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2006/09/29

松茸が採れる山

初秋に雨の多い年は松茸のできが良いといいます。
今年の9月はわりと雨が多かったので香りの良い松茸が多く出回るのではないでしょうか。
やはり国産松茸の方が中国やカナダ、北朝鮮で採られたものよりも香りが良く、カサを開かずにずんぐりした形の松茸は胞子を放出する前の状態のものなので、特に味や香りが良いとされています。
多くの日本人が松茸の香りにこだわりますが、他の国では松茸の香りを松ヤニ臭いとして好まない人も少なくありません。
いつから日本人が松茸の香りを好むようになったのかは分かりませんが、かなり昔から日本人は松茸に魅せられてきたようです。

            ○

弥生時代中期のものである岡山市の百間川兼基(ひゃっけんがわかねもと)遺跡から、1984年に発見された土人形は松茸の形をしています。
文字の情報がないので、これが松茸の形を模して作られたものだとは言い切れませんが、松茸がカサを開く前の状態に似ており、カサの部分には目や鼻、口、眉が彫られています。
(いつまで見られるかは分かりませんが、こちらのサイトの一番下に写真がありました)

            ○

「茸」という字が最初に文献に出てくるのは『日本書紀』で、3世紀末から4世紀初め頃に茸が天皇へ献上されたことが記されています。
しかしこの「茸」が松茸だったかどうかは不明です。

            ○

7〜8世紀に編まれた『万葉集』には松茸の香りの良さを詠んだと思われる歌があります。

高松の この峰も狭(せ)に 笠立てて 
   盈(み)ち盛りたる 秋の香のよさ

この歌に「松茸」の字は出てきませんが、「笠立てて」が松茸のカサのことで、「秋の香」が松茸の香りのことを指しているといわれています。

            ○

松茸狩りがいつ始まったかについても定かにされていませんが、西暦905年頃に編集された『古今和歌集』に「たけがり」という言葉が出てきており、この「たけがり」が松茸狩りのことを指していると考えられています。

            ○

『翁草』という随筆には、豊臣秀吉の松茸狩りの様子が書き残されています。
その当時すでに太閤になっていた秀吉が松茸狩りに招待されたときに、奉行が他の山から松茸をかき集めて秀吉が入る山にあらかじめ松茸を植えておいたといいます。
手で植えたものなので松茸を抜くときに感触でそれと分かってしまい、秀吉に付き添っていた女中がそのことを秀吉に言ったところ、そんなことは最初から分かっていると秀吉は言ってこの女中を怒鳴りつけたそうです。
せっかく喜ばそうとしてくれているのだから素直にその好意を受ければ良いのであって、利口ぶって種明かしをする必要はないと秀吉は言いたかったようです。

前もって松茸を植えておいて招待した客に採らせるという接待は現在でも行われているそうです。
ただし、今はもう少し手が込んでいて、採るときの感覚でバレないように松茸の石突きの部分に石灰を練ったものをつけておき、まるで自生していた松茸を抜いたような感触を出す演出をするそうです。
もしも松茸山に招待された場合は、くれぐれも「この松茸は植えたものだ。 なぜなら根元に石灰のあとが・・・」などとは言わないことが肝心です。

            ○

鎌倉時代や室町時代に松茸は酒の肴にされたことがいくつかの文献に記されており、1476年に書かれた『言国卿記(ことくにきょうき)』には松茸を汁物にしてこれとご飯を食べた後に酒を飲んだことが書かれています。
しかし全般的に鎌倉や室町時代の文献には、松茸をどのように料理したかについて詳しく書いたものは多くありません。

江戸時代になると松茸料理についての文章は多く残されており、例えば、あの黄門様の水戸光国が松茸の吸い物や煮物、和え物、焼き松茸の松茸づくし料理を食べて三回もご飯をおかわりした記録なども残されています。

            ○

このように昔から日本人は秋になると貴重な松茸の香りに焦がれてきたわけですが、近年になって環境が変化したために、昔よりも国産松茸はいっそう入手しづらいものになっています。
昭和10年代の松茸生産量は約6,200トンありましたが、昭和40年代になると約900トンにまで落ち込みました。

この減少の理由は松茸が繁殖する赤松が減ってしまったことに因ります。
松茸と赤松は栄養や水分をやり取りする共生関係にあり、松茸は赤松がなければ繁殖できません。
戦中や戦後に赤松が伐採されたことも原因の一つですが、赤松が減った大きな理由には農村生活の変化があります。
電気やガスの普及により、山の樹木が燃料に使われなくなり、木々の伐採が行われずに山が放置されたことで繁殖力の強い広葉樹がその生息域を広げ、弱い赤松が生息できる範囲は狭めることになり、その結果松茸の数も減ってしまったのです。

その他にも大気汚染で赤松が枯れたなどの理由もありますが、山を管理する人間が減ったことが松茸減少の主な原因であり、これは人間と山との共生が成り立たなければ松茸と赤松も共生できないということです。
今のところ人工栽培ができない松茸は、人間が自然を利用しつつ自然のリズムに合わせることができたときに、山から人間に贈られる賞品のようなものといえるかもしれません。

<参考書籍>
有岡利幸(1997)『松茸』法政大学出版局
岡村稔久(2005)『まつたけの文化誌』山と渓谷社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房

<松茸関連>

松茸ハント―あなたにも松茸が採れる 松茸ハント―あなたにも松茸が採れる
藤井 豊一

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やっぱり猫が好き〜松茸編〜 やっぱり猫が好き〜松茸編〜
三谷幸喜 もたいまさこ 室井滋

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マツタケの丸かじり マツタケの丸かじり
東海林 さだお

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マツタケ—果樹園感覚で殖やす育てる マツタケ—果樹園感覚で殖やす育てる
伊藤 武 岩瀬 剛二

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2006/09/28

納豆と納豆菌

納豆の作り方の基本は、煮た大豆を40℃以上の温度のもとに置いて、枯草菌(こそうきん)の一種である納豆菌を煮大豆に植え付けて繁殖させることにあります。

            ○

昔はこの納豆菌を繁殖させるために稲の藁を利用していました。
稲藁一本には一千万個以上も納豆菌が付着しているためです。
もちろん、納豆が作られ始めた頃の日本人が納豆菌の存在や科学的な発酵のメカニズムを知っていたわけではありません。
最初に納豆ができたのも偶然からではないかと考えられており、それを示唆するような伝説もいくつか残されています。(関連:「納豆伝説」)

            ○

日本の糸ひき納豆に似た食品は朝鮮半島や東南アジアでもみられ、東南アジアにはラワンやバナナの葉で煮大豆を包んで発酵させる方法があります。
東アジアや東南アジアから納豆作りが日本に伝播した可能性もありますが、納豆は日本が独自に開発した食品だとする説も多く唱えられており、納豆の発祥地は定かになっていません。

            ○

奈良時代には、醤油や味噌作りのもとになる大豆麹を得るために煮大豆を稲藁の上に広げ、その上に更に藁をかぶせる方法がとられていました。
藁の中には麹菌も納豆菌もいるのですが、藁の中の温度が40℃以下のときは麹菌が繁殖し、40℃を越えると納豆菌が繁殖します。
温度計がない奈良時代には、藁の中の温度を知るには手で触った感じで測るしかありません。
藁と煮大豆で麹菌をつくるつもりが、失敗して藁の中の温度を上げすぎてしまったために納豆菌が繁殖してしまい、煮大豆が納豆菌によって発酵してしまったのが納豆の始まりだという説もあります。
大陸から納豆の作り方が伝わったのではなく、納豆は日本人によって創りだされたのだと、『食(く)あれば楽あり』などの著者で発酵の専門家である小泉武夫先生はいくつかの本の中で力説されています。

            ○

ところで、納豆を食べることが庶民の間に普及したのは江戸時代になってからのことです。
江戸時代に売られていた納豆は今でいう挽き割り納豆に似ていて、包丁で納豆を叩いた「叩き納豆」というものが売られていました
行商の納豆売りが叩き納豆を担いで江戸の町中を売り歩きました。
この江戸時代の納豆売りは秋から冬にかけてみられる季節のものでした。
暑い炎天下で納豆を売り歩いていると高温のために発酵が進みすぎてしまうため、夏に納豆を売り歩くことはできなかったのです。
昔の納豆売りがどのような売り声で納豆を売り歩いていたかは、こちらの落語の『石返し』やこちらの『孝行糖』などのまくらの部分を聞いてみて下さい(本編もおもしろいです)。

            ○

江戸で売られた納豆を作るときは、ざるに藁をしいてその上に煮大豆をのせ、その上にフタをするようにまた藁をのせて、これを地下に一晩置いて発酵させていました。
その作り方から「一夜納豆」とか「ざる納豆」という呼び名がつけられました。
江戸の町以外の関東や東北、京都、九州では煮大豆を藁苞で包んで発酵させるやり方が主流でした。

            ○

地方で自家用の納豆がつくられる場合には、発酵温度の40℃を保つために色々な方法が用いられていました。
こたつや湯たんぽを使って藁苞に包んだ煮豆を温めたり、茨城の一部では地面にあけた穴の中で火を焚き、温度を上げた穴の中に煮豆が入った藁苞を入れて穴に土をかぶせてフタをする方法がとられていました。
岩手県では雪の中に藁苞が埋められたり、いくつかの地方には堆肥の中に藁苞を埋める方法などもありました。

明治時代になると旧江戸の東京でも藁苞を用いた納豆つくりが一般的になります。
また、この頃から、販売される納豆には辛子がつけられるようになったといいます。

            ○

明治38(1905)年に、納豆が出すネバネバ粘る物質から納豆菌を取り出して培養することに東大の沢村誠博士が成功しています。
納豆菌は沸騰させた湯の中でも20分間は生き続けるため、稲の藁を20分弱煮出すと藁につく納豆菌以外の菌は死んでしまい、納豆菌だけを取り出すことができます。
藁を煮た液を細菌が繁殖できる環境に置くと、納豆菌だけを純粋培養できるのです。

            ○

納豆菌が培養できるようになった後、人工的に培養した納豆菌で納豆を作る技術が開発されました。
そして、藁苞でつくった納豆の商品としての販売は禁止されてしまいます。
藁で包んで納豆を作る方法では納豆菌だけでなく雑菌も繁殖する恐れがあるためです。

現在商品として販売されている納豆は、雑菌が混じらないように培養した納豆菌を煮大豆に吹き付ける方法で作られており、これが滅菌された容器に詰められて売られているのです。

藁で包まれている納豆が店頭に置かれていることもありますが、あれもやはり純粋培養した納豆菌を煮大豆に植え付けて作られた納豆であり、藁は高温で殺菌された容器として使われているだけで、煮豆を藁苞に包んで発酵させたものではありません。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
小泉武夫(2000)『納豆の快楽』講談社

<納豆関連>

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納豆レシピ93 納豆レシピ93
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ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女 ヘンな事ばかり考える男 ヘンな事は考えない女
東海林 さだお

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2006/09/27

鮭とアイヌ

日本の沿岸で獲られる秋鮭の漁獲数は全体で6,000万尾程度で、その内の80%程度が北海道で獲られています。
その北海道を含む北方地方の先住民であるアイヌの言葉で夏の食べものを意味する「サクイベ」が鮭の語源だという説があります。
他の説では、アイヌの言葉で乾物にした魚を意味する「サットカム」が鮭の語源になったとされています。

            ○

アイヌの言葉では「神の魚」を意味する「カムイチェ(カムイ=神、チェ=魚)」や、「本当の食べもの」という意味の「シペ」が鮭を指す言葉です。

アイヌ語で家屋は「チセ」といい、チセが5〜10戸集まった集落は「コタン」といいます。
アイヌは鮭が遡上する川の上流にコタンをつくり、鮭の産卵場所よりも上流にコタンができることはありませんでした。
アイヌの生活圏は鮭の産卵場所を中心に発展していったのです。

            ○

本州でも鮭を獲るときのしきたりや風習が各地方にあり、それらに従って鮭は獲られましたが、鮭漁に関するアイヌの儀礼は厳格なものでした。
それは鮭がアイヌの生活や信仰に密接に関係していたことに因ります。

アイヌの伝説では、魚の神である「チェプ・アッテ・カムイ」が持つ袋の中に鮭は存在しており、魚の神がその袋の口を開けると鮭が川を登ってくるとされています。
もし人間が鮭に対する礼儀を失すると鮭は人間の非礼を神に訴え、魚の神は怒って二度と袋の口を開けなくなり、鮭は川を遡上しなくなるとアイヌの伝説は教えています。

            ○

鮭が川の上流に登ってくる時期の前に、アイヌは「湾の神」や「河口の神」、「川の神」に祈り、川を汚さず不浄なものを入れないという誓いをたて、多くの鮭を川に登らせて下さいと神々に祈願します。

            ○

鮭が登ってくる時期になると川岸に祭壇を設け、「アシ・チェ・ノミ」という新しい鮭を迎える儀式が行われます。(以下ではアシリチェップノミと表記)
この儀式では最初に川を登って来る鮭が神に供えられます。
このときに鮭を獲る漁具はマレという鉤銛(かぎもり)が使われ、マレクで鮭を川から引き揚げた後は、鮭を神に捧げる言葉を唱えつつ、柳やミズキで作られた飾りの付いたイサパキクニと呼ばれる棒で鮭の頭を叩きます。
川に最初に登ってきた鮭にこのように人間が対することで、アイヌの神は満足するのです。

            ○

最初の鮭を迎える儀式が行われた後の漁期には、川中に杭を打って一個所作った出口から出てくる鮭を獲る漁や地引き網や刺し網を使った漁も行われました。
アイヌの漁法の中には犬を利用したものもあり、一匹の「漁犬」が一日に100匹近い鮭を獲ったといいます。

アイヌが鮭を獲った時は、カラスの分として鮭一匹を河原の砂利の上に置き、狐の分としてもう一匹を木陰に置く風習がありました。
そしてアイヌは自分たちに必要な分の鮭だけを獲り、決して獲りすぎることはありませんでした。

            ○

産卵後の鮭は「ホッチャレ」と呼ばれます。
これは、産卵後の鮭は脂が抜けてしまって味が落ちるので誰も獲らずに「放っておく」ということから生まれた言葉だという説があります。
アイヌ語で「尻からばらまく」という意味の「ホ・チャリ」が語源になったという説もあるようです。

アイヌは産卵が終わった鮭のいわゆるホッチャレを干物にしていました。
産卵前の脂がのった鮭を干しても虫がわいたり脂が酸化してしまい保存性が低くなるのに対して、ホッチャレは脂が抜けているため乾燥させれば10年以上も保存できたといいます。
アイヌの一家族で600尾以上の鮭と700尾以上のマスを乾物にし、それらを高倉式倉庫に貯えていました。
アイヌが干し鮭を食べるときはこれを水につけて柔らかくして、アザラシや熊の脂をつかって山菜などと一緒に煮込んだりして料理しました。

            ○

アイヌの慣習では、先に出てきた鮭が遡上する直前と最初の鮭が登ってきたときに行われる儀式と、更に鮭の産卵が終わったときに行われる鮭漁の終了を告げる儀式があり、これら三つの儀礼はアイヌにとって大事な神事でした。

しかし明治時代になり北海道は狩猟の場から農耕の地に変えられていきす。
アイヌは土地を取り上げられ、アイヌの伝統的漁法は明治政府により禁じられて、アイヌの風習も規制されてしまったのです。

その後、遡上してくる鮭を迎える祭事のアシリチェップノミは100年以上途絶えていましたが、1981年に札幌アイヌ文化協会などが中心となって復活されています。
今年も 9月18日に、復活してから25回目になるアシリチェップノミが行われ、秋鮭がアイヌの神にささげられました。

<参考書籍>
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社
岸上伸啓(2005)『世界の食文化 (20) 極北』農山漁村文化協会

<アイヌ関連>

萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM 萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM

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アイヌのうた アイヌのうた
民族音楽 萱野茂・平取アイヌ文化保存会 貝澤あさの

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CDエクスプレス アイヌ語 CDエクスプレス アイヌ語
中川 裕 中本 ムツ子

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2006/09/26

しょうがで羊が買えた時代

根しょうがの露地栽培では春に種しょうがが植えられ、秋には収穫が行われます。
今年に栽培と収穫が行われてすぐに店頭に並べられるしょうがは新しょうがとよばれます。
昨年収穫されて貯蔵されていたものが今年売られる場合、新しょうがと区別するために「古しょうが」とか「ひねしょうが」という呼び名になります。
新しょうがもひねしょうがも根しょうがのことなのです。
葉しょうが(谷中しょうが)も根しょうがと同じ種類のしょうがですが、根しょうがよりも早く収穫され、葉が付いた状態で出荷されます。(関連:「しょうがの甘酢漬け」)

家庭菜園でしょうがを栽培して、秋になって家では食べきれないほどしょうがが収穫できたというおうちもあるかもしれません。
家で栽培していなくてもスーパーなどに行けばしょうがはいつでも無造作に並べられています。
しかし昔のヨーロッパでしょうがは高級品として珍重されていました。

            ○

しょうがは熱帯アジアが原産ですが、熱帯アジアのどの地域かは特定されていません。
一説によればインドが原産地ではないかといわれています。
インド原産地説の根拠の一つになっているのがしょうがの名前です。
英語でしょうがは「ginger(ジンジャー)」ですが、この言葉は以下のように語源をさかのぼることができるといいます。

英語「ginger(ジンジャー)」→ フランス語「gingivre(ジンジブレ)」→ ラテン語「zingiberi(ジンジベリィ)」→ ギリシャ語「zingiberis(ジンジベリィズ)」→ サンスクリット語「singavera(シンカベラ)」→ ドラビダ語「inch ver(インチベル)」

サンスクリット語はインドの古典言語です。
そのサンスクリット語の「singavera(シンカベラ)」はもともと「角の形をしたもの」という意味の言葉ですが、この言葉がしょうがを指す言葉として使われました。
そしてこのサンスクリット語の「singavera」の語源がドラビダ語の「inch ver(インチベル)」だといわれているのです。
ドラビダ語はインド西岸のマラバール海岸地方に有史前に住んでいたドラビダ人が使った言語です。
しょうがを意味する世界の言葉の語源をたどっていくとマラバール海岸地方に行きつき、しかもこの地方では現在でもしょうがの生産が行われていることなどから、しょうがの原産地はインドではないかと考えられているのです。

           ○

しょうがはインドから中国に伝わりました。
中国にしょうがが伝播した当初は揚子江よりも南の地域で栽培が始まり、後に各地にしょうが栽培が広がっていったと考えられています。
マルコポーロが現在の江蘇省の蘇州や福建省を旅しているときに大量の高品質のしょうがが山に積まれているのを目撃しています。
ヨーロッパに比べ中国ではしょうがが格安で取引されていたことにマルコポーロは驚いたと東方見聞録に記されているのです。

            ○

胡椒が伝わる前の時代にしょうがはヨーロッパに持ち込まれ、香辛料の一つとして扱われました。
マルコポーロが中国でしょうがを見た13世紀はもちろんのこと、14世紀になってもヨーロッパにおけるしょうがは高価な香辛料として取引されていました。
450グラムのしょうがが羊一頭と同じ価格であったことが当時の記録に残されているほどです。
しょうがが山積みされ、しかもそれらが安価で取引されているのを見たマルコポーロの驚きも理解できます。

            ○

ヨーロッパとアメリカ大陸の間を商船が行き交うようになった時代に、しょうがは熱帯アメリカでも栽培され始めます。
乾燥させたしょうががアメリカ大陸からヨーロッパに輸送されるようになり、ヨーロッパでのしょうがの価格は庶民でも手が出せるほどに下がりました。

一説によると紀元前3000年頃に創られたといわれるジンジャーブレッドは、15世紀には高級菓子として貴族に好まれていましたが、16世紀にシェイクスピアによって書かれた劇の中には「ジンジャーブレッドが1ペニー」という台詞が出てきており、乾燥しょうががアメリカ大陸から輸入された頃を境にヨーロッパでのジンジャーブレッドも上流階級の菓子から庶民の菓子に変わったことが伺えます。

また、庶民でもしょうがが買える時代になったころ、乾燥しょうがの粉末をビールやノンアルコール飲料のエールに振り掛ける飲み物がイギリスの大衆酒場で作られるようになったとわれており、これがジンジャーエールの始まりだとされています。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社

<しょうが関連>

生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g 生活の木 有機ハーブ ジンジャー 100g

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マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち マーガレット・ウィルバーンのカントリードール—ジンジャー人形と小さな仲間たち
マーガレット ウィルバーン Margaret Wilburn

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ジンジャーとフレッド ジンジャーとフレッド
ジュリエッタ・マシーナ フェデリコ・フェリーニ マルチェロ・マストロヤンニ

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2006/09/25

かつおの刺身の季節

かつおには島の周辺を回遊している群れと、南北や東西に移動している群れとがあります。
かつおが生息している場所はだいたい地図で示した海域になります。

Map_bo

日本近海に回遊してくるのはフィリピン沖とマリアナ海域から北上してきたかつおだと見られており、これらの海域は日本にやって来るかつおの産卵場所だとも考えられています。
かつおは生まれてから1年後には体長が15センチ以上になり、成魚は時速60kmで泳ぐようになります。

            ○

日本近海では2月頃になると南西諸島や小笠原の近くにかつおがやって来ます。
3月頃になると鹿児島や四国沖を北上しており、4月頃には紀州沖に達しています。
土佐沖から紀州沖にかつおの群れが到来している頃、この群れとは別の一群が御前崎沖や伊豆諸島近海に現れます。
これはマリアナ諸島から小笠原諸島にかけての海域から北上して来た群れだと考えられています。

4〜5月に房州沖や銚子沖まで移動するとかつおはその海域にしばらく留まります。
夏になるとまた北上を始め、銚子沖から福島常磐沖を経由して三陸沖に向かいます。
10月には北海道沖や南千島沖にまで至ります。

            ○

水揚げされる港によって多少時期は異なりますが、例えば関東では初夏の5月頃に水揚げされたかつおが「初鰹」とよばれています。

また、南の海から北海道沖に向かっている時期のかつおが「上りかつお」とよばれるものです。
上りかつおはまだ栄養を充分に貯えていないため脂肪がついておらず、身はあっさりとした味わいがあります。
この時期のかつおは刺身にすると水っぽく感じるのでタタキにしたり、かつお節に加工されます。
かつお節菌がかつおの身に含まれる脂肪を分解することでかつお節はつくられますが、これにはある程度の時間を要します。
脂が多い身でかつお節をつくろうとしても脂が分解される前に酸化してしまうため、かつお節をつくるには脂肪が少ない上りかつおの身の方が向いているのです。(関連:「かつお節の作り方」)

            ○

9〜10月頃に気温が下がり始めるとかつおは北上を止めて南下し始めます。
この南下するかつおは「戻りかつお」とか「下りかつお」とよばれます。
秋に獲れるかつおはそれまでにエサを存分に食べて大きく成長しているので、身には脂が非常にのっています。
上りかつおにくらべて下りかつおは3倍程度も多く脂質を貯えています。
上りかつおでも東北辺りまで北上したものは既にある程度の脂がのっているため刺身で食べてもおいしいのですが、かつおの刺身といえば秋の戻りかつおを好む人は多いようです。
かつおは傷むのが早いため昔は寿司ネタにはされませんでしたが、最近は冷蔵輸送や冷蔵設備が整っているので寿司店で扱われることも珍しくはなくなりました。
日本人の脂を好む傾向に合わせて戻りかつおやなるべく脂の乗ったかつおを仕入れる寿司屋が多くなっているといいます。

            ○

3008000015 毎年かつおは殆ど同時期に同じようなルートを通って回遊するため、日本人にとっては春や秋の風物詩のような存在になっています。 しかし、このかつおの回遊ルートは不変というわけではありません。

東北地方の古い地層から発見されたかつおの骨の研究から、紀元前6000〜3000年頃にあたる縄文時代前期から中期頃にかけての時代には、東北地方で多くのかつおが獲られていたことが判明しています。
しかし縄文時代も後期になると東北で獲られたかつおの量は激減したことも研究から分かっており、この漁獲量の変化の原因は黒潮の流れが変わったためだと推測されています。
近年でも、昭和の初め頃までは日本海側でもかつお漁が盛んに行われた港がありましたが、現在は日本海側を泳ぐかつおは非常に少なくなったという事例があります。

            ○

2006年9月23日付け日経新聞に、かつおの卸値が高騰しているという記事がありました。
原因は9月になっても海水温が高いためにかつおの南下が遅れており、それに加え台風が立て続けに日本の近海を通過したため、戻りかつおとして市場に並ぶものの入荷量が少ないためだそうです。

毎年あたりまえのように日本人が口にしている日本近海もののかつおですが、海水温が例年とは異なる変化をしたり海流の位置がちょっと変わっただけでもかつおは回遊ルートを変える可能性があるのです。
あるとき突然かつおが日本にやって来なくなるという心配もないとはいえないのかもしれません。

<参考書籍>
宮下章(2000)『鰹節』法政大学出版
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
服部幸鷹(1999)『服部幸応流うまい料理の方程式―達人だけが知っている“味覚の黄金律”を初めて明かす!』河出書房新社

<かつお関連>

磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!! 磯野家の謎—人気アニメ「サザエさん」の知られざる秘密に迫る!!
東京サザエさん学会

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1000ピース 鰹 10-821 1000ピース 鰹 10-821

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愛蔵版 初ものがたり 愛蔵版 初ものがたり
宮部 みゆき

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2006/09/22

しょうがの甘酢漬け

しょうがには自律神経を刺激してアドレナリンの分泌を促す成分が含まれており、これにより血管が広がり血行がよくなるといわれています。
風邪をひいたときに、おろしたしょうがを熱いお湯で溶いて飲むという民間療法があるのも、しょうがを摂ることで血行が良くなり体が温められて新陳代謝が促進されるからです。
インドでは刻んだしょうがを蜂蜜に漬けたものを風邪をひいて喉が痛いときに食べるそうです。

            ○

しょうがには殺菌作用もあります。
このことも昔から知られていたようで、毒薬で暗殺されることを恐れたローマ皇帝ネロがつくらせた解毒剤にはしょうがも含まれていたといわれており、中世のヨーロッパでペストが大流行した時もしょうがはペスト予防になると信じられていました(実際に強力な毒やペストに対して、しょうががどれほどの効果を発揮するのかは定かではありません)。

            ○

更にしょうがには消化酵素のジアスターゼの作用を促進する成分が含まれているため消化を助ける働きもします。
しょうがに殺菌や消化促進作用があることを日本人は経験的に知っていたのか、生魚をつかう寿司にしょうがの甘酢漬け(ガリ)がつけられたり、殆ど作り方は同じですが「はじかみ」とよばれる葉しょうがや谷中しょうがの甘酢漬けが焼魚の付け合わせに添えられます。(関連:「酢漬けいろいろ」)

            ○

「はじかみ」とはもともと日本の古い言葉では辛味のある植物を指していました。
山椒(さんしょう)も「はじかみ」と呼ばれていたのです。
中国から日本にしょうがが伝わったとき、山椒と同様にしょうがには辛味があったので、中国の呉(くれ)の国から伝来した辛い植物という意味で「呉(くれ)のはじかみ」とよばれたり、土の中で育つ部分が利用されるので「土ハジカミ」とよばれたりしました。
そのしょうがの古い呼び名の名残なのか、現在は葉しょうがなどの甘酢漬けが「はじかみ」と呼ばれています。

            ○

はじかみといえば、はじかみが徳川幕府の人事に影響を与えたことがあるという話しがあります。

江戸時代に、今の東京の板橋一帯は将軍への献上用しょうがの栽培地に指定され、ここで収穫されたしょうがが将軍家に納められて、将軍が食べる料理にもしょうがはしばしば使われていました。

十一代代将軍家慶のとき、老中の水野越前守忠邦が財政再建のための緊縮財政策を強行し、庶民からはやり過ぎだという批判が出た贅沢禁止令を発布しました。
ある日、家慶の食事に鯛の塩焼きが出されたとき、いつもは鯛に付けられていたはじかみが添えられていませんでした。
そこでその理由を家慶が問うと、老中水野が出した贅沢禁止令のためだという答えが側近から返ってきました。
それを聞いた家慶は思わず「まさかそこまでやっているとは思わなかった」とついつぶやいてしまったのです。
この将軍のポロリ一言が引き金となって水野忠邦は老中の座から降ろされることになったといわれています。

            ○

老中を失脚させる原因となったはじかみの作り方を書いておきます。
葉しょうがや谷中しょうがを10〜12本用意し、まずはそれらの根の部分を塩を少し入れた熱湯で十数秒ほど茹で、その後茎の部分も含めた全体をザブッと熱湯の中に4〜5秒間浸けてからしょうがをひきあげます。
お湯からあげたしょうがには塩をパラパラとふりかけて冷ましておきます。
しょうがを冷ましている間に、半カップ(100cc)の酢にその酢の量の八割程度の水を加え、ここに大さじ3の砂糖(40グラム程度)を入れて混ぜたものを加熱して一煮立ちさせ冷まします。
細長のビンにしょうがを入れ、そこに冷ましておいた甘酢を注ぎ入れ、3時間程度置いておけば出来上がりです。

ついでに新しょうがの甘酢漬け(ガリ)の作り方ですが、こちらはまず新しょうがを薄くスライスします。
スライスしたしょうがを水で洗って、水気をよくきってから塩をふります。
塩をふると水が出てきますので、これを手で搾るとしょうがは面白いように縮まりクタッとなってしまいます。
新しょうがを漬ける甘酢は、半カップの酢に大さじ2の水と大さじ2の砂糖、小さじ1の塩を混ぜてつくります。
やはりこれを一煮立ちさせた後に冷まして、先ほどのしょうがのスライスを入れた容器に注ぎ入れます。
しばらくすると新しょうがはピンク色に変わっていきますが、食べるのには一晩以上は付けておいた方が良いようです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
大山真人 (2001)『銀座木村屋あんパン物語』平凡社
旅の文化研究所(2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<はじかみ関連>

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2006/09/21

サフランと黄金色の香り

フランス料理のブイヤベースやスペイン料理のパエリヤなどに使われるサフランは別名を「蕃紅花(ばんこうか)」ともいいます。
原産地は南ヨーロッパや西アジアです。
サフランの学名は「crocus sativus」といいますが、サフランとクロッカスは同じクロッカス属に分類されます。

            ○

サフランの紫色の花につく赤い雌しべを採取して乾燥させたものが香辛料としてのサフランです。
サフランは1年に1回しか開花せず、花は2週間しかもちません。
花が枯れる前の2週間という短い期間に人の手で雌しべを摘み取らなくてはならないのです。
しかもサフランの花には細い雌しべが三本しかついていません。
1グラムのサフランを生産するのに500本程度の花が必要になるといわれており、サフランはどうしても高価になってしまうのです。

            ○

Eg05ilaw05 乾燥させたサフランの雌しべを水に浸すと赤色から黄色に変化します。
古代エジプトでは太陽を神として崇める太陽信仰が盛んで、サフランでつくる黄色の染料は太陽を表す色として儀式などに使われていました。

また、クレオパトラは化粧品の一つとしてサフランからつくられた香油をつけていたといわれています。

            ○

古代エジプト時代からサフランは薬としても使われていました。
だいぶ後の時代になりますが、中世のイギリスではサフランが心臓や肺の病気に効くと考えられ、ワインに混ぜたサフランを患者に飲ませていたことがあります。
現代の日本では鎮痛用の漢方薬としても扱われているようです。

            ○

紀元前2600年頃に栄えたクレタ文明の遺跡で発見された壁画にもサフランの絵が描かれています。
後にそのクレタの地を支配した古代ギリシャでも、サフランでつくる黄色は高貴な色として扱われました。
ギリシャ神話に限らず多くの宗教で「神」の象徴は黄金であり、黄金色に近い黄色を出すサフラン染料は珍重されたのです。

            ○

ローマ帝国時代の香辛料は富を示すステータスシンボルでもありました。
香辛料の中でも特に高価なサフランは力を誇示したい上流階級層には打って付けの品でした。
当時、サフランは二日酔いに効き、眠りを深くすると信じられていたため、サフランでつくられた枕が貴族などの間で用いられたりもしました。

            ○

古代アラビアでも黄色は貴い色であったため、サフランは大切な染料の材料として使われています。
一方で、高価な贅沢品だったことから、サフランは堕落の象徴ともされていました。
古代アラビアでは、男にとっては肉とワイン、女にとっては黄金とサフランが人間を堕落させるものの筆頭に上げられていたのです。

            ○

中世のヨーロッパではエーゲ海のレパント地方を中心にサフランが生産されました。
14世紀頃なるとスペインやイタリア、イギリスでもサフランがつくられるようになります。

妖精はパンをサフラン風味のミルクに浸して食べるのだという言い伝えがあるイギリスに、最初に持ち込まれたサフランは盗品だったという話しがあります。

イギリスのエセックス地方のある町からキリストの聖地に赴いた巡礼者が、イギリスに帰国する途中にレパントに立ち寄り、そこでサフランの球根を巡礼用の杖の中に隠して故国に持ち帰ったというのです。

この巡礼者が持ち帰ったサフランの球根の栽培は成功し、サフランのお陰で豊かになったこの町は後にサフロン・ウォールデン(Saffron Walden)という名に変えられ、町の教会の屋根飾りにはサフランの花の彫刻がほどこされたといいます。

イギリスに伝わったサフランについては、十字軍が遠征した先でヘンリー I 世が献上品としてサフランを受け取り自国に持ち帰ったのが最初だという説や、ローマ帝国がイギリスを統治していた時代にサフランが伝えられたという説もあります。

            ○

中世のヨーロッパでもサフランは染料として使われ、高値で取引されていました。
これに目を付けたインド人が、インド料理には欠かせないウコンを原料にしてサフランよりもだいぶ安い値段のサフラン染料の模造品をつくり、「インディアン・サフラン」と名付けてヨーロッパで売って利益を得ていたことがあります。

            ○

サフランの模造品はインド人によって初めてつくられたわけではありません。
古代ローマの博物学者のプリニウスがサフランは偽物が多いと書き残しており、プリニウスが生きた紀元1世紀頃から偽サフランが出回っていたことが分かっています。

中世のヨーロッパではキンセンカやベニバナの花びらを乾燥させたものがサフランの代用品に使われ、「貧乏人のサフラン」とよばれていました。
その他にも柳の根や肉を細かくほぐしたもの、トウモロコシの毛に色をつけたものなど、サフランのモドキというよりは悪質な偽物といえる品が多く出回りました。

            ○

中世ヨーロッパの市場から本物のサフランが追いやられてしまうほど偽サフランが流通してしまったため、ヨーロッパの国々は取り締まりに追われました。
当時のフランスでは偽サフランを売った者に懲役刑を課しています。
1444年のドイツでは偽サフランを扱った商人が逮捕され処刑された記録さえあります。
この商人は自分が売っていた偽サフランと一緒に火あぶりの刑に処せられました。
死ぬ間際の火の中で嗅いだ匂いは自分が売ろうとした偽サフランの匂いだったというなんとも残酷で皮肉な話しです。

            ○

今でもサフランのイミテーション商品がありますが、現在は合成香料や色素でつくったサフランそっくりの色や香りをサフランの細胞を無菌培養したものにつける方法が使われたりしています。

            ○

05ilar12 様々なコピー商品が出回るほどサフランはヨーロッパで人気を得たわけですが、サフランはヨーロッパだけで使われたわけではありません。
香辛料の国インドでは北部のカシュミール地方でサフラン栽培が盛んに行われてきました。
インド料理では味付けされたご飯のプラーオに使われたり、ヨーグルトでつくられるお菓子にサフランが入れられたりしています。

トルコではオスマン帝国が栄えた時代からサフランは「ザフェラン」と呼ばれ、ピラフややはり菓子などに用いられてきました。

            ○

日本でサフランを頻繁に使うという家庭は稀だと思いますが、少し検索してみたところ、通販ではスペイン産サフラン1グラムが約1000円、国内産のものが1グラム1200円弱 ほどの価格で販売されていました。

手に持った重さと値札を見比べて日頃買い物をしている一般庶民としては、1円硬貨と同じ重量で1000円以上の価格は高いと感じてしまいますが、サフランの価値は重さのない色と香りな訳で肉の買い物ではないのですから、重量と価格を見比べるのはやはり意味のないことなのでしょうね。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
小磯千尋(2006)『世界の食文化〈8〉インド』農山漁村文化協会

<サフラン関連>

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2006/09/20

さつまいも太古の海を渡る

意外なことにさつまいもは謎の多い植物です。
特にさつまいもの原産地とさつまいもがどのように世界に広まっていったかについては、近年になるまで確かなことは殆ど何も分かっていませんでした。

            ○

さつまいもの研究を難しくしたのは、さつまいもの種類の多さとそれを分類する方法が確立されなかったことに因ります。
栽培種が野生種と交雑したり突然変異を起こしたことで生まれたさつまいもの仲間は非常に多く存在しています。
研究のために多くの野生種のさつまいもやさつまいもに近い植物が世界中から採取されましたが、研究者によっては外見の些細な違いで種類分けを行ってしまったため、さつまいもの系統分類は混乱してしまったのです。
現在でもさつまいもの的確な分類方法は確立されていないそうです。

            ○

991026 長い間、形や生息している地域などをもとに、さつまいもの原種や原産地の研究が進められてきました。
しかし現存するさつまいもの種類分けが不明確な中で、その形をもとに原種を探すことは非常に困難な作業です。
さつまいもの原産地はアジアであるとかアフリカであるなど様々な説が唱えられ、一時期はさつまいもの原種や原産地を特定することは不可能だとまで言われました。

            ○

行き詰まっていたさつまいもの祖先探しが再び進展したのは、近年の植物の染色体研究の進歩のおかげです。
染色体を分析することで様々な栽培植物の原産地が判明しましたが、さつまいもの原種探しにもこの方法がとられたのです。
さつまいもの染色体の数を基にしたゲノム分析は日本人研究者によって積極的に行われました。
分析結果が出てもその結果について日本人研究者とアメリカ人研究者との間で見解の相違などがあったため、簡単には結論に至りませんでしたが、現在ではさつまいもの祖先の植物は主にメキシコから南米北部に生息する植物であることが分かっており、最初に栽培され始めたのもこの地域だとみられています。

ペルー海岸のチルカ谷の遺跡から発見された紀元前8千年から紀元前1万年頃のサツマイモの根などの考古学的資料から、紀元前3000年には赤道近くの熱帯アメリカを中心とした広い地域でサツマイモは食べられていたと考えられています。

            ○

さつまいもがアメリカ大陸からどのように世界中に伝播していったかについてもはっきりとしたことがまだ分かっていません。
しばらく前までは、コロンブスがさつまいもをアメリカ大陸からスペインに持ち帰り、その後世界中に伝えられたという説が一般的に信じられていました。

しかし近年になってこの説が間違いであったことが判明したのです。
コロンブス以前にアメリカ大陸以外の地域にさつまいもはなかったという考えは、アメリカ大陸に生息する植物の原種の仲間が他の場所では発見されなかったという根拠に基づいていました。
しかし、1940年代前後に太平洋のポリネシアのタヒチ島周辺やニュージーランドで、さつまいもの祖先に近い植物が栽培されていることが発見されたのです。
これにより有史以前にさつまいもはアメリカ大陸から南太平洋の島々に伝播していたことが判明しました。

            ○

しかし、そのような太古にさつまいもがどのようにして太平洋を渡ったのかは今でも確かな答えが得られていません。
一説では、さつまいもが海流に乗ってポリネシア方面まで流れていったとされています。
別の説では、アメリカ大陸に住んでいた人達が南太平洋地域に向けて航海した際にさつまいもを運んだと考えられています。
筏を使って南米から南太平洋の島に到達できることはコン・ティキ号で有名なヘイエルダールが実証しています(この実験航海について書かれたヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』は、誇張した表現が省かれた実験レポートのように簡潔な文章ですが、堅い読物ではなく所々でクスッと笑わせるようなユーモアがたっぷり盛り込まれた本です)。

しかし、カボチャやとうもろこしはそのような昔に海を渡っていないと考えられており、なぜさつまいもだけが南米からポリネシアまで伝わったのかも、さつまいもの謎の一つになっています。

            ○

1974年に発表されたニュージーランドのエン博士の説では、さつまいもが世界に広まった経路は三つあったとされています。
一つは1492年にコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに運び、その後アフリカやインド、中国、インドネシアに伝播したルートです。
二つ目は16世紀にスペイン人がメキシコからフィリピンに運んだ経路だと考えられています。
そして三つ目が南米のペルーからイースター島などを経てポリネシアやニュージランドに伝わったルートです。
さつまいもがポリネシアに伝わったのは有史以前のことなので、当然それについて書かれた文献は無いのですが、わずかな手掛かりから紀元前1000年頃にさつまいもはポリネシアに伝わっていたのではないかと研究者達は考えています。

Map_poteto_1

<参考書籍>

坂井健吉(1999)『さつまいも』法政大学出版局
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会

<さつまいも関連>

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2006/09/19

魚肉ソーセージと肉食

明治時代に新政府は文明開化のスローガンのもと国民に対して食の西洋化を促しました。
しかし大正時代はもちろんのこと、昭和に入っても日本人の食の中心は米と魚であり、肉食はなかなか家庭で普及していきませんでした。
そのような状況の中、日本人の食を欧米化する切っ掛けの一つとなったのが魚を材料につくられた魚肉ソーセージの登場だったのです。

            ○

最初の魚のすり身を使ったソーセージは大正時代初期に軍用保存食として開発が行われたといいます。
日本にはかまぼこや竹輪があったので、ソーセージを見た日本人は昔からつくられてきた練り物を連想したのかもしれません。

            ○

昭和10(1935)年にマグロの供給がダブつき価格が下落したためマグロ肉を使ったハムのような製品が開発され、「ツナハム」という商品名で販売されました。
しかしツナハムの販売は軌道に乗らず、結局は静かに市場から消えていくことになりました。
魚肉ソーセージが市場に復活するのはそれから20年近く後のことです。

            ○

昭和28(1953)年にアメリカが行ったビキニ環礁での水爆実験によって近くの海域で獲られたマグロが放射能に汚染されていることが判明し、この年のマグロ需要は激減してしまいます。
マグロ価格は急落して市場でさばけないマグロが再び山積みとなりました。
そこで水産業者などがマグロ肉を加工したソーセージの製造を始めたのです。

            ○

以前つくられたツナハムは消費者に受け入れられませんでしたが、魚肉ソーセージが販売され始めた昭和30年前後という時代はツナハムが販売された昭和10年頃とは状況が異なり、魚肉ソーセージには追い風が吹いていました。
昭和30年代は日本人の生活スタイルが洋風化していくちょうど端境期だったのです。

「栄養改善法」が施行され厚生省が国民の栄養改善に関する調査を始めた昭和27(1952)年頃から「食のバランス」ということが盛んに言われるようになります。
たくさんの白米を少しのおかずで食べる食事は不適切とされ、肉食中心の西洋風の食事がブームの兆しを見せ始めます。
米飯中心だった日本人の食生活はパスタやラーメンなどの麺やパンも食べる食事に変わり始め、主食の米で胃を満たす食事からおかずを多く食べる食事へと変化し始めたのです。

西洋料理なども紹介するNHK「きょうの料理」が始まったのは昭和32年で、最初のインスタントラーメンが発売されたのは昭和33年と(関連:「インスタントラーメンの誕生」)、昭和30年代初期に日本人の食生活は目に見えて変化していきました。

            ○

このような時代の流れに魚肉ソーセージは合致していたのです。
それまでソーセージを食べることに不慣れだった日本人にとっても、食べ馴れた魚肉を使ったソーセージは手が出し易い商品でした。
特に洋風なものに憧れながらも新しい食べものを試しかねていた消費者層に魚肉ソーセージは歓迎されたようで、都市部よりも地方で、肉を食べる馴れた人よりも肉食に馴れていない消費者に魚肉ソーセージは好まれたといいます。

魚肉ソーセージはかまぼこや竹輪と同様の食品として分類されていたために当時は保存料を使用することができました。
これにより冷蔵設備のない小売店でも魚肉ソーセージを置くことが可能になり、消費者が魚肉ソーセージを目にする機会も増えました。
しかも材料費を抑えることができた魚肉ソーセージの価格は安く設定されていたため、多くの人達に「ちょっと食べてみようか」という気を起こさせたのです。

            ○

一躍ヒット商品となった魚肉ソーセージの製造会社は急増し、一時は100社以上もの会社がこの分野に参入していました。
丸大食品やマルハなどの水産加工業社だけでなく、伊藤ハムや日本ハムなどの畜産系の会社も魚肉ソーセージ市場に加わりました。
丸大食品やマルハなどは魚肉ソーセージの成功をもとに、逆に畜産分野に事業をその後拡大しています。

発売されて間もない昭和30(1955)年でも魚肉ソーセージは月に1000万本も生産されています。
最も生産量が多かった昭和40(1965)年には、発売当初の頃に比べ800倍以上の量にあたる188万トンが生産されました。

            ○

魚肉ソーセージは畜肉を使ったハムやソーセージのいわば模造品ですが、本物の食肉ハムやソーセージの消費も次第に増加していきます。
昭和30年代になっても日本人が畜肉から摂る動物性タンパクの量は依然多くはありませんでしたが、昭和42(1967)年には食肉ハムとソーセージの生産量が魚肉ソーセージの生産量を追い抜くことになります。
同じ年の昭和42年に米の生産量はピークに達し、翌年からは年々減少し始めました。
子供が好むおかずが卵焼きからハンバーグなどに変わっていったのも昭和40年代のことです。

            ○

昭和63(1988)年に、畜肉やその加工品によるタンパク質摂取量が魚肉や魚肉加工品からの摂取量を史上初めて上回りました。
1990年代の輸入牛肉の自由化や円高の定着などで肉の価格が安くなったことにより肉食は日本の食生活に定着していくことになります。
肉食が奨励された明治時代初期から100年以上を経た昭和の終わりに、肉を食べる習慣が一般家庭にも浸透したわけです。
魚や米が中心だった日本人の食が肉食中心の食へ移行する、そんな時代の象徴的な食べものが魚肉ソーセージだったのです。

            ○

ちなみに魚肉ソーセージを使った料理については、「魚肉館」というホームページに40種類以上のレシピがあります。
「魚肉館」には、市販されている魚肉ソーセージの情報や、なぜ魚肉ソーセージがオレンジ色のフィルムで包まれているかなどの豆知識、魚肉ソーセージをぬか漬けにする実験結果なども掲載されています。

<参考書籍>
岡田哲(2000)『とんかつの誕生—明治洋食事始め
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
原田信男(2005)『和食と日本文化—日本料理の社会史』小学館

<昭和関連>

昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年! 昭和のいる・こいる ヘーヘーホーホー40年!
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なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~ なつかしの昭和テレビ・ラジオ番組主題歌全集~あの時代(ころ)に還る~
テレビ主題歌 桜井妙子 川田正子

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