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2006/09/29

松茸が採れる山

初秋に雨の多い年は松茸のできが良いといいます。
今年の9月はわりと雨が多かったので香りの良い松茸が多く出回るのではないでしょうか。
やはり国産松茸の方が中国やカナダ、北朝鮮で採られたものよりも香りが良く、カサを開かずにずんぐりした形の松茸は胞子を放出する前の状態のものなので、特に味や香りが良いとされています。
多くの日本人が松茸の香りにこだわりますが、他の国では松茸の香りを松ヤニ臭いとして好まない人も少なくありません。
いつから日本人が松茸の香りを好むようになったのかは分かりませんが、かなり昔から日本人は松茸に魅せられてきたようです。

            ○

弥生時代中期のものである岡山市の百間川兼基(ひゃっけんがわかねもと)遺跡から、1984年に発見された土人形は松茸の形をしています。
文字の情報がないので、これが松茸の形を模して作られたものだとは言い切れませんが、松茸がカサを開く前の状態に似ており、カサの部分には目や鼻、口、眉が彫られています。
(いつまで見られるかは分かりませんが、こちらのサイトの一番下に写真がありました)

            ○

「茸」という字が最初に文献に出てくるのは『日本書紀』で、3世紀末から4世紀初め頃に茸が天皇へ献上されたことが記されています。
しかしこの「茸」が松茸だったかどうかは不明です。

            ○

7〜8世紀に編まれた『万葉集』には松茸の香りの良さを詠んだと思われる歌があります。

高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて 
   盈(み)ち盛りたる 秋の香のよさ

この歌に「松茸」の字は出てきませんが、「笠立てて」が松茸のカサのことで、「秋の香」が松茸の香りのことを指しているといわれています。

            ○

松茸狩りがいつ始まったかについても定かにされていませんが、西暦905年頃に編集された『古今和歌集』に「たけがり」という言葉が出てきており、この「たけがり」が松茸狩りのことを指していると考えられています。

            ○

『翁草』という随筆には、豊臣秀吉の松茸狩りの様子が書き残されています。
その当時すでに太閤になっていた秀吉が松茸狩りに招待されたときに、奉行が他の山から松茸をかき集めて秀吉が入る山にあらかじめ松茸を植えておいたといいます。
手で植えたものなので松茸を抜くときに感触でそれと分かってしまい、秀吉に付き添っていた女中がそのことを秀吉に言ったところ、そんなことは最初から分かっていると秀吉は言ってこの女中を怒鳴りつけたそうです。
せっかく喜ばそうとしてくれているのだから素直にその好意を受ければ良いのであって、利口ぶって種明かしをする必要はないと秀吉は言いたかったようです。

前もって松茸を植えておいて招待した客に採らせるという接待は現在でも行われているそうです。
ただし、今はもう少し手が込んでいて、採るときの感覚でバレないように松茸の石突きの部分に石灰を練ったものをつけておき、まるで自生していた松茸を抜いたような感触を出す演出をするそうです。
もしも松茸山に招待された場合は、くれぐれも「この松茸は植えたものだ。 なぜなら根元に石灰のあとが・・・」などとは言わないことが肝心です。

            ○

鎌倉時代や室町時代に松茸は酒の肴にされたことがいくつかの文献に記されており、1476年に書かれた『言国卿記(ことくにきょうき)』には松茸を汁物にしてこれとご飯を食べた後に酒を飲んだことが書かれています。
しかし全般的に鎌倉や室町時代の文献には、松茸をどのように料理したかについて詳しく書いたものは多くありません。

江戸時代になると松茸料理についての文章は多く残されており、例えば、あの黄門様の水戸光国が松茸の吸い物や煮物、和え物、焼き松茸の松茸づくし料理を食べて三回もご飯をおかわりした記録なども残されています。

            ○

このように昔から日本人は秋になると貴重な松茸の香りに焦がれてきたわけですが、近年になって環境が変化したために、昔よりも国産松茸はいっそう入手しづらいものになっています。
昭和10年代の松茸生産量は約6,200トンありましたが、昭和40年代になると約900トンにまで落ち込みました。

この減少の理由は松茸が繁殖する赤松が減ってしまったことに因ります。
松茸と赤松は栄養や水分をやり取りする共生関係にあり、松茸は赤松がなければ繁殖できません。
戦中や戦後に赤松が伐採されたことも原因の一つですが、赤松が減った大きな理由には農村生活の変化があります。
電気やガスの普及により、山の樹木が燃料に使われなくなり、木々の伐採が行われずに山が放置されたことで繁殖力の強い広葉樹がその生息域を広げ、弱い赤松が生息できる範囲は狭めることになり、その結果松茸の数も減ってしまったのです。

その他にも大気汚染で赤松が枯れたなどの理由もありますが、山を管理する人間が減ったことが松茸減少の主な原因であり、これは人間と山との共生が成り立たなければ松茸と赤松も共生できないということです。
今のところ人工栽培ができない松茸は、人間が自然を利用しつつ自然のリズムに合わせることができたときに、山から人間に贈られる賞品のようなものといえるかもしれません。

<参考書籍>
有岡利幸(1997)『松茸』法政大学出版局
岡村稔久(2005)『まつたけの文化誌』山と渓谷社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房

<松茸関連>

松茸ハント―あなたにも松茸が採れる 松茸ハント―あなたにも松茸が採れる
藤井 豊一

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やっぱり猫が好き〜松茸編〜 やっぱり猫が好き〜松茸編〜
三谷幸喜 もたいまさこ 室井滋

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マツタケの丸かじり マツタケの丸かじり
東海林 さだお

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マツタケ—果樹園感覚で殖やす育てる マツタケ—果樹園感覚で殖やす育てる
伊藤 武 岩瀬 剛二

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2006/09/28

納豆と納豆菌

納豆の作り方の基本は、煮た大豆を40℃以上の温度のもとに置いて、枯草菌(こそうきん)の一種である納豆菌を煮大豆に植え付けて繁殖させることにあります。

            ○

昔はこの納豆菌を繁殖させるために稲の藁を利用していました。
稲藁一本には一千万個以上も納豆菌が付着しているためです。
もちろん、納豆が作られ始めた頃の日本人が納豆菌の存在や科学的な発酵のメカニズムを知っていたわけではありません。
最初に納豆ができたのも偶然からではないかと考えられており、それを示唆するような伝説もいくつか残されています。(関連:「納豆伝説」)

            ○

日本の糸ひき納豆に似た食品は朝鮮半島や東南アジアでもみられ、東南アジアにはラワンやバナナの葉で煮大豆を包んで発酵させる方法があります。
東アジアや東南アジアから納豆作りが日本に伝播した可能性もありますが、納豆は日本が独自に開発した食品だとする説も多く唱えられており、納豆の発祥地は定かになっていません。

            ○

奈良時代には、醤油や味噌作りのもとになる大豆麹を得るために煮大豆を稲藁の上に広げ、その上に更に藁をかぶせる方法がとられていました。
藁の中には麹菌も納豆菌もいるのですが、藁の中の温度が40℃以下のときは麹菌が繁殖し、40℃を越えると納豆菌が繁殖します。
温度計がない奈良時代には、藁の中の温度を知るには手で触った感じで測るしかありません。
藁と煮大豆で麹菌をつくるつもりが、失敗して藁の中の温度を上げすぎてしまったために納豆菌が繁殖してしまい、煮大豆が納豆菌によって発酵してしまったのが納豆の始まりだという説もあります。
大陸から納豆の作り方が伝わったのではなく、納豆は日本人によって創りだされたのだと、『食(く)あれば楽あり』などの著者で発酵の専門家である小泉武夫先生はいくつかの本の中で力説されています。

            ○

ところで、納豆を食べることが庶民の間に普及したのは江戸時代になってからのことです。
江戸時代に売られていた納豆は今でいう挽き割り納豆に似ていて、包丁で納豆を叩いた「叩き納豆」というものが売られていました
行商の納豆売りが叩き納豆を担いで江戸の町中を売り歩きました。
この江戸時代の納豆売りは秋から冬にかけてみられる季節のものでした。
暑い炎天下で納豆を売り歩いていると高温のために発酵が進みすぎてしまうため、夏に納豆を売り歩くことはできなかったのです。
昔の納豆売りがどのような売り声で納豆を売り歩いていたかは、こちらの落語の『石返し』やこちらの『孝行糖』などのまくらの部分を聞いてみて下さい(本編もおもしろいです)。

            ○

江戸で売られた納豆を作るときは、ざるに藁をしいてその上に煮大豆をのせ、その上にフタをするようにまた藁をのせて、これを地下に一晩置いて発酵させていました。
その作り方から「一夜納豆」とか「ざる納豆」という呼び名がつけられました。
江戸の町以外の関東や東北、京都、九州では煮大豆を藁苞で包んで発酵させるやり方が主流でした。

            ○

地方で自家用の納豆がつくられる場合には、発酵温度の40℃を保つために色々な方法が用いられていました。
こたつや湯たんぽを使って藁苞に包んだ煮豆を温めたり、茨城の一部では地面にあけた穴の中で火を焚き、温度を上げた穴の中に煮豆が入った藁苞を入れて穴に土をかぶせてフタをする方法がとられていました。
岩手県では雪の中に藁苞が埋められたり、いくつかの地方には堆肥の中に藁苞を埋める方法などもありました。

明治時代になると旧江戸の東京でも藁苞を用いた納豆つくりが一般的になります。
また、この頃から、販売される納豆には辛子がつけられるようになったといいます。

            ○

明治38(1905)年に、納豆が出すネバネバ粘る物質から納豆菌を取り出して培養することに東大の沢村誠博士が成功しています。
納豆菌は沸騰させた湯の中でも20分間は生き続けるため、稲の藁を20分弱煮出すと藁につく納豆菌以外の菌は死んでしまい、納豆菌だけを取り出すことができます。
藁を煮た液を細菌が繁殖できる環境に置くと、納豆菌だけを純粋培養できるのです。

            ○

納豆菌が培養できるようになった後、人工的に培養した納豆菌で納豆を作る技術が開発されました。
そして、藁苞でつくった納豆の商品としての販売は禁止されてしまいます。
藁で包んで納豆を作る方法では納豆菌だけでなく雑菌も繁殖する恐れがあるためです。

現在商品として販売されている納豆は、雑菌が混じらないように培養した納豆菌を煮大豆に吹き付ける方法で作られており、これが滅菌された容器に詰められて売られているのです。

藁で包まれている納豆が店頭に置かれていることもありますが、あれもやはり純粋培養した納豆菌を煮大豆に植え付けて作られた納豆であり、藁は高温で殺菌された容器として使われているだけで、煮豆を藁苞に包んで発酵させたものではありません。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

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納豆レシピ93 納豆レシピ93
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ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女 ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女
東海林 さだお

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2006/09/27

鮭とアイヌ

日本の沿岸で獲られる秋鮭の漁獲数は全体で6,000万尾程度で、その内の80%程度が北海道で獲られています。
その北海道を含む北方地方の先住民であるアイヌの言葉で夏の食べものを意味する「サクイベ」が鮭の語源だという説があります。
他の説では、アイヌの言葉で乾物にした魚を意味する「サットカム」が鮭の語源になったとされています。

            ○

アイヌの言葉では「神の魚」を意味する「カムイチェ(カムイ=神、チェ=魚)」や、「本当の食べもの」という意味の「シペ」が鮭を指す言葉です。

アイヌ語で家屋は「チセ」といい、チセが5〜10戸集まった集落は「コタン」といいます。
アイヌは鮭が遡上する川の上流にコタンをつくり、鮭の産卵場所よりも上流にコタンができることはありませんでした。
アイヌの生活圏は鮭の産卵場所を中心に発展していったのです。

            ○

本州でも鮭を獲るときのしきたりや風習が各地方にあり、それらに従って鮭は獲られましたが、鮭漁に関するアイヌの儀礼は厳格なものでした。
それは鮭がアイヌの生活や信仰に密接に関係していたことに因ります。

アイヌの伝説では、魚の神である「チェプ・アッテ・カムイ」が持つ袋の中に鮭は存在しており、魚の神がその袋の口を開けると鮭が川を登ってくるとされています。
もし人間が鮭に対する礼儀を失すると鮭は人間の非礼を神に訴え、魚の神は怒って二度と袋の口を開けなくなり、鮭は川を遡上しなくなるとアイヌの伝説は教えています。

            ○

鮭が川の上流に登ってくる時期の前に、アイヌは「湾の神」や「河口の神」、「川の神」に祈り、川を汚さず不浄なものを入れないという誓いをたて、多くの鮭を川に登らせて下さいと神々に祈願します。

            ○

鮭が登ってくる時期になると川岸に祭壇を設け、「アシ・チェ・ノミ」という新しい鮭を迎える儀式が行われます。(以下ではアシリチェップノミと表記)
この儀式では最初に川を登って来る鮭が神に供えられます。
このときに鮭を獲る漁具はマレという鉤銛(かぎもり)が使われ、マレクで鮭を川から引き揚げた後は、鮭を神に捧げる言葉を唱えつつ、柳やミズキで作られた飾りの付いたイサパキクニと呼ばれる棒で鮭の頭を叩きます。
川に最初に登ってきた鮭にこのように人間が対することで、アイヌの神は満足するのです。

            ○

最初の鮭を迎える儀式が行われた後の漁期には、川中に杭を打って一個所作った出口から出てくる鮭を獲る漁や地引き網や刺し網を使った漁も行われました。
アイヌの漁法の中には犬を利用したものもあり、一匹の「漁犬」が一日に100匹近い鮭を獲ったといいます。

アイヌが鮭を獲った時は、カラスの分として鮭一匹を河原の砂利の上に置き、狐の分としてもう一匹を木陰に置く風習がありました。
そしてアイヌは自分たちに必要な分の鮭だけを獲り、決して獲りすぎることはありませんでした。

            ○

産卵後の鮭は「ホッチャレ」と呼ばれます。
これは、産卵後の鮭は脂が抜けてしまって味が落ちるので誰も獲らずに「放っておく」ということから生まれた言葉だという説があります。
アイヌ語で「尻からばらまく」という意味の「ホ・チャリ」が語源になったという説もあるようです。

アイヌは産卵が終わった鮭のいわゆるホッチャレを干物にしていました。
産卵前の脂がのった鮭を干しても虫がわいたり脂が酸化してしまい保存性が低くなるのに対して、ホッチャレは脂が抜けているため乾燥させれば10年以上も保存できたといいます。
アイヌの一家族で600尾以上の鮭と700尾以上のマスを乾物にし、それらを高倉式倉庫に貯えていました。
アイヌが干し鮭を食べるときはこれを水につけて柔らかくして、アザラシや熊の脂をつかって山菜などと一緒に煮込んだりして料理しました。

            ○

アイヌの慣習では、先に出てきた鮭が遡上する直前と最初の鮭が登ってきたときに行われる儀式と、更に鮭の産卵が終わったときに行われる鮭漁の終了を告げる儀式があり、これら三つの儀礼はアイヌにとって大事な神事でした。

しかし明治時代になり北海道は狩猟の場から農耕の地に変えられていきす。
アイヌは土地を取り上げられ、アイヌの伝統的漁法は明治政府により禁じられて、アイヌの風習も規制されてしまったのです。

その後、遡上してくる鮭を迎える祭事のアシリチェップノミは100年以上途絶えていましたが、1981年に札幌アイヌ文化協会などが中心となって復活されています。
今年も 9月18日に、復活してから25回目になるアシリチェップノミが行われ、秋鮭がアイヌの神にささげられました。

<参考書籍>
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会

<アイヌ関連>

萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM 萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM

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アイヌのうた アイヌのうた
民族音楽 萱野茂・平取アイヌ文化保存会 貝澤あさの

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CDエクスプレス アイヌ語 CDエクスプレス アイヌ語
中川 裕 中本 ムツ子

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2006/09/26

しょうがで羊が買えた時代

根しょうがの露地栽培では春に種しょうがが植えられ、秋には収穫が行われます。
今年に栽培と収穫が行われてすぐに店頭に並べられるしょうがは新しょうがとよばれます。
昨年収穫されて貯蔵されていたものが今年売られる場合、新しょうがと区別するために「古しょうが」とか「ひねしょうが」という呼び名になります。
新しょうがもひねしょうがも根しょうがのことなのです。
葉しょうが(谷中しょうが)も根しょうがと同じ種類のしょうがですが、根しょうがよりも早く収穫され、葉が付いた状態で出荷されます。(関連:「しょうがの甘酢漬け」)

家庭菜園でしょうがを栽培して、秋になって家では食べきれないほどしょうがが収穫できたというおうちもあるかもしれません。
家で栽培していなくてもスーパーなどに行けばしょうがはいつでも無造作に並べられています。
しかし昔のヨーロッパでしょうがは高級品として珍重されていました。

            ○

しょうがは熱帯アジアが原産ですが、熱帯アジアのどの地域かは特定されていません。
一説によればインドが原産地ではないかといわれています。
インド原産地説の根拠の一つになっているのがしょうがの名前です。
英語でしょうがは「ginger(ジンジャー)」ですが、この言葉は以下のように語源をさかのぼることができるといいます。

英語「ginger(ジンジャー)」→ フランス語「gingivre(ジンジブレ)」→ ラテン語「zingiberi(ジンジベリィ)」→ ギリシャ語「zingiberis(ジンジベリィズ)」→ サンスクリット語「singavera(シンカベラ)」→ ドラビダ語「inch ver(インチベル)」

サンスクリット語はインドの古典言語です。
そのサンスクリット語の「singavera(シンカベラ)」はもともと「角の形をしたもの」という意味の言葉ですが、この言葉がしょうがを指す言葉として使われました。
そしてこのサンスクリット語の「singavera」の語源がドラビダ語の「inch ver(インチベル)」だといわれているのです。
ドラビダ語はインド西岸のマラバール海岸地方に有史前に住んでいたドラビダ人が使った言語です。
しょうがを意味する世界の言葉の語源をたどっていくとマラバール海岸地方に行きつき、しかもこの地方では現在でもしょうがの生産が行われていることなどから、しょうがの原産地はインドではないかと考えられているのです。

           ○

しょうがはインドから中国に伝わりました。
中国にしょうがが伝播した当初は揚子江よりも南の地域で栽培が始まり、後に各地にしょうが栽培が広がっていったと考えられています。
マルコポーロが現在の江蘇省の蘇州や福建省を旅しているときに大量の高品質のしょうがが山に積まれているのを目撃しています。
ヨーロッパに比べ中国ではしょうがが格安で取引されていたことにマルコポーロは驚いたと東方見聞録に記されているのです。

            ○

胡椒が伝わる前の時代にしょうがはヨーロッパに持ち込まれ、香辛料の一つとして扱われました。
マルコポーロが中国でしょうがを見た13世紀はもちろんのこと、14世紀になってもヨーロッパにおけるしょうがは高価な香辛料として取引されていました。
450グラムのしょうがが羊一頭と同じ価格であったことが当時の記録に残されているほどです。
しょうがが山積みされ、しかもそれらが安価で取引されているのを見たマルコポーロの驚きも理解できます。

            ○

ヨーロッパとアメリカ大陸の間を商船が行き交うようになった時代に、しょうがは熱帯アメリカでも栽培され始めます。
乾燥させたしょうががアメリカ大陸からヨーロッパに輸送されるようになり、ヨーロッパでのしょうがの価格は庶民でも手が出せるほどに下がりました。

一説によると紀元前3000年頃に創られたといわれるジンジャーブレッドは、15世紀には高級菓子として貴族に好まれていましたが、16世紀にシェイクスピアによって書かれた劇の中には「ジンジャーブレッドが1ペニー」という台詞が出てきており、乾燥しょうががアメリカ大陸から輸入された頃を境にヨーロッパでのジンジャーブレッドも上流階級の菓子から庶民の菓子に変わったことが伺えます。

また、庶民でもしょうがが買える時代になったころ、乾燥しょうがの粉末をビールやノンアルコール飲料のエールに振り掛ける飲み物がイギリスの大衆酒場で作られるようになったとわれており、これがジンジャーエールの始まりだとされています。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社

<しょうが関連>

生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g 生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g

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マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち
マーガレット ウィルバーン Margaret Wilburn

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ジンジャーとフレッド ジンジャーとフレッド
ジュリエッタ・マシーナ フェデリコ・フェリーニ マルチェロ・マストロヤンニ

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2006/09/25

かつおの刺身の季節

かつおには島の周辺を回遊している群れと、南北や東西に移動している群れとがあります。
かつおが生息している場所はだいたい地図で示した海域になります。

Map_bo

日本近海に回遊してくるのはフィリピン沖とマリアナ海域から北上してきたかつおだと見られており、これらの海域は日本にやって来るかつおの産卵場所だとも考えられています。
かつおは生まれてから1年後には体長が15センチ以上になり、成魚は時速60kmで泳ぐようになります。

            ○

日本近海では2月頃になると南西諸島や小笠原の近くにかつおがやって来ます。
3月頃になると鹿児島や四国沖を北上しており、4月頃には紀州沖に達しています。
土佐沖から紀州沖にかつおの群れが到来している頃、この群れとは別の一群が御前崎沖や伊豆諸島近海に現れます。
これはマリアナ諸島から小笠原諸島にかけての海域から北上して来た群れだと考えられています。

4〜5月に房州沖や銚子沖まで移動するとかつおはその海域にしばらく留まります。
夏になるとまた北上を始め、銚子沖から福島常磐沖を経由して三陸沖に向かいます。
10月には北海道沖や南千島沖にまで至ります。

            ○

水揚げされる港によって多少時期は異なりますが、例えば関東では初夏の5月頃に水揚げされたかつおが「初鰹」とよばれています。

また、南の海から北海道沖に向かっている時期のかつおが「上りかつお」とよばれるものです。
上りかつおはまだ栄養を充分に貯えていないため脂肪がついておらず、身はあっさりとした味わいがあります。
この時期のかつおは刺身にすると水っぽく感じるのでタタキにしたり、かつお節に加工されます。
かつお節菌がかつおの身に含まれる脂肪を分解することでかつお節はつくられますが、これにはある程度の時間を要します。
脂が多い身でかつお節をつくろうとしても脂が分解される前に酸化してしまうため、かつお節をつくるには脂肪が少ない上りかつおの身の方が向いているのです。(関連:「かつお節の作り方」)

            ○

9〜10月頃に気温が下がり始めるとかつおは北上を止めて南下し始めます。
この南下するかつおは「戻りかつお」とか「下りかつお」とよばれます。
秋に獲れるかつおはそれまでにエサを存分に食べて大きく成長しているので、身には脂が非常にのっています。
上りかつおにくらべて下りかつおは3倍程度も多く脂質を貯えています。
上りかつおでも東北辺りまで北上したものは既にある程度の脂がのっているため刺身で食べてもおいしいのですが、かつおの刺身といえば秋の戻りかつおを好む人は多いようです。
かつおは傷むのが早いため昔は寿司ネタにはされませんでしたが、最近は冷蔵輸送や冷蔵設備が整っているので寿司店で扱われることも珍しくはなくなりました。
日本人の脂を好む傾向に合わせて戻りかつおやなるべく脂の乗ったかつおを仕入れる寿司屋が多くなっているといいます。

            ○

3008000015 毎年かつおは殆ど同時期に同じようなルートを通って回遊するため、日本人にとっては春や秋の風物詩のような存在になっています。 しかし、このかつおの回遊ルートは不変というわけではありません。

東北地方の古い地層から発見されたかつおの骨の研究から、紀元前6000〜3000年頃にあたる縄文時代前期から中期頃にかけての時代には、東北地方で多くのかつおが獲られていたことが判明しています。
しかし縄文時代も後期になると東北で獲られたかつおの量は激減したことも研究から分かっており、この漁獲量の変化の原因は黒潮の流れが変わったためだと推測されています。
近年でも、昭和の初め頃までは日本海側でもかつお漁が盛んに行われた港がありましたが、現在は日本海側を泳ぐかつおは非常に少なくなったという事例があります。

            ○

2006年9月23日付け日経新聞に、かつおの卸値が高騰しているという記事がありました。
原因は9月になっても海水温が高いためにかつおの南下が遅れており、それに加え台風が立て続けに日本の近海を通過したため、戻りかつおとして市場に並ぶものの入荷量が少ないためだそうです。

毎年あたりまえのように日本人が口にしている日本近海もののかつおですが、海水温が例年とは異なる変化をしたり海流の位置がちょっと変わっただけでもかつおは回遊ルートを変える可能性があるのです。
あるとき突然かつおが日本にやって来なくなるという心配もないとはいえないのかもしれません。

<参考書籍>
宮下章(2000)『鰹節』法政大学出版
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式―達人だけが知っている“味覚の黄金律”を初めて明かす!』河出書房新社

<かつお関連>

磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!! 磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!!
東京サザエさん学会

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1000ピース 鰹 10-821 1000ピース 鰹 10-821

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愛蔵版 初ものがたり 愛蔵版 初ものがたり
宮部 みゆき

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2006/09/22

しょうがの甘酢漬け

しょうがには自律神経を刺激してアドレナリンの分泌を促す成分が含まれており、これにより血管が広がり血行がよくなるといわれています。
風邪をひいたときに、おろしたしょうがを熱いお湯で溶いて飲むという民間療法があるのも、しょうがを摂ることで血行が良くなり体が温められて新陳代謝が促進されるからです。
インドでは刻んだしょうがを蜂蜜に漬けたものを風邪をひいて喉が痛いときに食べるそうです。

            ○

しょうがには殺菌作用もあります。
このことも昔から知られていたようで、毒薬で暗殺されることを恐れたローマ皇帝ネロがつくらせた解毒剤にはしょうがも含まれていたといわれており、中世のヨーロッパでペストが大流行した時もしょうがはペスト予防になると信じられていました(実際に強力な毒やペストに対して、しょうががどれほどの効果を発揮するのかは定かではありません)。

            ○

更にしょうがには消化酵素のジアスターゼの作用を促進する成分が含まれているため消化を助ける働きもします。
しょうがに殺菌や消化促進作用があることを日本人は経験的に知っていたのか、生魚をつかう寿司にしょうがの甘酢漬け(ガリ)がつけられたり、殆ど作り方は同じですが「はじかみ」とよばれる葉しょうがや谷中しょうがの甘酢漬けが焼魚の付け合わせに添えられます。(関連:「酢漬けいろいろ」)

            ○

「はじかみ」とはもともと日本の古い言葉では辛味のある植物を指していました。
山椒(さんしょう)も「はじかみ」と呼ばれていたのです。
中国から日本にしょうがが伝わったとき、山椒と同様にしょうがには辛味があったので、中国の呉(くれ)の国から伝来した辛い植物という意味で「呉(くれ)のはじかみ」とよばれたり、土の中で育つ部分が利用されるので「土ハジカミ」とよばれたりしました。
そのしょうがの古い呼び名の名残なのか、現在は葉しょうがなどの甘酢漬けが「はじかみ」と呼ばれています。

            ○

はじかみといえば、はじかみが徳川幕府の人事に影響を与えたことがあるという話しがあります。

江戸時代に、今の東京の板橋一帯は将軍への献上用しょうがの栽培地に指定され、ここで収穫されたしょうがが将軍家に納められて、将軍が食べる料理にもしょうがはしばしば使われていました。

十一代代将軍家慶のとき、老中の水野越前守忠邦が財政再建のための緊縮財政策を強行し、庶民からはやり過ぎだという批判が出た贅沢禁止令を発布しました。
ある日、家慶の食事に鯛の塩焼きが出されたとき、いつもは鯛に付けられていたはじかみが添えられていませんでした。
そこでその理由を家慶が問うと、老中水野が出した贅沢禁止令のためだという答えが側近から返ってきました。
それを聞いた家慶は思わず「まさかそこまでやっているとは思わなかった」とついつぶやいてしまったのです。
この将軍のポロリ一言が引き金となって水野忠邦は老中の座から降ろされることになったといわれています。

            ○

老中を失脚させる原因となったはじかみの作り方を書いておきます。
葉しょうがや谷中しょうがを10〜12本用意し、まずはそれらの根の部分を塩を少し入れた熱湯で十数秒ほど茹で、その後茎の部分も含めた全体をザブッと熱湯の中に4〜5秒間浸けてからしょうがをひきあげます。
お湯からあげたしょうがには塩をパラパラとふりかけて冷ましておきます。
しょうがを冷ましている間に、半カップ(100cc)の酢にその酢の量の八割程度の水を加え、ここに大さじ3の砂糖(40グラム程度)を入れて混ぜたものを加熱して一煮立ちさせ冷まします。
細長のビンにしょうがを入れ、そこに冷ましておいた甘酢を注ぎ入れ、3時間程度置いておけば出来上がりです。

ついでに新しょうがの甘酢漬け(ガリ)の作り方ですが、こちらはまず新しょうがを薄くスライスします。
スライスしたしょうがを水で洗って、水気をよくきってから塩をふります。
塩をふると水が出てきますので、これを手で搾るとしょうがは面白いように縮まりクタッとなってしまいます。
新しょうがを漬ける甘酢は、半カップの酢に大さじ2の水と大さじ2の砂糖、小さじ1の塩を混ぜてつくります。
やはりこれを一煮立ちさせた後に冷まして、先ほどのしょうがのスライスを入れた容器に注ぎ入れます。
しばらくすると新しょうがはピンク色に変わっていきますが、食べるのには一晩以上は付けておいた方が良いようです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
旅の文化研究所(2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<はじかみ関連>

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2006/09/21

サフランと黄金色の香り

フランス料理のブイヤベースやスペイン料理のパエリヤなどに使われるサフランは別名を「蕃紅花(ばんこうか)」ともいいます。
原産地は南ヨーロッパや西アジアです。
サフランの学名は「crocus sativus」といいますが、サフランとクロッカスは同じクロッカス属に分類されます。

            ○

サフランの紫色の花につく赤い雌しべを採取して乾燥させたものが香辛料としてのサフランです。
サフランは1年に1回しか開花せず、花は2週間しかもちません。
花が枯れる前の2週間という短い期間に人の手で雌しべを摘み取らなくてはならないのです。
しかもサフランの花には細い雌しべが三本しかついていません。
1グラムのサフランを生産するのに500本程度の花が必要になるといわれており、サフランはどうしても高価になってしまうのです。

            ○

Eg05ilaw05 乾燥させたサフランの雌しべを水に浸すと赤色から黄色に変化します。
古代エジプトでは太陽を神として崇める太陽信仰が盛んで、サフランでつくる黄色の染料は太陽を表す色として儀式などに使われていました。

また、クレオパトラは化粧品の一つとしてサフランからつくられた香油をつけていたといわれています。

            ○

古代エジプト時代からサフランは薬としても使われていました。
だいぶ後の時代になりますが、中世のイギリスではサフランが心臓や肺の病気に効くと考えられ、ワインに混ぜたサフランを患者に飲ませていたことがあります。
現代の日本では鎮痛用の漢方薬としても扱われているようです。

            ○

紀元前2600年頃に栄えたクレタ文明の遺跡で発見された壁画にもサフランの絵が描かれています。
後にそのクレタの地を支配した古代ギリシャでも、サフランでつくる黄色は高貴な色として扱われました。
ギリシャ神話に限らず多くの宗教で「神」の象徴は黄金であり、黄金色に近い黄色を出すサフラン染料は珍重されたのです。

            ○

ローマ帝国時代の香辛料は富を示すステータスシンボルでもありました。
香辛料の中でも特に高価なサフランは力を誇示したい上流階級層には打って付けの品でした。
当時、サフランは二日酔いに効き、眠りを深くすると信じられていたため、サフランでつくられた枕が貴族などの間で用いられたりもしました。

            ○

古代アラビアでも黄色は貴い色であったため、サフランは大切な染料の材料として使われています。
一方で、高価な贅沢品だったことから、サフランは堕落の象徴ともされていました。
古代アラビアでは、男にとっては肉とワイン、女にとっては黄金とサフランが人間を堕落させるものの筆頭に上げられていたのです。

            ○

中世のヨーロッパではエーゲ海のレパント地方を中心にサフランが生産されました。
14世紀頃なるとスペインやイタリア、イギリスでもサフランがつくられるようになります。

妖精はパンをサフラン風味のミルクに浸して食べるのだという言い伝えがあるイギリスに、最初に持ち込まれたサフランは盗品だったという話しがあります。

イギリスのエセックス地方のある町からキリストの聖地に赴いた巡礼者が、イギリスに帰国する途中にレパントに立ち寄り、そこでサフランの球根を巡礼用の杖の中に隠して故国に持ち帰ったというのです。

この巡礼者が持ち帰ったサフランの球根の栽培は成功し、サフランのお陰で豊かになったこの町は後にサフロン・ウォールデン(Saffron Walden)という名に変えられ、町の教会の屋根飾りにはサフランの花の彫刻がほどこされたといいます。

イギリスに伝わったサフランについては、十字軍が遠征した先でヘンリー I 世が献上品としてサフランを受け取り自国に持ち帰ったのが最初だという説や、ローマ帝国がイギリスを統治していた時代にサフランが伝えられたという説もあります。

            ○

中世のヨーロッパでもサフランは染料として使われ、高値で取引されていました。
これに目を付けたインド人が、インド料理には欠かせないウコンを原料にしてサフランよりもだいぶ安い値段のサフラン染料の模造品をつくり、「インディアン・サフラン」と名付けてヨーロッパで売って利益を得ていたことがあります。

            ○

サフランの模造品はインド人によって初めてつくられたわけではありません。
古代ローマの博物学者のプリニウスがサフランは偽物が多いと書き残しており、プリニウスが生きた紀元1世紀頃から偽サフランが出回っていたことが分かっています。

中世のヨーロッパではキンセンカやベニバナの花びらを乾燥させたものがサフランの代用品に使われ、「貧乏人のサフラン」とよばれていました。
その他にも柳の根や肉を細かくほぐしたもの、トウモロコシの毛に色をつけたものなど、サフランのモドキというよりは悪質な偽物といえる品が多く出回りました。

            ○

中世ヨーロッパの市場から本物のサフランが追いやられてしまうほど偽サフランが流通してしまったため、ヨーロッパの国々は取り締まりに追われました。
当時のフランスでは偽サフランを売った者に懲役刑を課しています。
1444年のドイツでは偽サフランを扱った商人が逮捕され処刑された記録さえあります。
この商人は自分が売っていた偽サフランと一緒に火あぶりの刑に処せられました。
死ぬ間際の火の中で嗅いだ匂いは自分が売ろうとした偽サフランの匂いだったというなんとも残酷で皮肉な話しです。

            ○

今でもサフランのイミテーション商品がありますが、現在は合成香料や色素でつくったサフランそっくりの色や香りをサフランの細胞を無菌培養したものにつける方法が使われたりしています。

            ○

05ilar12 様々なコピー商品が出回るほどサフランはヨーロッパで人気を得たわけですが、サフランはヨーロッパだけで使われたわけではありません。
香辛料の国インドでは北部のカシュミール地方でサフラン栽培が盛んに行われてきました。
インド料理では味付けされたご飯のプラーオに使われたり、ヨーグルトでつくられるお菓子にサフランが入れられたりしています。

トルコではオスマン帝国が栄えた時代からサフランは「ザフェラン」と呼ばれ、ピラフややはり菓子などに用いられてきました。

            ○

日本でサフランを頻繁に使うという家庭は稀だと思いますが、少し検索してみたところ、通販ではスペイン産サフラン1グラムが約1000円、国内産のものが1グラム1200円弱 ほどの価格で販売されていました。

手に持った重さと値札を見比べて日頃買い物をしている一般庶民としては、1円硬貨と同じ重量で1000円以上の価格は高いと感じてしまいますが、サフランの価値は重さのない色と香りな訳で肉の買い物ではないのですから、重量と価格を見比べるのはやはり意味のないことなのでしょうね。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<サフラン関連>

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2006/09/20

さつまいも太古の海を渡る

意外なことにさつまいもは謎の多い植物です。
特にさつまいもの原産地とさつまいもがどのように世界に広まっていったかについては、近年になるまで確かなことは殆ど何も分かっていませんでした。

            ○

さつまいもの研究を難しくしたのは、さつまいもの種類の多さとそれを分類する方法が確立されなかったことに因ります。
栽培種が野生種と交雑したり突然変異を起こしたことで生まれたさつまいもの仲間は非常に多く存在しています。
研究のために多くの野生種のさつまいもやさつまいもに近い植物が世界中から採取されましたが、研究者によっては外見の些細な違いで種類分けを行ってしまったため、さつまいもの系統分類は混乱してしまったのです。
現在でもさつまいもの的確な分類方法は確立されていないそうです。

            ○

991026 長い間、形や生息している地域などをもとに、さつまいもの原種や原産地の研究が進められてきました。
しかし現存するさつまいもの種類分けが不明確な中で、その形をもとに原種を探すことは非常に困難な作業です。
さつまいもの原産地はアジアであるとかアフリカであるなど様々な説が唱えられ、一時期はさつまいもの原種や原産地を特定することは不可能だとまで言われました。

            ○

行き詰まっていたさつまいもの祖先探しが再び進展したのは、近年の植物の染色体研究の進歩のおかげです。
染色体を分析することで様々な栽培植物の原産地が判明しましたが、さつまいもの原種探しにもこの方法がとられたのです。
さつまいもの染色体の数を基にしたゲノム分析は日本人研究者によって積極的に行われました。
分析結果が出てもその結果について日本人研究者とアメリカ人研究者との間で見解の相違などがあったため、簡単には結論に至りませんでしたが、現在ではさつまいもの祖先の植物は主にメキシコから南米北部に生息する植物であることが分かっており、最初に栽培され始めたのもこの地域だとみられています。

ペルー海岸のチルカ谷の遺跡から発見された紀元前8千年から紀元前1万年頃のサツマイモの根などの考古学的資料から、紀元前3000年には赤道近くの熱帯アメリカを中心とした広い地域でサツマイモは食べられていたと考えられています。

            ○

さつまいもがアメリカ大陸からどのように世界中に伝播していったかについてもはっきりとしたことがまだ分かっていません。
しばらく前までは、コロンブスがさつまいもをアメリカ大陸からスペインに持ち帰り、その後世界中に伝えられたという説が一般的に信じられていました。

しかし近年になってこの説が間違いであったことが判明したのです。
コロンブス以前にアメリカ大陸以外の地域にさつまいもはなかったという考えは、アメリカ大陸に生息する植物の原種の仲間が他の場所では発見されなかったという根拠に基づいていました。
しかし、1940年代前後に太平洋のポリネシアのタヒチ島周辺やニュージーランドで、さつまいもの祖先に近い植物が栽培されていることが発見されたのです。
これにより有史以前にさつまいもはアメリカ大陸から南太平洋の島々に伝播していたことが判明しました。

            ○

しかし、そのような太古にさつまいもがどのようにして太平洋を渡ったのかは今でも確かな答えが得られていません。
一説では、さつまいもが海流に乗ってポリネシア方面まで流れていったとされています。
別の説では、アメリカ大陸に住んでいた人達が南太平洋地域に向けて航海した際にさつまいもを運んだと考えられています。
筏を使って南米から南太平洋の島に到達できることはコン・ティキ号で有名なヘイエルダールが実証しています(この実験航海について書かれたヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』は、誇張した表現が省かれた実験レポートのように簡潔な文章ですが、堅い読物ではなく所々でクスッと笑わせるようなユーモアがたっぷり盛り込まれた本です)。

しかし、カボチャやとうもろこしはそのような昔に海を渡っていないと考えられており、なぜさつまいもだけが南米からポリネシアまで伝わったのかも、さつまいもの謎の一つになっています。

            ○

1974年に発表されたニュージーランドのエン博士の説では、さつまいもが世界に広まった経路は三つあったとされています。
一つは1492年にコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに運び、その後アフリカやインド、中国、インドネシアに伝播したルートです。
二つ目は16世紀にスペイン人がメキシコからフィリピンに運んだ経路だと考えられています。
そして三つ目が南米のペルーからイースター島などを経てポリネシアやニュージランドに伝わったルートです。
さつまいもがポリネシアに伝わったのは有史以前のことなので、当然それについて書かれた文献は無いのですが、わずかな手掛かりから紀元前1000年頃にさつまいもはポリネシアに伝わっていたのではないかと研究者達は考えています。

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<参考書籍>

坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会

<さつまいも関連>

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2006/09/19

魚肉ソーセージと肉食

明治時代に新政府は文明開化のスローガンのもと国民に対して食の西洋化を促しました。
しかし大正時代はもちろんのこと、昭和に入っても日本人の食の中心は米と魚であり、肉食はなかなか家庭で普及していきませんでした。
そのような状況の中、日本人の食を欧米化する切っ掛けの一つとなったのが魚を材料につくられた魚肉ソーセージの登場だったのです。

            ○

最初の魚のすり身を使ったソーセージは大正時代初期に軍用保存食として開発が行われたといいます。
日本にはかまぼこや竹輪があったので、ソーセージを見た日本人は昔からつくられてきた練り物を連想したのかもしれません。

            ○

昭和10(1935)年にマグロの供給がダブつき価格が下落したためマグロ肉を使ったハムのような製品が開発され、「ツナハム」という商品名で販売されました。
しかしツナハムの販売は軌道に乗らず、結局は静かに市場から消えていくことになりました。
魚肉ソーセージが市場に復活するのはそれから20年近く後のことです。

            ○

昭和28(1953)年にアメリカが行ったビキニ環礁での水爆実験によって近くの海域で獲られたマグロが放射能に汚染されていることが判明し、この年のマグロ需要は激減してしまいます。
マグロ価格は急落して市場でさばけないマグロが再び山積みとなりました。
そこで水産業者などがマグロ肉を加工したソーセージの製造を始めたのです。

            ○

以前つくられたツナハムは消費者に受け入れられませんでしたが、魚肉ソーセージが販売され始めた昭和30年前後という時代はツナハムが販売された昭和10年頃とは状況が異なり、魚肉ソーセージには追い風が吹いていました。
昭和30年代は日本人の生活スタイルが洋風化していくちょうど端境期だったのです。

「栄養改善法」が施行され厚生省が国民の栄養改善に関する調査を始めた昭和27(1952)年頃から「食のバランス」ということが盛んに言われるようになります。
たくさんの白米を少しのおかずで食べる食事は不適切とされ、肉食中心の西洋風の食事がブームの兆しを見せ始めます。
米飯中心だった日本人の食生活はパスタやラーメンなどの麺やパンも食べる食事に変わり始め、主食の米で胃を満たす食事からおかずを多く食べる食事へと変化し始めたのです。

西洋料理なども紹介するNHK「きょうの料理」が始まったのは昭和32年で、最初のインスタントラーメンが発売されたのは昭和33年と(関連:「インスタントラーメンの誕生」)、昭和30年代初期に日本人の食生活は目に見えて変化していきました。

            ○

このような時代の流れに魚肉ソーセージは合致していたのです。
それまでソーセージを食べることに不慣れだった日本人にとっても、食べ馴れた魚肉を使ったソーセージは手が出し易い商品でした。
特に洋風なものに憧れながらも新しい食べものを試しかねていた消費者層に魚肉ソーセージは歓迎されたようで、都市部よりも地方で、肉を食べる馴れた人よりも肉食に馴れていない消費者に魚肉ソーセージは好まれたといいます。

魚肉ソーセージはかまぼこや竹輪と同様の食品として分類されていたために当時は保存料を使用することができました。
これにより冷蔵設備のない小売店でも魚肉ソーセージを置くことが可能になり、消費者が魚肉ソーセージを目にする機会も増えました。
しかも材料費を抑えることができた魚肉ソーセージの価格は安く設定されていたため、多くの人達に「ちょっと食べてみようか」という気を起こさせたのです。

            ○

一躍ヒット商品となった魚肉ソーセージの製造会社は急増し、一時は100社以上もの会社がこの分野に参入していました。
丸大食品やマルハなどの水産加工業社だけでなく、伊藤ハムや日本ハムなどの畜産系の会社も魚肉ソーセージ市場に加わりました。
丸大食品やマルハなどは魚肉ソーセージの成功をもとに、逆に畜産分野に事業をその後拡大しています。

発売されて間もない昭和30(1955)年でも魚肉ソーセージは月に1000万本も生産されています。
最も生産量が多かった昭和40(1965)年には、発売当初の頃に比べ800倍以上の量にあたる188万トンが生産されました。

            ○

魚肉ソーセージは畜肉を使ったハムやソーセージのいわば模造品ですが、本物の食肉ハムやソーセージの消費も次第に増加していきます。
昭和30年代になっても日本人が畜肉から摂る動物性タンパクの量は依然多くはありませんでしたが、昭和42(1967)年には食肉ハムとソーセージの生産量が魚肉ソーセージの生産量を追い抜くことになります。
同じ年の昭和42年に米の生産量はピークに達し、翌年からは年々減少し始めました。
子供が好むおかずが卵焼きからハンバーグなどに変わっていったのも昭和40年代のことです。

            ○

昭和63(1988)年に、畜肉やその加工品によるタンパク質摂取量が魚肉や魚肉加工品からの摂取量を史上初めて上回りました。
1990年代の輸入牛肉の自由化や円高の定着などで肉の価格が安くなったことにより肉食は日本の食生活に定着していくことになります。
肉食が奨励された明治時代初期から100年以上を経た昭和の終わりに、肉を食べる習慣が一般家庭にも浸透したわけです。
魚や米が中心だった日本人の食が肉食中心の食へ移行する、そんな時代の象徴的な食べものが魚肉ソーセージだったのです。

            ○

ちなみに魚肉ソーセージを使った料理については、「魚肉館」というホームページに40種類以上のレシピがあります。
「魚肉館」には、市販されている魚肉ソーセージの情報や、なぜ魚肉ソーセージがオレンジ色のフィルムで包まれているかなどの豆知識、魚肉ソーセージをぬか漬けにする実験結果なども掲載されています。

<参考書籍>
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
原田信男(2005)『和食と日本文化—日本料理の社会史』小学館

<昭和関連>

昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年! 昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年!
昭和のいる・こいる

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なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~ なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~
テレビ主題歌 桜井妙子 川田正子

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ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 ALWAYS 三丁目の夕日 通常版
西岸良平 山崎貴 吉岡秀隆

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2006/09/18

白米に憧れてきた日本人

縄文時代にアワとヒエが中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わり、その後、大麦やキビ、ソバが中国から持ち込まれたと考えられています。
それら雑穀の伝来に前後して、約3000年前に日本に稲が伝わりました。
弥生時代以降に米栽培は日本全国に広まっていくわけですが、米栽培の普及と同時に米の飯が日本人の食の中心になっていったわけではありません。

            ○

000923 長い間、日本で米を常食できたのは上流階級だけであり、一般庶民は雑穀や芋、豆などを主に食べていました。 室町時代になると庶民は玄米に雑穀を混ぜて食べています。 江戸時代中期頃になって江戸や大阪などの都市部に住む庶民に限って、やっと日常的に米の飯が食べられるようになったのです。

しかし当時の国民の70〜80%を占めていた農民は祝祭があるハレの日にしか白米の飯を炊くことができず、日頃は雑穀や芋やだいこんなどを混ぜた飯を食べていました。 これは当時の農業技術では全人口に行き渡るのに十分な米を生産することができなかったことが一因としてありますが、農民一揆を恐れた徳川幕府が農民の衣食住を厳しく管理して、地方では名主や庄屋にしか米の常食を許さなかったことにも因ります。

            ○

江戸時代の武士の給料である扶持(ふち)は一日玄米五合(米1合は約150g)で計算されていたといいます。
当時の都市部の一般庶民でも一回に食べる飯の量は今の茶碗で3〜5杯分で、一日に必要なカロリーのおよそ80%を米の飯から摂取していたといいますから、今の日本人に比べて多量の米飯を食べていたことになります。

            ○

江戸時代中期に江戸の町で白米消費が増加した証拠に、この頃から江戸では脚気患者が急増しています。
脚気はビタミンB1が足りなくなることでかかる病気です。
雑穀や玄米の糠や胚芽部分にはビタミンB1が含まれていますが、糠や胚芽を取り除いた白米だけを食べているとビタミンB1が欠乏し脚気になってしまうのです。(関連:「米と糠(ぬか)」)

江戸時代には米の値段が下がると脚気患者が増え、米の値段が上がると患者数が減少する傾向が見られました。
地方から江戸に出てきて脚気にかかってしまった人達が故郷に帰ると治ってしまったという事例もあったようです。
しかし当時は脚気の原因は分からず、単に「江戸煩(えどわずらい)」とよばれていました。

            ○

明治時代になっても脚気がどういう病気なのかは不明で、伝染病や栄養失調によるものではないかと推測されたこともあります。

明治10年の西南戦争の頃、政府軍の大切な兵隊達には白米が宛てがわれていたために多数の政府軍兵士が脚気にかかってしまい、この対策として政府は府立脚気病院を設立しています。
この脚気専門病院創設当初、政府は東洋医学と西洋医学のどちらを採用するかを決めかね、脚気患者を二つのグループに分けて一方のグループを西洋医学で治療し、もう一方のグループには東洋医学を用いて、より効果のあった方を政府として採用することにしました。
西洋医学の医師も脚気の原因は分かりませんでしたが、米の飯の代わりにパンと牛乳の食事を脚気患者に与えていたために病気は完治してしまい、結局は西洋医学が政府によって正式採用されたのです。

            ○

明治43年に米糠からビタミンB1が鈴木梅太郎博士によって発見され、後に脚気の原因がビタミンB1の欠乏であることが島園順次郎博士によって解明されています。
米糠から見つけられたため、稲の学名の「オリザ・サティバ」に由来してビタミンB1はオリザニンと当時は呼ばれました。(以前、ビタミンB1を発見したのは島園順次郎博士であるとここに書いてしまいましたが、正しくは上記の通り鈴木梅太郎博士です。訂正させて頂きます。申し訳ありません。)

            ○

000919 明治時代末期頃の日本では一日に一人平均3合弱の米が消費されており、大正時代には米の生産力が増強されたためか一般庶民でも一日に一人平均4合弱の米を食べるようになっています。
農林水産省」や「JA全農」などの資料によれば、ここ数年の日本人一人当たりの米消費量は一年に1%程度づつ減少しており、一日一人平均1合程度の米しか食べなくなっているなど、日本人の米離れが進んでいるようです。

それでも今の日本人にとっても、米には一つの食材以上の意味があることは確かです。
米が伝来してから3000年の歴史の中で見れば日本の一般家庭で100%の白米飯を常食したのは短い期間です。
しかし長い間多くの日本人が白米食に憧れ続けて白米に対する思い入れを強めてきたことが、米を日本人にとっての特別な食べものにしたとも考えられるかもしれません。

<参考書籍>
高橋素子(2004)『Q&A ご飯とお米の全疑問』講談社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社
旅の文化研究所(2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<ご飯関連>

棚田百選—森田敏隆写真集 棚田百選—森田敏隆写真集
森田 敏隆


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野田琺瑯 ご飯鍋 21cm KAMADO KMD-20 野田琺瑯 ご飯鍋 21cm KAMADO KMD-20

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2006/09/15

秋刀魚で按摩いらず

秋刀魚(さんま)はもともと「狭真魚(さまな)」とよばれていました。
「狭真魚」とは体の幅が狭い立派な魚という意味で、これが転じて「さんま」になったといわれています。

さんまを「秋刀魚」とかくのは形が刀に似ているからですが、市場などではさんまのことを「九寸五分(くすんごぶ)」とよびます。
九寸五分は短刀のことを指します。

関西や高知、九州の一部などで秋刀魚は「サイラ」と呼ばれます。
関西でも京都では「サヨラ」、富山や石川、和歌山では「サヨリ」、三重では「カド」、佐渡では「バンジョ」の別名があります。

            ○Map_samma2_1

2006年9月3日付け『asahi.com』の「サンマの中枢 港区赤坂」という記事によれば、 秋刀魚は極端に暑かったり寒かったりする海域を除く北太平洋全域に生息しており、370億匹以上の秋刀魚が回遊していると推測されているそうです。 以前は、サンマが卵を生む場所は西日本近海からその沖の黒潮の東側までだと考えられていましたが、実は黒潮の北の海域やアメリカ西海岸沖までもが産卵場所になっているということが分かってきたようです。 産卵時期についても、以前は冬期にだけ産卵があると考えられていましたが、秋や春にも卵が産みつけられることが最近になって判明するなど、日本人にとっては身近な秋刀魚ですが生態にはまだ不明な点が多いようです。

            ○

秋刀魚は卵を藻や海藻に付着するように産みつけます。
日本近海を回遊する秋刀魚の多くは9月末頃に卵から孵り、その稚魚達は北海道沖合の北方四島よりも更に北のプランクトンが豊富な海域を目指して北上します。
稚魚が北上を終えるのは孵化からほぼ1年後と考えられており、このときの体長は20センチ程度になっています。
北の海で栄養をとり成長した秋刀魚は産卵のために8月末頃から10月頃にかけて南へ移動します。
移動を始めた早い時期に北海道で獲られる秋刀魚は「お迎えさんま」と呼ばれ、この頃の秋刀魚はサイズがまだ小さく脂はさほどのっていません。
秋刀魚の親は移動の途中で卵を産みつけます。
10月までに三陸や房州、遠州灘沖まで秋刀魚は南下しており、この頃には体全体の20%以上が脂肪となり、いわゆる脂がとてものった状態になります。
秋刀魚の脂は産卵後には落ちてしまい身はパサパサとした感じになってしまいます。
この産卵後の秋刀魚は別名「麦さんま」といいます。
秋刀魚漁は8月末に解禁され12月まで漁が行われます。
冬から春先に掛けて、秋刀魚は四国や九州の沿岸近くを泳いでいますが、中には稀に沖縄沖まで南下してしまうものもいるようです。

            ○

秋刀魚の下あごは突き出ており、この部分を「吻(ふん)」といいます。
吻が黄色い秋刀魚の身には脂肪が多くついています。
また、雄よりも雌の方が味は良いともいわれます。
背が青黒くつやのあるものは鮮度が良く、30センチ以上のものは大抵どれも脂がのっています。
秋刀魚のサイズが本来はまだ小さい時期であるはずの初秋に、大きな秋刀魚が店頭に並べられることがありますが、これは前年に獲られて冷凍にされていたものです。
9〜10月の旬の時期でも、今年獲られた秋刀魚に前年の冷凍物を混ぜて販売する店もあるという噂もあります。
ただし今の冷凍技術のレベルは高いので、冷凍物だからといって極端に味が落ちるわけではありません。

            ○

秋刀魚はハラワタが美味しいとされてきましたが、昔に比べて今の秋刀魚のハラワタの味は落ちたとも言われています。
これは秋刀魚漁の漁法に関係しています。
戦前は秋刀魚の通り道に網を張っておいて網に刺さったものを獲る刺し網が主に用いられましたが、戦後は大きな網で大量の秋刀魚をすくい獲る棒受網(ぼううけあみ)漁法が主流となりました。

刺し網漁をしていたときよりも棒受網漁に変わってから漁獲量は20倍に増えましたが、棒受網漁では網の中で秋刀魚同士がぶつかり合ってウロコが落ち、水中に舞うウロコを秋刀魚が飲み込んでしまうため、秋刀魚のハラワタの味が落ちると言われています。
また、秋刀魚はウロコが残っていれば新鮮だとされていましたが、最近の棒網を使う漁ではウロコが剥がれ落ちるのは珍しいことではないので、ウロコがないからといって鮮度が落ちているとは言い切れなくなっています。

            ○

秋刀魚が刺身にされたり江戸前寿司で出されるようになったのは最近のことのようですが、紀州地方には「さんま寿司」という伝統料理があります。
旬を過ぎたいわゆる「麦さんま」とよばれる産卵後の脂の少ない秋刀魚を使ってさんま寿司はつくられ、紀州地方では正月料理の一つとして食べられてもいます。

            ○

040901029 一般的にさんま料理といえば塩焼きですが、最近のマンションなどではモウモウと煙を出すような焼魚料理はできないところもあると聞きます。
そのような場合はアルミホイルで包んで蒸し焼きのようにするか、フライパンと蓋を使ってなるべく煙が出ないように焼くこともできます。

秋刀魚の和風ムニエルというのも美味しいものです。
これは『旬菜和食―和の新しい味わい』というレシピ本にのっていた秋刀魚料理の一つです。
秋刀魚の頭とハラワタを取り除き、水で洗ってから腹を開いて中骨や腹骨を取り除きます。
一匹を3等分くらいの大きさにして身を開いてから塩こしょうをふり、小麦粉を薄く付けて、多めの熱い油をしいたフライパンで焼くだけです。
薬味としてねぎや茗荷(みょうが)やしそなどを焼き上げた秋刀魚の上にたっぷりとのせ、ポン酢につけるなり上から掛けるなりして食べます。

さんまを味噌汁にすることもできます。
秋刀魚の頭と尾、ハラワタを取り除き、塩をふってから暫く放置した後に洗ってから輪切りのように切ります。
それを味噌汁の具として入れるのです。Sanma
魚臭さを消すためにしょうがを入れると良いですし、だいこんなどの野菜を一緒に入れても合うようです。

            ○

秋刀魚に含まれる栄養は豊富なことで有名です。
秋刀魚の身には牛肉と同量のタンパク質がある上にビタミン類は牛肉よりも多く含んでいます。
秋刀魚の血合には豚レバーと同等の鉄分が含まれ、皮や腹ワタにもDHAやタウリン、EPAなどが含まれています。
「秋刀魚が出回ると按摩が引っ込む」というほどですから、美味しいだけでなく体にも良い魚なのです。

<参考書籍>
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社
講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社

<さんま関連>

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2006/09/14

パンとイースト菌と発酵

今から1万年前に、現在のイラクがある地域で栄えたメソポタミアで小麦栽培が始められました。
小麦は粉に挽いてお湯に溶かされて粥のようにして食べられていましたが、そのうちにこの粥状のものが焼かれるようになり、ピタやチャパティのような平焼きの無発酵パンが作られるようになったと考えられています。
その後時代が進むにつれ、無発酵パンよりも食べやすく味や香りが良い発酵パンが食べられるようになったのです(関連:「古代のパン」「ピタはなぜ薄いパンなのか」)。

            ○

周辺国から「パンを食べるひと」と呼ばれた古代エジプト人達はビールを造ったときに出る搾り粕の酵母でパンをつくりました。

古代ローマでは発酵させた白ブドウの汁とフスマ(麦の糠)を混ぜて天日で乾燥させたものをパン種にしており、これは原始的なドライイーストといえます。

アジアで見れば、インド人は小麦粉を水で練ったものを発酵させて焼いたナンをつくり、エチオピア人はテフという穀物の粉でつくる薄いクレープ状に焼いた発酵パンのインジェラをつくりました。

中国には発酵させた蒸しパンの「饅頭(マントウ)」があります。
1400年以上前に書かれた「斉民要術」には「食経の餅酵(しらかす)を作る法」という記述があり、これはパン種の作り方の手順を記したもので、「餅酵」とは酵母を意味しているのです。

            ○

このように人間は紀元前の古代エジプトの時代から発酵パンを作ってきており、その種類も豊富です。
しかしそれらのパンは勘や経験でつくられたもので、何がパンを膨らませているのか、どうしてパンから良い香りがするのかについてはパンをつくっていた人達にもその理由は分からず、17世紀になるまではその手掛かりすら発見されることはありませんでした。

            ○

1680年になって、オランダ人医師のレーヴェン・フックが自分で作った顕微鏡でイースト菌(酵母菌)を見ることに初めて成功しています。
しかしこの顕微鏡で見える微小な生き物が何なのかはフックにも分からず、微生物が生まれる仕組みなどについてはフックの発見から約200年も後にならなければ解明されませんでした。

            ○

1825年にドイツで人工的にイーストを作ることが試みられています。
これは現在の生イーストの元祖とも考えられる「圧搾酵母」とよばれるもので、溶液でイースト菌を培養した後に、その溶液に圧力をかけて液を絞り出し、残ったものを固形化してつくられました。

            ○

1861年になって、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)が微生物は自然に湧くのではなく親にあたる微生物から生まれるという説を唱えました。
また、パスツールは乳酸発酵や酪酸発酵、酢酸発酵、アルコール発酵についての実験を行い、発酵がすすむにつれ微生物は増えるという事実を示し、微生物が増殖する過程で発酵が起こされるのだということを発表しています。

            ○

パスツールによって発酵と微生物の関係が解明された後、パン酵母の研究開発は加速度的に進められました。
1880年代にはイースト生産の研究がヨーロッパの各国で行われています。
第二次大戦のころになりアメリカで軍用のドライイーストが開発され、大量のパンを安定的に供給することを可能にするイースト菌の生産がようやく実現されています。

            ○

生イーストやドライイーストが創られる以前にパン作りに使われていたのはサワー種というパン種でした。
これは粉と水を練ったもので空気中に存在する自然の菌を増殖させたものです。
イースト菌は短時間で確実に生地を発酵をさせることができ、取扱が簡単で酸味がないという点でこの自然の菌を増殖してつくるサワー種より優れていました。

            ○

「イースト」の語源はギリシャ語の「沸騰する」という言葉に由来しています。
パンを意味する英語の「ブレッド」やドイツ語の「ブロート」などの言葉も、もともとは「ぶくぶく泡だつ」という意味をもつ言葉が語源になっています。

            ○

発酵パンの中には細かい気泡があってふっくらと柔らかく膨らみ、良い香りも含んでいます。
これらはイースト菌の作用によって起こる発酵が進む過程でつくられるものです。

小麦粉は、ベトベトと粘る性質のグリアジンという成分とゴムのように伸びる性質を持つグルテニンという成分を含んでいます。
グリアジンとグルテニンを混ぜ合わせたものに水を加えて強く捏ねると弾力をもつグルテンになります。
グルテンを含むパン生地にイースト菌(酵母菌)を加えると、イースト菌の働きで発酵が始まります。
言い換えると、イースト菌が小麦粉に含まれる糖を分解することで炭酸ガスとアルコールが生じるのです。
弾力と粘りがあるグルテンは炭酸ガスによってチューイングガムのように膨らみ、これによってパン内部にはいくつもの気泡が作られます。
炭酸ガスが生じるときに一緒につくられるアルコールはパンの香りの素となります。
パンを作るときには塩や砂糖が加えられますが、これらは発酵を促すと同時にグルテンの弾力を増して香りや味を加える役割を果たし、保存性を高める働きもしています。

            ○

古代エジプト時代には労働者に支払う給料がパンで支払われたといいます。
ローマ帝国時代にも「パンとサーカス」という言葉があったように、市民を統制する道具としてパンが使われていた面があったようです。
もし、これらの時代に生イーストやドライイーストがあって誰でも簡単に手軽にパンを作ることができたのなら、為政者達はパンを使って庶民をコントロールすることはできなかったかもしれませんね。

<参考書籍>
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
舟田詠子(1998)『パンの文化史』朝日新聞社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
張競(1997)『中華料理の文化史
小泉武夫(2003)『くさいはうまい

<パン関連>

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NHKきょうの料理 パン大好き! NHKきょうの料理 パン大好き!
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2006/09/13

椎茸栽培とビタミンD

しいたけは干したものはもちろんのこと生しいたけも一年中流通していますが、秋ならば9〜11月が旬だとされています(春ならば3〜5月)。
カサが開ききらずに巻き込んでいて、カサの内側の白い部分が黄ばんだりせずに真っ白いものが新しい生しいたけです。
また、軸の部分は太く短く、カサの部分は肉厚のものが良いものです。

しいたけの栽培方法には菌を木に植え付ける「原木栽培」と、おがくずに糠(ぬか)などの栄養を混ぜたものに菌を植え付ける「菌床栽培」という作り方がありますが、原木栽培で作られたしいたけの方が味は良いといわれています。
原木栽培のしいたけが店頭に並ぶことは滅多にないかもしれませんが、原木栽培されたものであれば包装パックにそれを示すシールが貼られているはずです。

干ししいたけでは、肉薄のカサを広げた形の香信(こうしん)よりも、カサが肉厚で丸まった形の冬茹(どんこ)の方が栄養を多く含み、味も良いとされています。

            ○

「椎茸(しいたけ)」の名の由来は、椎(しい)の木になる茸(きのこ)というしいたけの生態が語源となっています。
しかし、しいたけは椎の木だけでなくブナ科広葉樹のナラやカシ、クリなどの枯れ木でも繁殖します。

            ○

しいたけは東アジアや南太平洋に分布しており、日本では古代の昔から山林に自生していたため日本人のしいたけ食の歴史もかなり昔に始まっています。

しかし、しいたけの人工栽培は日本よりも先に中国で行われたことが記録から分かっています。
12世紀の中国の文献に、皮の付いた木材に斧で傷をつけると茸が生えてくるという記述があり、これがしいたけだと考えられています。
14世紀の『農書』という書物には、しいたけが「香葷(こうじん)」の名で登場しており、やはり材木に切れ目を入れて栽培する方法が記されています。

            ○

日本でしいたけの人工栽培が開発されたのは江戸時代になってからのことです。
現在の国内最大のしいたけ産地は大分県ですが、江戸時代には伊豆の天城山でしいたけ栽培が積極的に行われていました。
江戸時代に参勤交代の途中で三島に宿をとった豊後竹田藩主がしいたけを食べて大いに気に入り、伊豆のしいたけ栽培職人を領国である今の大分県にあたる豊後(ぶんご)に連れ帰ったとされており、ここから大分県のしいたけ人工栽培の歴史が始まったといわれています。

            ○

ヨーロッパに初めて持ち込まれた椎茸は日本産のものでした。
明治8年に日本にやって来た英国探検船のチャレンジャー号が日本で手に入れた椎茸をヨーロッパで初めて紹介しました。
その後、椎茸の学名は「レンティヌス・エドデス」と定められましたが、「エドデス」の「エド」は日本の「江戸」に由来しています。

            ○

昭和になってから、椎茸になる木材腐朽菌(もくざいふきゅうきん)を木片で純粋培養し、この木片を繁殖させる木に打ち込む栽培方法が開発されました。
それ以前は、木材に付けた傷に椎茸の菌が入り込んでくれるのを待つしかありませんでしたが、菌を繁殖させた木片を使う方法により、木に植え付けた菌が無事に繁殖する確率が高められました。

            ○

第二次大戦以前に国内で生産されていた椎茸の殆どは干し椎茸に加工され、その内の約80%は中国へ輸出されていました。
その当時は生椎茸が現在のようには一般市場に流通しておらず、生椎茸は一種の贅沢品とされていたのです。

1950年代になると一般家庭にガスや電気が普及し、逆に炭の需要が減少しました。
このため木炭の材料になる木材が余ってしまい、こうした木材が椎茸の人工栽培で菌を植え付ける「ほだ木」に使われたことで、生椎茸生産量が増加したということがありました。
その後の栽培技術や輸送方法の改善により、1980年代には生産額で見た場合に生椎茸が干し椎茸を上回り、1990年代になると生椎茸の生産額は干し椎茸の約2倍近くにまで増加しました。

            ○

しかし干ししいたけには干ししいたけの良さがあります。
干ししいたけは水分含有量が少なくなる分、栄養やアミノ酸やグアニル酸などのうま味成分が濃縮されています。
また、しいたけはもともと骨をつくる働きをするビタミンDを多く含みますが、日光にあたるとしいたけが含むプロビタミンDもビタミンDに変化します。

            ○

昔の干ししいたけは10日以上天日で干されていましたが、現在は機械を使って一日で水分がとばされています。
機械で乾燥させた干ししいたけはビタミンD含有量が天日干しのものに比べて極端に少ないことが分かっています。
機械乾燥の干ししいたけを買っても、家で天日干しすることで栄養価を高めることは可能です。
生しいたけでもカサの裏を上にして天日に1時間も干すと旨味が増しますし、2〜3日も天日干しするとしいたけが含むビタミンDの量は増加するのです。

            ○

しいたけが含むビタミンDは脂溶性で熱に弱いので、しいたけの炒め料理をつくるときはサッと熱を通す程度に留めないと栄養が流れ出てしまいます。

また、しいたけに水が付くとしいたけの味や香りは落ち、保存性も低下してしまうので注意が必要です。
水で洗うなどはもってのほかで、汚れは拭き取ることで落とします。

            ○

中国でしいたけは不老長寿の薬として扱われたことすらあり、昔からしいたけには強壮作用があると言われてきました。
現在でもしいたけが持つとされる抗がん作用、コレステロール抑制作用、抗ウイルス作用などについての研究が進められています。
季節の変わり目で体調が崩れやすくなる時期ですが、これからおいしくなるしいたけは健康維持に貢献してくれる食材です。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<きのこ関連>

きのこちゃん きのこちゃん

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きの小らいと レッド きの小らいと レッド

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2006/09/12

里芋と人里

里芋には糖質とタンパク質が結びついた糖タンパク質の一種であるムチンや食物繊維のガラクタンが含まれており、これらが里芋の粘りのもとになっています。
里芋の皮をむいてすぐに煮ると吹きこぼれてしまうのは、煮汁の中でこれらの粘りのもとになる物質が出てきて泡立つためです。

里芋を煮るときは、吹きこぼれを防ぐために2〜3分ほど下茹でをしてから水で洗って里芋表面の粘りを出す物質を取り除く準備が必要になります。
里芋の粘りの素になる物質は塩に溶ける性質があるので、煮る前に里芋を塩でもむか、下茹でする時に塩を入れることで里芋の粘りを抑えることもできます。

            ○

下ゆでなど余計に一手間が必要になるせいなのか、里芋のネバネバに含まれる強いアクが皮膚などに付くと痒くなったりするせいなのか、最近の里芋はジャガイモなど他の芋に人気を奪われてしまっています。
しかし、日本人の里芋食の歴史は非常に長く、稲作が盛んに行われる以前の縄文時代でも里芋の栽培は行われていたと考えられているほどです。

            ○

里芋は熱帯地方で栽培され始めたタロイモの一種で(関連:「タロイモ・ヤムイモが渡った南の海」)、タロイモの仲間の中では最も北緯が高い場所で栽培されています。

古代の日本人が最初に集落をつくって生活を始めた土地は日照条件が良く、水辺が近くにあるような場所だったはずだと考えられています。
そのような土地はタロイモが好む土地でもありました。
そのためタロイモは自然と人が住む「里」近くで作られるようになったと考えられており、山にできる芋の山芋に対して里で作られる芋なので里芋と呼ばれるようになったのが名前の由来であろうといわれています。(関連:「山芋のとろろと山薬」)

             ○

ところで、京都の伝統野菜に「えびいも」という芋があります。
えびいもは里芋と別種の芋というわけではなく、「唐芋(とうのいも)」という種類の里芋を特別な方法で栽培することで、エビのような縞柄の皮とエビのような反り返った形状がつくられる里芋の一種です。

1700年代後半に京都祇園の「いもぼう平野家」の初代当主の平野権太夫が、長崎から京都に運ばれた唐芋を引き受け、これを丁寧に栽培したところ海老のような芋ができたことからえびいもの名が付けられたといわれています。
えびいもを栽培するには4月頃に種芋が植えられ、5月からは「土寄せ」と呼ばれる作業が行われます。
「土寄せ」は毎月少しづつ土を載せていく作業で、8月までには40センチ程度の土が入れられます。
徐々に加えられる土の重さで芋がエビのように反り返り、皮には縞模様ができるのだそうです。
もともとは京都の南部で栽培されていましたが最近は北部でも栽培されています。

えびいもは通常の里芋よりも粘りが強く煮込んでも形が崩れません。
えびいもを使った料理に、棒ダラの甘辛煮と一緒に煮る「芋棒」という京都料理があります。

            ○

2006年9月3日付けの『Yomiuri Online』に、山形市の馬見ヶ崎川河川敷で、3トンの里芋と6トンの水、1.2トンの牛肉を材料として、2台のショベルカーと100人のスタッフを動員して、3万食の芋煮汁を作る芋煮会が催されたという記事がありました。

このような大規模なものは特別ですが、秋になると東北地方では里芋を使った芋煮会があちらこちらで行われます。
里芋が穫れる時期が米の収穫時期と重なることから、東北の芋煮会には収穫祭の意味あいもあるようです。
それに加えて、稲の品種改良が行われる以前は米を安定的に収穫することは難しく、米が足りなくなったときに東北地方の食を里芋が支えたという歴史があることから、東北の人達にとっての芋煮会は食糧確保がままならなかった昔を偲ぶという面もあるといいます。

群馬県で里芋は「陰の俵」とよばれ、九州では「食芋(けいも)」と呼ばれたりもしており、これら里芋の別名は里芋が準主食扱いされていた時代の名残だと考えられています。

            ○

以前は八月の十五夜には枝豆と里芋を食べ、九月の十三夜には皮付きの里芋と栗を食べる習慣があり、今でも地方によっては十五夜に里芋が茹でられたりするようです。
正月には雑煮の中に里芋を入れるという習慣が多くの地域で見られ、正月三箇日は餅の代わりに里芋を食べるという地方すらあります。
このように日本の祭事に使われてきたことからも分かるように、里芋は日本人にとって特別な食べものとして扱われてきたのです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか 麺. イモ, 茶 』日本放送出版協会
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会

<芋煮会関連>

YAMAZEN パワーダッチオーブン12 PWD-12 YAMAZEN パワーダッチオーブン12 PWD-12

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アウトドアクッキング大事典—焚き火・鉄板・網焼き・ダッチオーブン・鍋で豪快に作る アウトドアクッキング大事典—焚き火・鉄板・網焼き・ダッチオーブン・鍋で豪快に作る
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ダッチオーブン・パーフェクト・ブック—これさえあればなんでもできる ダッチオーブン・パーフェクト・ブック—これさえあればなんでもできる
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2006/09/11

ザウアークラウトの作り方

千切りキャベツを塩漬けにして発酵させることで作るザウアークラウトは乳酸菌の働きにより酸味と独特の風味を持ちますが、酢は使われていないのでキャベツの酢漬けではありません。(関連:「酢漬けいろいろ」)

「酸っぱいキャベツ」という意味のドイツ語である「ザウアークラウト」という名が広まっているせいか、キャベツの塩漬けといえばドイツを連想する方も多いかもしれません。
確かにドイツでのキャベツの消費量はヨーロッパの他の国と比べても多く、ヨーロッパでドイツ人は「キャベツ野郎」のあだ名で呼ばれることもあるくらいですから、ドイツ人とザウアークラウトとの関係も深いものがあります。

しかしザウアークラウトはドイツだけの食べものではなく、オランダやルーマニア、ポーランド、ロシアなどヨーロッパの中部や北部を中心に昔から食べられてきた漬け物なのです。

            ○

紀元前のヨーロッパで既にザウアークラウトは作られていたという説すらあるようですが、アジアで作られていたものが中世の頃にヨーロッパに伝わったという説が広く受け入れられているようです。
6世紀頃の中国の文献に、キヤベツを米の粥やカラシナ、ウリ、梨などと一緒に瓶の中に入れて、塩や塩水で漬け込んで作る食品についての記述があり、この漬け物は万里の長城建設に従事した労働者に給与の一部として与えられたといいます。
このような漬け物が中央アジアを通じてヨーロッパに伝わってザウアークラウトになったのではないかと考えられています。

            ○

中世以前のヨーロッパでは、キャベツは貧困層が食べる野菜と見なされ、ザウアークラウトも主に地方の貧しい農村などで作られていました。

ドイツの文献にザウアークラウトが初めて登場するのは、1543年に行われた女王の結婚式の記録です。
祝いの宴会でザウアークラウトがレバーの煮物に添えられて来賓に振る舞われたと記されており、これがドイツでのザウアークラウトに関する最古の記録になっています。
女王の結婚式で出されたくらいなので、この頃にはザウアークラウトの「格」も上がっていたということなのでしょう。

            ○

ザウアークラウトの材料には堅い種類の白キャベツなどが使われます。
ザウアークラウトの作り方は国によって多少異なります。
基本的な作り方では、収穫したキャベツを一週間くらい積み重ねて放置するところから始まります。
キャベツを放置するのはキャベツに含まれる水分を減じ、熟成を促すためです。
しばらく放置したキャベツの外側の葉と芯を取り除いた後に、水で洗ってから千切りにして塩をまぶして漬け込みます。
このときに使う塩の量はキャベツの重さの2〜3%程度だそうです。

キャベツを漬け込むときはできるだけ空気が入らないようにギッチリと容器に詰めます。
乳酸菌は塩に強い反面、空気に弱く、逆に人間にとって有害なカビの多くは空気を必要としますが塩には弱いため、キャベツとキャベツの間には塩をよくすり込み空気を抜く必要があるのです。

容器にキャベツを漬け込み、上から蓋をして重しを載せると、翌日からは漬けたキャベツの上に汁が染み出てきます。
この汁を取り除きつつ発酵の完了を待ちます。
気温が高いほど発酵が早く進み、30℃くらいだと1週間で漬け上がりますが、20℃くらいの気温だと3週間程度掛かります。
長く漬けるほど酸味が強くなり、出来上がりはザウアークラウトの酸味の量で決められます。

            ○

現在のザウアークラウト製造にはステンレス製のタンクが使われていますが、昔はワインづくりに使われた古い樽などにキャベツが漬け込まれていました。
樽に漬け込んだ時代以前のポーランドでは地面を掘った溝の内側に板を打ちつけ、そこにキャベツを漬けたといいます。
その溝の中に丸ごとのキャベツとバラしたキャベツの葉を交互に重ね入れ、一番上には千切りキャベツが載せられました。
地方によってはキャベツを漬ける前に湯に通したり、オーブンなどで軽く加熱したり、リンゴや桜の葉、ディルなどをキャベツと一緒に漬け込むこともありました。
キャベツを特製の溝に漬け込んだ後は、その上を棒で叩いたり足で踏みつけたりして中から汁を出し、やはりこの汁を取り除いて更に漬け込みました。

溝を使った時代の後、ポーランドでも樽が使われるようになります。
樽に漬けたキャベツの上には布をかぶせ、その上から蓋をして重しを載せます。
樽の上層部は空気に触れ易いためカビが発生しやすく、カビが繁殖したらそれを取り除き、布と樽の蓋を洗います。
ザウアークラウトを長期保存する場合は、2週間ほど暖かい場所で発酵させてから、地下や倉庫などに樽を移動させていました。

オランダではキャベツを桶に漬け、発酵期間中はこの桶を部屋の中に置いておき、その後温度の低い場所に移していたそうです。

            ○

ブルガリアのザウアークラウトの作り方は、キャベツを丸ごと塩漬けにしてしまいます。
これにホースラディッシュやとうもろこしなどを加え、漬け容器に水を入れます。
毎日2週間、容器の底から水を抜いては新しい水を上から注ぐ作業を続け、その後温度の低い場所に漬け容器を移し、1ヶ月掛けて発酵させました。

            ○

ドイツやオランダからアメリカに移り住んだ人達が移住先でザウアークラウトを伝えたため、現在のアメリカでもザウアークラウトはよく食べられています。
アメリカでローカライズされたザウアークラウトには砂糖が加えらることもあります。

            ○

ザウアークラウトを食べるときは茹でたり炒めたりして加熱してから食べるのが一般的ですが、ヨーロッパなどで便秘の薬として食べる時は、ザウアークラウトが含む乳酸菌の働きを高めるために生で食べたりもするようです。
ザウアークラウトはビタミンCも多く含むため、風邪薬の代わりに煮込んだザウアークラウトが食べられたりもします。
ザウアークラウトを漬けたときに出る汁は、これに豚肉やラード、小麦粉などが加えられスープにして食べられたりもしました。

            ○

1950年代ころまではヨーロッパでは自家製のザウアークラウトが食べられていましたが、現在は家庭でザウアークラウトをつくる家は少なくなり、一般的には市販のものを買うことが多いようです。

<参考書籍>
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋
南直人(2003)『世界の食文化 (18) ドイツ』農山漁村文化協会

<漬け物関連>

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2006/09/08

マグロの血合は伊達じゃない

日本近海に生息するマグロは5〜7月頃にフィリピン沖や沖縄の八重山列島沖で卵を産みます。
意外にもあの巨大な魚から生まれる卵は直径が約1ミリです。
卵から孵って2ヶ月もすると10センチ程度の大きさに成長し、1年後の体長は50センチ程度になり体重は3キロにまで増えます。

            ○

日本近海のマグロは3月頃に沖縄近くの海から北上を始め、Map_bonito その後九州の南まで来ると、太平洋の黒潮にのって北へ向かうグループと日本海側の対馬海流にのって移動するグループに分かれます。 太平洋側のグループは春から夏にかけて高知や紀州、房総沖近辺を泳ぎ、日本海側グループは同じ時期に富山や佐渡沖辺りを北上しています。 冬になると太平洋側グループも日本海側グループも本州と北海道の間の津軽海峡に達します。

            ○

津軽海峡に面する青森県大間近くの海底には溝があり、この溝をマグロの大群が通り道にしていることから大間ではマグロ漁が盛んに行われています。
70〜80年代には大間にマグロがやって来なくなり、大間でのマグロの水揚げは一時的に殆ど無くなったこともありましたが、90年代以降、マグロは大間近くを再び回遊するようになりました。
この近辺で獲れるマグロの肉は良質でマグロ本来の味が楽しめるとして、近海物のクロマグロといえば大間と言われるくらいに特別扱いされています。

            ○

以前は北海道の余市や礼文でもマグロが水揚げされましたが、現在は獲れなくなってしまったようです。
1980年代に造られた青函トンネルや、1993年に起きたマグニチュード7.8の北海道南西沖地震が、北海道にまで回遊していたマグロのコースに影響を与えたためにマグロが北海道に来なくなったのではないかと噂されましたが、本当の原因は分かっていません。

            ○

日本の南の海で生まれたマグロは、2〜3年間は太平洋ルートか日本海ルートを南北に回遊しますが、その後太平洋を東に渡り、アメリカのカルフォルニア沖に移動します。
3〜4年の間カルフォルニア沖にいて成魚になると、マグロはまた日本の近海に戻ってきて回遊します。
そのように回遊を続けるマグロの寿命は短いもので5〜6年、長いもので15年程度といわれています。

            ○

マグロは通常時速60キロ程度で泳いでおり、最速で時速160キロまでスピードを出します。
しかもマグロは昼夜に関係なく泳ぎ続け、眠っている間はスピードを落としますが眠りながらも泳ぐことを止めません。
これはマグロが推進することでエラに海水を送り込み、海水中の酸素を体内に吸収し続けなければならないからです。
エラ近くには薄い膜をもつ動脈があり、この薄膜を通じて海水中の酸素を体内に取り入れます。
マグロが高速で泳いでいる最中に網にかかったりすると、吸収する酸素が減り、血中の酸素量が急激に低下するため直ぐに死んでしまいます。

            ○

この酸素を取り込む仕組みとも関係していますが、マグロの体温は高く保たれ、海域によってはマグロの体温の方が海水温よりも数十℃も高くなる場合すらあります。Bonito_blad
マグロは時速60キロ以上の高速で長距離を泳ぐため、酸素吸収を行う動脈から海水によって熱が奪われ、動脈中の血液の温度は下がります。
この動脈は体の側面の皮の下を静脈と平行するように走っています。
これら動脈と静脈からは毛細血管が体の中心に向かって網目状に伸びており、海水で冷やされた低温の血が流れる動脈の毛細血管と、体から発せられる熱で温められた血が流れる静脈の毛細血管が絡み合うように並んでいることから、動脈と静脈の間で熱交換が行われ、マグロの体内温度は一定に保たれるようになっているのです。
背中側の肉と腹側の肉の間にあるこれら毛細血管の集まりがマグロの血合とよばれる部分です。

マグロの筋肉の温度が10℃上昇すると、その筋肉が生み出すパワーは3倍になることが分かっています。
この静脈と動脈の間で行われる熱交換の仕組みにより体の中心部の温度が高く保たれ、マグロの筋肉は広大な太平洋を泳ぎきるためのパワーを生み出すことができるのです。

            ○

マグロが延縄の針などに掛かって逃げようとして長時間暴れ回ったりすると、体温は上昇するのにエラに入る海水が冷却の役目を果たさなくなるため、体内に溜った熱によって身が焼けてしまい、肉がバサバサになって味が落ちるといわれています。
特にキハダマグロの暴れ方は激しいそうです。
また、暴れることで筋肉中の乳酸が増えて味が落ちるとも言われており、延縄で獲れたマグロを使いたがらない料理人もいるといいます。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
上田武司(2003) 『魚河岸マグロ経済学』集英社
岩井保 (2002)『魚河岸マグロ経済学』岩波書店

<マグロ関連>

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2006/09/07

ビビンバが具沢山なわけ

「ナムル」といえば韓国の野菜の和え物料理ですが、ナムルという言葉には食べることができる野菜や山菜、野草の総称としての意味もあります。
ナムルは漢字で「熱菜」と書き、この漢字が表す通り、ナムルにつかう野菜類は茹でたり炒めたり加熱してから和えられるのが普通です。 

            ○

家庭でよく使われるナムルの材料にはわらびやぜんまいなどの山菜があります。
トラジという桔梗の根を使うこともあり、生のものだけでなく茹でてから乾燥させたものも使われます。
「トラジ」を検索して調べてみたところ、トラジのキムチ漬けが販売されており、価格は250gで1000円程度でした。

青物としてはほうれん草や春菊などが使われ、これらは茹でてから醤油やとうがらしで和えます。

ナムルで必ずと言っても良いくらい使われるものに緑豆や大豆のもやしがあります。
韓国でもやしは昔から食べられており、13世紀ころの文献に乾燥させたもやしを薬として用いていたことが記録されています。
現在の韓国でも、二日酔いのときにもやしスープを飲むと二日酔いの治りが早いといわれているようです。
1980年代に、このもやしの効能についての研究がソウル大学で行われ、もやしの茎には二日酔いに効く成分が実際に含まれていることが確認され、この成分を利用した薬が既に製品化されているといいます。

            ○

ナムルを食べるときは、ねぎやにんにく、すりごまなどの薬味を多く使い、ごま油も加えられます。
皿に盛るときは三種類くらいを一緒に盛るのが一般的です。
一つはわらびやしいたけなどの茶色いもの、一つはほうれん草や春菊などの葉もの、そしてもう一つが白いもので、もやしやトラジ、だいこんなどが盛りつけられます。

            ○

ナムルをご飯に載せると日本でいうところの「ビビンバ」になります。
本来は「ピビンパ」や「ピビ」の方が韓国語に近いようです。
韓国でビビンバを別名「骨董飯(コルトウバン)」ともいいます。
「ピビ」とは「混ぜた」という意味で、「パ」とは「ご飯」を意味します。
つまり韓国語の「ピビ」とは混ぜご飯のことなのですが、この料理にはもっと深い意味も込められています。

            ○

ビビンバには野菜以外の炒めた牛肉や錦糸卵などの具材ものせられます。Kor_bibin これはビビンバを豪華においしくする意味ももちろんありますが、中国の「陰陽五行説」がビビンバに取り入れられたことにも因るのです。

「陰陽説」とは、陰と陽の二つの気が織り成すことで宇宙の万物は生まれるという考えで、「五行説」とは木、火、土、金、水の五元素の盛衰によって万物の状態も変化していくという考え方です。
これら二つの概念が合わさったものが古代中国の宇宙観である「陰陽五行説」という思想です。

この陰陽五行説は古くから朝鮮半島にも伝わっており、ビビンバにもこの陰陽五行説が五味五色で表されています。
五味とは甘、辛、酸、苦、鹹(塩辛い)で、五色は青、赤、黄、白、黒を指します。
各色に対応した代表的食材は以下の通りです。

黒:ゼンマイ、しいたけ、海苔、黒ごまなど。
白:もやし、トラジ、大根、くるみ、松の実、栗など。
赤:にんじん、味付け牛肉、ユッケ、ナツメなど。
青:ほうれん草、わかめ、きゅうり、銀杏など。
黄:かぼちゃや錦糸卵など。

            ○

韓国ではご飯の上に載せられたこれらの具材とその下のご飯をよくかき混ぜて食べます。
スプーンでかき混ぜるのも本来の食べ方ではありません。
大きな鉢に50〜60人分のご飯をほぐし入れ、ここにごま油と塩を入れてからナムルを散らし、これらを手でよくほぐし混ぜてから一人づつ器にもってスープと一緒に食膳に出すのが伝統的な食べ方のようです。

            ○

ビビンバの始まりについてはいくつかの説があります。
一説には、祖先を奉るお祭りのあとに参拝者に振る舞う料理としてビビンバは作り始められたといわれています。
儒教では先祖供養は大切な行事ですから、法事でふるまう料理もおろそかにできません。
とはいっても、家から離れたところでとり行われる行事にたくさんの食器や料理を持って行くのは大変なため、一つの器に様々なものを混ぜ入れたものを持って行って食べたのだといわれています。
祭祀(さいし)が行われる場所に食事を持って行くのは、神に近い場所で神と共に食事をする意味も含まれています。

            ○

新年に古い食材を持ち越さないために、残ったものをご飯に混ぜて食べてしまったことからビビンバは始まったという説もあります。
日本の大晦日には多くの家庭でそばが食べられますが、韓国ではビビンバが食べられます。
大晦日に台所の残り物をビビンバにして全て食べてしまい、正月の朝には肉のスープに餅をいれた雑煮を食べたりするのです。

            ○

農作業が共同で行われていた昔には、ビビンバはパガジとよばれる瓢箪でできた器に盛られ、作業の合間に食べられていました。
秋の稲刈りの時期には、作業をしている田の横を通る稲刈りとは関係のない人達にもビビンバが振る舞われたそうです。

            ○

ところで、石焼ビビンバはごく最近できたものです。
器に使われる石材は朝鮮半島でとれるもので、昔からチゲ鍋などに使われてきた食器です。
この石焼ビビンバを考案した店の経営者が日本のバラエティー番組に出演していたことがあります。
確かこの店主は石焼ビビンバのお陰で一時的には商売を繁盛させたらしいのですが、特許を申請しなかったために他店に真似をされてしまい、石焼ビビンバで大金持ちになるチャンスをのがしてしまったのだと嘆いていました。
その後この店主は日本語で「石焼ビビンバ」を商標登録したようで、テレビでもこの認可証を見せていた記憶があります。
同じビビンバでも陰陽五行説とはかけ離れた世知辛い話しではあります。

<参考書籍>
鄭大声(2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
黄慧性(2005)『韓国の食』平凡社
朝倉敏夫(2005)『世界の食文化〈1〉韓国』農山漁村文化協会

<韓国関連>

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2006/09/06

とうがらし世界一周

とうがらしの原産地についてはメキシコ説やボリビア中部地方説、アンデス地方説、西インド諸島説などがあり、まだ特定はされていません。

            ○

とうがらしの原産地候補の一つであるメキシコで発掘されたテワカン遺跡の紀元前7000年よりも古い地層から、アボガドの種子と一緒にトウガラシが1960年に発見されています。
このことから狩猟採取を行っていたであろう時代からメキシコではトウガラシを食用としていたことが確認されたのです。
この紀元前7000年よりも新しい層からはとうもろこしやかぼちゃなどに混じってとうがらしが見つかっており、とうがらしはとうもろこしやかぼちゃよりも以前に栽培が始められたと考えられています。

            ○

アメリカ大陸に住んだ人達以外で最初にとうがらしの存在を知ったのは、あのクリストファー・コロンブスです。
苦しい航海の末たどり着き、そこがアジアだと信じた西インド諸島で、島の住民が「aji(アジィ)」とよぶ香辛料をコロンブスは入手しています。
コロンブスはこの「aji」と呼ばれる香辛料を先住民が使う胡椒であると記録しましたが、この「aji」こそが当時のヨーロッパ人にとっては未知のとうがらしだったのです。
コロンブスはインドに到達したと信じて疑わず、その地では「ガンジス川の香りがした」と後に語っていたくらいなので、当時インドで生産されていた貴重で高価な胡椒を手に入れたのだと信じたかったのでしょう。

            ○

1493年3月にコロンブスはとうがらしと共にヨーロッパに帰還しており、このとうがらしがアメリカ大陸から外に出た最初のとうがらしだったとされています。
このコロンブスの航海以前には、東半球に住むアジア人やヨーロッパ人はとうがらしの存在を知らなかったのです。

しかし、コロンブスが持ち帰ったとうがらしが世界中に伝播したわけではありません。
とうがらしもそれを持ち帰ったコロンブスもヨーロッパではさほど注目されませんでした。

            ○

Map_pepper_3

とうがらしの伝播に貢献したのはポルトガルやスペインの商人達でした。

15世紀にブラジル東海岸の交易地ペルナンブコに入ったポルトガル商人がこの地で偶然にトウガラシを発見し、これを船に載せて西アフリカに輸送して交易に使いました。
これ以前に、西アフリカではメレグエタペパーまたはパラダイスグレインと呼ばれるショウガ科の香辛料が胡椒の代用品として使われていましたが、とうがらしが伝わった後はこのショウガ科の香辛料はあまり使われなくなってしまいます。

ポルトガルのガリオン船はトウガラシをインド西海岸中部のゴアにも輸送しています。
胡椒を使い慣れていたインドでとうがらしはすぐさま受け入れられ、1540年代にはとうがらし栽培がインドで急速に広まることになりました。

ポルトガル人は16世紀前半に中国にも唐辛子を伝えています。
四川や雲南などの地方ではもともと山椒を料理に多用していたため、トウガラシもすぐに受容されました。

インドに伝わったトウガラシはマラッカ海峡を経由してマカオなどに渡り、フィリピン諸島にまで伝播していきます。
スペイン人もメキシコからフィリピンへとうがらしを運んでいました。
その後、フィリピン諸島にいたイギリスやオランダの船がアフリカ人奴隷と一緒にトウガラシをアメリカ大陸に輸送しています。

コロンブスが初めてとうがらしを見てから約半世紀という当時としては短い時間でトウガラシは地球を一回りしたことになるのです。

            ○

16世紀にアジアやアフリカ、ヨーロッパにわたる広い地域を支配したオスマン帝国も、とうがらしをヨーロッパに広めるのに一役買いました。
トルコのイスタンブルに首都を置いたオスマン帝国は、インドを支配したときにとうがらしを手に入れ、ハンガリー侵攻時にはとうがらしも一緒にハンガリーに運び込んでいます。
このオスマン帝国軍が持ち込んだとうがらしが、後にハンガリーのパプリカとなったのです。
16〜17世紀にかけてオスマン帝国がヨーロッパ東南部を制圧した際にも、とうがらしはバルカン半島諸国に伝えられています。

            ○

ヨーロッパに伝わったとうがらしはアメリカ大陸から直接持ち込まれたものより、アジア経由で伝わったものが多く、16世紀前半のヨーロッパの記録に出てくるトウガラシは「インドペパー」や「カルカッタペパー」のような名前で呼ばれています。
このことから、とうがらしの原産地はアジアだと思い込んでいたヨーロッパ人が当時は多くいたことが伺えます。

しかし事実は、コロンブスのアメリカ大陸到達以前のヨーロッパやアジアにとうがらしは存在せず、現在一般に知られているような味の麻婆豆腐やトムヤムクン、ペペロンチーノ、唐辛子の入ったキムチ漬けやインドカリーすら1493年以前には作られていなかったのです。

<参考書籍>
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
前川健一(1988)『東南アジアの日常茶飯—食文化観察ノート』弘文堂

<とうがらし関連>

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2006/09/05

いわしの下賤は夢か

「鰯(いわし)」の語源は、すぐに傷んでしまう弱い魚を意味する「弱し」に由来するという説があります。
同じような意味でも、元々の呼び名は「いおよわし(魚弱し)」だったものがいわしに変化したという説もあるようです。

その他に、「いやし(賤し)」がいわしの語源になったという説があります。
平安時代のいわしは下層階級が食べる下品な魚として扱われていました。
『倭訓栞(わくんのしおり)』という書物に出てくる紫式部の句にもそれが表されています。

   日の本にはやらせ給う岩清水
     まいらぬ人はあらじとぞ思う

この句は、いわしを食べた紫式部が夫に文句を言われたことから、人気のあるいわしを食べぬ人はいないと反論するために詠んだ句だといわれています。

            ○

日本でいわしといえば一般的にはまいわしを指しますが、世界にいわしの仲間は300種類以上いるといわれています。
その中で日本人が口にするのは、まいわし、うるめいわし、にしん、さっぱ、このしろ、きびなご、ひら、片口いわしなどです。
分類学上、イワシ類はニシン類に含まれます。
ニシン類の中でも、まいわし、うるめいわし、にしん、さっぱ、このしろ、きびなご、ひらなどはニシン類ニシン科に含まれ、片口いわしはニシン類カタクチイワシ科に属します。
まいわしの名は片口いわしに似ていますが、分類学上はにしんに近い魚になるのです。

            ○

まいわしの体の側面には黒い斑点が線のように並んでいることから、地方によってはまいわしを「七つ星」と呼んだりもします。
まいわしの最も一般的な食べ方はやはり塩焼きでしょう。

            ○

うるめいわしの語源はこの魚の目が潤んで見えるためだといわれます。
うるめいわしは丸干しや目刺しなどの干物にされます。

            ○

このしろは大きさによって、しんこ、ぜにこ、こはだと呼び名が異なります。
しんこは寿司ネタとして珍重されています。

            ○

片口いわしは関東で「せぐろいわし」とか「しこいわし」などとも呼ばれます。
鮮度の良い片口いわしはまいわしよりもおいしいといわれますが、傷むのがとてもはやく、生のものが店頭に並ぶことはあまりありません。
日本では主に塩ゆでしてから干して乾燥させた煮干しになったり、しらす干しやこれを型に入れて乾燥させた干したたみいわしにされます。
また、稚魚を水で洗ってから干してつくる田作り(ごまめ)はおせち料理でお馴染みですし、アンチョビに加工されたものも目にします。

            ○

一般的に、しらす干しやちりめんじゃこといえばまいわしや片口いわしの稚魚を指しますが、本来は体が細長くて半透明の稚魚は全てしらすとよばれ、うなぎ、あゆ、いかなごの稚魚もしらすです。

まいわしや片口いわしの幼魚を白くなるまで塩水で5分程度ゆで上げ、これを乾燥させたものが関東では「しらす干し」(略してしらす)とよばれ、関西では「ちりめんじゃこ」(略してちりめん)とよばれます。
関東のしらす干しと関西のちりめんじゃこでは水分含有量が異なります。
簡単に区別してしまうと、水分を多く含むのがしらす干しでよく乾燥させたものがちりめんじゃこです。

            ○

まいわしの漁獲量は1985年頃を境に現在まで減少を続けています。
1985年前後の漁獲量は300万トン近くあったものが、2000年以降の漁獲量は30万トン以下になっています。
漁獲量が多かった時代は、獲られたいわしの97%が家畜や養殖のエサ、畑の肥料などに使われていましたが、今は人間の食べる分が水揚げされる全体量の20%程度になっています。

太平洋全域のまいわしの漁獲量は50〜70年くらいの周期で増減していることが確認されており、このいわしの漁獲量の増減は太平洋で起こる周期的な環境変化から影響を受けていると見られています。
その原因となる環境変化は特定されていませんが、アリューシャン低気圧の活動に起因する何かしらの変化が、1歳以下のいわしの稚魚の生存率を左右しているのではないかと推測されています。
詳しいことは水産庁のホームページの「資源評価」というサイトに入って、「広報活動」という項の「マイワシの謎」を参照してみて下さい。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社
主婦と生活社(2003)『おいしい言葉食べる言葉ものしり事典—食卓に一冊。うまさ倍増!話の調味料』主婦と生活社
セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社

<いわし関連>

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2006/09/04

ジャガイモがつくる世界史

1530年代前半のインカ帝国侵略時に、スペイン人はヨーロッパの人間としては初めてジャガイモを目にしました。(関連:「ジャガイモの原産地」)
インカ帝国の一般庶民が常食していた根にできたコブの名前をスペイン人が尋ねたところ、インカの人々はケチュア語で「パパタ」や「ポテト」などと答えたため、これが語源となって、英語でジャガイモを「ポテト(potato)」、スペイン語では「パタタス(patatas)」と呼ぶようになります。

ヨーロッパ人は初めて見たサツマイモとジャガイモを混同していたようで、いくつかの記録ではジャガイモにもサツマイモにも「ポテト」という単語が使われており、後にこれらの記録について研究した学者を混乱させることにもなりました。

            ○

1576年頃にジャガイモはスペイン本国に伝わりました。
1580年代に入るとヨーロッパでジャガイモは徐々に広まっていき、イタリアやイギリスにも持ち込まれています。
しかし当時のヨーロッパでジャガイモは食用にはされておらず、フランスのブルゴーニュ地方では法律によって食べることが禁じられたりもしています。

            ○

ジャガイモがヨーロッパで食用として直ぐに受け入れられなかったのには三つの理由がありました。Potatosm 第一に、当時のヨーロッパの人達の既成概念では植物は種から繁殖するものであり、根茎によって繁殖するジャガイモは気味悪がられたということがあります。第二に、ジャガイモの形はゴツゴツとして腫瘍を連想させることから、食べれば病気の原因になると考えられ、一部ではジャガイモに催淫効果すらあると信じられたりもしたことが理由に挙げられます。そして最後に、ジャガイモに限らず「新大陸」から伝わった新しい植物について、聖書には食べて良いとも悪いとも当然記述されておらず、ヨーロッパの多くの人はジャガイモを口にすることに抵抗感を覚えたのです。

            ○

しかし、ジャガイモは三ヶ月程度の短い期間に収穫でき、面積に対する収量が小麦などよりも多く、しかも地中で育つため強風や雹(ひょう)の影響を受けないなど栽培上の利点があり、時間が経つにつれヨーロッパの研究者はジャガイモの有用性を認め始めることになります。

しかし、ジャガイモが食べても安全なものだと判明した後も、ヨーロッパでのジャガイモは貧困層の食べものと見なされていました。
そんなジャガイモが食料としてヨーロッパで普及したのは18世紀に起きた大凶作が原因です。
ドイツでジャガイモが定着したのも1770年代の大飢饉後で、国は凶作対策としてジャガイモ栽培を促進させます。
現在のドイツの一地方であるプロセインなどでは全ての小作人がジャガイモを栽培するように命じられ、この命令に背いた者は耳と鼻を削ぐと脅されたりもしました。

            ○

18世紀にヨーロッパで盛んになった啓蒙主義運動の一環として農民向けの小冊子が多く作られ配られましたが、この小冊子もジャガイモ普及に貢献しました。
様々な分野にわたって色々な知識が書かれた小冊子にはジャガイモ栽培についての情報も記載され、この当時に残っていたジャガイモに対する偏見を払拭する役割を担いました。

            ○

1700年代後半に起きた七年戦争で、プロセイン軍に捕虜として捕われたフランス人のパルマンティエは牢獄でジャガイモを食べさせられ、ジャガイモがフランスでも非常食になり得ると確信し、フランスに帰国後そのことを論文にして発表し受賞しています。

パルマンティエはルイ16世にジャガイモを献上し、マリー・アントワネットにはジャガイモの花を送っています。
ジャガイモはナス科植物のため、花はなすの花に似ており、一時フランス社交界ではマリー・アントワネットがつけたジャガイモの花飾りが流行ったりもしました。

パルマンティエは一般庶民の間でジャガイモを普及させるために、パリ郊外にジャガイモ畑をつくり、昼の間は兵隊に警護させ、夜になると兵達をわざと引き上げさせました。
これが気になる近隣住民は夜中にジャガイモ畑に忍び込み、大切に育てられているジャガイモを持ち帰って栽培を始めたといいます。

後に、フランスのジャガイモ料理の一つにジャガイモ普及に努めたパルマンティエの名を取った「パルマンティエ・ポタージュ」という料理が作られています。

            ○

ヨーロッパで最もジャガイモ食が普及した国はアイルランドで、18世紀末までにはアイルランド人は食料の殆どをジャガイモに依存するようになります。
アンデス地方では、病気が発生してもジャガイモが全滅しないように様々な種類のジャガイモを栽培していましたが、当時のヨーロッパではサイズが大きく味にくせの少ない品種のみが栽培されました。
このため、19世紀にヨーロッパで作られていた種類のジャガイモに特有の病気が大発生したときには、その被害は甚大なものとなりました。
1845〜1849年には、アイルランドでもこの病気が蔓延してジャガイモが穫れなくなり、150万人が亡くなる大飢饉が起きています。
その結果、1850年代になって100万人のアイルランド人がもっとましな生活を求めて北米に移り住んだのです。

アメリカでのアイルランド系移民は、ジャガイモ栽培の農具の鋤(スペード)を意味する「スパッド」という蔑称で呼ばれ差別されたりもしましたが、1800年代の一時期にはアメリカの移民のうちアイルランド系は約50%を占め、現在のアメリカでも国民の15%はアイルランド系移民の祖先をもつといわれており、アイルランド系移民はアメリカの人口構成に影響を与える存在となったのです。

            ○

19世紀の大飢饉後、ヨーロッパの研究者はアンデスから病気に強いジャガイモを持ち帰り品種改良を重ねました。
そしてジャガイモはヨーロッパの生活に深く浸透して食文化に多大な影響を与えました。
しかしそれだけでなく、100万人以上の人間をヨーロッパから北米へ大移動させて世界史をも変えてしまったのがジャガイモという植物だったのです。

<参考書籍>
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
南直人(2003)『世界の食文化 (18) ドイツ』農山漁村文化協会
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房

<ジャガイモ関連>

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加藤 美由紀

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2006/09/01

海苔とリサイクル技術

海藻(かいそう)を刻んで板のように薄くのばして乾燥させたものを干し海苔といいます。
干し海苔を短時間加熱したものが焼き海苔で、干し海苔や焼き海苔の片面に塩や醤油、味醂などで味をつけて加熱したものが味付け海苔と呼ばれる加工品となるのです。

ノリをこのように加工して食べるのは日本と朝鮮半島のみだといわれれており、中国やハワイ、インドネシア、北ヨーロッパなどでもノリは食されますが、薄く延ばして乾燥させたノリを食べる習慣はありません。

            ○

「海苔(のり)」または「浅草海苔」と呼ばれている食品の材料によく使われる海藻の学名は「ポルフィラ・テネリ」です。
明治時代の海藻学の権威であった岡村金太郎博士が、日本で昔から使われていた「浅草海苔」という呼び名をポルフィラ・テネリの正式な和名としたため、浅草海苔の原料となる海藻の標準和名も「アサクサノリ」となっています。
日本の沿岸には20種類程のノリが存在しており、アサクサノリだけでなくスサビノリなども海苔に加工されています。

            ○

古代の日本では、ワカメや昆布のような大きい海藻を「裳(も)」や「布(め)」と呼び、小型のものを「のり」と呼んでいたと考えられています。
平安時代の書物に、海苔は「紫菜(むらさきのり)」や「神仙菜(あまのり)」(または「甘海苔」)という名で登場しており、その当時の海苔は上流階級の進物や精進料理に使われる高級品として扱われていました。

            ○

「浅草海苔」が登場する最初の文献は、1638年に京都で出版された俳諧の入門書『毛吹草(けぶきぐさ)』で、この中に「葛西苔、是ヲ浅草苔トモ云ウ」と記されており、江戸時代初期には京都にまで「浅草海苔」の名が知れ渡っていたことが伺えます。

徳川家康によって江戸の町が建設され始めた頃は浅草近くの隅田川でもノリが採れたことから浅草海苔の呼び名が付いたという説がありますが、そのようなことを示す確かな記録は残されていないようです。
江戸時代に江戸湾で採れたノリが浅草の市場に集められてから各地に送られていたために「浅草海苔」という名が生まれたという説や、浅草海苔が浅草で生産されたことからこの名が付けられたともいわれており定かなことは分かっていません。

            ○

1700年代前半頃には、沿岸近くの浅瀬などに「ヒビ」と呼ばれる木の枝を立て、海中を漂うノリの胞子を着生させることでノリを養殖する方法が確立されていました。

ヒビの語源については二つの説があります。
江戸時代中期に、江戸城に毎日魚を献上する「日々御菜肴(ひびごさいさかな)」を命じられていた漁師が、不漁で魚が獲れないときに備えて木の枝や竹で生簀(いけす)を作り魚を貯えていました。
その生簀にノリが付着したことからヒントを得てノリの養殖が始められ、日々御菜肴を仰せつかっていた漁師が使った棒なのでヒビと呼ばれるようになったというのが一つの説です。

もう一つの説は、浅瀬に竹を突き刺して囲いをつくり囲いに入った魚をとる「日々網(ひびあみ)」と呼ばれる漁をしていた漁師が、海に刺した竹に付着したノリを見て養殖を考えついたため、日々網に使われた竹棒だったのでヒビという名になったというものです。

海に立てた棒状のものにノリが付いたことを参考にノリの養殖が始まったとする部分は二つの説に共通しています。

            ○

養殖が始まって間もない頃はノリを手で広げて干しただけの厚めの海苔が食べられていましたが、江戸時代中期に薄い海苔を作る方法が考案されます。
江戸時代には家々から古紙が集められ、紙すき場で落とし紙(今でいうところのトイレットペーパー)用にリサイクルされており、浅草でも隅田川などの水を利用した古紙再生業が盛んでした。
1716〜1736年ころ、ある浅草の紙すき職人が再生紙技術を応用して、刻んだノリを水に混ぜて薄く伸ばして乾燥させたものをつくったことから薄い海苔づくりは始まったといわれています。

            ○

軽くてかさ張らず保存性が高い浅草海苔は江戸の町の需要を満たすためだけに生産されていたのではなく、江戸土産としても大変人気がありました。
浅草海苔のブランド力が増すにつれ、地方にも海苔は浸透していき、江戸時代後期になると、海苔作りは上総地方や仙台の松島、駿河の三保の浦、安芸の広島湾、浜名湖などに広まっていきました。

それでも江戸時代を通して海苔は贅沢品で、海苔が一般庶民に日常的に食べられるようになったのは、幕府の許可が必要だったノリ養殖が本格的に自由化された明治時代になってからのことです。

            ○

更に海苔生産業にとって画期的な出来事が戦後になってから起きました。
1949年にイギリスのマンチェスター大学教授のキャスリーン・メアリー・ドゥルー・ベーカー氏(Dr. Kathleen Mary Drew Baker)が、ノリの胞子は春になると貝殻の中に入り込み、その中で糸状体と呼ばれる状態で成長した後、秋になって再び胞子を放出して海の中を漂うことを発見したのです。

糸状体やノリの成長過程のもう少し詳しい説明は「全国海苔貝類漁業協同組合連合会」のホームページの「海苔の知識」などを参照して下さい。

ドリュー氏の海苔の糸状体の発見後、海の中を漂ってくるノリを待つのではなく、胞子から培養した糸状体を網に付着させてこれを海に沈める養殖方法が考案されたことから、海苔の生産量は増え、質の向上にもつながり、日本人にとって海苔は更に身近な食品になったのです。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社
旅の文化研究所(2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<海苔関連>

ユウキ食品 韓国風・味付塩焼海苔8切8枚 4袋 (3入り) ユウキ食品 韓国風・味付塩焼海苔8切8枚 4袋 (3入り)

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将太の寿司 名人の海苔編 将太の寿司 名人の海苔編
寺沢 大介

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