬けられますが、それでも塩辛入りのキムチは塩辛を入れないものよりも保存性が低く、漬けてから3ヶ月も経つと味が落ちてしまうため、11月末に漬けた塩辛入りキムチは2月の旧正月より前には食べきってしまうのが普通です。

            ○

「韓国のハワイ」の別名を持ち暖かい地域が多い済州島ではあまりキムチが食べられてきませんでした。
野菜に付いている乳酸菌が促す発酵でキムチはつくられますが、乳酸発酵が進みすぎると酸っぱいキムチができてしまいます。
済州島は周りが海で囲まれ新鮮な魚介が豊富に獲れることから、発酵食品をつくって食物を長期保存する必要がなかったという事情もありましたが、気温の高い済州島では緩やかに乳酸発酵を行うことが難しかったこともこの島でキムチ作りが盛んにならなかった理由ではないかと考えられています。

            ○

ところで、韓国では11月末に一斉にキムチを漬け始める「キムジャン」という習慣があります。
昔はキムジャンの季節が到来すると、腰の高さほどもある大きな袋に詰められたキムチ漬け用のとうがらしやにんにくなどが路上で販売され、それらが何袋といった単位で家庭で用いるために買われていました。
貴重な塩を節約するために、キムチの下漬けで必要となる塩水は近所で使い回され、そのために隣近所でキムチを漬ける日を少しづつずらすように調整することもあったといいます。

本格的な冬の到来前に大量のキムチ漬けが作られるキムジャンの習慣ができたのは、昔は露地栽培の野菜しかなく、春野菜が出荷される直前の3月頃までキムチを食べて野菜不足を補う必要があったからです。
最近の韓国では冬期でもハウス栽培の野菜が流通するようになり、多量のキムチを漬けることができないマンションが増えた住宅事情もあって、キムジャンにキムチを漬ける人は減り、市販品の消費が増えているようです。

韓国では、キムチ漬けの材料を買うための費用として「キムジャンボーナス」が支給されていましたが、キムジャンの習慣が都市部で廃れていく現在、キムジャンボーナスという名目の賞与も次第になくなりつつあるようです。

<参考書籍>

黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
周 達生 (1994)『中国食探検—食の文化人類学—食の文化人類学』平凡社
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
鄭大声(2004)『焼肉・キムチと日本人』PHP研究所
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社

<キムチ関連>

今日も、明日も、キムチ。 今日も、明日も、キムチ。
ジョン キョンファ


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キムチ料理と韓国ごはん キムチ料理と韓国ごはん
夏梅 美智子


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キムチ百科—韓国伝統のキムチ100 キムチ百科—韓国伝統のキムチ100
韓 福麗 趙 重玉 守屋 亜記子


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2006/11/13

ごぼうと食物繊維と牛蒡料理

ごぼうの野生種とされる植物がヨーロッパやシベリア、中国の北東部などに生息しており、これらがごぼうの原種と見られています。
例えば、ヨーロッパには日本で西洋ごぼうとよばれる「サルシファイ(salsify)」(別名バラモンジン)というごぼうに似た二年草が生息しています。

            ○

日本でごぼうの野生種は見つかっていませんが、ごぼうを食べる唯一の国が日本だと言われています。
欧米でごぼうは牧場をだめにする繁殖力の強い雑草として扱われており、一般的には常食される野菜とはいえません。
第二次大戦中に日本軍の捕虜管理責任者が米兵捕虜の食事にごぼうを出したところ、戦後の戦争裁判で捕虜に木の根を食べさせた虐待行為で有罪判決を受けたという話しすらあります(ただし、しはしば語られるこの逸話が事実であるという確証は示されていないようです)。
中国でごぼうは利尿作用を促したり化膿を止める薬草として用いられましたが料理には使われませんでした(最近になって、日本への輸出用にごぼうを栽培している中国の一部の地域では徐々にごぼうが食べらるようにはなっています)。

            ○

奈良時代から平安時代初期の頃に、薬としてごぼうが中国から日本にもたらされ、後に食用野菜にされました。
中国語名の「牛蒡」を日本語読みしたことこから「ごぼう」の名がつけられています。
古くはごぼうの別名を「悪実(あくじつ)」ともいいました。
これはごぼうの花の外側につく咢(がく)に鉤針状のトゲがあり、これが衣服に付着し易いことから名付けられたものです。

            ○

ごぼうは殆ど栄養を含んでおらず、消化もされずに胃腸を通り過ぎてしまいます。
しかし、ごぼうに含まれる食物繊維には多くの効能があるのです。
ごぼうは食物繊維の固まりのような野菜で、白米や肉に比べて20〜30倍もの水分を吸収することができ、水分を含んで膨らんだごぼうが腸を通過するときに腸内を清掃してくれると同時に腸を刺激して腸の活動を促すため、便秘を予防したり改善する働きがあります。
また、ごぼうの食物繊維が含む水分が腸内の毒素を薄めてくれたり、人体に有害な細菌が食物繊維に吸着して体外に排泄される効果も期待できます。
逆に、人体に有益な腸内細菌であるビフィズス菌などにとっては食物繊維が増殖の場となり、それらの腸内細菌により生合成されるビタミンによって免疫力が高められることになります。
また、食物繊維が胆汁酸の分泌を促すことから脂肪やコレステロールの増加が抑えられることも知られており、食物繊維によって腸内での糖分の吸収速度が遅められるため、血糖値の急激な上昇が抑制されることで糖尿病予防になるともいわれているのです。
ごぼう自体に栄養がなくても、体内で栄養を作り出す機能や整腸作用の手助けをごぼうはしているわけです。

            ○

ところで、ごぼうには大きく分けて長根種と太根種があります。
細長い長根種の原種は江戸時代に滝野川村(現在の東京都北区滝野川)で品種改良してつくられた「滝野川ごぼう」だといわれています。
滝野川ごぼうは柔らかく空洞部分が少ないことから人気を得て多くつくられるようになりました。

太根種で有名なものに「堀川ごぼう」があります。
豊臣秀吉が建造した聚楽第が解体され移築された時、その掘りも埋められましたが、後の時代にその場所でごぼうが栽培されました。
掘りの跡地で栽培されたごぼうということで堀川ごぼうの名が付けられたといわれています。

実は堀川ごぼうは滝野川ごぼうと同品種なのですが、栽培方法の違いから滝野川ごぼうが細長くなるのに対して堀川ごぼうは芋のように太く短く育つようになりました。
関東ではローム層とよばれる火山灰土があるため、関東の畑で滝野川ごぼうは細く真直ぐに成長することが可能です。
しかし関西では粘土質や浅い耕土が多いため、苗床で40〜50センチまで育てられた滝野川ごぼうが、根の先端を切られてから畑に斜めに浅く植えられるようになり、根の先が伸びずに横に大きく成長する堀川ごぼうが誕生することになったのです。滝野川ごぼうとは異なり堀川ごぼうは樹木の根のように太く皮が厚くて中心には空洞があり、独特の香りと柔らかい歯ごたえが楽しめます。

堀川ごぼうのように太い種類のごぼうに千葉県特産の大浦ごぼうという品種があります。
しかし大浦ごぼうは滝野川ごぼうから作られたものではなく、1000年前には栽培され始めていた滝野川ごぼうとは別品種のものです。

            ○

日本人は様々な品種のごぼうを作り出しただけでなく、色々なごぼう料理も開発してきました。
例えば、ごぼうの皮近くに多く含まれる旨味を活かすために工夫が施された「叩きごぼう」という料理があります。
叩いて粗く砕いた茹でごぼうをすり胡麻と醤油を合わせたものに絡めた叩きごぼうは室町時代にはつくられていた料理だという説があります。

ごぼうとどじょうを一緒に煮込む「柳川」という料理があります。
柳川料理は江戸時代につくられるようになったといわれており、この料理をつくった店の屋号が「柳川」だったことからこの名が付けられたといわれています。
福岡県柳川でつくられた土鍋を使ってつくられたため柳川と名付けられたという説もあるようです。

どじょうではなくうなぎを使ったものに「八幡巻き」という料理があります。
周囲が30センチになることもある太いごぼうが江戸時代の京都の八幡でつくられました。
八幡でつくられたごぼうを京都では八幡と呼ぶようになり、この八幡をうなぎで巻いてつくられる料理が「八幡巻き」と名付けられたといわれています。

家庭でもよく作られるごぼう料理に金平牛蒡(きんぴらごぼう)があります。
金平とは坂田金時の息子の金平のことですが、この金平は江戸時代の人形浄瑠璃「金平浄瑠璃」の登場人物であり実在した人ではありません。

強さの代名詞が金平だったことから、当時にしては味も歯ごたえも強い感じのするごぼう料理に金平

牛蒡の名が付けられたといわれています。

11月から1月にかけてがごぼうの旬です。
これからどんどん寒くなっていきますが、旬のごぼうを入れた豚汁なんかも増々おいしく感じられる季節がやってきますね。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
小泉武夫(2005)『 小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社

<ごぼう関連>

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2006/11/09

キムチと唐辛子と白菜

韓国語の「キムチ」という言葉は漬物の総称として使われています。
日本では「キムチ」といいますが、韓国語での発音は「キチ」という読みに近いようです。
このキチ(キムチ)の語源は「野菜を沈めて漬ける」という意味をもつ「沈菜(テチェ)」という言葉だといわれています。

            ○

キムチ誕生の様子を伝える話しが韓国には残されています。
ある貧しい農家の男が、萎びた白菜を少しでもピンとした状態に戻そうとして海水に浸けてみました。
すると白菜は海水を吸って量が増えたように見えたのです。
そこで白菜の量を更に増やすため、この男は白菜をしばらくそのまま放置しておきました。
暫くしてまた見てみると、白菜の量は増えるどころか最初の半量にまで減ってしまっていました。
がっかりしつつも仕方なく男がこの縮んだ白菜を食べてみたところ、白菜は予想外に美味しくなっていたことを発見したのです。
その後、白菜を海水に漬けるこの方法は瞬く間に世間に広まり、キムチと呼ばれる漬物になったという言い伝えです。

            ○

おそらくこのキムチ誕生物語は作り話しなのでしょうが、食材を保存するためにかなり昔から人間は塩や塩水を利用してきました。
古代エジプトのレリーフなどにも塩漬け作業の様子が描かれていますし、約3000年前の中国の文献の『詩経』には漬物らしきものについての記述があり、6世紀頃の中国の文献には塩漬けキャベツのことが書き残されているのです。(関連:「ザウアークラウトの作り方」)

朝鮮半島で野菜の塩漬けについて書かれた最古の文献は12〜13世紀の詩人である李奎報(イキュボ)が書いた『東国李相国集』の中の『家圃六詠』です。
『家圃六詠』の中に、冬に備えて瓜やなす、かぶ、ねぎなどを塩漬けにするという記述があります。

            ○

高麗王朝時代には「チャンアチ」と呼ばれる醤油漬けが作られていましたが、朝鮮王朝時代になると塩を使う「キムヂャン法(沈菜漬方法)」という現在のキムチの作り方が発達しています。
まだ塩が貴重だった頃、庶民は海水を使ったり、裕福な家で使った漬け汁を貰い受けてキムチを作っていたようです。
朝鮮半島で様々な種類のキムチがつくられるようになったのは、キムチを漬けるための貯蔵庫がつくられるようになった15世紀以降のことだと考えられています

            ○

キムチと言えばとうがらしを使った赤い漬物を連想する日本人は多いはずです。
単に辛いだけの日本のとうがらしに比べて、キムチに使われる韓国のとうがらしはかすかな甘味を含んでおり、香りも良く、漬物の色が鮮やかに仕上がります。
しかし、大昔から韓国のキムチにとうがらしが使われていたわけではありません。
とうがらしは、15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰った後に世界中に広まったものです。(関連:「とうがらし世界一周」)
1715年に著された韓国の農業書にとうがらし栽培についての記述がありますが、この農業書の中の漬け物について書かれた項ではとうがらしを用いたキムチについて触れられておらず、とうがらしがキムチに使われるようになったのはこの農業書が書かれたよりも後の18世紀後半になってからだと見られています

            ○

キムチにとうがらしが使われるようになった理由の一つとして、朝鮮王朝時代に民間に浸透した儒教の影響があるといわれています。
儒教では祖先を祀る行事は重要で、その祭事で供えられる料理も大切なものです。
朝鮮半島で儒教が普及するに従い、祭事の料理に使われる塩の需要が供給を上回るようになり、その代替品としてとうがらしが祭事用の料理やキムチに使われ始めたという説があるのです。

            ○

日本人にはお馴染みの白菜キムチが普及したのもそう遠い昔のことではありません。
朝鮮半島で白菜が栽培され始めたのは18世紀になってからであり、それ以前はキムチの材料には主として大根が使われていました。
キムチに白菜が一般的に使われるようになったのは19世紀以降のことなのです。

            ○

このように、とうがらしを用いた白菜キムチは韓国でも1〜2世紀前に確立されたものですが、日本で辛い白菜キムチが普及したのは焼肉店が増えた戦後のことです。
日本の焼肉店でキムチが出され始めた頃は「朝鮮漬け」と呼ばれていましたが、1979年にモランボン株式会社がキムチという製品名でキムチ漬けの素を販売し、テレビでこの製品の宣伝が流れるようになった頃から次第に「キムチ」という呼び名が日本で定着していったようです。(関連:「キムチいろいろ」)

<参考書籍>

黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
周 達生 (1994)『中国食探検—食の文化人類学—食の文化人類学』平凡社
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社 鄭大声(2004)『焼肉・キムチと日本人』PHP研究所 NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社

<キムチ関連>

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2006/11/06

山芋のとろろと山薬

山芋は、低温貯蔵施設が導入されるようになってから出荷量が調整されつつ年間を通して市場に出回るようになりました。
しかし、山芋がおいしくなる本来の旬は11月中旬から1月の初め頃までだといわれています。

良い山芋は切った断面の色がいかにも新鮮そうな白色をしており、外側の皮は濃い茶色になっています。
表皮がデコボコしているものよりも滑らかなものの方が良品です。
外皮が極端に白い場合は漂白が施されているかもしれないので買うのは避けた方が良いかもしれません。

            ○

里で作られる里芋に対して、山に自生する芋ということで山芋と呼ばれるようになりました。(関連:「里芋と人里」)
野生種の山芋は時間を掛けて徐々に土中深く成長します。
これを収穫するには時間と労力が必要となることから、栽培用の山芋が中国で作られたといわれています。
日本では里芋が「似倍都似毛(いえついも)」と呼ばれ、山芋が「夜万都似毛(やまついも)」と呼ばれた時代もありました。
中国では、山芋が「薯薬(じょうやく)」や「山薬(さんやく)」と呼ばれたりしましたが、これは山芋が主に薬用として用いられたためです。

            ○

山芋は「ナガイモ」「ジネンジョ」「ダイジョ」の三種に大別できます。

ナガイモの中には「長いも」「銀杏いも」「つくねいも」などの種類があります。
こららの長いもや銀杏いも、つくねいもは江戸時代になってから一般に栽培されるようになりました。

長芋を手で掘り返す場合、長芋をつくる全労力の40%は掘ることに費やされるといわれています。
現在ではトレンチャーという土掘り機がありますが、それでも掘り出しは大変な作業になるのです。

「徳利いも」とよばれるものは長いもの一種で、「伊勢いも」と「大和いも」はつくねいもの一品種になります。
しかし関東では銀杏いもを大和いもとよぶことがあるようで混乱させられます。

長いもは他の山芋より10%も水分が多くサラダにするのに向いており、大和いもは粘りが強くとろろにするのに向いています。
現在、関東では銀杏いもが主に流通しており、関西ではつくね芋が多く使われています。

山芋の中でも粘りやアクが最も強いジネンジョ(自然薯)は長さが1メートルにもなり、これを掘り出すのには経験が必要となることから最高級品の山芋として扱われています。
ジネンジョには栽培されたものや自生したものがありますが、自生したものの方が粘りは強く味は良いとされています。

            ○

平安時代の頃、山芋は高級食材の一つでした。
当時は、山芋を薄く切って煮込んだものをご飯に掛けた「芋粥」という料理が作られ、貴族など上流階級層に食べられていたのです。
当時の高官が「一度でいいから芋粥を腹一杯に食べてみたい」ともらす場面が『今昔物語』にも出てきます。

            ○

山芋を使った料理で有名なものの一つに、「真の薯(いも)」を使う料理という意味で名付けられた「真薯(しんじょ)」があります。
魚のすり身と山芋と卵白などを混ぜて、えびや鮑などの魚介を入れて蒸し上げる真薯が作られるようになったのは江戸時代中期頃だといわれています。
明治や大正時代になると真薯は流行し高級料理では必ず出すようになりました。

            ○

山芋は蕎麦に混ぜられたり蒲鉾やはんぺんなどの練り物のつなぎにも使われますが、山芋と言えばなんといっても「とろろ」ではないでしょうか。
とろろをご飯に掛けた「とろろご飯」が流行ったのも江戸時代になってからだといわれています。
山芋をすったものを「とろろ」というのは、奥州トロロ山でとれる山芋がとろろにするのには最適だったからという説があります。

            ○


このとろろを麦飯にかけた「麦とろ」やまぐろの刺身にかける「山かけ」は食べておいしいだけでなく、胃に易しい食べ方でもあります。
でんぷんを分解する酵素であり消化吸収を助ける働きがあるアミラーゼやジアスターゼが山芋に含まれているため、消化しづらい麦や刺身と一緒に山芋を食べると胃の負担が軽減されるのです。

            ○

先にも述べた通り山芋は中国で「山薬(さんやく)」ともよばれ、栄養を多く含み体力回復に効果がある食べものとして利用されました。
栄養があるということと形が似ているということからか、江戸時代の百科事典『和漢三才図絵』には山芋が鰻に変わると説明されています。(関連:「うなぎと蒲焼きの語源」)

実際に、山芋にはカリウムやビタミンB、ビタミンCなどの栄養や食物繊維が豊富に含まれています。
関東では正月にとろろを食べて家族の健康を祈ったり、家の周りにとろろをまいて蛇よけにしたようで、滋養に富んだ山芋は昔から単なる食材以上の意味を持っていたようです。

<参考書籍>

日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<山芋関連>

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野菜で、まんぷく。—蔭山はるみの体にやさしい元気メニュー 野菜で、まんぷく。—蔭山はるみの体にやさしい元気メニュー
蔭山 はるみ


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2006/11/01

パンと戦争

徳川幕府による鎖国政策によってキリスト教が排除され、それに伴ってキリスト教の聖餐式で欠かせないパンを作ることも禁じられたことから、江戸時代を通じてパンは庶民から遠ざけられることになりました。(関連:「パンと火縄銃とキリスト教」)
そんなパン作りが日本で復活したのは幕末から明治に掛けての頃です。

            ○

1840年に清とイギリスの間でアヘン戦争が始まったことで、日本国内で外国脅威論がわき起こり、徳川幕府は外国からの攻撃に備えて国土防衛対策を練る必要に迫られました。
戦時の兵士の食事については、飯を炊けば煙が出て敵方に味方の位置を知られてしまうことが問題視されていました。
そこで兵の携行食として考えられたのがパンでした。
パンを食べるのに煮炊きの必要はなく、軽量で行軍時の携帯に向くことから、軍用糧食としてパンが採用されたのです。

            ○

兵糧食としてのパンの開発に従事した一人に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門というひとがいました。
江川も鹿狩りのときにパンを食べた経験があり、糧食としてのパンに注目していたことから、長崎で外国人からパンの作り方を学んだ者を呼び寄せて手ほどきを受け、江川はパンを試作することにしたのです。
そして1842年4月12日に国産のパン焼き窯が誕生し、長らく途絶えていた日本での日本人によるパン作りが再開されました。
江川がパンを試作した日にちなんで、今でも毎月12日は「パンの日」とされています。

            ○

1860年には外国人居留地があった横浜の異人館近くで、野田兵吾というひとが日本人としては最初のパン屋を開業しています。
しかし、野田兵吾が販売していたパンは粉を捏ねて焼いただけの、いわゆる無発酵パンだったらしいといわれています。

勿論、野田兵吾がパンを作った時代にパン種がなかったわけではありません。
江戸時代にはパンを作るためのパン種として甘酒が使われた記録が残されており、1854年に日米和親条約が締結され開国された後は、ホップ種が日本に入ってくるようになっていました。

            ○

明治元年になると横浜の外国人居留地で、外国人経営のパン屋が開業されています。
ところで、この当時の日本で販売されていたパンはフランスパンが主でした。
徳川幕府がフランス人技師達を招いて製鉄所などの建設を試みていた頃から、日本で作られたパンはフランスパンが主流となったのです。
しかし明治維新後は薩摩藩と親密な関係にあったイギリスからの派遣技師が増えたことから、中力粉に近い粘りの出にくい小麦粉を使うフランスパンではなく、強力粉系の小麦粉を使って上部が山形になり柔らかく焼き上がるイギリス式の食パンが多く作られるようになりました。
時代は下って第二次大戦後になると、量産に向くフタ付きの型で焼かれるアメリカ式の四角いパンが主に作られるようになり、日本人はこれを食パンと呼ぶようになります。
その時代の外国勢力の日本での影響力の強さが日本でのパン作りにも反映されたのです。

            ○

横浜で外国人によるパン屋が開業した明治元年には戊辰戦争が起きており、東北遠征用として、長期保存可能な黒ごま入り堅パン5000人分を薩摩藩が江戸の凮月堂に注文したという記録が残されています。
この戊辰戦争で用いられたパンには将来予想された外国との戦争時のシュミレーション的な意味もあったと考えられています。

            ○

その後、明治10(1877)年に士族と明治政府軍が戦った西南の役でも、政府軍はパンの注文を木村屋とつたもとパン、三河屋パンの3店に出しており、このときに発注されたパンは全部で23万7063斤にもなりました。
雨中の決戦となった田原坂の戦いで政府軍が勝利した一つの要因は、政府軍兵士が煮炊きの必要のないパンを携帯していたためだったともいわれています。

            ○

このように、鎖国のために日本でのパン作りが事実上禁止された江戸時代から、徳川幕府の力が弱まった幕末にパン作りは再開され、明治になると本格的にパン作りが行われるようになりました。
しかし、この時代のパン作りはパンを食べたいという庶民のニーズを満たすということよりも、明治維新という争乱時代の軍用糧食としての面が強く、パンが民間に広まっていくのは政情が安定し洋食が普及するもう少し後の時代になってからのことだったのです。

<参考書籍>

大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社

<パン関連>

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村田 裕子

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