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2006/10/31

パンと火縄銃とキリスト教

1543年、海難事故に遭ったポルトガル人が種子島に漂着し、このポルトガル人は領主の種子島時尭(たねがしまときたか)によって手厚くもてなされました。
その歓待のお礼としてポルトガル人は二丁の火縄銃と火薬を種子島時尭に贈呈しています。
この火縄銃の伝来は日本史の中の重要な出来事としてしばしば語られますが、このとき日本に初めてもたらされたのは銃だけではありませんでした。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていたライ麦パンが、日本人が初めて見たパンだったといわれているのです。

            ○

ポルトガル人によって初めて伝えられたことから、ポルトガル語の「pão(パン)」という呼称が日本語でもそのまま使われることになりました。
このポルトガル語の「pão」の語源はラテン語の「panis(パニス)」だと考えられています。

明治時代以前の日本では、「パン」と書き表すために「麺包」「波牟」「麦餅」「蒸餅」「麦蒸餅」「麦麺」「麺頭」など様々な漢字が宛てられており、明治になってからは「麵麭」と書き表された場合が多かったようです。
そして、カタカナで「パン」と書くようになったのは明治時代も末になってからのことでした。

            ○

1543年のポルトガル人の種子島漂着事件以降、1549年にやって来たフランシスコ・ザビエルをはじめ、多数の宣教師がキリスト教布教のために来日し、キリスト教の広まりにともなってパンも庶民に知られていくことになりました。
これは、信者が極少量のワインと一緒にパンの小片を口にする聖餐式があり、キリスト教にパンは欠かせないものだからです。
日本の文献にパンが初めて出てくるのは1593年に著されたイソップ物語の和訳である『天草似曽保物語』という本ですが、これもキリスト教布教のために作られています。
キリスト教の民間への布教活動が活発になるにつれ、多くの日本人がパンの存在を認識するようになったのです。

            ○

しかし、江戸時代になるとパン作りは事実上禁止されてしまいます。
徳川幕府により鎖国令が出され、キリスト教が排斥されたためです。
この背景には、キリスト教による民衆の団結を徳川幕府が警戒していたということがあり、幕府にとっての厄介ごとを作り出す恐れがあるキリスト教を排除するにはキリスト教の儀式で使われるパンも禁じる必要があったのだといわれています。
このパン作り禁止の影響で農民は饅頭を食べることすら禁じられてしまいましたが、これは隠れキリシタンが聖餐式でパンの代用品として饅頭を用いたためだともいわれています。

            ○

徳川幕府によるパン作り禁止令によって、江戸時代を通じて一般の庶民がパンを食べることは殆どありませんでした。
1712年に出版された江戸時代の辞書ともいえる『和漢三才図会』ではパンに「波牟」の字を宛て、「饅頭の餡(あん)無きもの」と説明されています。
パンを知らない人達への説明として、13〜14世紀頃に中国から日本に伝わり一般庶民に普及していた蒸し饅頭を引き合いに出しているのです。

鎖国中も長崎の出島ではオランダ人向けなどにパンが作られていましたが、表向きは日本でのパン作りは一旦途絶えることになりました。
日本でのパン作りが再開されたのは幕末になってからのことなのです。

<参考書籍>

大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社

<パン関連>

ルヴァンの天然酵母パン ルヴァンの天然酵母パン
甲田 幹夫


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旬の酵母でつくるパンBook 旬の酵母でつくるパンBook
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パンの教科書—ブランジェリーコム・シノワ パンの教科書—ブランジェリーコム・シノワ
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2006/10/27

さつまいもと中国と沖縄

さつまいもは、いくつかのルートを通じてアメリカ大陸から世界に広まっていったと見られており(関連:「さつまいも太古の海を渡る」)、15世紀末から16世紀頃にスペイン船によって中米からフィリピンに運ばれたルートもさつまいもの主要伝播経路の一つだと考えられています。

そして、スペインの貿易地だったルソン島(現在のフィリピンのマニラ)から、16世紀後半にさつまいもは中国南部に伝えられました。
一説によると、中国福建省の商人がルソンでさつまいもの苗を入手し、故郷に持ち帰って栽培したのが中国でのさつまいも栽培の始まりとなり、1594年に福建省で起きた飢饉が切っ掛けとなって、さつまいもが飢饉対策になることが知られるようになり、中国全土へさつまいも栽培が普及していったといわれています。

さつまいもの皮が紅紫色だったことから、当時の中国では「朱薯」としたり、外国から伝えられた芋という意味で「蕃藷」と書き表したりしました。

            ○

Potato 中国でさつまいも栽培が広まりつつあった16〜17世紀に、中国福建省の対岸に位置する琉球(現在の沖縄)にもさつまいもは伝えられました。

1597年に宮古島にさつまいもが伝来したという説があります。
宮古島の真氏砂川旨屋(しんしすながわしんや)というひとが海難に遭って中国まで流され、そこでさつまいもを知り、故郷に戻るときにさつまいもの蔓を持ち帰ったという話しが残されているのです。
しかし、この話しが事実だとしても、このときのさつまいも栽培は失敗に終わっており、さつまいもが普及するには到らなかったようです。

            ○

沖縄でのさつまいも普及の歴史で必ず登場するのが野国総管(ぬぐんそうかん)と儀間真常(ぎましんじょう)の二人です。
中国で飢饉が起きた時にさつまいもによって多数の命が救われたことを中国進貢船で中国に渡っていた琉球の野国総管が知り、1605年に鉢植えにした三品種のさつまいもの苗を持ち帰って故郷の野国村で栽培を始めました。
その後、野国総管は近隣の村にもさつまいも栽培を広めましたが、これを儀間真常(ぎましんじょう)という人が聞きつけ、さつまいもの苗を貰い受けて自分の領地である垣花村(現在の那覇市山下町)で栽培の研究を重ねたといいます。
数年後に琉球で大飢饉が起きたとき、さつまいもを栽培していた地域では餓死者が出なかったことから、新常が中央の王府にさつまいも栽培の重要性を説き、その後10年間でさつまいも栽培は琉球王国全体に広められました。

            ○

T990911農耕の歴史が始まってから、琉球でも稲や麦など様々な穀物の栽培が試みられましたが、珊瑚礁の島であることから耕作に適した土地が少なく、しかも貧土が多かったため農作物の生産性は低く、高温多湿の気候や毎年起こる台風や旱魃などによる被害も多発したため、琉球での農作はなかなかうまくいかず度々飢饉が起きていました。

その点、さつまいもは地中で生育するため少雨や強風に耐えることができ、気候条件の厳しい琉球でも栽培が可能だったのです。
狭い土地から多くのエネルギーを得ることができるさつまいも栽培は琉球の地で急速に広まりました。
さつまいもとその葉が一緒に味噌汁にされるなどして、さつまいもは庶民の主食となり、貧しい家では殆どの食事がさつまいも中心になりました。
後に琉球でさつまいもは豚の餌としても用いられるようになり、養豚も盛んになっています。(関連:「豚肉と日本人」)
さつまいもの伝来以降、琉球に住む人達の栄養状態は改善され、人口も増加していくことになりました。

            ○

その後、琉球で「ンム」とよばれたさつまいもは薩摩に伝わり、そして日本全国に広まっていきました。
さつまいもがある程度日本で普及した頃、薩摩が既にさつまいもの主産地となっていたためか、日本での呼び名は「さつまいも」になりましたが、現在でも南九州ではさつまいものことを「唐いも」や「琉球いも」と呼んでいるそうです。

<参考書籍>

坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<さつまいも関連>

半分のさつまいも 半分のさつまいも
海老名 香葉子


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今村 治華


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2006/10/26

韓国のスープは湯(タン)

4〜6世紀にかけて朝鮮半島に仏教が伝えられ、仏教の教義に基づいて殺生禁止令が出されたことによって朝鮮での肉食が制限された時代がありました。
朝鮮半島では牛を農耕作業に使っていたため、仏教の教義に関係なく牛肉を食べることは習慣化されていませんでしたが、13〜14世紀に肉食文化を持つモンゴルが朝鮮半島を支配したときに、牛肉を含めた肉食が朝鮮でも本格的に始まったと言われています。
牛の肉や骨、内蔵を水で煮込む「ルソルロンタン」という韓国のスープ料理は、その当時にモンゴルから伝えられた料理です。

            ○

「ルソルロンタン」の「タン」とは「湯(タン)」のことであり、吸い物や汁物を意味しています。
これを一般家庭では簡単に「クック」(韓国語の発音では「クッ」や「ク」に近いようです)といい、宮中では「タン」と言いました。
「タン」という語句には高級な響きがあり、「クック」といえば庶民的な感じがするようですが、この二つに調理法の大きな違いはありません。

日本の焼き肉店でも出される「クッパ」とは「クック(スープ)」と「パプ(ご飯)」ということで、スープにご飯を入れたものを意味しています。

            ○

タンには肉だけでなく魚や野菜なども使われ、和食の吸い物のようにだし汁をとるのではなく、具材からでる味が出汁となります。
薄口醤油や塩を使ってすまし汁のようにするタンや、味噌を使う「テンヂャンクック」などがあり、味噌を使うタンは日本の味噌汁に近いものですが、各家庭で味付けが異なり、中にはとうがらし味噌を入れる辛い味噌スープなども作られています。

            ○

「コムタン」という料理の「コム」とは長時間煮出すという意味をもっています。
長時間煮込む必要がある食材を使ったスープがコムタンと呼ばれ、通常具材には牛のすね肉やテール、肺、胃、腸などが使われます。
韓国で豚肉をスープにすることは稀です。
牛の屠殺が許可制で牛肉が買える市場が限られていた昔の韓国でも、鶏肉や魚を使ってクックが作られており、一般的に豚肉は使われませんでした。

            ○

魚を使ったものでは、「大口湯(テグタン)」という真鱈(マダラ)を使ったスープがあります。
昔、テグタンは朝鮮半島の東海岸を中心によく作られ、宮廷でも食べられたといいます。
ちなみに、牛肉と骨を入れてじっくりと煮込み、野菜類や香辛料、胡麻油を入れたスープもテグタンとよばれますが、こちらを漢字で書き表す場合は「大邸」となります。

その他にナマズを使った「メギタン」や、ドジョウを使った「チュオタン」があります。
ただし、うなぎやどじょうなどヌラヌラしたものやウロコのない魚、形が変な魚は宮廷料理では使われませんでした。

鯉と鶏を水で煮てそのスープだけが飲まれる「竜鳳湯」という料理があります。
鯉の身はあまりおいしくないと韓国ではみられていますが、鯉からとれたスープは産後の女性を癒すのによいといわれているのです。

            ○

ワカメを入れた「ミヨックック」も妊産婦が飲むと良いとされており、妊産婦がわかめスープを飲むことは韓国で風習化されています。
日本とは異なり、ワカメは味噌に合わないと韓国ではいわれており、通常は薄くち醤油のスープに入れられます。
カルシウム豊富なわかめを使うミヨックックは誕生日にも食べられ、子育てのためのスープとしてもつくられています。
誰かの頭の悪さをからかう時に、「あいつの母親はワカメスープを食べなかったんだ」という言い方をする悪口もあるそうです。

            ○

体の調子を整えるスープとして飲まれるものに、日本でも知られている参鶏湯(サムゲタン)があります。
かつて鶏参湯(ケサムタン)ともよばれた参鶏湯は、内臓を取り除いた雛鶏の中に朝鮮人参やもち米、ナツメ、にんにく、黄耆(オウギ)という漢方材などを入れて煮込んで作られます。
強壮作用や消化吸収を助ける働きが朝鮮人参にはあり、ナツメには内臓の調子を整える効果があるといわれています。
朝鮮人参などの漢方材の効果を活かすため、参鶏湯に野菜や魚は入れられません。
熱いもので暑さを納めるという意味の「似熱治熱(シゥォナダ)」という言葉が使われる韓国で、参鶏湯は夏バテ防止のために食べられています。

<参考書籍>

黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社

<韓国料理関連>

イ・ヨンエの宮廷料理人 ~ドラマで学ぶ韓国料理~ イ・ヨンエの宮廷料理人 ~ドラマで学ぶ韓国料理~
イ・ヨンエ イ・イルファ ナ・ムニ


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ケンタロウの韓国食堂 ケンタロウの韓国食堂
小林 ケンタロウ


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2006/10/25

トマトケチャップとアメリカと日本

トマトをつぶして裏ごしして皮や種をとり除いたもの、いわゆるトマトピューレを煮詰めて香辛料や調味料を加えたものがトマトソースです。
トマトピューレにタマネギや香辛料、酢、塩などを加えてつくった調味料がトマトケチャップになります。
トマトケチャップの利点は保存性の高さですが、素材の味が活かされているのはトマトソースの方だといえます。

            ○

19世紀頃まで、アメリカではトマトケチャップとトマトソースは明確に区別されていませんでした。
イギリスからアメリカにトマトケチャップが伝わった後(関連:「トマトケチャップのルーツの謎」)、それぞれの家庭が独自のレシピに基づいてトマトケチャップやトマトソースを作っていたため、トマトソースのようなものもトマトケチャップと呼ばれていたからです。

            ○

アメリカでもトマトケチャップは便利な調味料として多用されるようになり、1830年代には工場での大量生産が始まりました。
南北戦争後に缶詰加工業が発展するのと時を同じくして、工場でのトマトケチャップ生産量も増加していきました。

            ○

南北戦争後間もなく、アメリカ人の好みに合わせて甘味を加えたトマトケチャップをマサチューセッツ州でジョシュア・ダヴェンポートが開発します。
ダヴェンポートのケチャップはフィッシュケーキやベイクドビーンズを食べるときに欠かせないソースだと好評を得ました。

1876年にはペンシルバニア州でH. J. ハインツがトマトケチャップの生産を始め、ハインツ社のトマトケチャップが普及すると、アメリカの家庭でケチャップは作られなくなり、市販品のケチャップを買うのが普通になったのです。

            ○

19世紀まで、アメリカではそれぞれのメーカーが多様な材料を使ってさまざまなトマトケチャップを作っていました。
しかし1906年に添加物を規制する法案がアメリカ議会で可決されると、トマトケチャップは完熟トマトにスパイスや酢、砂糖のみで作り、保存料を使わないように義務づけられました。
この規制により液体状のトマトソース風トマトケチャップは市場から消え、現在のトマトケチャップであるドロリとした粘性のあるものに統一されていきました。

            ○

1900年代に普及したホットドッグやハンバーガーにトマトケチャップは欠かせないものとなり、1901年に行われた調査によると、この当時のアメリカの殆どのレストランにトマトケチャップが置かれるようになっていたといいます。
現在アメリカでは1000万トンに近い量のトマトが生産されていますが、その殆どはケチャップやジュースなどの加工品の材料にされており、アメリカの98%を越える家庭でトマトケチャップは常備されているという最近の調査結果もあるといいます。

            ○

アメリカの家庭でトマトケチャップが既に普及していた頃である明治時代の日本では、トマトを食べると髪が赤くなるという噂がはびこっていたためトマトは日本人から敬遠されていました。
そんな中、明治28年(1895)年に、日本で初となるトマトソースを堤氏が製造販売したという記録が残されています。

            ○

日本でのトマトケチャップ普及に貢献したのは、明治8(1875)年に愛知県に生まれた蟹江一太郎氏でした。 
明治32(1899)年に蟹江氏は西洋野菜を栽培し、外国人客が利用するレストラン向けに玉ねぎやキャベツ、にんじんなどを販売し始めました。
しかし、トマトだけはいつも売れ残って畑で腐らせるようなことが続いていたため、これが蟹江氏の悩みの種になっていました。
そんなとき、農事試験場技師からトマトを加工する方法があることを蟹江氏は教えられ、名古屋のホテルの厨房にあった輸入トマトソースを見本にして、自宅の納屋でトマトソース開発に着手したのです。
そしてついに、明治36(1903)年、蟹江氏は独自のトマトピューレを完成させました。
これが現在のカゴメ株式会社の始まりとなったのです。
日露戦争後の明治39年から蟹江氏はトマトソースの生産を本格的に開始し、明治41(1908)年にはトマトピューレに香辛料や調味料を加えたトマトケッチャップを開発して製造を始めました。

明治から大正時代に起きた洋食ブームで日本人がチキンライスやオムライスなどを口にするようになるとトマトソースの需要は増加しました。
トマトソースに比べトマトケチャップの日本での普及は遅れましたが、昭和に入った頃からトマトケチャップの消費も徐々にのびていき、戦後の日本人の食事の西洋化に伴ってトマトケチャップも多くの家庭で使われるようになったのです。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<ソース関連>

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2006/10/24

トマトケチャップのルーツの謎

「ケチャップとはもともと何語なのか」という議題をこれまで多くの学者達が論じてきました。
トマトケチャップの歴史は長いとはいえないのですが、「ケチャップ」という言葉の由来を示す決定的な資料が残されていないため、ケチャップの語源については様々な説がこれまで唱えられてきたのです。

            ○

例えば、スペイン語やポルトガル語でソースを意味する「escabeche(エスカベチェ)」に由来するとか、魚をスパイスや酢に漬け込む料理の「cabeach(カビーチェ)」が語源であるといわれたりもしました。

1909年に、アメリカの化学者ビッティングが、インドネシアやマレー半島で使われた「kitjap」という言葉が「ケチャプ」の語源だとする説を発表してからは、「ケチャップ」はアジアの言葉に由来するとしたいくつかの説が唱えられるようになります。
東南アジアのいくつかの地域では、魚や果物、木の実を塩漬けにして塩辛状にしたものを「ケチャップ」とよんでおり、例えば、インドネシアでは現在でも「塩辛い醤油」を「ケチャップ・アシン」とよび、「甘い醤油」を「ケチャップ・マニス」とよんでいるのです(インドネシア語でトマトケチャップは「ケチャップ・トマット」)。

            ○

魚を塩漬けすることで作る魚醤を中国南部では「ketsiap」といい、この言葉がケチャップの語源になったのだとか、この中国南部の言葉である「ketsiap」がマレー半島に伝わりマレー語として使われるようになった後に、ヨーロッパに伝わって「ケチャップ」の語源になったとも考えられました。
確かに、17世紀にイギリス人がマレー半島で盛んに貿易を行っていた頃、この地でトマト栽培は既に行われており、トマトが塩や香辛料に漬けられていた可能性も否定できないのです。

            ○

ケチャップの語源になったかどうかはともかく、魚や野菜を漬け込んだ後に残る漬け汁をマレーの人々が捨てずに料理に利用していたのは事実であることから、18世紀頃、マレー半島で貿易に携わっていたイギリス人が漬け汁をソースとして利用する方法を覚え、本国に帰ってこのソースを伝えたのだろうということは半ば定説化しているようです。

            ○

イギリス商人がアジアで聞いた名を口伝したためか、英語のケチャップには、「Ketchup」や「Catsup」「Catchup」など幾つもの綴りができてしまいました。
イギリスからアメリカにトマトケチャップが伝わり大量生産が始められるようになっても綴りの混乱は続き、トマトケチャップ製造会社大手のハインンツ社ではラベルの印字に「Ketchup」と「Catsup」の両方の綴りを使っていた時期があり、20世紀初めになってようやく「Ketchup」に統一しています。
デルモンテ社は「Catsup」という綴りを長い間使っていましたが、世の主流に合わせて1988年に「Ketchup」に変更した経緯があります。
欧米の綴りの不統一の影響を受けて、ケチャップが初めて紹介された明治時代の日本でもケチャップの名称は曖昧だったようです。
洋書にケチャップが様々な綴りで書かれていたことから、それらの洋書をもとにケチャップを紹介した日本の書籍でも「カットサップ」や「カツアップ」など色々な読みがなされています。

            ○

1700年代初めにイギリスの貿易商達がマレー半島で覚えた味を再現したとされる初期のトマトソースは辛味のあるものだったようです。
その後、牡蠣や胡桃、茸などが加えられるようになり、様々なバリエーションのケチャップが作られるようになりました。
1727年にイギリスで出版された『Complete Housewife』という本にトマトケチャップの作り方が初めて載せられています。
このレシピの材料にはアンチョビーも使われており、ケチャップのルーツはアジアの塩漬け魚だという説を裏付けるものではないかとも捉えられています。

            ○

19世紀にイギリスで発刊された料理書『Huse-Keeper's Pocket-Book』には5種類のトマトソースと3種類のトマトケチャップの作り方が載せられていますが、これらは家庭で使うために書かれたもので、この当時にはまだ市販品のトマトケチャップは流通しておらず、この頃のイギリスでトマトケチャップは一般には馴染みの薄いものでした。
トマトケチャップの市販品が大量生産されるようになったのは1900年以降のことで、第一次大戦後になってようやくイギリスの一般家庭にトマトケチャップは普及しています。

その後、ウースターソース同様、トマトケチャップはイギリス人には欠かせない調味料となりました。
ヨーロッパには「フランスには一つの宗教と360のソースがあり、イギリスには360の宗教とたった一つのソースがある」という諺があるそうです。
一つのソースというのは言い過ぎですが、食材や料理に合わせていくつものソースを作るのではなく、とりあえずウースターソースやトマトケチャップを何の料理にでも掛けて済ませてしまうというイギリス人を揶揄する意味がこの諺には込められているのです。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<トマトケチャップ関連>

小池芳子の手づくり食品加工コツのコツ〈1〉ジャム類・ジュース・ケチャップ・ソース 小池芳子の手づくり食品加工コツのコツ〈1〉ジャム類・ジュース・ケチャップ・ソース
小池 芳子


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ケチャップ娘がやってきた! ケチャップ娘がやってきた!
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ディズニーのケチャップ・ソング~ラ・ヴィダ・ミッキー(2) ディズニーのケチャップ・ソング~ラ・ヴィダ・ミッキー(2)
ディズニー ジュリー・グリフィン マルコ・マリナンヘリ


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2006/10/23

かぼちゃとハロウィンと冬至

かぼちゃと人との付き合いは古くに始まり、古代ローマ時代にもかぼちゃは健康に良いとして様々なかぼちゃ料理がつくられていたことが知られており、現在も世界中の多くの地域でかぼちゃ栽培は行われています。

            ○

日本では「ナンキン」や「トウナス」、「ボーブラ」など、各地方ごとにかぼちゃの別名が多く残されています。
これは、かぼちゃに様々な品種があることや、中国や南方など複数の経路を通じて日本にかぼちゃが伝播したためだと考えられています。

            ○

かぼちゃが日本に伝わったのは16〜17世紀頃だといわれていますが、もっと限定的に、最初の伝来は1541年7月だったという説もあります。
海難に遭ったポルトガル人が現在の大分県である豊後国(ぶんごのくに)に漂着し、カンボジアで手に入れたかぼちゃの種を領主に献上したのが最初だったという逸話が残されているのです。
豊後に漂着したポルトガル人が持ち込んだかどうかはともかく、「かぼちゃ」という名の語源は国名の「カンボジア」に由来するといわれています。
また、漢字でかぼちゃは「南瓜」と書きますが、これは「南蛮国から伝わった西瓜のようなもの」ということを意味しています。

            ○

Pumpkin 食用のかぼちゃには大別してセイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャの3種類があります。
ニホンカボチャには「菊座」や「鹿ヶ谷」などがありますが、日本の市場で流通しているものの殆どはセイヨウカボチャの「えびす」などです。
国内では主に北海道や鹿児島、茨城などでかぼちゃは生産されており、流通量の40%を占める輸入かぼちゃはニュージーランドやメキシコなどでつくられています。

ペポカボチャには「金糸瓜」という種類のかぼちゃがあり、このかぼちゃは茹でると果肉が麺のようになることから「そうめんかぼちゃ」という別名でも呼ばれています。
メキシコやアメリカで作られるものにスパゲティ・スクォッシュ(Spaghettii Squash)という名のかぼちゃがあり、このかぼちゃの果肉もやはりスパゲティ状になっています。
また、きゅうりに似たズッキーニはかぼちゃの仲間でペポカボチャの一種です。(関連:「きゅうりの白い粉」)

            ○

かぼちゃと言えば、かぼちゃを使ったお祭りのハロウィン(Halloween)があります。
10月31日に行われるハロウィンは、この日を大晦日としたアイルランドのケルト族などのお祭りが起源とされています。
ハロウィンは、後に11月1日のキリスト教の聖人をしのぶ万聖節と関連づけられるようになり、現在は、沼地を漂う人魂を模したジャック・オ・ランターン(Jack-o'-Lantern)と呼ばれるカボチャの提灯を作ったりする子供のためのお祭りになっています。Halloween

ハロウィンが始まったヨーロッパでは、カボチャではなくかぶの一種のルタバガやさとうだいこんなどを使ってジャック・オ・ランターンは作られていましたが、ハロウィンがアメリカに渡ってから、家畜のエサとして栽培されていたペポカボチャが提灯の材料に使われるようになりました。
ペポカボチャは栽培が容易で収量が多いことからアメリカで盛んに生産されていたため、身近にあって利用し易いペポカボチャがルタバガやさとうだいこんの代わりに使われるようになったのです。

            ○

日本にはかぼちゃを冬至に食べる習慣があります。
かぼちゃの本来の旬は国産ものの出荷のピーク時にあたる6〜7月ですが、冬に収穫できる野菜が少なかった昔に、保存性の高いかぼちゃを夏に収穫して冬まで貯蔵しておいて、日が一番短くなる冬至の日にかぼちゃを食べて不足がちになるビタミンなどの栄養を補った先人の知恵から冬至にかぼちゃを食べる習慣が生まれました。
実際、かぼちゃに豊富に含まれるカロテンは粘膜を強くする働きがあるため風邪の菌が気管支や鼻から入り込むのを防ぐ効果があり、かぼちゃが含むビタミンCも風邪予防にもちろん役立ちます。

かぼちゃはには果肉だけでなく種にもタンパク質や脂肪などの栄養が含まれており、その量は落花生よりも多いといわれています。
かぼちゃの種にはビタミンC以外のビタミンも多く含まれ、ミネラルや鉄分も豊富です。

            ○

ところで、丸ごとのかぼちゃを店頭で選ぶ時はかぼちゃのヘタの切り口を見ます。
切り口の断面が2cm程度で水気がなく完全に乾いているかぼちゃは完全に熟してから収穫されたものです。
同じ大きさのものなら重いものの方がよく、表皮がきれいなものよりツメが立たないほど固く深い溝がついた皮をもつものが良いかぼちゃです。
切って売られているものの見極めは簡単で、中身がぎっしりと詰まって色が濃く、隙間を埋めるように種が大きく膨らんでいるものが完熟したかぼちゃです。

そろそろ気温も下がって寒い季節がやってきますので、風邪対策に熟したかぼちゃを選んで食べるのも良いかもしれません。

<参考書籍>

月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版

<かぼちゃ関連>

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辰巳 芳子


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2006/10/20

糸ひき納豆と塩辛納豆

ヨーロッパやアフリカそして北南米では豆を煮て食べることが多いようです。
インゲンやエンドウ、ソラマメなどは確かに煮ておいしく食べることができるのですが、昔から日本で食べられてきた大豆は煮込み料理にはあまり向きませんでした。

大豆をそのまま煮ると大豆に特有の臭みが出てしまうためです。
しかも、ただ煮ただけの大豆は消化に悪く、人体に害となる成分が完全には分解されないため、ガスが腸内に溜ったり消化吸収が不十分になるなど不都合なことが多く起きてしまいます。
そこで大豆を食べる国では特別な豆の加工方法が発達しました。

            ○

日本での大豆の利用法としては大豆のタンパク質を取り出して豆腐にしたり、大豆を発酵させて味噌や醤油のようにして用いる方法が主流になりました。
そしてもう一つの大豆加工法が発酵食品の一つである納豆です。

            ○

大豆を発酵させ糸ひき納豆に変える納豆菌は、大豆中の人間が消化できない多糖類を食べてくれたり、人間の消化を邪魔する酵素を分解してビタミンなどの栄養に変えてくれます。
しかも、納豆菌が大豆から栄養を吸収する際には、組織を壊すことで大豆を柔らかくするのと同時に大豆中のタンパク質を分解して旨味成分のアミノ酸などをつくる働きをしてくれるのです。

            ○

ところで、日本には「納豆」の名がつく食品が2種類あります。
一つは前述の糸ひき納豆なわけですが、「塩辛納豆」と呼ばれる発酵食品もあるのです。

日本で一般に食されている糸がひく納豆は白大豆を煮てから納豆菌を繁殖させてつくられますが(関連:「納豆をつくる納豆菌」)、塩辛納豆をつくるときは、麹菌を繁殖させた煮大豆を塩水に3〜4ヶ月つけ込んで発酵が行われ、大豆のタンパク質は麹菌によってアミノ酸に転化されます。
塩辛納豆は、外見は黒く、溜まり醤油や八丁味噌の風味に似ており、匂いは糸ひき納豆とは異なります。
この違いは発酵させる微生物が異なるためで、糸ひき納豆も塩辛納豆も呼称に「納豆」の語句が入っていますが、この二つはまったく異なる大豆発酵食品といえます。

            ○

塩辛納豆が登場する最古の文献は6世紀に中国で書された『斉民要術』で、塩辛納豆は「鼓」として記されており、塩を入れる「塩鼓(エンシ)」と塩を入れない「淡鼓(タンシ)」の二つの鼓の作り方が書かれています。

日本では糸ひき納豆がつくられる以前の奈良時代に塩辛納豆が中国から伝えられました。
その当時の日本で塩辛納豆をつくっていた宮内省でも、『斉民要術』と同様に、塩辛納豆を「鼓」と書いて「くき」と呼んでおり、「塩辛納豆」という呼称が使われるようになったのは平安時代の頃と考えられています。
室町時代になると「唐納豆」の名でよばれ、その後、寺でつくられる機会が多かったことから「寺納豆」とよばれるようにもなりました。

            ○

寺の納豆と言えば、納豆の語源は藁苞に納めた豆の意味だという説がありますが、「納豆」の「納」とはお寺の台所の意味の「納所」のことであり、納豆という言葉は「納所の豆」を意味しているという説もあるのです。

            ○

寺納豆と呼ばれた塩辛納豆は関東よりも関西で多く用いられました。
京都の大徳寺や静岡県の浜名湖近くの大福寺でつくられた塩辛納豆が有名だったことから、塩辛納豆には「大徳寺納豆」や「浜納豆」の別名もあります。

江戸時代中期頃になると味噌や醤油、そして糸引き納豆が多用されるようになり、塩辛納豆の生産量は次第に減少していき、他の大豆発酵食品よりも目立たぬ存在になってしまったようです。

<参考書籍>

柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

いつものご飯に納豆さえあれば いつものご飯に納豆さえあれば
藤田 雅子


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遊び尽くし まめに納豆クッキング 遊び尽くし まめに納豆クッキング
石塚 昇一郎


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2006/10/19

落花生とアフリカとアメリカ

南米からアフリカに落花生を伝えたのはポルトガル人でした。
1560年代にはポルトガルが奴隷貿易を行ったアフリカ西海岸で落花生の栽培が始まっていたのです。

            ○

見たこともない実のつけ方をする落花生はヨーロッパや日本に伝わってもすぐに普及することはありませんでしたが、アフリカの人々は落花生に対して拒絶反応を示すことはありませんでした。(関連:「落花生は落ちる花に実が生るのか」)
アフリカの人達が落花生を気味悪がらなかったのは、アフリカにはもともと落花生と同じように地上で花をつけて地中で実を生らせるバンバラマメやゼオカルパマメが栽培されていたためです。
バンバラマメやゼオカルパマメに比べ落花生は収量が多く栄養価も高かったため、アフリカに落花生が伝わると間もなく、それまで作られていたバンバラマメやゼオカルパマメに代わって落花生栽培が主流となりました。

            ○

アフリカの気候条件に合う栽培作物が限られていた中で、落花生は比較的容易に栽培することができ、26%がタンパク質と栄養価の高い落花生はアフリカの人々の不足する栄養を補う食物として役立てられました。
西アフリカで落花生は菓子としてではなく料理の食材として扱われ、炒った落花生と青菜を混ぜ合わせたり、ヤムイモやオクラのスープに入れる料理が作られるようになったのです。
マリやセネガルではトマトやオクラなどと一緒に落花生を煮込んだマフェというシチューがあるように、西アフリカには多彩な落花生入りのシチュー料理があって、部族ごとに独自のレシピがつくられています。

            ○

西アフリカでの落花生栽培は、後の北アメリカでの落花生の普及に密接に関連していくことになります。
2000年前の北アメリカでは先住民が落花生を常食していましたが、入植時代初期の白人系移民達にとって落花生は家畜の餌でしかなく、低所得労働者のみが食べるものだと決めつけて一般的に落花生が口にされることはありませんでした。

そんな中、16世紀後半に西アフリカの人々が奴隷としてアメリカに連れてこられ、プランテーションで強制労働を強いられるようになります。
西アフリカからアメリカまでの航海中にも、落花生は奴隷として扱われた人達の食糧にされていました。
1800年代には、アメリカ南部で綿花生産に従事させられた西アフリカ出身の人達が落花生を栽培し、雇い主から与えられる質素な食事に変化をつけるために盛んに落花生を用いたといわれてます。

            ○

黒人系アメリカ人の歴史の中で南北戦争は一つの大きな転換点となりましたが、この戦争はアメリカにおける落花生の扱われ方にも影響を及ぼしました。
落花生に限らずアメリカ食文化に少なからず影響を与えた南北戦争の勝敗は、アメリカの北部と南部で生産される食糧の違いによっても決せられたと言われています。
南部の殆どが農作地帯であるのに対して、この時代の北部には穀倉地帯はまだできあがっておらず未開拓の土地が多く残されていたため、南北戦争の開戦前には食糧面から見て、北軍より南軍の方が有利だといわれていました。

ところが実際に開戦という事態になると、南部では土中の養分を吸い尽くして土地を疲弊させるタバコや綿ばかりが作られていたため、急に穀物栽培に切り替えても作物はうまく育たず不作が続くことになり、南軍への食糧供給は思うように進みませんでした。

その一方で、北部は工業化を進めていたこともあり、食糧生産状況の情報管理が南部よりも整備されていたことから、食糧の在庫状況を十分に把握して効率的に兵站計画を立てることができたといいます。
しかも農耕に使う耕作機や農機具の大量生産が進んでいたため、北部の需要を上回るほどに農作物の生産性は高められ、余剰作物をヨーロッパに輸出し、貿易で得た利益を戦争の費用にまわすこともできたのです。

            ○

そのため南北戦争が始まると、豊かな北部とは対照的に、南部では深刻な食料不足が発生し、南軍の兵士はそれまで家畜のエサとしてあまり見向きもしなかった落花生を食べ始めるようになります。
南部で戦っていた北軍にも落花生食は伝わり、1865年に戦争が終結して兵達が帰還すると、彼らは落花生が如何においしいかを故郷の人々に教えました。
仕事にあぶれた元兵士が道ばたでピーナッツを売り歩いたこともあり、南北戦争以後、落花生はアメリカ全土で食べられるようになったのです。

            ○

1870年代にはサーカスの興行師だったフィニアス・T・バーナムが、サーカスの見物客にピーナツ(落花生)を売り出し、その後ピーナッツは野球場や劇場でも販売されるようになりました。

19世紀末に、炒ってから挽いたピーナッツに砂糖や塩を加えるなどして作るピーナッツバターをミズーリ州セントルイスの医師が考案しています。
当初は物を食べることが困難な高齢者向けに開発されたピーナッツバターでしたが、ピーナッツバターは子供からも人気を得て幅広い層から食べられるようになりました。
現在アメリカで生産される落花生のうち約50%はピーナッツバターとして加工されているといいます。

            ○

西アフリカから鎖に繋がれ奴隷としてアメリカに連れてこられた人達が、故郷で食べていた落花生をアメリカでも料理に使い、それがスナックやピーナッツバターに形を変えてアメリカ食文化に浸透していきました。
スナックとしてのピーナッツやピーナッツバターが持つ軽い感じや明るいイメージからすると、奴隷制度やプランテーションでの強制労働、戦争での食糧不足などの暗い過去を経て落花生食がアメリカに広まったということは少し意外な感じではあります。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

A peanuts book featuring Snoopy (1) A peanuts book featuring Snoopy (1)
チャールズ M.シュルツ


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ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ
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内村光良 さまぁ~ず TIM


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2006/10/18

落花生は落ちる花に実が生るのか

英語で「peanut(ピーナット)」といい、スペイン語では「cacahuete(カカウェーテ)」とよばれる落花生はアメリカ大陸で栽培が始まったと考えられており、ブラジルや西インド諸島などが原産地の候補としてあげられていますが、最初に落花生が作られた地域は明らかにされていません。
しかし、4500年前のものと見られる数千個の落花生の殻がペルーの遺跡から出土しており、落花生栽培の歴史が古くに始まっていたことは確かです。

            ○

14〜15世紀にメキシコ中央高原で栄えたアステカの人々が、落花生を食用ではなく解熱剤として用いていたことが分かっていますが、これよりもだいぶ前の紀元前500年にはメキシコに落花生が伝わっていたといわれています。

紀元100〜800年頃につくられたペルーのモチェ族の墓からは落花生の殻の形が装飾された陶器が発見されており、もう少し後の時代のものになりますが、インカ族の墓からは副葬品として埋葬された落花生の痕跡が見つかっていることなどから、昔から南アメリカで落花生は生活に密着した重要な作物として扱われていたと考えられているのです。

            ○

16世紀頃にヨーロッパ人が南米大陸で初めて落花生を見たとき、彼らは落花生をアーモンドのようなものではないかとか、コーヒー豆のように煎って使うものなのではないかと考えましたが、落花生を積極的に食べようとはしませんでした。
17世紀前半にペルーに住んだスペイン人祭司のベルナベ・コボは落花生を食べると頭痛がしたり目眩を覚えると記録しています。

            ○

640peanut116世紀前半に、 スペイン人やポルトガル人が南アメリカに攻め入ったときに知った落花生を故国に持ち帰りましたが、やはりこの時代のヨーロッパ本土でも落花生が熱狂的に迎え入れられるということはありませんでした。
ヨーロッパ人から見て、地上に花をつけるのに地中に実ができる落花生は奇怪な植物に感じられたのです。
落花生が好む温暖な気候の土地がヨーロッパには少なかったということも落花生が普及しなかった理由の一つとしてあげられます。

その後の状況から見て、ヨーロッパでは落花生をそのまま食べたり料理に使ったりするより、油にして使うことの方が注目されたことが伺えます。
加熱しても酸化し難い落花生油は特にフランスで重宝され、落花生油を使った様々なフランス料理が考案されたのです。

            ○

アフリカやアジアでも無臭の落花生油は揚げ物には欠かせないものになりましたが、これらの地域では落花生そのものを料理に積極的に用いました。
1500年代に、インド南部に落花生を持ち込んだのはポルトガル人でしたが、その他のアジア地域への落花生の伝播に貢献したのはスペイン人だったと考えられています。
スペイン人が南アメリカからフィリピンに運んだ落花生は、フィリピンから中国や日本、東インド諸島に伝わっていったのです。

            ○

東南アジアでは挽き割りにした落花生をとうがらしやライムと混ぜて辛味のあるソースが作られたり、タイやインドネシア、マレーシアなどで食べられる焼き鳥風料理のサテーにはピーナッツのソースがかけられます。

日本でも沖縄には落花生から作られる「ジーマミー豆腐」という珍味があります。
「ジーマミー」とは「地豆」のことで落花生を意味する沖縄の言葉です。

            ○

「落花生」や沖縄の「ジーマミー」という名の語源は、落花生の特徴的な実のなり方に由来しています。

落花生は地面に近い枝に花をつけ、花が咲いて受粉すると花の雌しべの基部にあって袋状の形をした「子房」と呼ばれる部分が根のように地面に向かって伸び始めます。
伸びた子房の先端が地面につくと、子房は地表から3センチ以上も地中にもぐり込み、そこで繭(まゆ)の様な形に膨れて落花生の莢となる部分を形づくり、莢の内部では実となる部分がつくられるのです。
花が咲いてから約2ヶ月ほどで落花生の実はできあがりますが、日光があたっている状態で子房は熟すことができないため、子房が地中にもぐり込むことができない固い地面の土地で落花生は実を生らせることができません。

            ○

このように、実際には花ではなく子房が地中にもぐり込むのですが、まるで花が落ちた場所に実ができるように見えることから、中国語ではこの豆を「落花生(ローホワション)」と呼ぶようになったのです。
「落花生」という語句が中国から日本に伝わったとき、中国語の漢字表記はそのまま使われましたが、これを訓読みするようになり、日本では「らっかせい」と呼ぶようになりました。
日本語では落花生に南京豆という別名がありますが、これは中国から伝来した豆を意味しています。

            ○

落花生が日本に伝わったのは18世紀初め頃で、オランダ船によりもたらされたというのが定説になっています。
地上で花が咲き地中で実がなる不思議さから当時の日本でも落花生は敬遠され、すぐには普及しませんでした。

明治7(1874)年にアメリカから落花生の種子が日本に持ち込まれるようになった頃から、落花生は日本各地で栽培されるようになります。
落花生栽培には程よい湿り気と酸素が必要となるため水はけの良い砂地などでの栽培が適しており、千葉県九十九里浜で落花生の生産は活発に行われました。
現在でも千葉県は日本一の落花生生産量を誇り、日本で生産される落花生の7割以上は千葉県で作られているのです。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

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2006/10/17

豚肉と日本人

古代の北海道には野生の猪は生息していなかったことが分かっています。
しかし、その北海道で見つかった縄文時代後期の遺跡から猪の骨が出土しており、体に縦縞があり瓜坊と呼ばれる猪の子供を模した土偶も発見されているのです。

北海道以外でも伊豆諸島や佐渡島など野生猪が生息しなかったはずの地域から猪が飼われていた痕跡が発見されており、これらのことから古代の日本人によって家畜化された猪が野生猪のいない地域にも持ち込まれていたのではないかと推測されています。

大人になれば人間を噛殺すほど獰猛になる猪も子供の内であれば人になつかせることが可能なため、これを飼い慣らすようになったのが家畜化の始まりだと考えられています。

日本で本格的に農耕が行われるようになった弥生時代になると食糧に余裕ができるようになり、余った食糧をエサにして猪の飼育が盛んに行われ始め、やがてこれが豚の飼育へと繋がっていったと見られています。

            ○3008000006

「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、肉食を禁じる聖武天皇の殺生禁断の詔が出される少し前の732年に、聖武天皇の命令で農民が飼っていた40頭の 「猪」が山に放されており、日本人の肉食が全面的に禁止される以前に豚の飼育は禁じられてしまいました。
これにより豚肉食は日本から公式には一時的になくなってしまうのです。

            ○

14世紀の前半になると中国から琉球王国に豚肉食が伝わり、琉球宮廷料理に豚肉が使われるようになります。
17世紀に明から琉球にさつまいもが伝わると、さつまいもが豚の餌に使われるようになり、琉球で養豚は盛んになりました。

沖縄では肉のことを「シシ」といい、通常シシといえば豚肉のことを指します。
沖縄で豚は「鳴き声以外は余すことなく食べ尽くす」といわれ、豚肉は部位によって含む栄養が異なりますが、一頭の豚を残すことなく食べれば栄養バランスは完璧だともいわれています。
豚肉を食べれば悪霊から守られるという言い伝えもあるため、沖縄では豚肉料理が正月に食べられたりもしています。

            ○

ところで、「ぶた」の呼び名の由来は定かにされていませんが、蒙古の言葉の「ボトン」や朝鮮の言葉の「チプトヤチ」、スンダ語の「ビチス」やシャム語の「バチ」など、何れかの語句が転じんて「ぶた」になったのではないかと考えられています。
太っていることから「猪太(いぶと)」と呼ばれていたものが変化して「ぶた」になったのではないかという説もあります。
ちなみに、猪は隠語で「ぼたん」と呼ばれますが、これは「牡丹に唐獅子」のシャレからきているものです。

            ○

1697年に書かれた『本朝食鑑』には「猪」とかいて「ぶた」と読むと説明されたうえで、この時代のぶたは公家の家で飼われていたことが記されています。
しかし、この豚は人間が出す排泄物処理が主な目的で飼われていたもので、豚肉は猟犬のエサなどにされるくらいで公家が豚の肉を食べることはなかったようです。

            ○

豚を汚物処理に使う方法はアジアやヨーロッパなど世界各地で行われていました。

1131年、フランス皇太子フィリップが町中で馬を進めていたとき、一匹の大きな豚が皇太子の馬に猪突猛進したことで皇太子は落馬してしまい、これがもとで皇太子が亡くなってしまうという事件が起きています。
この当時の豚は猪と変わらないほど大きな体格をしており、牙も持っていて気性が荒かったのですが、パリの町ではこの巨大豚を至る所で放し飼いにして汚物などを食べさせていたようです。
フィリップ皇太子が亡くなった事件後、パリの町中で豚を飼育することは禁止されました。

沖縄でも大正時代の頃まで家のトイレは豚小屋と連結して建てられ、これがフールと呼ばれていましたが、昭和になってから衛生上に問題があるとして禁止されています。

            ○

1780年代に書き残されたある文章には「家猪」と書いて「ぶた」と読ませており、中国やオランダとの交易地だった長崎で少数の豚が飼われ食用にされていたことが記録されています。

19世紀前半になると豚の飼育は沖縄から現在の鹿児島である薩摩に伝えられました。
薩摩では豚の骨付き肉を味噌や焼酎で煮込んで黒砂糖を入れる豚骨料理などがつくられるようになり、今や鹿児島の代表的郷土料理の一つになっています。

            ○

3005010099 猪は江戸時代から日本人に食べられていたため、明治の文明開化の時代、猪肉に似た豚肉は牛肉に比べ新味に欠け、新しいものを取り入れる世の流行に合わなかったことから豚肉需要はあまり増えませんでした。
民家近くで飼われた豚に発生した病気が問題になったり、病気の豚が売買される事件が発生するなどしたために、何度か豚の販売が明治政