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2006/10/31

パンと火縄銃とキリスト教

1543年、海難事故に遭ったポルトガル人が種子島に漂着し、このポルトガル人は領主の種子島時尭(たねがしまときたか)によって手厚くもてなされました。
その歓待のお礼としてポルトガル人は二丁の火縄銃と火薬を種子島時尭に贈呈しています。
この火縄銃の伝来は日本史の中の重要な出来事としてしばしば語られますが、このとき日本に初めてもたらされたのは銃だけではありませんでした。
種子島に漂着したポルトガル人が持っていたライ麦パンが、日本人が初めて見たパンだったといわれているのです。

            ○

ポルトガル人によって初めて伝えられたことから、ポルトガル語の「pão(パン)」という呼称が日本語でもそのまま使われることになりました。
このポルトガル語の「pão」の語源はラテン語の「panis(パニス)」だと考えられています。

明治時代以前の日本では、「パン」と書き表すために「麺包」「波牟」「麦餅」「蒸餅」「麦蒸餅」「麦麺」「麺頭」など様々な漢字が宛てられており、明治になってからは「麵麭」と書き表された場合が多かったようです。
そして、カタカナで「パン」と書くようになったのは明治時代も末になってからのことでした。

            ○

1543年のポルトガル人の種子島漂着事件以降、1549年にやって来たフランシスコ・ザビエルをはじめ、多数の宣教師がキリスト教布教のために来日し、キリスト教の広まりにともなってパンも庶民に知られていくことになりました。
これは、信者が極少量のワインと一緒にパンの小片を口にする聖餐式があり、キリスト教にパンは欠かせないものだからです。
日本の文献にパンが初めて出てくるのは1593年に著されたイソップ物語の和訳である『天草似曽保物語』という本ですが、これもキリスト教布教のために作られています。
キリスト教の民間への布教活動が活発になるにつれ、多くの日本人がパンの存在を認識するようになったのです。

            ○

しかし、江戸時代になるとパン作りは事実上禁止されてしまいます。
徳川幕府により鎖国令が出され、キリスト教が排斥されたためです。
この背景には、キリスト教による民衆の団結を徳川幕府が警戒していたということがあり、幕府にとっての厄介ごとを作り出す恐れがあるキリスト教を排除するにはキリスト教の儀式で使われるパンも禁じる必要があったのだといわれています。
このパン作り禁止の影響で農民は饅頭を食べることすら禁じられてしまいましたが、これは隠れキリシタンが聖餐式でパンの代用品として饅頭を用いたためだともいわれています。

            ○

徳川幕府によるパン作り禁止令によって、江戸時代を通じて一般の庶民がパンを食べることは殆どありませんでした。
1712年に出版された江戸時代の辞書ともいえる『和漢三才図会』ではパンに「波牟」の字を宛て、「饅頭の餡(あん)無きもの」と説明されています。
パンを知らない人達への説明として、13〜14世紀頃に中国から日本に伝わり一般庶民に普及していた蒸し饅頭を引き合いに出しているのです。

鎖国中も長崎の出島ではオランダ人向けなどにパンが作られていましたが、表向きは日本でのパン作りは一旦途絶えることになりました。
日本でのパン作りが再開されたのは幕末になってからのことなのです。

<参考書籍>

大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社

<パン関連>

ルヴァンの天然酵母パン ルヴァンの天然酵母パン
甲田 幹夫


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旬の酵母でつくるパンBook 旬の酵母でつくるパンBook
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パンの教科書—ブランジェリーコム・シノワ パンの教科書—ブランジェリーコム・シノワ
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2006/10/27

さつまいもと中国と沖縄

さつまいもは、いくつかのルートを通じてアメリカ大陸から世界に広まっていったと見られており(関連:「さつまいも太古の海を渡る」)、15世紀末から16世紀頃にスペイン船によって中米からフィリピンに運ばれたルートもさつまいもの主要伝播経路の一つだと考えられています。

そして、スペインの貿易地だったルソン島(現在のフィリピンのマニラ)から、16世紀後半にさつまいもは中国南部に伝えられました。
一説によると、中国福建省の商人がルソンでさつまいもの苗を入手し、故郷に持ち帰って栽培したのが中国でのさつまいも栽培の始まりとなり、1594年に福建省で起きた飢饉が切っ掛けとなって、さつまいもが飢饉対策になることが知られるようになり、中国全土へさつまいも栽培が普及していったといわれています。

さつまいもの皮が紅紫色だったことから、当時の中国では「朱薯」としたり、外国から伝えられた芋という意味で「蕃藷」と書き表したりしました。

            ○

Potato 中国でさつまいも栽培が広まりつつあった16〜17世紀に、中国福建省の対岸に位置する琉球(現在の沖縄)にもさつまいもは伝えられました。

1597年に宮古島にさつまいもが伝来したという説があります。
宮古島の真氏砂川旨屋(しんしすながわしんや)というひとが海難に遭って中国まで流され、そこでさつまいもを知り、故郷に戻るときにさつまいもの蔓を持ち帰ったという話しが残されているのです。
しかし、この話しが事実だとしても、このときのさつまいも栽培は失敗に終わっており、さつまいもが普及するには到らなかったようです。

            ○

沖縄でのさつまいも普及の歴史で必ず登場するのが野国総管(ぬぐんそうかん)と儀間真常(ぎましんじょう)の二人です。
中国で飢饉が起きた時にさつまいもによって多数の命が救われたことを中国進貢船で中国に渡っていた琉球の野国総管が知り、1605年に鉢植えにした三品種のさつまいもの苗を持ち帰って故郷の野国村で栽培を始めました。
その後、野国総管は近隣の村にもさつまいも栽培を広めましたが、これを儀間真常(ぎましんじょう)という人が聞きつけ、さつまいもの苗を貰い受けて自分の領地である垣花村(現在の那覇市山下町)で栽培の研究を重ねたといいます。
数年後に琉球で大飢饉が起きたとき、さつまいもを栽培していた地域では餓死者が出なかったことから、新常が中央の王府にさつまいも栽培の重要性を説き、その後10年間でさつまいも栽培は琉球王国全体に広められました。

            ○

T990911農耕の歴史が始まってから、琉球でも稲や麦など様々な穀物の栽培が試みられましたが、珊瑚礁の島であることから耕作に適した土地が少なく、しかも貧土が多かったため農作物の生産性は低く、高温多湿の気候や毎年起こる台風や旱魃などによる被害も多発したため、琉球での農作はなかなかうまくいかず度々飢饉が起きていました。

その点、さつまいもは地中で生育するため少雨や強風に耐えることができ、気候条件の厳しい琉球でも栽培が可能だったのです。
狭い土地から多くのエネルギーを得ることができるさつまいも栽培は琉球の地で急速に広まりました。
さつまいもとその葉が一緒に味噌汁にされるなどして、さつまいもは庶民の主食となり、貧しい家では殆どの食事がさつまいも中心になりました。
後に琉球でさつまいもは豚の餌としても用いられるようになり、養豚も盛んになっています。(関連:「豚肉と日本人」)
さつまいもの伝来以降、琉球に住む人達の栄養状態は改善され、人口も増加していくことになりました。

            ○

その後、琉球で「ンム」とよばれたさつまいもは薩摩に伝わり、そして日本全国に広まっていきました。
さつまいもがある程度日本で普及した頃、薩摩が既にさつまいもの主産地となっていたためか、日本での呼び名は「さつまいも」になりましたが、現在でも南九州ではさつまいものことを「唐いも」や「琉球いも」と呼んでいるそうです。

<参考書籍>

坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<さつまいも関連>

半分のさつまいも 半分のさつまいも
海老名 香葉子


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今村 治華


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2006/10/26

韓国のスープは湯(タン)

4〜6世紀にかけて朝鮮半島に仏教が伝えられ、仏教の教義に基づいて殺生禁止令が出されたことによって朝鮮での肉食が制限された時代がありました。
朝鮮半島では牛を農耕作業に使っていたため、仏教の教義に関係なく牛肉を食べることは習慣化されていませんでしたが、13〜14世紀に肉食文化を持つモンゴルが朝鮮半島を支配したときに、牛肉を含めた肉食が朝鮮でも本格的に始まったと言われています。
牛の肉や骨、内蔵を水で煮込む「ルソルロンタン」という韓国のスープ料理は、その当時にモンゴルから伝えられた料理です。

            ○

「ルソルロンタン」の「タン」とは「湯(タン)」のことであり、吸い物や汁物を意味しています。
これを一般家庭では簡単に「クック」(韓国語の発音では「クッ」や「ク」に近いようです)といい、宮中では「タン」と言いました。
「タン」という語句には高級な響きがあり、「クック」といえば庶民的な感じがするようですが、この二つに調理法の大きな違いはありません。

日本の焼き肉店でも出される「クッパ」とは「クック(スープ)」と「パプ(ご飯)」ということで、スープにご飯を入れたものを意味しています。

            ○

タンには肉だけでなく魚や野菜なども使われ、和食の吸い物のようにだし汁をとるのではなく、具材からでる味が出汁となります。
薄口醤油や塩を使ってすまし汁のようにするタンや、味噌を使う「テンヂャンクック」などがあり、味噌を使うタンは日本の味噌汁に近いものですが、各家庭で味付けが異なり、中にはとうがらし味噌を入れる辛い味噌スープなども作られています。

            ○

「コムタン」という料理の「コム」とは長時間煮出すという意味をもっています。
長時間煮込む必要がある食材を使ったスープがコムタンと呼ばれ、通常具材には牛のすね肉やテール、肺、胃、腸などが使われます。
韓国で豚肉をスープにすることは稀です。
牛の屠殺が許可制で牛肉が買える市場が限られていた昔の韓国でも、鶏肉や魚を使ってクックが作られており、一般的に豚肉は使われませんでした。

            ○

魚を使ったものでは、「大口湯(テグタン)」という真鱈(マダラ)を使ったスープがあります。
昔、テグタンは朝鮮半島の東海岸を中心によく作られ、宮廷でも食べられたといいます。
ちなみに、牛肉と骨を入れてじっくりと煮込み、野菜類や香辛料、胡麻油を入れたスープもテグタンとよばれますが、こちらを漢字で書き表す場合は「大邸」となります。

その他にナマズを使った「メギタン」や、ドジョウを使った「チュオタン」があります。
ただし、うなぎやどじょうなどヌラヌラしたものやウロコのない魚、形が変な魚は宮廷料理では使われませんでした。

鯉と鶏を水で煮てそのスープだけが飲まれる「竜鳳湯」という料理があります。
鯉の身はあまりおいしくないと韓国ではみられていますが、鯉からとれたスープは産後の女性を癒すのによいといわれているのです。

            ○

ワカメを入れた「ミヨックック」も妊産婦が飲むと良いとされており、妊産婦がわかめスープを飲むことは韓国で風習化されています。
日本とは異なり、ワカメは味噌に合わないと韓国ではいわれており、通常は薄くち醤油のスープに入れられます。
カルシウム豊富なわかめを使うミヨックックは誕生日にも食べられ、子育てのためのスープとしてもつくられています。
誰かの頭の悪さをからかう時に、「あいつの母親はワカメスープを食べなかったんだ」という言い方をする悪口もあるそうです。

            ○

体の調子を整えるスープとして飲まれるものに、日本でも知られている参鶏湯(サムゲタン)があります。
かつて鶏参湯(ケサムタン)ともよばれた参鶏湯は、内臓を取り除いた雛鶏の中に朝鮮人参やもち米、ナツメ、にんにく、黄耆(オウギ)という漢方材などを入れて煮込んで作られます。
強壮作用や消化吸収を助ける働きが朝鮮人参にはあり、ナツメには内臓の調子を整える効果があるといわれています。
朝鮮人参などの漢方材の効果を活かすため、参鶏湯に野菜や魚は入れられません。
熱いもので暑さを納めるという意味の「似熱治熱(シゥォナダ)」という言葉が使われる韓国で、参鶏湯は夏バテ防止のために食べられています。

<参考書籍>

黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社

<韓国料理関連>

イ・ヨンエの宮廷料理人 ~ドラマで学ぶ韓国料理~ イ・ヨンエの宮廷料理人 ~ドラマで学ぶ韓国料理~
イ・ヨンエ イ・イルファ ナ・ムニ


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ケンタロウの韓国食堂 ケンタロウの韓国食堂
小林 ケンタロウ


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2006/10/25

トマトケチャップとアメリカと日本

トマトをつぶして裏ごしして皮や種をとり除いたもの、いわゆるトマトピューレを煮詰めて香辛料や調味料を加えたものがトマトソースです。
トマトピューレにタマネギや香辛料、酢、塩などを加えてつくった調味料がトマトケチャップになります。
トマトケチャップの利点は保存性の高さですが、素材の味が活かされているのはトマトソースの方だといえます。

            ○

19世紀頃まで、アメリカではトマトケチャップとトマトソースは明確に区別されていませんでした。
イギリスからアメリカにトマトケチャップが伝わった後(関連:「トマトケチャップのルーツの謎」)、それぞれの家庭が独自のレシピに基づいてトマトケチャップやトマトソースを作っていたため、トマトソースのようなものもトマトケチャップと呼ばれていたからです。

            ○

アメリカでもトマトケチャップは便利な調味料として多用されるようになり、1830年代には工場での大量生産が始まりました。
南北戦争後に缶詰加工業が発展するのと時を同じくして、工場でのトマトケチャップ生産量も増加していきました。

            ○

南北戦争後間もなく、アメリカ人の好みに合わせて甘味を加えたトマトケチャップをマサチューセッツ州でジョシュア・ダヴェンポートが開発します。
ダヴェンポートのケチャップはフィッシュケーキやベイクドビーンズを食べるときに欠かせないソースだと好評を得ました。

1876年にはペンシルバニア州でH. J. ハインツがトマトケチャップの生産を始め、ハインツ社のトマトケチャップが普及すると、アメリカの家庭でケチャップは作られなくなり、市販品のケチャップを買うのが普通になったのです。

            ○

19世紀まで、アメリカではそれぞれのメーカーが多様な材料を使ってさまざまなトマトケチャップを作っていました。
しかし1906年に添加物を規制する法案がアメリカ議会で可決されると、トマトケチャップは完熟トマトにスパイスや酢、砂糖のみで作り、保存料を使わないように義務づけられました。
この規制により液体状のトマトソース風トマトケチャップは市場から消え、現在のトマトケチャップであるドロリとした粘性のあるものに統一されていきました。

            ○

1900年代に普及したホットドッグやハンバーガーにトマトケチャップは欠かせないものとなり、1901年に行われた調査によると、この当時のアメリカの殆どのレストランにトマトケチャップが置かれるようになっていたといいます。
現在アメリカでは1000万トンに近い量のトマトが生産されていますが、その殆どはケチャップやジュースなどの加工品の材料にされており、アメリカの98%を越える家庭でトマトケチャップは常備されているという最近の調査結果もあるといいます。

            ○

アメリカの家庭でトマトケチャップが既に普及していた頃である明治時代の日本では、トマトを食べると髪が赤くなるという噂がはびこっていたためトマトは日本人から敬遠されていました。
そんな中、明治28年(1895)年に、日本で初となるトマトソースを堤氏が製造販売したという記録が残されています。

            ○

日本でのトマトケチャップ普及に貢献したのは、明治8(1875)年に愛知県に生まれた蟹江一太郎氏でした。 
明治32(1899)年に蟹江氏は西洋野菜を栽培し、外国人客が利用するレストラン向けに玉ねぎやキャベツ、にんじんなどを販売し始めました。
しかし、トマトだけはいつも売れ残って畑で腐らせるようなことが続いていたため、これが蟹江氏の悩みの種になっていました。
そんなとき、農事試験場技師からトマトを加工する方法があることを蟹江氏は教えられ、名古屋のホテルの厨房にあった輸入トマトソースを見本にして、自宅の納屋でトマトソース開発に着手したのです。
そしてついに、明治36(1903)年、蟹江氏は独自のトマトピューレを完成させました。
これが現在のカゴメ株式会社の始まりとなったのです。
日露戦争後の明治39年から蟹江氏はトマトソースの生産を本格的に開始し、明治41(1908)年にはトマトピューレに香辛料や調味料を加えたトマトケッチャップを開発して製造を始めました。

明治から大正時代に起きた洋食ブームで日本人がチキンライスやオムライスなどを口にするようになるとトマトソースの需要は増加しました。
トマトソースに比べトマトケチャップの日本での普及は遅れましたが、昭和に入った頃からトマトケチャップの消費も徐々にのびていき、戦後の日本人の食事の西洋化に伴ってトマトケチャップも多くの家庭で使われるようになったのです。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<ソース関連>

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2006/10/24

トマトケチャップのルーツの謎

「ケチャップとはもともと何語なのか」という議題をこれまで多くの学者達が論じてきました。
トマトケチャップの歴史は長いとはいえないのですが、「ケチャップ」という言葉の由来を示す決定的な資料が残されていないため、ケチャップの語源については様々な説がこれまで唱えられてきたのです。

            ○

例えば、スペイン語やポルトガル語でソースを意味する「escabeche(エスカベチェ)」に由来するとか、魚をスパイスや酢に漬け込む料理の「cabeach(カビーチェ)」が語源であるといわれたりもしました。

1909年に、アメリカの化学者ビッティングが、インドネシアやマレー半島で使われた「kitjap」という言葉が「ケチャプ」の語源だとする説を発表してからは、「ケチャップ」はアジアの言葉に由来するとしたいくつかの説が唱えられるようになります。
東南アジアのいくつかの地域では、魚や果物、木の実を塩漬けにして塩辛状にしたものを「ケチャップ」とよんでおり、例えば、インドネシアでは現在でも「塩辛い醤油」を「ケチャップ・アシン」とよび、「甘い醤油」を「ケチャップ・マニス」とよんでいるのです(インドネシア語でトマトケチャップは「ケチャップ・トマット」)。

            ○

魚を塩漬けすることで作る魚醤を中国南部では「ketsiap」といい、この言葉がケチャップの語源になったのだとか、この中国南部の言葉である「ketsiap」がマレー半島に伝わりマレー語として使われるようになった後に、ヨーロッパに伝わって「ケチャップ」の語源になったとも考えられました。
確かに、17世紀にイギリス人がマレー半島で盛んに貿易を行っていた頃、この地でトマト栽培は既に行われており、トマトが塩や香辛料に漬けられていた可能性も否定できないのです。

            ○

ケチャップの語源になったかどうかはともかく、魚や野菜を漬け込んだ後に残る漬け汁をマレーの人々が捨てずに料理に利用していたのは事実であることから、18世紀頃、マレー半島で貿易に携わっていたイギリス人が漬け汁をソースとして利用する方法を覚え、本国に帰ってこのソースを伝えたのだろうということは半ば定説化しているようです。

            ○

イギリス商人がアジアで聞いた名を口伝したためか、英語のケチャップには、「Ketchup」や「Catsup」「Catchup」など幾つもの綴りができてしまいました。
イギリスからアメリカにトマトケチャップが伝わり大量生産が始められるようになっても綴りの混乱は続き、トマトケチャップ製造会社大手のハインンツ社ではラベルの印字に「Ketchup」と「Catsup」の両方の綴りを使っていた時期があり、20世紀初めになってようやく「Ketchup」に統一しています。
デルモンテ社は「Catsup」という綴りを長い間使っていましたが、世の主流に合わせて1988年に「Ketchup」に変更した経緯があります。
欧米の綴りの不統一の影響を受けて、ケチャップが初めて紹介された明治時代の日本でもケチャップの名称は曖昧だったようです。
洋書にケチャップが様々な綴りで書かれていたことから、それらの洋書をもとにケチャップを紹介した日本の書籍でも「カットサップ」や「カツアップ」など色々な読みがなされています。

            ○

1700年代初めにイギリスの貿易商達がマレー半島で覚えた味を再現したとされる初期のトマトソースは辛味のあるものだったようです。
その後、牡蠣や胡桃、茸などが加えられるようになり、様々なバリエーションのケチャップが作られるようになりました。
1727年にイギリスで出版された『Complete Housewife』という本にトマトケチャップの作り方が初めて載せられています。
このレシピの材料にはアンチョビーも使われており、ケチャップのルーツはアジアの塩漬け魚だという説を裏付けるものではないかとも捉えられています。

            ○

19世紀にイギリスで発刊された料理書『Huse-Keeper's Pocket-Book』には5種類のトマトソースと3種類のトマトケチャップの作り方が載せられていますが、これらは家庭で使うために書かれたもので、この当時にはまだ市販品のトマトケチャップは流通しておらず、この頃のイギリスでトマトケチャップは一般には馴染みの薄いものでした。
トマトケチャップの市販品が大量生産されるようになったのは1900年以降のことで、第一次大戦後になってようやくイギリスの一般家庭にトマトケチャップは普及しています。

その後、ウースターソース同様、トマトケチャップはイギリス人には欠かせない調味料となりました。
ヨーロッパには「フランスには一つの宗教と360のソースがあり、イギリスには360の宗教とたった一つのソースがある」という諺があるそうです。
一つのソースというのは言い過ぎですが、食材や料理に合わせていくつものソースを作るのではなく、とりあえずウースターソースやトマトケチャップを何の料理にでも掛けて済ませてしまうというイギリス人を揶揄する意味がこの諺には込められているのです。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<トマトケチャップ関連>

小池芳子の手づくり食品加工コツのコツ〈1〉ジャム類・ジュース・ケチャップ・ソース 小池芳子の手づくり食品加工コツのコツ〈1〉ジャム類・ジュース・ケチャップ・ソース
小池 芳子


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ケチャップ娘がやってきた! ケチャップ娘がやってきた!
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ディズニーのケチャップ・ソング~ラ・ヴィダ・ミッキー(2) ディズニーのケチャップ・ソング~ラ・ヴィダ・ミッキー(2)
ディズニー ジュリー・グリフィン マルコ・マリナンヘリ


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2006/10/23

かぼちゃとハロウィンと冬至

かぼちゃと人との付き合いは古くに始まり、古代ローマ時代にもかぼちゃは健康に良いとして様々なかぼちゃ料理がつくられていたことが知られており、現在も世界中の多くの地域でかぼちゃ栽培は行われています。

            ○

日本では「ナンキン」や「トウナス」、「ボーブラ」など、各地方ごとにかぼちゃの別名が多く残されています。
これは、かぼちゃに様々な品種があることや、中国や南方など複数の経路を通じて日本にかぼちゃが伝播したためだと考えられています。

            ○

かぼちゃが日本に伝わったのは16〜17世紀頃だといわれていますが、もっと限定的に、最初の伝来は1541年7月だったという説もあります。
海難に遭ったポルトガル人が現在の大分県である豊後国(ぶんごのくに)に漂着し、カンボジアで手に入れたかぼちゃの種を領主に献上したのが最初だったという逸話が残されているのです。
豊後に漂着したポルトガル人が持ち込んだかどうかはともかく、「かぼちゃ」という名の語源は国名の「カンボジア」に由来するといわれています。
また、漢字でかぼちゃは「南瓜」と書きますが、これは「南蛮国から伝わった西瓜のようなもの」ということを意味しています。

            ○

Pumpkin 食用のかぼちゃには大別してセイヨウカボチャ、ニホンカボチャ、ペポカボチャの3種類があります。
ニホンカボチャには「菊座」や「鹿ヶ谷」などがありますが、日本の市場で流通しているものの殆どはセイヨウカボチャの「えびす」などです。
国内では主に北海道や鹿児島、茨城などでかぼちゃは生産されており、流通量の40%を占める輸入かぼちゃはニュージーランドやメキシコなどでつくられています。

ペポカボチャには「金糸瓜」という種類のかぼちゃがあり、このかぼちゃは茹でると果肉が麺のようになることから「そうめんかぼちゃ」という別名でも呼ばれています。
メキシコやアメリカで作られるものにスパゲティ・スクォッシュ(Spaghettii Squash)という名のかぼちゃがあり、このかぼちゃの果肉もやはりスパゲティ状になっています。
また、きゅうりに似たズッキーニはかぼちゃの仲間でペポカボチャの一種です。(関連:「きゅうりの白い粉」)

            ○

かぼちゃと言えば、かぼちゃを使ったお祭りのハロウィン(Halloween)があります。
10月31日に行われるハロウィンは、この日を大晦日としたアイルランドのケルト族などのお祭りが起源とされています。
ハロウィンは、後に11月1日のキリスト教の聖人をしのぶ万聖節と関連づけられるようになり、現在は、沼地を漂う人魂を模したジャック・オ・ランターン(Jack-o'-Lantern)と呼ばれるカボチャの提灯を作ったりする子供のためのお祭りになっています。Halloween

ハロウィンが始まったヨーロッパでは、カボチャではなくかぶの一種のルタバガやさとうだいこんなどを使ってジャック・オ・ランターンは作られていましたが、ハロウィンがアメリカに渡ってから、家畜のエサとして栽培されていたペポカボチャが提灯の材料に使われるようになりました。
ペポカボチャは栽培が容易で収量が多いことからアメリカで盛んに生産されていたため、身近にあって利用し易いペポカボチャがルタバガやさとうだいこんの代わりに使われるようになったのです。

            ○

日本にはかぼちゃを冬至に食べる習慣があります。
かぼちゃの本来の旬は国産ものの出荷のピーク時にあたる6〜7月ですが、冬に収穫できる野菜が少なかった昔に、保存性の高いかぼちゃを夏に収穫して冬まで貯蔵しておいて、日が一番短くなる冬至の日にかぼちゃを食べて不足がちになるビタミンなどの栄養を補った先人の知恵から冬至にかぼちゃを食べる習慣が生まれました。
実際、かぼちゃに豊富に含まれるカロテンは粘膜を強くする働きがあるため風邪の菌が気管支や鼻から入り込むのを防ぐ効果があり、かぼちゃが含むビタミンCも風邪予防にもちろん役立ちます。

かぼちゃはには果肉だけでなく種にもタンパク質や脂肪などの栄養が含まれており、その量は落花生よりも多いといわれています。
かぼちゃの種にはビタミンC以外のビタミンも多く含まれ、ミネラルや鉄分も豊富です。

            ○

ところで、丸ごとのかぼちゃを店頭で選ぶ時はかぼちゃのヘタの切り口を見ます。
切り口の断面が2cm程度で水気がなく完全に乾いているかぼちゃは完全に熟してから収穫されたものです。
同じ大きさのものなら重いものの方がよく、表皮がきれいなものよりツメが立たないほど固く深い溝がついた皮をもつものが良いかぼちゃです。
切って売られているものの見極めは簡単で、中身がぎっしりと詰まって色が濃く、隙間を埋めるように種が大きく膨らんでいるものが完熟したかぼちゃです。

そろそろ気温も下がって寒い季節がやってきますので、風邪対策に熟したかぼちゃを選んで食べるのも良いかもしれません。

<参考書籍>

月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版

<かぼちゃ関連>

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辰巳 芳子


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古今亭志ん生(五代目)


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2006/10/20

糸ひき納豆と塩辛納豆

ヨーロッパやアフリカそして北南米では豆を煮て食べることが多いようです。
インゲンやエンドウ、ソラマメなどは確かに煮ておいしく食べることができるのですが、昔から日本で食べられてきた大豆は煮込み料理にはあまり向きませんでした。

大豆をそのまま煮ると大豆に特有の臭みが出てしまうためです。
しかも、ただ煮ただけの大豆は消化に悪く、人体に害となる成分が完全には分解されないため、ガスが腸内に溜ったり消化吸収が不十分になるなど不都合なことが多く起きてしまいます。
そこで大豆を食べる国では特別な豆の加工方法が発達しました。

            ○

日本での大豆の利用法としては大豆のタンパク質を取り出して豆腐にしたり、大豆を発酵させて味噌や醤油のようにして用いる方法が主流になりました。
そしてもう一つの大豆加工法が発酵食品の一つである納豆です。

            ○

大豆を発酵させ糸ひき納豆に変える納豆菌は、大豆中の人間が消化できない多糖類を食べてくれたり、人間の消化を邪魔する酵素を分解してビタミンなどの栄養に変えてくれます。
しかも、納豆菌が大豆から栄養を吸収する際には、組織を壊すことで大豆を柔らかくするのと同時に大豆中のタンパク質を分解して旨味成分のアミノ酸などをつくる働きをしてくれるのです。

            ○

ところで、日本には「納豆」の名がつく食品が2種類あります。
一つは前述の糸ひき納豆なわけですが、「塩辛納豆」と呼ばれる発酵食品もあるのです。

日本で一般に食されている糸がひく納豆は白大豆を煮てから納豆菌を繁殖させてつくられますが(関連:「納豆をつくる納豆菌」)、塩辛納豆をつくるときは、麹菌を繁殖させた煮大豆を塩水に3〜4ヶ月つけ込んで発酵が行われ、大豆のタンパク質は麹菌によってアミノ酸に転化されます。
塩辛納豆は、外見は黒く、溜まり醤油や八丁味噌の風味に似ており、匂いは糸ひき納豆とは異なります。
この違いは発酵させる微生物が異なるためで、糸ひき納豆も塩辛納豆も呼称に「納豆」の語句が入っていますが、この二つはまったく異なる大豆発酵食品といえます。

            ○

塩辛納豆が登場する最古の文献は6世紀に中国で書された『斉民要術』で、塩辛納豆は「鼓」として記されており、塩を入れる「塩鼓(エンシ)」と塩を入れない「淡鼓(タンシ)」の二つの鼓の作り方が書かれています。

日本では糸ひき納豆がつくられる以前の奈良時代に塩辛納豆が中国から伝えられました。
その当時の日本で塩辛納豆をつくっていた宮内省でも、『斉民要術』と同様に、塩辛納豆を「鼓」と書いて「くき」と呼んでおり、「塩辛納豆」という呼称が使われるようになったのは平安時代の頃と考えられています。
室町時代になると「唐納豆」の名でよばれ、その後、寺でつくられる機会が多かったことから「寺納豆」とよばれるようにもなりました。

            ○

寺の納豆と言えば、納豆の語源は藁苞に納めた豆の意味だという説がありますが、「納豆」の「納」とはお寺の台所の意味の「納所」のことであり、納豆という言葉は「納所の豆」を意味しているという説もあるのです。

            ○

寺納豆と呼ばれた塩辛納豆は関東よりも関西で多く用いられました。
京都の大徳寺や静岡県の浜名湖近くの大福寺でつくられた塩辛納豆が有名だったことから、塩辛納豆には「大徳寺納豆」や「浜納豆」の別名もあります。

江戸時代中期頃になると味噌や醤油、そして糸引き納豆が多用されるようになり、塩辛納豆の生産量は次第に減少していき、他の大豆発酵食品よりも目立たぬ存在になってしまったようです。

<参考書籍>

柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

いつものご飯に納豆さえあれば いつものご飯に納豆さえあれば
藤田 雅子


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遊び尽くし まめに納豆クッキング 遊び尽くし まめに納豆クッキング
石塚 昇一郎


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乾燥納豆 5.5g*30包 乾燥納豆 5.5g*30包

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2006/10/19

落花生とアフリカとアメリカ

南米からアフリカに落花生を伝えたのはポルトガル人でした。
1560年代にはポルトガルが奴隷貿易を行ったアフリカ西海岸で落花生の栽培が始まっていたのです。

            ○

見たこともない実のつけ方をする落花生はヨーロッパや日本に伝わってもすぐに普及することはありませんでしたが、アフリカの人々は落花生に対して拒絶反応を示すことはありませんでした。(関連:「落花生は落ちる花に実が生るのか」)
アフリカの人達が落花生を気味悪がらなかったのは、アフリカにはもともと落花生と同じように地上で花をつけて地中で実を生らせるバンバラマメやゼオカルパマメが栽培されていたためです。
バンバラマメやゼオカルパマメに比べ落花生は収量が多く栄養価も高かったため、アフリカに落花生が伝わると間もなく、それまで作られていたバンバラマメやゼオカルパマメに代わって落花生栽培が主流となりました。

            ○

アフリカの気候条件に合う栽培作物が限られていた中で、落花生は比較的容易に栽培することができ、26%がタンパク質と栄養価の高い落花生はアフリカの人々の不足する栄養を補う食物として役立てられました。
西アフリカで落花生は菓子としてではなく料理の食材として扱われ、炒った落花生と青菜を混ぜ合わせたり、ヤムイモやオクラのスープに入れる料理が作られるようになったのです。
マリやセネガルではトマトやオクラなどと一緒に落花生を煮込んだマフェというシチューがあるように、西アフリカには多彩な落花生入りのシチュー料理があって、部族ごとに独自のレシピがつくられています。

            ○

西アフリカでの落花生栽培は、後の北アメリカでの落花生の普及に密接に関連していくことになります。
2000年前の北アメリカでは先住民が落花生を常食していましたが、入植時代初期の白人系移民達にとって落花生は家畜の餌でしかなく、低所得労働者のみが食べるものだと決めつけて一般的に落花生が口にされることはありませんでした。

そんな中、16世紀後半に西アフリカの人々が奴隷としてアメリカに連れてこられ、プランテーションで強制労働を強いられるようになります。
西アフリカからアメリカまでの航海中にも、落花生は奴隷として扱われた人達の食糧にされていました。
1800年代には、アメリカ南部で綿花生産に従事させられた西アフリカ出身の人達が落花生を栽培し、雇い主から与えられる質素な食事に変化をつけるために盛んに落花生を用いたといわれてます。

            ○

黒人系アメリカ人の歴史の中で南北戦争は一つの大きな転換点となりましたが、この戦争はアメリカにおける落花生の扱われ方にも影響を及ぼしました。
落花生に限らずアメリカ食文化に少なからず影響を与えた南北戦争の勝敗は、アメリカの北部と南部で生産される食糧の違いによっても決せられたと言われています。
南部の殆どが農作地帯であるのに対して、この時代の北部には穀倉地帯はまだできあがっておらず未開拓の土地が多く残されていたため、南北戦争の開戦前には食糧面から見て、北軍より南軍の方が有利だといわれていました。

ところが実際に開戦という事態になると、南部では土中の養分を吸い尽くして土地を疲弊させるタバコや綿ばかりが作られていたため、急に穀物栽培に切り替えても作物はうまく育たず不作が続くことになり、南軍への食糧供給は思うように進みませんでした。

その一方で、北部は工業化を進めていたこともあり、食糧生産状況の情報管理が南部よりも整備されていたことから、食糧の在庫状況を十分に把握して効率的に兵站計画を立てることができたといいます。
しかも農耕に使う耕作機や農機具の大量生産が進んでいたため、北部の需要を上回るほどに農作物の生産性は高められ、余剰作物をヨーロッパに輸出し、貿易で得た利益を戦争の費用にまわすこともできたのです。

            ○

そのため南北戦争が始まると、豊かな北部とは対照的に、南部では深刻な食料不足が発生し、南軍の兵士はそれまで家畜のエサとしてあまり見向きもしなかった落花生を食べ始めるようになります。
南部で戦っていた北軍にも落花生食は伝わり、1865年に戦争が終結して兵達が帰還すると、彼らは落花生が如何においしいかを故郷の人々に教えました。
仕事にあぶれた元兵士が道ばたでピーナッツを売り歩いたこともあり、南北戦争以後、落花生はアメリカ全土で食べられるようになったのです。

            ○

1870年代にはサーカスの興行師だったフィニアス・T・バーナムが、サーカスの見物客にピーナツ(落花生)を売り出し、その後ピーナッツは野球場や劇場でも販売されるようになりました。

19世紀末に、炒ってから挽いたピーナッツに砂糖や塩を加えるなどして作るピーナッツバターをミズーリ州セントルイスの医師が考案しています。
当初は物を食べることが困難な高齢者向けに開発されたピーナッツバターでしたが、ピーナッツバターは子供からも人気を得て幅広い層から食べられるようになりました。
現在アメリカで生産される落花生のうち約50%はピーナッツバターとして加工されているといいます。

            ○

西アフリカから鎖に繋がれ奴隷としてアメリカに連れてこられた人達が、故郷で食べていた落花生をアメリカでも料理に使い、それがスナックやピーナッツバターに形を変えてアメリカ食文化に浸透していきました。
スナックとしてのピーナッツやピーナッツバターが持つ軽い感じや明るいイメージからすると、奴隷制度やプランテーションでの強制労働、戦争での食糧不足などの暗い過去を経て落花生食がアメリカに広まったということは少し意外な感じではあります。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

A peanuts book featuring Snoopy (1) A peanuts book featuring Snoopy (1)
チャールズ M.シュルツ


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ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ ベスト・オブ・ピーナッツ・バター・ウルフ
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内村光良 さまぁ~ず TIM


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2006/10/18

落花生は落ちる花に実が生るのか

英語で「peanut(ピーナット)」といい、スペイン語では「cacahuete(カカウェーテ)」とよばれる落花生はアメリカ大陸で栽培が始まったと考えられており、ブラジルや西インド諸島などが原産地の候補としてあげられていますが、最初に落花生が作られた地域は明らかにされていません。
しかし、4500年前のものと見られる数千個の落花生の殻がペルーの遺跡から出土しており、落花生栽培の歴史が古くに始まっていたことは確かです。

            ○

14〜15世紀にメキシコ中央高原で栄えたアステカの人々が、落花生を食用ではなく解熱剤として用いていたことが分かっていますが、これよりもだいぶ前の紀元前500年にはメキシコに落花生が伝わっていたといわれています。

紀元100〜800年頃につくられたペルーのモチェ族の墓からは落花生の殻の形が装飾された陶器が発見されており、もう少し後の時代のものになりますが、インカ族の墓からは副葬品として埋葬された落花生の痕跡が見つかっていることなどから、昔から南アメリカで落花生は生活に密着した重要な作物として扱われていたと考えられているのです。

            ○

16世紀頃にヨーロッパ人が南米大陸で初めて落花生を見たとき、彼らは落花生をアーモンドのようなものではないかとか、コーヒー豆のように煎って使うものなのではないかと考えましたが、落花生を積極的に食べようとはしませんでした。
17世紀前半にペルーに住んだスペイン人祭司のベルナベ・コボは落花生を食べると頭痛がしたり目眩を覚えると記録しています。

            ○

640peanut116世紀前半に、 スペイン人やポルトガル人が南アメリカに攻め入ったときに知った落花生を故国に持ち帰りましたが、やはりこの時代のヨーロッパ本土でも落花生が熱狂的に迎え入れられるということはありませんでした。
ヨーロッパ人から見て、地上に花をつけるのに地中に実ができる落花生は奇怪な植物に感じられたのです。
落花生が好む温暖な気候の土地がヨーロッパには少なかったということも落花生が普及しなかった理由の一つとしてあげられます。

その後の状況から見て、ヨーロッパでは落花生をそのまま食べたり料理に使ったりするより、油にして使うことの方が注目されたことが伺えます。
加熱しても酸化し難い落花生油は特にフランスで重宝され、落花生油を使った様々なフランス料理が考案されたのです。

            ○

アフリカやアジアでも無臭の落花生油は揚げ物には欠かせないものになりましたが、これらの地域では落花生そのものを料理に積極的に用いました。
1500年代に、インド南部に落花生を持ち込んだのはポルトガル人でしたが、その他のアジア地域への落花生の伝播に貢献したのはスペイン人だったと考えられています。
スペイン人が南アメリカからフィリピンに運んだ落花生は、フィリピンから中国や日本、東インド諸島に伝わっていったのです。

            ○

東南アジアでは挽き割りにした落花生をとうがらしやライムと混ぜて辛味のあるソースが作られたり、タイやインドネシア、マレーシアなどで食べられる焼き鳥風料理のサテーにはピーナッツのソースがかけられます。

日本でも沖縄には落花生から作られる「ジーマミー豆腐」という珍味があります。
「ジーマミー」とは「地豆」のことで落花生を意味する沖縄の言葉です。

            ○

「落花生」や沖縄の「ジーマミー」という名の語源は、落花生の特徴的な実のなり方に由来しています。

落花生は地面に近い枝に花をつけ、花が咲いて受粉すると花の雌しべの基部にあって袋状の形をした「子房」と呼ばれる部分が根のように地面に向かって伸び始めます。
伸びた子房の先端が地面につくと、子房は地表から3センチ以上も地中にもぐり込み、そこで繭(まゆ)の様な形に膨れて落花生の莢となる部分を形づくり、莢の内部では実となる部分がつくられるのです。
花が咲いてから約2ヶ月ほどで落花生の実はできあがりますが、日光があたっている状態で子房は熟すことができないため、子房が地中にもぐり込むことができない固い地面の土地で落花生は実を生らせることができません。

            ○

このように、実際には花ではなく子房が地中にもぐり込むのですが、まるで花が落ちた場所に実ができるように見えることから、中国語ではこの豆を「落花生(ローホワション)」と呼ぶようになったのです。
「落花生」という語句が中国から日本に伝わったとき、中国語の漢字表記はそのまま使われましたが、これを訓読みするようになり、日本では「らっかせい」と呼ぶようになりました。
日本語では落花生に南京豆という別名がありますが、これは中国から伝来した豆を意味しています。

            ○

落花生が日本に伝わったのは18世紀初め頃で、オランダ船によりもたらされたというのが定説になっています。
地上で花が咲き地中で実がなる不思議さから当時の日本でも落花生は敬遠され、すぐには普及しませんでした。

明治7(1874)年にアメリカから落花生の種子が日本に持ち込まれるようになった頃から、落花生は日本各地で栽培されるようになります。
落花生栽培には程よい湿り気と酸素が必要となるため水はけの良い砂地などでの栽培が適しており、千葉県九十九里浜で落花生の生産は活発に行われました。
現在でも千葉県は日本一の落花生生産量を誇り、日本で生産される落花生の7割以上は千葉県で作られているのです。

<参考書籍>

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<落花生関連>

まねっこピーナッツ   まねっこ人形 まねっこピーナッツ   まねっこ人形

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ピーナッツ プレミアム・エディション ピーナッツ プレミアム・エディション
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モスラ対ゴジラ モスラ対ゴジラ
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2006/10/17

豚肉と日本人

古代の北海道には野生の猪は生息していなかったことが分かっています。
しかし、その北海道で見つかった縄文時代後期の遺跡から猪の骨が出土しており、体に縦縞があり瓜坊と呼ばれる猪の子供を模した土偶も発見されているのです。

北海道以外でも伊豆諸島や佐渡島など野生猪が生息しなかったはずの地域から猪が飼われていた痕跡が発見されており、これらのことから古代の日本人によって家畜化された猪が野生猪のいない地域にも持ち込まれていたのではないかと推測されています。

大人になれば人間を噛殺すほど獰猛になる猪も子供の内であれば人になつかせることが可能なため、これを飼い慣らすようになったのが家畜化の始まりだと考えられています。

日本で本格的に農耕が行われるようになった弥生時代になると食糧に余裕ができるようになり、余った食糧をエサにして猪の飼育が盛んに行われ始め、やがてこれが豚の飼育へと繋がっていったと見られています。

            ○3008000006

「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、肉食を禁じる聖武天皇の殺生禁断の詔が出される少し前の732年に、聖武天皇の命令で農民が飼っていた40頭の 「猪」が山に放されており、日本人の肉食が全面的に禁止される以前に豚の飼育は禁じられてしまいました。
これにより豚肉食は日本から公式には一時的になくなってしまうのです。

            ○

14世紀の前半になると中国から琉球王国に豚肉食が伝わり、琉球宮廷料理に豚肉が使われるようになります。
17世紀に明から琉球にさつまいもが伝わると、さつまいもが豚の餌に使われるようになり、琉球で養豚は盛んになりました。

沖縄では肉のことを「シシ」といい、通常シシといえば豚肉のことを指します。
沖縄で豚は「鳴き声以外は余すことなく食べ尽くす」といわれ、豚肉は部位によって含む栄養が異なりますが、一頭の豚を残すことなく食べれば栄養バランスは完璧だともいわれています。
豚肉を食べれば悪霊から守られるという言い伝えもあるため、沖縄では豚肉料理が正月に食べられたりもしています。

            ○

ところで、「ぶた」の呼び名の由来は定かにされていませんが、蒙古の言葉の「ボトン」や朝鮮の言葉の「チプトヤチ」、スンダ語の「ビチス」やシャム語の「バチ」など、何れかの語句が転じんて「ぶた」になったのではないかと考えられています。
太っていることから「猪太(いぶと)」と呼ばれていたものが変化して「ぶた」になったのではないかという説もあります。
ちなみに、猪は隠語で「ぼたん」と呼ばれますが、これは「牡丹に唐獅子」のシャレからきているものです。

            ○

1697年に書かれた『本朝食鑑』には「猪」とかいて「ぶた」と読むと説明されたうえで、この時代のぶたは公家の家で飼われていたことが記されています。
しかし、この豚は人間が出す排泄物処理が主な目的で飼われていたもので、豚肉は猟犬のエサなどにされるくらいで公家が豚の肉を食べることはなかったようです。

            ○

豚を汚物処理に使う方法はアジアやヨーロッパなど世界各地で行われていました。

1131年、フランス皇太子フィリップが町中で馬を進めていたとき、一匹の大きな豚が皇太子の馬に猪突猛進したことで皇太子は落馬してしまい、これがもとで皇太子が亡くなってしまうという事件が起きています。
この当時の豚は猪と変わらないほど大きな体格をしており、牙も持っていて気性が荒かったのですが、パリの町ではこの巨大豚を至る所で放し飼いにして汚物などを食べさせていたようです。
フィリップ皇太子が亡くなった事件後、パリの町中で豚を飼育することは禁止されました。

沖縄でも大正時代の頃まで家のトイレは豚小屋と連結して建てられ、これがフールと呼ばれていましたが、昭和になってから衛生上に問題があるとして禁止されています。

            ○

1780年代に書き残されたある文章には「家猪」と書いて「ぶた」と読ませており、中国やオランダとの交易地だった長崎で少数の豚が飼われ食用にされていたことが記録されています。

19世紀前半になると豚の飼育は沖縄から現在の鹿児島である薩摩に伝えられました。
薩摩では豚の骨付き肉を味噌や焼酎で煮込んで黒砂糖を入れる豚骨料理などがつくられるようになり、今や鹿児島の代表的郷土料理の一つになっています。

            ○

3005010099 猪は江戸時代から日本人に食べられていたため、明治の文明開化の時代、猪肉に似た豚肉は牛肉に比べ新味に欠け、新しいものを取り入れる世の流行に合わなかったことから豚肉需要はあまり増えませんでした。
民家近くで飼われた豚に発生した病気が問題になったり、病気の豚が売買される事件が発生するなどしたために、何度か豚の販売が明治政府により禁じられたのも消費が伸び悩んだ原因だったといわれています。

            ○

明治33(1900)年に、明治政府は日本での養豚産業の本格的発展のために欧米から種豚を輸入し始め、明治時代中期になって洋食屋でポークカツレツが食べられるようになると、豚肉を食べる習慣は次第に日本全国に広がっていきました。

明治40(1907)年の豚の出荷頭数は37,000頭でしたが、その5年後には62,000頭にまで増加しており、年間一人当たり豚肉消費量は、明治16(1883)年には4グラムだったものが、明治30(1897)年には122グラム、昭和初期には500グラムと増えており、現在は日本人一人が年間に食べる豚肉は15キログラム程度にまで増えています。

<参考書籍>

岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
赤嶺政信 (2003)『沖縄の神と食の文化』青春出版社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<豚関連>

紅の豚 紅の豚
宮崎駿 森山周一郎 岡村明美


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デリカテッセン <デジタルニューマスター版> デリカテッセン <デジタルニューマスター版>
ジャン=ピエール・ジュネ マルク・キャロ ドミニク・ピノン


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ブタフィーヌさん(1) ブタフィーヌさん(1)
たかしまてつを ほぼ日刊イトイ新聞/佐藤卓


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2006/10/16

豚肉を食べるひと達と食べないひと達

紀元前7000〜3000年には、古代の中国やギリシャ、イラク、ヨルダンで豚が家畜として飼育されていたことが遺跡から出土した豚の骨から分かっています。

            ○

中国で、豚肉を食べることができないイスラム教徒以外の間では、「肉」といえば「豚肉」のことを指します。
中国語で「ぶた」を指す漢字は「猪」と書きますが(「いのしし」は中国語で「野猪」と書きます)、中国語のメニューには、豚肉を使った料理であっても猪とは書かず、単に「肉」としか書かないのが一般的です。
例えば、「炒肉糸(ツァオロウスー)」や「紅焼肉丸(ホンサオロウウアン)」などはそれぞれ「豚肉の細切り炒め」と「豚ひき肉でつくった団子の醤油煮」を意味します。

            ○

古代の中国には子豚の丸焼きを神に捧げる風習があり、これが漢字の「家」という字に表されています。
「家」のウ冠の部分が家を、「豕」の部分は豚を示しています。
「家」という漢字は神に生け贄として供える豚を置く場所を意味していたのです。

           ○

3010904216 豚を山林に放し飼いして山のドングリなどの木の実を食べさせる飼育方法はヨーロッパで発達しました。
冬になる前に山でエサをたっぷり食べた豚はつぶし、ハムやソーセージなどの加工品にして、冬の間の人間の保存食糧にする生活様式が確立されたのです。

かつてハンガリーでは豚の脂身は大変に貴重で、賃金の代わりに豚の脂肪が渡されることもあり、今でも地域によっては、誰かの成功を祈る際に、「彼の豚に脂肪がつきますように」という言い回しをする地方があるといいます。

18世紀には中国産の豚がイギリスに持ち込まれ、これが品種改良されてヨークシャー種(白豚)やバークシャー種(黒豚)がつくられています。
ちなみに英語の「pork(ポーク)」の語源はラテン語の「porcus(ポルクス)」という野豚を指す言葉に由来しています。

            ○

世界中で豚は飼育され食べられていますが、宗教上の理由で豚を食べることができない人達も多くいます。
先に出てきたイスラム教徒もそうです。
『コーラン』の中では2章168節、5章4節、6章146節、16章116節などで豚肉を食べてはならないと戒めています。

ユダヤ教徒も豚を食べることができません。
食に関するタブーの多いユダヤ教では、『旧約聖書』レビ記第11章で、蹄の分かれた反芻動物の肉だけが食べることを許されているのです。
羊や山羊、牛などは食べることができますが、ラクダや兎は反芻動物ではあっても蹄が分かれていないため食べることは許されません。
そして、ブタは蹄は分かれていますが反芻動物ではないのでユダヤ教徒は食べることができないのです。

            ○

なぜイスラム教やユダヤ教でブタを食べてはいけないという戒律があるのか、その理由についてはいくつかの説があります。

異教徒のエジプト人やギリシャ人にとって豚は重要なシンボルだったからというのが一つの説です。
古代エジプトやギリシャで豚は太母の象徴であり、多産な豚は子供が生まれてくる子宮のシンボルでした。
これにより、一神教で異教を厳しく排除したイスラム教とユダヤ教では豚食をタブーにしたという考えです。

二つ目の説は、もっと現実的な話しですが、豚肉を食することで病気に掛かったり寄生虫に害されることが多発したため、豚肉食を禁じてしまったというものです。

そして、もともとイスラム教徒が多く住んだ地域の環境に豚の飼育は適していなかったため、豚肉食が排除されたのだという説もあります。
イスラム教が発展した地域は乾燥地帯が多いのですが、豚の先祖である猪は多湿な山林を好むため、イスラム教徒の生活様式に適合しない猪飼育は排除され、豚を食べることもタブーとして禁じてしまったというのです。

どの説にも一理ある反面、どの説にも部分的に難点があり、なぜユダヤ教徒やイスラム教徒が豚肉を食べなくなったのかは今も議論が続けられています。

<参考書籍>

岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋

<豚関連>

豚肉番付レシピ100—毎日の定番おかずからおもてなし料理まで…パワフル豚肉百科 豚肉番付レシピ100—毎日の定番おかずからおもてなし料理まで…パワフル豚肉百科

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極上銘柄豚—生産者がすすめる豚肉料理 極上銘柄豚—生産者がすすめる豚肉料理
おばま 由紀


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2006/10/13

トマトとヨーロッパ

ヨーロッパにトマトが伝わった当初、ヨーロッパの植物学者達はトマトをマンドラゴラという植物の一種だとみなし、トマトは食用にならないと考えました。
マンドラゴラはアルカロイドという幻覚を引き起こす物質を含んでおり、黒魔術や妊娠促進薬としても使用されていた植物です。
マンドラゴラは黄金色の実をつけ、根は人間のような形をしているためか、マンドラゴラの根を引き抜くと悲鳴が発せられ、その悲鳴を聞いた者は死んでしまうという言い伝えすらありました。
トマトはマンドラゴラと同じナス科植物でマンドラゴラと形が似ていたため、トマトも有毒植物と見なされたのです。
教会などがトマト栽培を禁じたため、トマトは反体制のシンボルのような存在にもなりました。

            ○

177 ヨーロッパの文献でトマトが最初に出てくるのは、1544年にアンドレア・マティオーリが著した『博物誌』だと今のところは言われています。
『博物誌』の中でマティオーリもトマトは扁平球(マンドラゴラ)の異種だとした上で、観察の結果トマトは食べることができると結論づけており、薄切りにしたトマトをバターかオリーブオイルで炒めて塩をふる食べ方を提案しています。
この『博物誌』でトマトは熟すと黄金色になると書かれたたことから、イタリアではトマトを「ポモドーロ(pomodoro)」(黄金のリンゴ)とよぶようになったという説もあります。(関連:「トマトの語源」)

            ○

イタリアでトマトが最初に栽培されたのはナポリでした。
16世紀のナポリはスペインに支配されており、スペインがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰ったものがイタリアに持ち込まれる時はまずナポリに集められていたため、トマトもナポリで栽培が始まったと考えられています。
イタリアでは裕福層の鑑賞用としてトマト栽培が始められましたが、後にナポリの宮廷庭師が観賞植物だったトマトの苗を自分の家に持ち帰り食用にしたといわれています。
観賞用トマトはもちろん食べて死ぬようなものではありませんでしたが、皮が固く酸味が強いため、あまりおいしいものではなかったようです。
トマトを食べた人達により品種改良が行われるようになり、2世紀後には野生種のものに比べ10倍も大きく味も良いトマトが作られることになります。

            ○

フランスでは、スペイン出身でナポレオン三世(1808〜1873)の妃だったウジェニーがある公式晩餐会で料理人に命じてトマト料理を出させたのを境に、トマトは食用だという認識がフランスで浸透したという逸話があるようです。

しかし、1760年にフランスで発刊された植物年鑑のヴィルモラン誌には、観賞植物としてですが既にトマトが紹介されており、1778年版のヴィルモラン誌には食用野菜としてトマトが載せられています。

トマトが普及した当初フランスでは地中海沿岸の南フランスで主に栽培され、南フランス人の中にはトマトで稼いだトマト長者もいたと言われています。
1789年のフランス革命で南フランス人がパリに流入したのを期にフランス全土にトマトが普及したとも言われています。
(これが本当ならばウジェニーが晩餐会にトマト料理を出す以前にフランスでトマトは普及していたことになります)

            ○

19世紀になってトマトの品種改良が本格的に始められました。
トマトがイギリスに伝えられてから、イギリスの気候に合うように低温や日照時間が短い環境で栽培可能な品種が開発されていきます。

イギリスでの最古のトマトの記録は、1751年に植物学者のジョン・ヒルが記したもので、トマトを煮込んだ物やトマトのサラダがイギリスのユダヤ人社会で食べられていると書かれています。
17世紀にはカリブ海諸国でトマトは食用にされていたと考えられており、カリブ海やアメリカとの貿易に携わっていたユダヤ系イギリス人がカリブ海諸島で知ったトマトを本国で広めたという説もあります。

<参考書籍>

シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
内田洋子, シルヴィオ・ピエールサンティ(2003)『トマトとイタリア人』文春新書

<トマト関連>

カルミネ・コッツォリーノ 料理と生活 カルミネ・コッツォリーノ 料理と生活
なし イタリアン・シェフの草分けカルミネ・コッツォリーノ。その人気シェフがトスカーナ地方フィレンツェの魅力を紹介する。豊かな自然が育む新鮮な野菜。文化が造り出した濃厚・芳醇な食材群。南イタリアの太陽をたっぷりと浴びたトマトをふんだんに使った自家製トマトピューレ作りは必見。さらにカルミネによるクッキングレッスン10品のレシピも収録。また合気道やカートなど多彩な趣味もカルミネを作る大切な要素。

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トマトさん トマトさん
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永田 照喜治

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2006/10/12

胡椒の魅力

古代ローマ帝国で胡椒は富や権力の象徴とされ、贅沢品として扱われました。
その時代、ヨーロッパへ向けてインド西南部のマラバル地方の海岸から胡椒が送りだされていたのです。(関連:「黒胡椒と白胡椒と緑の胡椒」)
ローマ帝国で胡椒は料理にも使われましたが薬としても用いられ、紀元後92年にスパイス貯蔵施設がローマに建設された際、ドミティアヌス皇帝は国の戦略物資の一つとして胡椒を備蓄させたといいます。

            ○

中世になってもヨーロッパで最も貴重なスパイスといえば胡椒でした。
インドで採られた胡椒がベネチア商人などによってヨーロッパに運ばれており、胡椒商売で利益を上げていたベネチア商人は胡椒のことを「天国の種子」と呼びました。

            ○

粒のままだと何年も保存ができる胡椒はヨーロッパで貨幣同様に扱われ、力のある商人は財力を見せつける意味もあり、大量の胡椒の在庫を抱えていました。
この時代には胡椒による決済や課税が行われ、持参金として胡椒が使われたりもしていたのです。

中世ヨーロッパの裕福層は、今の感覚からすると無分別ともいえる胡椒やスパイスの使い方をしており、食材の味よりもスパイスをより多く使うことを重視していました。
14世紀ころの領主の収入の30%は飲食に費やされ、その飲食費の5%はスパイス代に使われたといわれており、中世の金持ちが客をもてなす料理には大量のスパイスが振りかけられていました。
かつての日本で「舶来品」という言葉があったように、中世頃までのヨーロッパでは「東洋」から運ばれたスパイスにエキゾチックな魅力を感じていたようで、味よりも大量のスパイスを使うことに意味があったのです。

同時代の庶民には、高価な胡椒は手が出し難いものだったため、マスタードが代用品として使われました。
マスタードさえも買えない場合は玉ねぎやにんにく、ねぎの類いが使われましたが、野菜をスパイス代わりに使うことは上流階級から卑下されていた面もあったようです。

            ○

漢字で書く「胡椒」の「胡」は西北方から中国に伝わった外来品を意味し、山椒を表す「椒」に「胡」がついて胡椒という言葉がつくられました。
中国で胡椒やナガコショウが多く使われるようになったのは12〜13世紀以降のことです。
初めは西方から中国に伝わった胡椒ですが、胡椒が多用され始めた時代にはインドネシア産の胡椒が中国で使われていました。
インドネシアの胡椒栽培は11世紀頃から始まり、主な輸出先は中国に限られ、ヨーロッパにも輸出するようになったのは14世紀になってからのとことです。

            ○

日本の正倉院には、中国から薬として持ち込まれたとされる152粒の胡椒が保存されています。
最初に胡椒が伝わってから長い間、日本で料理に胡椒が一般的に使われることはありませんでしたが、江戸時代になってオランダ船が日本に胡椒を持ち込んだ頃から、一部のプロの料理人の間で料理にも使われ始めました。
料理人に使われた以外では、江戸時代の胡椒は旅するときに持ち歩く薬として用いられており、水あたり防止丸薬として服用されたことが記録に残されています。

            ○

江戸時代に胡椒が伝えられたのはとうがらし伝来より後のこととされていますが、なぜか東北や九州の一部の地域ではとうがらしを胡椒と呼ぶ地方があります。
今や全国的に知られるようになった「柚子胡椒」の原料に胡椒は入っておらず、とうがらしが使われているのですが、名前には「胡椒」という語句が入っています。
これは柚子胡椒を作った地方で、とうがらしが胡椒と呼ばれたためです。
(柚子胡椒の名称や作り方については「Matsutani家のホームページ」のこちらのサイトにもありました)

            ○

長期保存した肉のいやな匂いを胡椒が消してくれることもヨーロッパで胡椒がもてはやされた理由の一つです。
日本でも肉食が普及するにつれ胡椒も使われるようになりました。
胡椒の辛味に慣れていない日本人のために、普及品となった卓上胡椒には蕎麦粉が混ぜられ辛味が和らげられました。
このソバ粉が入った胡椒は日本の至る所に置かれるようになり、様々な料理に使われるようになります。
しかし、それ故に、微量のソバを摂取するだけで死亡することもあるソバアレルギーを持つ方にとっては頭の痛い問題になっています。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<胡椒関連>

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2006/10/11

黒胡椒と白胡椒と緑の胡椒

胡椒は熱帯地方に生息するコショウ科の植物です。
現在の主な産地はインド、インドネシア、マレーシア、ブラジルなどですが、原産地はインド西南部のマラバル地方だといわれており、英語の「pepper(ペッパー)」の語源はインドのサンスクリット語の「pippali(ピッパリ)」だと考えられています。

紀元前500年頃にはインドで胡椒が栽培されていたとみられていますが、胡椒栽培が始まる以前に野生の胡椒がインド人によって使われていたと推測されており、紀元前5000〜3000年頃に栄えたインダス文明の時代には胡椒が用いられていたと考えられています。

            ○

胡椒は蔓(つた)をのばし樹木などに巻き付いて育ち、一本の蔓から2キログラム程度の胡椒が採れます。
胡椒を育てる時は挿し木栽培が行われ、挿し木されてから3年経つと実をつけるようになります。

            ○

胡椒には黒胡椒(ブラックペッパー)や白胡椒(ホワイトペッパー)の区別がありますが、どちらも同じ種類の胡椒の木になる実からつくられ、2通りの加工方法があるために2種類の胡椒が流通しているだけで、2種類の胡椒の木があるわけではありません。

黒胡椒は、熟す前の胡椒の実を乾かして発酵させたもので、加工後は水分が抜けるために実の表皮が縮んでクシャクシャと皺がよります。

白胡椒は、熟して赤くなった実を積み重ねて外皮を腐らせるか、水に浸けるなどして皮を柔らかくした後に外皮を取り除き中の実を乾燥させたものです。
昔は足で踏むなどして外皮が取り除かれていました。

生の胡椒の実は緑色をしており、乾燥させたものより辛味は強いのですが、この緑の実も料理に使われます。
タイでは、「ケーン・パー」や「ケーン・ペット」などのカレーの類いや、「パットペット」などの炒め料理に生の胡椒の実や実のついた房がハーブとして使われています。

            ○

乾燥させた胡椒の実を使う場合に、新しいものほど辛味を強く感じます。
胡椒の辛味はピペリンやシャビシンという化学物質が素になっており、ピペリンは常温でも結晶化してしまいます。
乾燥胡椒の方が生の胡椒よりも辛味が弱かったり、乾燥させた胡椒が古くなると辛味が薄れるのはピペリンが結晶化してしまうためです。

            ○

実は、英語の「pepper」の語源となったサンスクリット語の「pippali」は胡椒の仲間ではあってもナガコショウという種類の植物の実を意味する言葉です。
古代ローマ時代にもインドのマラバル海岸からヨーロッパへ向けて海路を通じて胡椒が運ばれていましたが、古代ローマやギリシャ時代において胡椒と言えばナガコショウのことを指していました。
サンスクリット語で普通の丸い胡椒は「マリッチャ」といいます。

ナガコショウは漢方では「ヒハツ」と呼ばれ、3センチほどのツクシの穂に似た房の中に胡椒の実が入っており、房ごと干して使用するため通常の丸い胡椒に対してナガコショウの名がついています。
現在日本では沖縄などで栽培されています。

            ○

「ポブレ・ロゼ」という赤い胡椒があります。
日本ではピンクペッパーという商品名で売られており、最近の料理書のレシピなどでもしばしば目にします。
このピンクペッパーは胡椒ではなく、南米原産のウルシ科植物のコショウボクという植物の果実です。
コショウボクの実を蒸し焼きにして熟した実の赤色を定着させたものです。
最近はコショウボクの実をフリーズドライにしたものが出回っているようです。

<参考書籍>

井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<胡椒関連>

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2006/10/10

マグロのトロはなぜ高いか

縄文時代の頃からマグロは食べるために獲られていましたが、日本人には長い間不人気な魚でした。
特にマグロのトロは猫も食わないという意味で「猫またぎ」とよばれた時代もあったほどです。
昭和初期頃までマグロのトロは家庭のおかずやネギマ鍋にされるくらいで、すしネタに使われることはありませんでした。
日本人がトロを食べるようになったのは昭和30年代以降で、日本人が脂質の多い食べものを好むようになってからマグロのトロは一般的に普及しました。

            ○

マグロのトロといっても、全ての種類のマグロからトロがとれるわけではありません。
北半球の日本近海や大西洋、地中海にいるクロマグロ、そして南半球のオーストラリアのタスマン沖で泳ぐミナミマグロからトロはとれます。
クロマグロは別名をホンマグロといい、英語ではブルーフィンと呼ばれています。
ミナミマグロは日本の河岸での別名をインドマグロといい、英語名ではサザーンブルーフィンとされています。(関連:「マグロの格付と冷凍技術」)

            ○

日本近海でも獲れるクロマグロは、小さい目のものの方が品質が良く、ムラなく全体的に柔らかく弾力のある皮を持つマグロの身は品質が高いといわれています。
尻尾を切ったときの切り口を見る場合には、切り口の真ん中が赤く、その外側はピンク色になっているものが良いクロマグロです。

            ○

Maguro_parts クロマグロの背側の身は背筋カミ、背筋ナカ、背筋シモの三つに区分されており、腹側も同様に頭の方から順に腹筋カミ、腹筋ナカ、腹筋シモと区別されます。 背筋カミは赤身の中級品で、背筋ナカは赤身の高級品、背筋シモは赤身の下級品として扱われます。 トロの脂にはマグロの内蔵を守る役割があり、内臓を取り囲むようにしてついています。 腹筋カミがトロの高級品、腹筋ナカはトロの中級品、そして腹筋シモがトロの下級品として扱われます。

大雑把に言って腹近くの身が大トロになり、その上の部分が中トロになります。 
大トロの部分は脂質含有量が30%弱程度あり、冬期になれば40%にまで増え、非常に柔らかくまさにとろけるような食感を与えてくれます。
中トロは赤みが強く大トロほどに脂はありませんが食べた時の食感はなめらかです。
腹筋カミの大トロ部分でも筋が入る部分と霜降りと呼ばれる筋の入らない部分があり、日本では霜降り部分を好む人が多いようです。

脂ということでいえば、エラ下のカマと呼ばれる部位や頭の部分には大トロよりも多くの脂質が含まれていますが、こちらはあまりにも脂が多く、生で食べるよりも炙るなどして熱を加えたうえで食べられています。

            ○

日本近海でとれるマグロで有名なのが大間のマグロですが、大間のマグロでおいしいとされるのは赤身の部分です。(関連:「マグロの血合は伊達じゃない」)
クロマグロの赤身には他のまぐろよりも旨味成分が多く含まれています。
マグロの赤身で価格が最も高いのは胴体真ん中の背筋ナカの部分です。
尾に近い背筋シモは背筋ナカの赤身よりも赤みが強く鉄さびの香りがして、それを好む人もいますが、背筋シモの身は背筋ナカや背筋カミより価格は安くなります。

            ○

マグロを解体した場合、刺身に使えるのは皮がついた状態でマグロ全体の60%、皮を取り除いた状態で50%程度になります。
1匹のマグロの半分程度しか刺身には使えないのです。
トロに限定するとマグロの全重量の15%程度しかありません。

            ○

Toro 天然マグロのトロのにぎりが1カンで2000〜3000円、クロマグロの大トロでは1カンあたり4000円くらいになってしまうのは、巨大なマグロからトロはほんの少量しかとることができないからです。
回転寿司や宅配寿司で安いトロのにぎりを出すことができるのは、天然ものよりも脂質を多く含む養殖マグロのトロを使っているからで、養殖ものを使ったにぎりは一カンあたり300〜350円程度の価格になります。

            ○

鳥インフルエンザやBSE感染牛の問題があって鶏肉や牛肉の消費が減少したことや、健康に配慮して魚を好む人達が増えたことなどからアメリカや中国でマグロの消費量が伸びており、日本へのマグロ供給量が減っている現状があります。
マグロのトロの旨さをアメリカ人や中国人が知ってしまったことで、日本の寿司店で出されるトロのにぎりの値段はこれから増々高くなっていく可能性があるのです。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社上田 武司 (2003)『魚河岸マグロ経済学』集英社
堀武昭 (1992)『マグロと日本人』日本放送出版協会
成瀬宇平(2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式』河出書房新社

<トロ関連>

すし職人が教える江戸前寿司—寿司ダネの捌き方から握り方まで本格江戸前極上の33品 すし職人が教える江戸前寿司—寿司ダネの捌き方から握り方まで本格江戸前極上の33品
金内 秀夫 成美堂出版編集部


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誰でもできるおいしいすしの握りかた 誰でもできるおいしいすしの握りかた
東京すしアカデミー


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達人直伝 回転寿司のさ・すし・せ・そ 達人直伝 回転寿司のさ・すし・せ・そ
柳生 九兵衛


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2006/10/09

キャビアとチョウザメ料理

最高級品は宝石並の価格で取引されるキャビアはご存知の通りチョウザメの卵です。
チョウザメはサメに似た体型をしているために、名前に「サメ」が入っていますが、サメの仲間ではなくチョウザメ目チョウザメ科の魚です。
漢字で「蝶鮫」と書くように、体表の一部には蝶の羽のような大きなウロコがついています。
もちろんチョウザメにはサメのような牙はなく、それどころか歯もついていません。
畳み込むようにしてしまってある柔らかな口を突き出してエサを吸い込みます。
チョウザメは2億5000万年前から生息してきたといわれる生きた化石で、鮭のように川で産卵し、孵化した稚魚は川を下って海で成長します。
成魚になるのに10年以上掛かかり、鮭とは異なり産卵後も生き続け、中には100年前後も生きるチョウザメもいるといわれています。

            ○

100年以上前にチョウザメは、太平洋や大西洋、北アメリカ、地中海、カスピ海、バルト海、黒海周辺など北半球の中緯度に位置する川や湖などに広く分布していました。
その頃のアメリカの酒場ではキャビアを無料のつまみとして出していたというほど、チョウザメはありふれた魚だったのです。

            ○

その後、石油の採掘やダム建設工事などによる環境汚染や乱獲、密漁によってチョウザメの数は激減し、今はカスピ海とロシアのボルガ川にしか生息していません。
キャビアの主要生産国はロシアやイラン、カザフスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンの五カ国となっています。

19世紀末のロシアのキャビア輸出量は年間100トンを越えていました。
しかし2003年にはロシアのキャビア生産量は50トン、輸出量は20トンにまで落ち込んでいます。
カスピ海沿岸諸国は千万匹単位でチョウザメの稚魚の放流を行っていますが、その生存率は低く密漁は減らないため、2006年にはついにワシントン条約事務局によってカスピ海産キャビアの国際取り引きを禁止する緊急措置がとられています。

            ○

ところで、一口にキャビアといっても、チョウザメの種類によりベルーガ、オショートル、セヴリューガ、ステルリャジ、ベステルなどの分類がされます。
オオチョウザメという種類のチョウザメの卵でつくられたキャビアは最高級品として扱われます。
一匹のオオチョウザメから20キロ弱の卵をとることができ、この卵で作ったキャビアをロシア語の商品名でベルーガ(Beluga)といいます。
ベルーガの次に価格が高いのは、ロシアチョウザメ1匹から5キロ前後とれる卵で作られるオショートル(Oscietra)です。
ベルーガやオショートルに次ぐものがホシチョウザメの卵で作られるキャビアで、商品名をセヴルーガ(Sevruga)といい、ホシチョウザメ1匹からは2キロ以下の卵しかとれません。

            ○

キャビアは粒の大きさにより等級がつけられ、15の等級分けがされます。
大雑把に言って、最高級品のベルーガは大粒のキャビアで、オショートルは中粒、セヴルーガは小粒になります。
ベルーガのキャビアが詰められるビンのフタは青、オショートルは黄色、セヴリューガは赤と色分けがされ、パッケージでキャビアの種類が分かるようになっています。
1番上の等級がつけられるキャビアと1番下の等級のものでは、2倍から3倍近くもの価格差があります。

            ○

キャビアは獲れたてを短時間で処理しないと粒がつぶれて商品価値が著しく下がってしまうため、キャビア作りには熟練の技術が必要となります。
チョウザメから取り出された卵は布のふるいを使って不純物が取り除かれ、その後の水洗いで更に異物が取り除かれます。
きれいになった卵には、卵の1〜2%にあたる塩が混ぜこまれ、熟成させるために2日間ほど寝かせた後にビンに詰められます。

            ○

キャビアの価格はとにかく高く、庶民が気軽に手を出せるものではないということで、キャビアのイミテーション品なども作られています。
代用キャビアには、デンマークで水揚げされるランプフィッシュの卵を黒く着色したものや、タラやホウボウの卵を使ったものがあります。
日本で作られるイミテーション・キャビアにはトビウオの卵を漆黒に染めたものなどもあります。
ラベル表示でイミテーションと断り書きがあればいいのですが、中にはイミテーション品をキャビアとして売る偽物も出回っているそうです。

            ○

親のチョウザメよりもその卵で作られるキャビアの方が昔から有名だったわけですが、地域によっては親のチョウザメの肉を好んで食べる地域もありました。
中国でチョウザメは「鰉魚」とよばれ、かつては皇帝の魚とされていました。
特にチョウザメの軟骨が珍重されていたといいます。

            ○

ロシアではチョウザメの身を塩漬けやマリネにしたり、ソテーやグリルにしてよく食べられたこともあり、ロシアのアムール地方では生のチョウザメ肉にねぎやギョウジャニンニクのような香草の薬味をのせ、塩をふって食べたといいます。
アムールで獲られたチョウザメの肉は地元で食べられ、軟骨は中国に送られていました。

            ○

カスピ海産キャビアの国際取引が禁止される以前は、世界のキャビアの90%はカスピ海で水揚げされたチョウザメで作られていました。
そのカスピ海に面するイランは最上級キャビアのベルーガの生産国でありながら、キャビアを食べることは昔から稀でした。
これはキャビアの価格が高いからだけでなく、鱗のない魚とその卵は食べてはいけないというイスラム教シーア派の教義があったからです。
1983年に、聖職者と専門家の調査の結果に基づいて、チョウザメの尾びれの上には菱形の鱗があるとしてチョウザメの身も卵も食用にして良いとする宗教的解釈がホメイニー師によって示され、これ以降イラン国内でのチョウザメの切り身の消費量は僅かばかり増えたといいます。

            ○

日本でも昔は北海道の川にチョウザメが遡上していたことが分かっています。
このチョウザメは今は標本等でしか見られませんが、1966年にはロシアからチョウザメの稚魚500匹が日本に贈られており、これを期に「日本チョウザメ研究会」がつくられ、後に「国際スタージョン交流会」も設立されています。
国際スタージョン交流会はチョウザメの学術的研究をする会ではないようですが、例会を開いてチョウザメの養殖状況などを発表したり、全国のチョウザメ養殖場を見学するなどの活動を行っているようです(なぜかGoogleではインデックス登録されていないようです)。
国際スタージョン交流会のサイトの情報によれば、日本各地で町おこしのためにチョウザメの養殖に挑戦している地域があるそうですし、釜石市の「暮れ六つ」というお店では養殖したチョウザメの料理が食べられるようです。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
上岡弘二 (1999)『アジア読本 イラン』河出書房新社
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会
沼野充義, 沼野恭子(2006)『世界の食文化〈19〉ロシア』農山漁村文化協会
開高健(1990)『オーパ、オーパ!!〈アラスカ篇 カナダ・カリフォルニア篇〉』集英社
佐藤魚水(1997)『魚の謎解き事典』新人物往来社

<キャビア関連>

ユー・ガット・メール ユー・ガット・メール
ハリー・ニルソン ノエル・ホーガン ドロアーズ・オーリオーダン

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快盗ルビイ 快盗ルビイ
和田誠 小泉今日子 真田広之

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ディーバ ニューマスター版 ディーバ ニューマスター版
ジャン=ジャック・ベネックス リシャール・ボーランジェ

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踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!
君塚良一 本広克行 織田裕二

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2006/10/06

蕎麦になるソバの実

ソバは種を蒔いてから収穫できるまでに約75日掛かります。
春に種が蒔かれたものは夏に収穫され、夏に種を蒔いたものは秋ソバとして秋に収穫されます。

ソバはタデ科植物です。
涼しい気候で育ち、気温だけで見るならばヒマラヤの標高4300メートル地点などでも生育することが可能です。
貧土や非常に乾燥した環境でも育ち、病気や害虫の被害が少ないという栽培する上での利点があります。
しかも、ソバの葉は成長が速く地表に射す日光を遮り、ソバの根からは他の植物の生育を妨げる物質が分泌されるため、ソバ畑の地表には雑草が生え難くなるということもソバ栽培に手間が掛からない理由の一つになっています。

栽培するには良いこと尽くめに聞こえますが、ソバが実をつけるには主に蜜蜂などの虫による受粉が必要になるため、花が咲いても結実するのは20〜30%程度で、収穫できる実が少ないということがこの栽培植物の欠点といわれています。

            ○

3005000066 ソバの原産地はシベリアからインドにかけての東アジアといわれており、中国南部から北部に伝わったものが朝鮮半島を経由して日本に伝播したとする説が有力視されています。

縄文時代前期の遺跡からソバの種子や花粉が発見されていることから、紀元前4000年よりも前にソバ栽培は始められていたという説があります。
日本では野生種や自生するソバが発見されていないため、栽培用のソバが縄文時代に日本に持ち込まれたのだと考えられているのです。
出土した中で最も古いソバの種子は北海道渡島のハマナス遺跡から発見されたもので、その他にも全国の十数ヶ所の遺跡でソバの花粉や種子が出土しています。

しかし、縄文時代や弥生時代の遺跡から出土したソバの実は後の時代に混じった可能性も否定できず、証明が可能な範囲でソバ栽培が確実に行われていたといえるのは5世紀頃とされています。
『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』にソバという言葉が出てこないことから、これらの文献が編集された時代よりも後に栽培が始まったとする説もあるのです。

            ○

ソバの古語の「ソバムギ」がソバの語源だとされており、ソバムギとよばれていたものが縮められて単に「ソバ」と呼ばれるようになったといわれています。
「ソバムギ」の「ソバ」とは「稜(そば)」と書き、「稜」とは物の角を意味します。
ソバの葉は三角で実も三角錐の形をしていることから、角のある麦という意味で「ソバムギ」とよばれたのです。

            ○

ソバが最初に文献に登場するのは722年に元正天皇が出した詔で、米の凶作に備えて晩稲、ソバ、大麦、小麦を植えよと命じたものです。
その次にソバが出てくる記録は839年に任明天皇が畿内でソバを栽培せよとした詔でした。
当時ソバといえば非常食であり日常的に食べるものではなかったのか、任明天皇の命令書が出された後は、飢饉が多発した平安末期になるまでソバは文献に現れなくなります。

            ○

ところで、ソバは五色といいます。
これは、ソバの根は茶色で茎は赤、葉は緑、実は黒、そして実の中身は白いという意味です。
麺の蕎麦のおいしさを決める要素の殆どはソバ粉の質だといわれ、そのソバ粉の原料となるのが外皮に包まれた実の中身の白い部分です。

            ○

ソバの実の外皮を取り除くことを「抜きにする」といいます。
外皮だけを取り除き中身の白い部分がきれいに取り出されたものは「丸抜き」とよばれ、中の実が2〜3つに割れているものは「上割れ」、更に細かく割れているものは「小割れ」といいます。

昔は「抜き臼」というソバの外皮を取り除く専用の石臼がありましたが、現在では高速回転するベルトにソバの実を打ちつけて外皮をとる機械が使われるのが普通です。
臼で外皮を取り除く場合は皮だけが取れずに実が砕けてしまうものが全体の七割にもなりますが、機械で皮を取る方法では、皮が取られて実が割れない、いわゆる丸抜きとよばれる状態の実が九割になります。

            ○

ソバの外皮を完全に取り除くほど、麺にしたときの色は白くなります。
抜き臼を使ったときに上割れや小割れ状態になってしまった実は再び臼で挽かれることで粉にされ、その時に外皮は殆ど取り除かれますが、粉となった外皮はそば粉に混じってしまうため、蕎麦の出来上がりは黒っぽくなります。
また、蕎麦の色はつなぎで入れる小麦粉の量にも左右され、ソバ粉に混ぜる小麦粉の量が多ければ多いほど、できあがる蕎麦の色は白くなります。

ソバの外皮は繊維質で消化に悪く、味を良くする成分を含んでいません。
黒みがかった蕎麦の方がおいしいという話しもありますが、ソバの外皮が混じったことで麺の蕎麦の色が黒っぽくなっている場合もあり、一概に色だけで蕎麦のおいしさが決まるとは言えないようです。

<参考書籍>
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版

<蕎麦関連>

仕掛人・藤枝梅安 梅安晦日蕎麦 仕掛人・藤枝梅安 梅安晦日蕎麦
池波正太郎 小林桂樹 柴俊夫


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落語 名演ガイド集 火炎太鼓(与太郎噺)/そば清(滑稽噺)/饅頭恐い(長屋噺) 落語 名演ガイド集 火炎太鼓(与太郎噺)/そば清(滑稽噺)/饅頭恐い(長屋噺)
古今亭志ん生(五代目)


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パール金属 そば打ちま専科 DXそば作り6点セット H-5422 パール金属 そば打ちま専科 DXそば作り6点セット H-5422

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2006/10/05

フォアグラと侯爵のパテ

世界三大珍味といえばキャビアとトリュフそしてフォアグラです。
キャビアとトリュフを人工的に作ることはできませんが、逆にフォアグラは人間が手を加えなければ作ることができません。(関連:「トリュフはなぜ珍味か」)(関連:「キャビアとチョウザメ料理」)

            ○

ガチョウやカモに大量のエサを食べさせてそれらの動物の肝臓を肥大させることでフォアグラは作られます。
通常、動物に無理矢理エサを食べさせれば消化不良を起こして死にますが、大量の水と一緒にエサを与えればガチョウやカモはエサを消化してしまうのです。
この強制的なエサやりのことを「ガヴァージュ」といい、ガヴァージュのエサには蒸したとうもろこしに油と塩を混ぜ込んだものが使われます。
ガヴァージュは毎日6時間毎に行われ、フォアグラ完成までには1ヶ月を要し、一羽のガチョウに使われるエサの総量は25キロ程度だといわれています。
昔は人間1人がガチョウを押さえて、もう1人が漏斗でエサを流しこんでいましたが、現在は機械が使われています。
漏斗状の器具をガチョウの口につっこみ、エサが機械で流し込まれた後にガチョウの首を人間が手でなでるなどして胃に向かってエサを送り込みます。

           ○

家畜化されたガチョウの最古の記録は古代エジプトの遺跡に残されたレリーフです。
いくつかのレリーフが残されていますが、紀元前2500年に亡くなった高官の墓から発見されたレリーフにはガチョウに強制的にエサを食べさせている様子が描かれており、フォアグラを作るためのガヴァージュと同様の作業がこの時代に行われていたことをこのレリーフは示しています。
ただし、エジプト人がガチョウの肥大した肝臓を食べていたのか、食べていたとしたらどのように料理していたのかについては不明です。

          ○

強制的エサやりを行っていた古代エジプト人がガチョウの肝臓を食べる目的でそれを行っていたと決めつけられないのは、後の古代ローマやギリシャ時代に、ガチョウを太らせてその肉を食べるためにガヴァージュを行っていたことが、残された記録で明らかにされているからです。

          ○

古代ローマ帝国がフランスを支配下においたときガチョウを太らせる技術もフランスに伝わりましたが、長い間フランスでも肥大した肝臓が食材として珍重されることはありませんでした。
やはりフランスでも肥満させたガチョウの腿肉を食べることはありましたが、食材にするために意図的にガチョウの肝臓を肥大させることはなかったのです。

          ○

15〜16世紀頃になると、フォアグラをとるためのガヴァージュらしきことがフランスで行われ始めましたが、それでもフォアグラ料理が頻繁に食べられたわけではありません。
フォアグラが食材として注目されるようになったのは、18世紀になってフォアグラでパテが作られるようになってからのことです。
1780年前後のフランスで、ジャン・ピエール・クローズ(Jean Pierre Clause)という料理人がフォアグラのパテである「コンタード風パテ」をつくりました。
ルイ16世に使えていたコンタード侯爵が開くパーティーを前に、招待客が見たこともないような料理を作るようにと料理人のクローズは命じられ、そこで作られたのが後にコンタード風パテと名付けられたガチョウのフォアグラのパテでした。
このパテは好評を博し、後にルイ16世にも献上されたといいます。

その後、ニコラ・フランソワ・ドワイアンという料理人により、フォアグラのパテにトリュフの香りが混ぜられるようになり、フォアグラのパテは最高のパテと賞賛されるようになります。
パテの材料として使われるようになって以降、フォアグラは食材として脚光を浴びるようになったのです。

          ○

フォアグラのパテが盛んに作られるようになった19世紀になると、フォアグラという嗜好品をつくるためにガチョウの口を無理矢理こじ開けてエサを流し込むことに対して非難の声があがるようにもなります。
現在でも動物愛護団体などが中心となってガヴァージュは動物虐待であるという抗議が度々行われており、カリフォルニア州ではガヴァージュによってつくられたフォアグラを州内でつくることを2012年から禁止する法律がつくられています。
一方で、2005年10月に、フォアグラは国の文化遺産であるとした法案がフランスで可決されたりもしています。
最近は鳥インフルエンザの影響で一時的にフォアグラの輸入が禁止されたりなど、その消費量が落ち込んだりもしましたが、今後この食材はどのように扱われていくのでしょうか。

<参考書籍>
宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<フランス料理関連>

調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 調理場という戦場—「コート・ドール」斉須政雄の仕事論
斉須 政雄

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「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋 「ストウブ」でじんわりほっこり幸せなレシピ—シェフに愛されるフランスの人気鍋
重信 初江

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もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本 もっと楽しむフレンチ&ワイン—ビストロから高級店までフレンチレストランが満喫できる本
田崎 真也

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2006/10/04

糠と漬物と乳酸菌

日本の記録に漬物が初めて出てくるのは奈良時代の木簡で、瓜や青菜の漬物という言葉が記されています。
平安時代になると漬物について書かれた文章は多くなり、この時代に漬け物の露天売りがいたと読める記述も残されています。
室町時代後期になると漬物は店舗でも販売されるようになっていました。
そして日本の漬物の歴史の中で革命的ともいえるぬか漬けが登場したのは17世紀末から18世紀初め頃のことです。
味噌漬けや塩漬けとは異なり、きちんと管理すれば何度でも使うことができるぬか床に漬けるぬか漬けは、すぐに庶民の間で広まりました。

            ○

糠(ぬか)は白米の外側についており玄米が精米されるときに取り除かれますが、この糠に塩と水を混ぜて発酵させたものが「ぬか床」または「ぬか味噌」とよばれるものです。(関連:「米と糠(ぬか)」)
ぬか味噌の原料の米糠には炭水化物やたんぱく質、脂質、無機質、ビタミンなどが含まれています。

            ○

ところで、ビタミンB1は、明治43(1910)年に日本人の鈴木梅太郎博士によって米糠から発見されたものです(後に島園順次郎博士によってビタミンB1の 欠乏が脚気の原因であることが解明されました)。
数あるビタミンの中で、鈴木博士が発見したビタミンB1が世界で最初に発見されたビタミンなのです。
鈴木博士は発見したこの栄養素に「オリザニン」という名を付けましたが、その翌年に同じ栄養素を発見したポーランドの化学者カシミール・フンクは、生命(vita)に必要な有機化合物のアミン(amine)という意味で「vitamine」という名をこの栄養素に付けています。
「vitamine」は後に「ビタミン(vitamin)」という名に改められ、世界的にこのビタミンという名称が使われるようになったため、ビタミンの第一発見者はフンクであったかのように扱われてしまった歴史があります。

            ○

3005000062 ぬか漬けにした野菜はそのビタミンB1を多く含んでいます。
野菜を糠に漬けるとぬか床の中に含まれる塩の浸透作用によって野菜の細胞から水分が外に流出し、糠に多量に含まれるビタミンB1やその他の栄養素が野菜細胞の水分が抜けたその隙間に入り込むため、ぬか漬けを食べればビタミンB1などを摂取することができるのです。

ぬか床を継続的に使用しているときに、ぬか床にザルなどを押し込んで染み出てくる水分を取り除き、新たにぬかと塩を補充する作業が必要になりますが、この水は塩の浸透作用で野菜から出たものなのです。

            ○

ぬか漬けの効用は糠の栄養が野菜に移るだけではありません。
ぬか味噌の中の微生物が促す発酵作用によって、ぬか漬けにした野菜の栄養は増加します。
1グラムのぬか味噌の中には1億以上の乳酸菌や酵母、酪酸菌などの微生物が繁殖しており、これらの微生物は糠の栄養をもとに活発に働いて糠を発酵させ、米糠の成分を乳酸やアルコールなどに転化します。
乳酸菌による発酵で作られる様々な有機酸と香り成分は野菜の青臭さを隠して、うま味と酸味をつくる働きをするのです。

            ○

ぬか漬けは殺菌の面から見ても優れた保存処理方法です。
腐敗菌などの有害菌は繁殖するのに空気を必要とし、塩分や酸に弱いという性質があります。
ぬか床の中の塩には野菜の細胞の働きを止めて腐敗がすすむのを防ぐ目的もありますが、有害菌の働きを抑制する働きもあるのです。
また、乳酸菌による発酵によって酸が作られるため、ぬか床の中は有害菌が活動できなくなるpH(ペーハー)3.8以下の状態がつくられます。
ぬか床を毎日かき混ぜると、ぬか床表面で繁殖するカビは空気から遮断され、ぬか床の中の塩と酸で殺菌されてしまうのです。

            ○

ぬかをかき混ぜるのは殺菌のためだけでなく、ぬか漬けをおいしくするためにも必要な作業となります。
漬けた野菜から出る水分でぬか床の中の水分が増えると、水分を好む乳酸菌が増え、乳酸菌が増えすぎると漬け物の味は酸っぱくなってしまいます。
乳酸菌は空気を嫌うことから、ぬかをかき混ぜることで乳酸菌の増加をコントロールしてぬか漬けの酸味を調節することができるのです。
また、臭気の素となる酪酸菌も空気に弱いため、ぬか床をかき混ぜるとやな匂いも抑えることができます。

            ○

今の時期は秋なすをぬか漬けにする機会も多いかもしれません。
しかしなすを糠にただ漬けるだけでは、なすは変色してしまい、せっかくのきれいな紫色があせてしまいます。
乳酸発酵によって酸性になったぬか床の中で、茄子に含まれるアントシアン系色素が酸に反応するためにこの変色は起こります。

なすを漬けるときには釘やミョウバンを入れると色よく漬かるといわれています。
ぬか床に古釘やミョウバンを入れると、釘の鉄イオンやミョウバンのアルミニウムイオンと茄子の色素が結合して安定した色を保つことができるためです。
また、鉄釘を入れて漬けたなすは鉄分を多く含むようになり、ミョウバンを入れたものは歯ごたえがよくなるという効果もあります。

            ○

このようにぬか床の中の目に見えない栄養素や微生物による発酵作用の効用については最近になって解明されてきたことです。
しかし、日本人の祖先は栄養学や発酵学を学ばなくても経験と知恵を生かしてぬか漬けの栄養や保存性を高め、味や色の良い漬物をつくる方法を編み出したのです。
その成功の裏には、試しに作っては食べてみる地道な努力や、数々の失敗もあったはずです。
多くの先人の失敗のおかげで現在おいしいぬか漬けが安心して食べられるのだと考えると、いつものぬか漬けも違った食べものに見えてくるかもしれません。

<参考書籍>

高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
高橋素子(2004)『Q&A ご飯とお米の全疑問』講談社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社

<ぬか漬け関連>

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麹屋甚平 熟成ぬか床 2Kg 麹屋甚平 熟成ぬか床 2Kg

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NHKきょうの料理 漬け物上手になる! NHKきょうの料理 漬け物上手になる!
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2006/10/03

食の本


【アジア】

黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
上岡弘二 (1999)『アジア読本 イラン』河出書房新社
佐々木道雄 (2004)『焼肉の文化史』明石書店
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
周 達生 (1994)『中国食探検—食の文化人類学—食の文化人類学』平凡社
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会
森枝卓士(2005)『世界の食文化 (4) ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』 農山漁村文化協会
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂
張競(1997)『中華料理の文化史』筑摩書房
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
鄭大声(2004)『焼肉・キムチと日本人』PHP研究所


【アフリカ・極北】

岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会
小川了(2004)『世界の食文化〈11〉アフリカ』農山漁村文化協会


【ヨーロッパ】

宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
内田洋子, シルヴィオ・ピエールサンティ(2003)『トマトとイタリア人』文春新書
南直人(2003)『世界の食文化 (18) ドイツ』農山漁村文化協会
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
沼野充義, 沼野恭子(2006)『世界の食文化〈19〉ロシア』農山漁村文化協会


【北中南米】

ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて』青土社
黒沼ユリ子( 1996)『メキシコのわが家へようこそ』主婦と生活社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会


【日本・地方】

安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め』講談社
緒方修・吉川敏男(2004)『体にいい沖縄野菜健康法』実業之日本社
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
原田信男(2005)『和食と日本文化—日本料理の社会史』小学館
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期—日本料理草創期』河出書房新社
神崎宣武(2005)『「まつり」の食文化』角川書店
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会
成瀬宇平(2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
赤嶺政信 (2003)『沖縄の神と食の文化』青春出版社
樋口清之(1996)『食べる日本史』朝日新聞社
木村茂光(1996)『ハタケと日本人—もう一つの農耕文化』中央公論社
旅の文化研究所(2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社


【発酵食品・保存食】

NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
森浩一(1987)『味噌・醤油・酒の来た道—日本海沿岸諸民族の食文化と日本』小学館
嵐山光三郎・鈴木克夫(1990)『お醤油の来た道—味の謎への探険隊』徳間書店
一島英治(2002)『発酵食品への招待—食文明から新展開まで』裳華房
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社
小泉武夫(2003)『くさいはうまい
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋


【パン】

大阪あべの辻製パン技術専門カレッジ (2003)『パンの基本大図鑑—パン・マルシェ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
舟田詠子(1998)『パンの文化史』朝日新聞社


【麺】

NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか 麺、イモ、茶』日本放送出版協会
伊藤汎氏(1987)『つるつる物語—日本麺類誕生記』築地書館
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
石毛直道(2006)『麺の文化史』講談社学術文庫
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
俣野敏子(2002)『そば学大全—日本と世界のソバ食文化』平凡新書
笠井俊弥(2001)『蕎麦—江戸の食文化』平凡新書


【野菜・穀類】

NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか 麺、イモ、茶』日本放送出版協会
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
岡村稔久(2005)『まつたけの文化誌』山と渓谷社
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
高橋素子(2004)『Q&A ご飯とお米の全疑問』講談社
坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
内田洋子, シルヴィオ・ピエールサンティ(2003)『トマトとイタリア人』文春新書
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
有岡利幸(1997)『松茸』法政大学出版局
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房


【魚介類】

佐藤魚水(1997)『魚の謎解き事典』新人物往来社
セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店
岩井保 (2002)『旬の魚はなぜうまい』岩波書店
上田 武司 (2003)『魚河岸マグロ経済学』集英社
宮下章(2000)『鰹節』法政大学出版
講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
堀武昭 (1992)『マグロと日本人』日本放送出版協会


【香辛料・カレー】

NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社


【その他】

J・キャンベル, B・モイヤーズ(1994)『神話の力』早川書房
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
開高健(1990)『オーパ、オーパ!!〈アラスカ篇 カナダ・カリフォルニア篇〉
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
山本隆(2001)『美味の構造—なぜ「おいしい」のか』 講談社
主婦と生活社(2003)『おいしい言葉食べる言葉ものしり事典—食卓に一冊。うまさ倍増!話の調味料』主婦と生活社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
石毛 直道・森枝 卓士(2004)『考える胃袋―食文化探検紀行』集英社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式』河出書房新社
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

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2006/10/02

とうもろこしとアメリカ入植時代

1493年にコロンブスがアメリカ大陸に到達してから間もなく、アメリカ大陸の先住民が栽培していたとうもろこしがヨーロッパに伝わりました。(関連:「とうもろこしと神様」)
しかしすぐにヨーロッパでとうもろこしが受け入れられたわけではありません。
とうもろこしはグルテンを含んでいないため、それまでヨーロッパ人が食べていたグルテンとイースト菌を結びつけて発酵させるようなパンを作ることができなかったためです。(関連:「パンとイースト菌と発酵」)
そのため、ヨーロッパからアメリカに移り住んだ初期の入植者達はアメリカ大陸で初めてとうもろこしやかぼちゃを見ることになり、それらの植物は「新大陸」にやって来たことを最も実感させる目新しい食材だったといいます。

            ○

アメリカ移民の原点とされているのがイギリスからアメリカにメイフラワー号で渡ったピューリタンの人々です。
16〜17世紀のイギリスで教会改革を訴えたキリスト教プロテスタントのグループがピューリタンで、ヨーロッパでは迫害や差別を受けていました。
ヨーロッパ人にとっての「新大陸」であるアメリカ大陸が発見されとき、ピューリタンは、住民の自治による理想的社会の実現と信仰の自由を求めて新天地に移住していったのです。

            ○

1620年、102人のピューリタンを乗せた180トンの帆船のメイフラワー号が現在のアメリカのマサチューセッツ州であるケープコッドに到着しました。
メイフラワー号がケープコッドに着いたのは12月末で、102人の人々は乾パンと乾燥させた牛肉などを食べて農作ができる春まで餓えを凌ぐしかありませでした。
ピューリタンが建設した最初の植民地の周りには魚介類が豊富な海や狩りができる森があったのですが、不慣れな食材や宗派の戒律などのためにそれらを利用することができず、102人の入植者の半数が翌年の春までに餓死や病気で亡くなってしまい、102名のうち29名いた女性は4人しか生き残れませんでした。

            ○

05ilae03 それでも約半数の52人がなんとか生き残ることができたのは、入植地近くに住んでいた先住民ウァムパノーグ族からの援助があったことや、先住民が残した乾燥とうもろこしのお陰だといわれています。 メイフラワー号がアメリカに到着する以前に、アメリカ大陸にやって来たヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘で全滅してしまった先住民部族が、貯蔵庫に乾燥トウモロコシを残していたのです。
昔、北アメリカの先住民が摂取するカロリーの70%近くはとうもろこしで補われていたといわれており、しかも多くの部族には天候不順による農作物の不作に供えて乾燥させたとうもろこしを貯蔵しておく習慣がありました。
この保存用とうもろこしがピューリタン入植地近くで発見されたのです。
この滅亡した部族が残した乾燥とうもろこしによって、52名の入植者は命を繋ぐことができたといいます。

            ○

1621年の春にピューリタン入植者達は先住民の助けを借りて農作を始めました。
このときに入植者達は先住民からトウモロコシの栽培の仕方を教わっています。
とうもろこしは多様な環境下や狭い土地でも栽培することができ、しかも先住民の栽培方法を使えば年に3回もとうもろこしを収穫することが可能でした。
高カロリー食品をつくることができるとうもろこしは、入植者にとっては生き残るための鍵となる植物になったのです。

            ○

1621年の秋に、入植者達にとって新天地で初めて収穫できた農作物や狩りで獲れた獲物を用いて料理が作られ、入植一周年を記念した三日間に渡るパーティーが開かれました。
このパーティーには先住民も招かれ、合わせて約140人の人達が集い、パーティーにやって来た先住民のウァムパノーグ族はポップコーンを持参したといわれています。
七面鳥や鹿、蛤、うなぎなどが料理され、挽き割りとうもろこしにたまごと水を混ぜたものを揚げて作るコーンブレッドやとうもろこしと豆を煮込んだサコタッシュなどもパーティーで振る舞われました。

このパーティーがアメリカの感謝祭の始まりになったと一般的にはいわれており、11月の第4木曜日がアメリカでは感謝祭の祝日に定められています。
現在は収穫に感謝するという当初の意味は薄れ、感謝祭は家族や親しい人達が集う日になっているようですが、七面鳥のローストやサコタッシュは今でも感謝祭の日に食べられています。

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初期の入植者達は生きながらえるのにやっとの思いでとうもろこしを栽培していましたが、それから400年近くが経って、今やアメリカは世界で一番のとうもろこし生産国となり、世界の食を支える立場にあります。

農林水産省の「消費者の部屋」の資料によれば、2000年のとうもろこし生産量は世界で6億トン近くあり、その内の約40%にあたる2億5,320万トンがアメリカで生産されています。
そのアメリカで生産されるとうもろこしの約半分はコーンベルトと呼ばれるアメリカ中西部の五大湖の西と南に広がる平野で作られています。

Map_cornbelt

地図を見ても分かるように、コーンベルトは主にアイオワ州、イリノイ州、インディアナ州、オハイオ州にまたがる非常に広大な地域に広がっています。

先住民が残した乾燥とうもろこしを食い繋いで生き残った入植者達が、先住民が長い年月をかけて培った栽培技術を基礎にして、土を耕してとうもろこしを作ったわけですが、その入植者達が作った最初の小さなとうもろこし畑が後に世界の食料庫とも呼ばれるコーンベルトの礎となったともいえるのではないでしょうか。

<参考書籍>
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<とうもろこし関連>

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