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2006/08/31

くさやとくさや汁とくさや菌

くさやが作られ始めたのは八丈島であるとも、新島であるともいわれています。
くさや発祥地と考えられている八丈島や新島だけでなく、現在は、大島、式根島、三宅島、神津島など他の伊豆諸島や小笠原諸島でもくさやは生産されています。

            ○

くさやの原料には脂の少ない魚が向くとされており、伊豆諸島近海で獲れるトビウオ、ムロアジ、クサヤムロなどが使われています。
地元では、自分の家で食べるくさやにはブダイやサメ、時期が過ぎて脂が落ちたさんまなどが使われたといいます。

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くさやの作り方は、まず材料となる魚を開き内臓を取り除きます。
昔はくさやの加工場から出る魚のアラは豚の餌にされて、魚は余すところなく使われました。
開いた魚を少しとろみがあって茶色い「くさや汁(くさや液)」に漬けます。
魚をくさや汁に浸けて暫くすると魚の身に塩分が入り込み、比重が変化することで魚はくさや汁の表面に浮き上がってきます。
くさや汁には10〜24時間程度つけ込み、その後天日に干して完成です。

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くさや作りがいつ頃始まったのか定かではありませんが、江戸時代中期以降のことだと考えられています。
江戸時代の伊豆諸島は幕府の直轄地であり、新島などは流刑地でもありました。
耕地が少なく漁業を生活の糧としていたため、元禄の頃まで年貢は米ではなく塩で納めていました。
そのため自分たちが使う塩にもこと欠くほどで、年貢の塩を確保するために塩を節約せねばならず、魚の塩干しを作るときに使う塩水を捨てずに繰り返し使うようになったのです。
繰り返し使われた塩水の中には魚のタンパク質が溶け出して発酵し、これが後にくさや汁と呼ばれるくさやを作るときに欠かせない浸け汁となりました。
くさや汁に浸けて作った魚の干物は普通の塩水に浸けて干したものより長期間保存できることを当時の伊豆諸島の人達は経験的に知りました。
海が少し荒れると船が出せなくなる時代に、保存期間を延ばせるくさやの技法は島の人達にとっては生活を支える画期的な新技術だったのです。

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江戸の市場でくさやは他の干物よりもランクが下で、現在のように酒の肴として珍重されてはいませんでした。
1829年の江戸の記録には、伊豆諸島から送られたくさやのことが単に「干し魚」と記されており、「くさや」の呼び名は明治時代になってからできたといわれています。
焼いた時のに匂いがとても臭いことから明治時代の東京でくさやと呼ばれはじめたのが語源になったといわれています。
昔の新島ではくさやを「しょっちるぼし」とよんでいたようです。
「しょっちる」は秋田の「しょっつる」と同様に塩汁のことを意味しました。

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現在のくさやの老舗店には300年以上も使われ続けているくさや汁があり、大きな店の地下には100年以上も熟成を重ねたくさや汁が10トン以上も貯蔵されているそうです。

同じくさや汁を連続して使うとくさやができなくなるので、何回か使用したくさや汁は暫く休ませる必要があります。
暫く使わなかったくさや汁には新しい魚の切り身を入れて栄養が補給されます。
このように維持管理され長期間使われ続けるくさや汁は古いものほど干物の旨味がよく出るといわれています。

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くさや汁にはコリネバクテリウム・クサヤ(通称くさや菌)という乳酸菌の一種が繁殖しており、くさや菌が発酵を起こすことで魚の中に含まれるタンパク質や脂質が分解されます。
臭いの素となるアンモニアや硫黄化合物、油状の液体で強い臭いの酪酸などもくさや菌によって作られます。
くさや菌は繁殖力が強く雑菌を寄せ付けません。
そのため、くさや汁は腐敗せずに長期間保存することができるのです。

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くさやの生産地ではお腹の具合が悪くなったときに、くさや汁をぬるま湯で薄めて整腸剤の代わりに飲んでいたこともあるようです。
乳酸菌の一種のくさや菌を体内に取り入れ、腸内の雑菌などを排除するのです。
また、乳酸菌が腸内でつくるビタミンも体調回復に役立ちます。
江戸時代の人はお腹の調子が悪くなると、同様に糠味噌をぬるま湯に溶いて飲んだといいます。

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明治時代の新島地方の嫁入りでは、家のくさや汁を嫁ぐ娘に持たせることもあったといいます。
かつて地方によっては、嫁入りの娘に一つかみの糠を持たせるという習慣がありました。
モンゴルでも娘が嫁ぐ時に羊の発酵乳を一杯持たせ、相手方の発酵乳の容器に入れる習慣があるといいます。
発酵食品が生活に根付いている地域での似通った婚礼習慣です。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会

<珍味・焼物関連>

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杉浦 日向子

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2006/08/30

ホットドッグとアメリカ人

アメリカでは年間百数十億個のホットドッグが食べられているといわれ、「National Hot Dog & Sausage Council」のサイトの資料によると、2005年にアメリカ人がホットドッグとソーセージに使った費用は39億ドル(約4,563億円)だそうです。
ホットドッグはアメリカの地域によって食べ方が異なり、ドイツ系移民の多い地方ではザウアークラウトが添えられ、中西部ではチリをかけたもの、ニューヨークではミートソース、カンザスではトロリと溶けたチーズとマスタードが掛けられ、シカゴではケシの実付きのパンが使われます。
今やアメリカの国民食ともいえるホットドッグですが、その始まりと名前の由来についてはあまりはっきりとはしていません。

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一説では、1904年のセントルイス博覧会の会場でソーセージを売っていた発明家が、客が熱いソーセージを手でも持てるようにと、ソーセージと手袋をセットにして渡していましたが、コストを削減するためにソーセージをパンに挟んで渡すことにしたのがホットドッグの始まりとされています。

別の説では、1867年頃にドイツ系移民のチャールズ・フェルトマン(Charles Feltman)というミートパイ売りがワゴンでお湯を湧かしソーセージを茹でてサンドイッチにした新商品を「フランクフルター・サンドイッチ」と名付けてニューヨークのブルックリンで売り出したのがホットドッグの最初だとしています。

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最初のホットドッグについての話しはその他にもいくつかあり、その始まりは定かではありませんが、パンにソーセージを挟んだ食べものは好評を得て急速に広まり、その食べやすさから1890年代末には野球場でも販売されるようになります。
1934年には「ホットドッグ・スタンド」や「ホットドッグ・ビジネス」という言葉が使われるようになりました。Hotdog1

当時のホットドッグ人気を示す確かな記録が残されています。
1939年6月に、現在のエリザベス女王の父母にあたるジョージ6世とエリザベス王妃がアメリカを訪問した際に、フランクリン・ルーズベルト大統領は二人をニューヨークのハイドパークでのピクニックに誘い、公園でホットドッグを振る舞ったのです。このときのメニューはニューヨーク・タイムスの一面で報じられたそうです。

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ホットドッグについてのもう一つの謎はその名前の由来です。
よく使われる話しでは、ある町のフランクフルトソーセージで有名な店で、炒めたソーセージを買って食べた一人の客が「なんだ、ただ熱いだけの犬肉じゃあないか」と憎まれ口を叩いたところ、店の主人は怒らず騒がずそれを商品名に使ってしまい、「Hot Dog」という名が生まれたといいます。

別の説では、球場の売り子が「熱いダックスフンド・ソーセージだよ!!」という売り声と共にホットドッグを売っていたことからヒントを得て、スポーツ漫画家のタッド・ドーガン(Tad Dorgan)がパンの間に入って気持ち良さそうにしている犬の漫画を描き、「ホット・ドッグはいかが」というキャプションをその漫画につけたことからホットドッグの名前が生まれたといいます。
これは話しとしては良くできていますが、実際にこの漫画を目にした人はいないようで、誰かの作り話しだろうといわれているようです。Hotodog2

1800年代にアメリカに移り住んだドイツ人はアメリカにソーセージを持ち込んだだけではなく犬のダックスフンドも連れてきたといわれ、ソーセージとダックスフンドが似ていることから冗談やからかいの意味でHot Dogという言葉が生まれたのではないかともいわれています。
あまり劇的な話しではありませんがこれが最も本当らしい話しではあります。

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アメリカのホットドッグの歴史について語られるとき必ず出てくるのがネイサン・ハンドワーカー(Nathan Handwerker )という人です。
ポーランド系移民のネイサンは、前述のミートパイ売りからホットドッグ売りになったフェルトマンのお店の「Feltman」で雇われ、ホットドッグのパンに切れ込みを入れる仕事に就きました。

あるときにある男が、フェルトマンの店で売られている10セントのホットドッグがもしも5セントだったらもっと売れるだろうにと何気なくネイサンに言ったところネイサンはこれを真に受け、「フェルトマン」や他の店のアルバイトで働いて貯めた300ドルの貯金を全て投資して、1916年にニューヨークのコニーアイランドに自分のホットドッグスタンドを開業し、本当に5セントで売り出したそうです。
価格破壊のホットドッグは大当たりして、その後ネイサンのお店の「Nathan's Famous」は全米にチェーン店をもつ一大企業にまでなります。

ネイサンは休むことなく働いた人のようで、歳をとり引退して息子が社長になってからも、バスに乗って店に様子を見に行っていたそうです。
ある人が「あなたの息子は運転手付きの車で出勤するのに、あなたは何で今だにバスに乗って店に行くんだ」とネイサンに聞いたところ、ネイサンは「私は金持ちの親を持たなかったのでね」と答えたといいます。
ネイサンの店が流行ったのは値段が安かったからだけではなかったようです。

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Nathan's Famous」は最近日本にも進出しましたが、日本での知名度はあまり高いとはいえません。
しかし、毎年7月4日にコニーアイランドで行われるホットドッグの早食い競争の映像をニュースで見たことがある人は多いのではないでしょうか。
2001年から今年まで、日本人の小林尊氏が連覇している大会で、2006年には50本半のホットドッグを12分で食べて小林氏が優勝しました。
この大会のスポンサーが「Nathan's Famous」で、出場者が食べているのももちろん「Nathan's Famous」のホットドッグです。
この大会は1900年代の初めに「愛国心」を見せるために始まったといわれています。
早食いと愛国心がどうつながるのかいま一つ分かりませんが、これはこれでアメリカ人のホットドッグに対する思い入れの強さを現しているのかもしれません。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<ホットドッグ・アメリカ関連>

ホットドッグの丸かじり ホットドッグの丸かじり
東海林 さだお


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ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド

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2006/08/29

トルティーヤとタコスとメキシコ人

中南米で有名な平焼きパンにメキシコの「トルティーヤ」があります。
メキシコの風土の中で生まれたトルティーヤとトルティーヤを使うタコスは、メキシコの地で昔から食べ続けられてきた伝統料理です。

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トルティーヤの名はスペイン語で「小さなパン」を意味する言葉が語源になったという説があります。
スペインに「トルティージャ」という丸く薄いオムレツ料理があり、これにメキシコの薄いパンが似ていたことからトルティーヤの名がついたという説もあるようです。

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昔のメキシコでトルティーヤの原料となるとうもろこし粉をつくるときには、05ilaj05_1 乾燥させたとうもろこしの粒を石灰水に一晩浸けて柔らかくして、サドルカーンで挽きつぶしていました。サドルカーンとは厚い石の皿と棒状のすり石からなる石臼の一種で、穀物などの材料を石皿の上に置き、すり石を石皿にグイグイと押し付けるようにして穀物を擂って粉に挽く古代につくられた道具です。

挽いた粉は水で捏ねられ、これを両手で弾くように叩き付けながら薄くのばすか、台の上で生地をまわしながら手のひらでグイグイ押しながら薄い生地にして石板や鉄板の上で強火で焼かれました。

メキシコの気候がイースト菌を繁殖させるのには適さなかったという事情もあったのでしょうが、主食となるとうもろこしの粉では粘り気が出し難いということもトルティーヤのような平焼きパンがつくられた理由となっていると考えられます。(関連:「ピタはなぜ薄いパンなのか」)

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とうもろこし粉に水を加えて捏ねたトルティーヤのパン種は「マサ」というスペイン語名で呼ばれています。
バイオリニストの黒沼ユリ子氏が書かれた『メキシコのわが家へようこそ』という本には、現在のメキシコの家庭でどのようにトルティーヤが作られているかが説明されています。
その中で、メキシコではインスタントのマサも売られているとあります。
また、マサを平たく延ばすのには専用の小型プレス機が家庭で使われているようです。
プレス機と言っても、手のひらよりもちょっと大きいマンホールの蓋の様な形をした二枚の円形の金属板らしきものが蝶番(ちょうつがい)か何かでカスタネットのようにつなぎ合わせてあるもので、二枚の板の間に小さく丸めたマサを挟みパタンと閉じてギュッと押さえつけると二枚の金属板の間に薄いトルティーヤの生地ができあがっているという仕組みのもののようです(こちらのブログに写真がありました)。

『メキシコのわが家へようこそ』では色々なメキシコ料理のレシピがきれいな写真と一緒に紹介されています。
日本語で書かれたメキシコ料理の書籍が少ない中で、『メキシコのわが家へようこそ』は貴重な本になっています。

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調理した肉や野菜をトルティーヤに挟んでソースを掛けたものがタコスとよばれる料理で、メキシコではタコスを売る店は「タケリア」と呼ばれています。
タコスは古代から食べられてきた料理で、特にトルティーヤにいんげん豆をのせてとうがらしのソースをかけたものはメキシコ・インディアンの大切な伝統食でした。
トルティーヤに使う乾燥とうもろこしの粒を水に浸けるときに石灰が加えられるのは、とうもろこしを粉に挽き易くするのと同時に生地に粘りを出す意味がありましたが、石灰が加わることでトルティーヤにはカルシウムが豊富に含まれるという利点もあります。05phai14
いんげん豆にはタンパク質が豊富で、ソースに使われるとうがらしにはビタミンが多く含まれます。
いんげん豆をトルティーヤで挟んで唐辛子のソースをかけたタコスは伝統から生まれたバランス食品だったのです。

しかもトウモロコシといんげん豆を同じ土地で栽培すると、いんげん豆の根に繁殖する根粒バクテリアが地中に窒素化合物を供給するために、とうもろこしの生育が良くなるという栽培する上での利点もありました。(関連:「豆に頼る細菌と穀物」)

            ○

ところで、トルティーヤを使った料理でナチョスというものがあります。
ナチョスを考案したのはメキシコ人ですが、ナチョスはメキシコの伝統料理ではありません。

アメリカの国境近くのメキシコのピエドラス・ネグラスにあるレストランで働いていたイグナチオ・アナヤ(Ignacio Anaya)という人が、食材が限られた中でアメリカの将校夫人達のために軽食を作ることを命じられ、パリパリに焼いたトルティーヤの上にチーズとトウガラシを載せて出したのが「ナチョス」の始まりだといわれており、ナチョス(Nachos)の名は考案者の名前のイグナチオ(Ignacio)に由来しているようです。
イグナチオ・アナヤは1975年に亡くなっています。

<参考書籍>
黒沼ユリ子( 1996)『メキシコのわが家へようこそ』主婦と生活社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
舟田詠子(1998)『パンの文化史』朝日新聞社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社)
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社

<メキシコ関連>

旅の指さし会話帳 (28) メキシコ 旅の指さし会話帳 (28) メキシコ
コララテ

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世界遺産 メキシコ編 世界遺産 メキシコ編
緒形直人 鳥山雄司

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メキシコの夢ホテル—ベストセレクション メキシコの夢ホテル—ベストセレクション
せきね きょうこ

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2006/08/28

かつお節と漁師の甚太郎

インドとスリランカの西南に位置するモルディブ諸島にはモルディヴ・フィッシュとよばれるかつお節に似た食材があります。
モルディブ・フィッシュは水分含有量が20%以上あり、ナイフで削ることができる程度に柔らかく日本の荒節に似たものです。
モルディブ・フィッシュと日本のかつお節の関係は定かになっていませんが、モルディブ・フィッシュが南方から日本に伝わったのではないかと推測している人達もいるようです。

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モルディブ・フィッシュが太古の日本に伝来したかどうかは謎ですが、日本でかつお節は鎌倉時代より以前には作られていたことが分かっています。
しかし当時のかつお節はかつおを蒸してから天日で干し固めて作られるだけのもので、生のものより保存性は高くても旨味は外ににじみ出てしまっていて、とても出汁を取る目的には使えない代物だったようです。

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現在に伝わるかつお節の製法(関連:「かつお節の作り方」)が開発されたのは江戸時代のことです。
藁を燃やして乾燥させるだけだった昔ながらの製法を改良したのが、江戸時代に生きた甚太郎という名の紀州出身の漁師だったといわれています。
1674年に甚太郎がナラやカシの薪を焼いてかつおの切り身を燻し、冷やしてはまた燻す「燻乾法」を考案したのだという話しが残されています。
燻乾法でつかわれる燻煙によってかつお節の保存性は増し、魚の臭いも消す効果が得られました。

           ○

更にかつお節の質を高めた技術が、やはり江戸時代中期頃から行われるようになった「カビ付け」です。
カビ付けは鰹節の表面に「鰹節菌」という人体に無害のカビを繁殖させ、かつお節内に残る水分を吸収させて節内の水分量を減じる作業です。
鰹節菌が分泌する酵素がかつおの脂を分解するため、この技術を使って作られるかつお節を出汁に使ってもだし汁に脂は浮きません。

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甚太郎が考案したとされる燻乾法とその後に開発されたカビ付け技術はかつお節を木材のように硬く仕上げて保存性を高め香りと旨味が増す画期的新技術で、一世紀の間にこれらの製法が日本全国に広まったといわれており、それ以降かつお節は出汁として多用されるようになります。

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燻乾法とかび付け技術開発以前、かつお節は「堅魚」とか「煮堅魚」などと書いて単に「かつお」と呼ばれていましたが、甚太郎の鰹節が出まわるようになってから「鰹節」の名がついたといわれています。
かつお節の語源ははっきりしませんが、「燻し」の「ぶし」をとってかつおぶしになったという説や、木のように節があることからかつおぶしになったという説もあるようです。

           ○

実は、燻乾法やカビ付け技術の開発経緯については確かな記録が残っている訳ではなく、漁師の甚太郎のこともなかば伝説的な話しとして残されています。
一説では、紀州で漁をしていた甚太郎が海難事故にあって土佐に流され、紀州で作られていたかつお節の製法を土佐に伝え、土佐のかつお節が全国的に有名になって燻乾法も日本中に広まったという話しになっています。
その他にも、土佐の播磨屋という店の宮尾佐之助が甚太郎のスポンサーとなって新式のかつお節の製法を開発させたという話しがあったり、カビつけ技術を開発したのはこの播磨屋の宮尾佐之助だったなどの言い伝えすらあるようです。

少なくとも甚太郎という伝説的漁師が生きたとされる江戸時代中期を境にかつお節の質が格段に向上したことは確かなようです。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
江原 恵 (1986)『料理物語・考—江戸の味今昔』河出書房新社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<鰹節・出汁関連>

男に生まれて  江戸鰹節商い始末 男に生まれて  江戸鰹節商い始末
荒俣 宏

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2006/08/25

パスタとマルコ・ポーロ

イタリア料理といわれてパスタを連想するだけでなく、単にイタリアと聞いただけでもパスタを思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
イタリアとパスタの関係は深いものですが、そのイタリアでどのようにパスタが食べ始められたのかやパスタの歴史についてはよくわかっていないことが多いのです。

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当のイタリア人の中にも、あのマルコ・ポーロが中国から乾麺を持ち帰り、それがヨーロッパでパスタになったと信じている人達もいるそうです。
一昔前はイタリア人だけでなく世界中で多くの人がこの伝説じみた話しを信じていました。
この嘘の出所を調べ上げたのは、フランス人の食物史研究家で現在は日仏会館 副理事でもあるフランソワーズ・サバン氏で、全米マカロニ生産者協会(The American National Macaroni Manufacturers Association)が発刊していた「マカロニ・ジャーナル」という業界紙の1929年10月号にマルコ・ポーロとパスタの話しが載せられたことによって、この説が真しやかに広まったということを突き止めました。

          ○

他の学者の指摘で、マルコ・ポーロの口述をまとめた東方見聞録が筆記されるより約20年前の1279年に、ポンチョ・パストーネという人がマカロニが目一杯入った箱を財産として残したことをジェノバの公証人が記録していたことが分かっています。
財産に残すくらいなのでこれは生パスタではなく乾燥パスタだと考えられており、この公式記録によってマルコ・ポーロ以前にもイタリアにパスタがあったことが分かっているのです。

          ○

Pasta1また、マルコ・ポーロがヨーロッパに帰国する100年も前に、シチリア島から30キロ離れたトレビアで製造されていた粉食製品について、アラブの地理学者が書き残しています。
記録で使われている語句から、これは乾燥パスタだったと考えられています。
この記録の中のシチリアの乾燥パスタの説明にアラブ語の「itriyah」という言葉が使われています。
この「itriyah」はアラブで食べられていた麺であったらしいということが分かっており、アラブからシチリアに伝わった麺がパスタになったのだろうと推測され、現在はこれが定説のように扱われることが多いようです。

          ○

事実として、シチリアはアラブの支配下にあった時代もあり、当時のシチリア地方とアラブ間との結びつきは強く、イスラム教徒も多く住んでいました。
このシチリア地方から当時は独立国家だった南イタリアの国々やアラブ方面へ乾燥パスタが輸出されていたことが分かっています。

          ○

シチリアで乾燥パスタが作られていたことが記録された12〜14世紀より以前のイタリアにパスタまたはパスタ状の食べものがなかったのかについては、はっきりとしたことが分かっていません。

古代ローマが建国されるよりも前に、アジアの西部からイタリア半島にやってきたエトルリア人がイタリア中央部に都市国家を創り、紀元前6〜7世紀に繁栄しましたが、このエトルリア人の古墳で見つかったレリーフにラザニアを作る道具らしきものが描かれているという説があります。
はっきりとラザニア作りの道具だと判別できるようなレリーフではないようで、「言われてみれば確かに見える」という程度のもののようです。

今の北イタリアの伝統料理のポレンタのように古代ローマ時代には小麦粉を粥状にしたプルテスと呼ばれるものが食べられていたり、小麦粉を捏ねて薄く焼き、細長く切ってスープに入れるテスタロイという料理もあったようです。
しかし、これらは現在パスタと呼ばれている食品とはかなり異なった食べものです。

          ○

ローマ時代に食べられていた粉食食品とシチリアで作られていたという乾燥パスタの間にはポッカリと穴が空いたように記録につながりがありません。
だからこそマルコ・ポーロがヨーロッパにパスタをもたらしたという話しが信じられてしまう余地があったのです。

          ○

Pasta2 15世紀の初めになるとパスタはナポリでも流行しました。
16世紀になるとイタリア南部はスペインの支配下に入り、政情が安定したことからナポリの町は発展し始めます。
するとナポリとその周辺の農村部との間には格差が生まれ、ナポリ周辺に住む農民がナポリに流入するようになり、17世紀になるとナポリはヨーロッパで最も人口が多い都市になりました。

その頃にナポリでパスタ製造は発展しました。
その理由の一つは、17世紀前のナポリでは生鮮食料品の供給が行き渡っていたため、粉食はあまり重視されていませんでしたが、人口増加によってナポリでの生鮮食料品の供給が追いつかなくなったためだと考えられています。

          ○

日本の江戸時代にも都市部の発達と共に人口が急増したため、米の不足を補い安定的に食糧を供給するために麦や蕎麦をつくることを幕府は奨励し、これがうどんやそうめん、そばなどの粉食の発達につながったことがあります。
ナポリでパスタが発展した状況は、日本の江戸時代の粉食発達の過程と似ていたのではないでしょうか。

          ○

ナポリでのパスタ製造技術発達を後押ししたものに17世紀にナポリでつくられた押し出し式パスタ製造機があります。
これによりパスタは種類を増やし、質が高められ、イタリアを代表する食品の地位を得ていくことになるのです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
内田洋子 (2003)『トマトとイタリア人』文藝春秋
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<パスタ関連>

コールマン パスタフォーク 170-9073 コールマン パスタフォーク 170-9073

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2006/08/24

クレソンの繁殖力

葉や茎に辛味があってサラダに使うことができる野菜を総称してクレスといいます。
クレスにはウォータークレス、アメリカンクレス(別名ウィンタークレスまたはランドクレス)、ガーデンクレス、インディアンクレス、パラクレスなどがあります。

          ○

クレソンとはもともとクレスのフランス語で、日本でクレソンと呼んでいる野菜は英語名のウォータークレスのことになります。
クレソンの和名はオランダガラシで、これは明治元年前後にオランダ船によってクレソンが日本にもたらされたからだといわれており、同様にパセリはオランダゼリと名付けられました。
クレソンは本来多年草で水辺に群生します。
クレソンが日本に持ち込まれた当初は主に外国人居留地で栽培が始められましたが、水があれば何処でも育つクレソンなので、外国人が住む家から排水溝を通じて小川などに流れたものが野生化するようなかたちで繁殖したり、各地で栽培されるようになってからも栽培地周辺に勝手に生息域を広げていくことになりました。
明治のころに上野精養軒で付け合わせに使ったクレソンの残りが排水溝を通じて不忍池に流れ込み、池の周辺でクレソンが繁殖したこともあったそうです。
日本で野生化したクレソンは現在各地の渓流沿いなどで雑草のように繁茂しており、それらは4〜5月頃に食べられるようになります。

          ○

クレソンの原産地はヨーロッパから中央アジアにかけての温帯地域で、人類が最も古い時代に栽培した野菜の一つだと考えられています。
14世紀にフランスで野生種が品種改良され、17世紀になるとドイツでも栽培用に改良されたものが出回るようになりました。

          ○

クレソンの自宅での育て方としては、湿った土に植えるのが簡単な栽培法のようです。
スーパーで買ったクレソンを水の入ったコップにさして日当たりの良い場所に置いておく水栽培をすることもできます。
夏は涼しく冬は温暖な地域のきれいな水のある環境を好むクレソンなので、極端に暑いところや寒いところに置かず、こまめに水を変えることなどに気をつけた方が生育は良くなるはずです。
水栽培で水に浸けたままだと十分な酸素が供給されずにクレソン内に有毒成分ができることもあるらしく、食べるつもりで水栽培するのであれば、たまに根を水から出して空気に触れさせる手間も必要になるようです。
水に浸かった葉から腐ってしまったり、水中の養分が十分でないために、生い茂るところまではいかないかもしれませんが、クレソンの水栽培を今から始めれば夏休みが終わるまでには根が出るところくらいは観察できると思いますので、夏休みの自由研究には良いかもしれません。

          ○

ステーキの付け合わせに使われることが多いクレソンには血液酸化を防止する働きがあるため、肉と一緒に食べると良いといわれます。
ステーキの付け合わせ程度の少量のクレソンでは血液酸化は防げないという専門家の意見もありますが、クレソンには鉄分やビタミンA、ビタミンCの栄養があり、加えてロ臭抑制効果をもつクロロフィルも含んでいるため食事の合間の口直しにもなりますので、皿の端によけて残すのはもったいない野菜です。

          ○

海外で暮らす日本人の方で小松菜のお浸しを作りたくても容易に小松菜が手に入らないので、川辺でゴッソリ刈り取られて無雑作に大きな束にされたようなクレソンを八百屋で買ってきて、小松菜の代用品としてお浸しにしている話しを聞いたことがあります。
クレソンは天ぷら、胡麻和え、漬け物などに料理してもおいしい野菜です。
また、ヨーロッパでは解熱効果があるとして熱があるときに薬のように用いられたりもするそうです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体TOTO出版
大場秀章(2004)サラダ野菜の植物史 新潮選書新潮社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社

<サラダ関連>

世界43か国のサラダレシピ114—パリ発!ユニークなサイドメニュー 世界43か国のサラダレシピ114—パリ発!ユニークなサイドメニュー
宮内 好江

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Coleman メラミンサラダボール 170-9142 Coleman メラミンサラダボール 170-9142

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あさサラダ 角型漬物器 1.0L C-158 あさサラダ 角型漬物器 1.0L C-158

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2006/08/23

インスタントラーメンの誕生

8月25日は「ラーメン記念日」に定められています。
今から48年前の8月25日に最初のインスタントラーメンが市場に登場したのを記念してのことです。
「ラーメン記念日」の頃に「インスタントラーメン発明記念館」で過去に開催された「ラーメン記念日フェスタ」では、世界初の量産インスタントラーメンであるチキンラーメンの無料試食会などが行われたりしています。

そのチキンラーメンを創ったのは日清食品の創業者である安藤百福氏です。

          ○

昭和22〜23(1947〜1948)年頃の戦後間もない大阪梅田で、安藤百福氏は二つのことに気づきこれがインスタントラーメン開発の切っ掛けになったといいます。
一つは、食べものは気力や体力、知力の源であって、食こそが大事なものだということです。
食糧難で飢えに苦しむ人達を見たり、戦争中に冤罪で拘留された際に留置場内で食べものを奪い合う拘留者を見たときに、「食こそが最も崇高なものだ」という考えに安藤氏は至りました。
食足りて世は平らかになるという意味の「食足世平(しょくそくせへい)」は安藤氏が好んで使う言葉です。

インスタントラーメン開発の切っ掛けになったもう一つの出来事は、この時代の大阪梅田で中国からの引揚者がラーメン屋台を始めたことで、この店が大変に繁盛しているのを見て、安藤氏は日本人は本当に麺類が好きなのだと感じたといいます。

          ○

これらの光景を見たことや、当時は米よりも小麦粉の方が入手し易かったという事情があったり、国が援助物資の小麦粉を日本人に馴染みのある麺に使うことを奨励せずにパン製造を支援していたことに疑問を持ったこともあって、国がやらないのであれば自分が一般の人達が気軽に食べられるラーメンを創ってやろうと安藤氏は決意し、自宅の庭に小さな小屋を建ててここでインスタントラーメンの開発を始めました。
開発にあたって「美しくて飽きのこない味」、「保存性の高いもの」、「調理に時間や手間が掛からないもの」、「安価なもの」、「安全で衛生的なもの」をつくることを安藤氏は目標に立てました。

          ○

ラーメンのスープは、西洋でも東洋でも受け入れられ、ヒンズー教徒やイスラム教徒でも食べることができる鶏を使ったチキン味にしました。 Chicken2 スープを開発していた頃、家で食べるために仮死状態にしておいた鶏が突然暴れだしてしまい、これを見た安藤氏の息子さんは鶏肉が食べられなくなってしまったそうです。 しかし鶏肉を食べることができない子でも鶏ガラスープのラーメンは喜んで食べました。 このことから、チキンスープを使うことに安藤氏は自信を深めたといいます。

          ○

インスタントラーメンが創られる中で開発された最も重要な技術の一つは麺を油で揚げることです。
お湯を掛けるだけで短時間に復元する乾燥麺の開発は、天ぷら屋で天ぷらが揚がるところを見ていてヒントを得たといいます。
麺を油で揚げると、水分が蒸発するときに麺に細かな穴があくため、短時間でお湯を麺に浸透させることができることに気づいたのです。(関連:「コシヒカリやデンプンのα化」)
しかも、高温の油で揚げることは麺の殺菌にもなります。

          ○

開発を決意してからなんと10年の歳月をかけインスタントラーメンは完成されました。
最初は手作業で一日に300食程度が作られ、昭和33(1958)年8月25日に、大阪市中央卸売り市場に最初のチキンラーメンが卸されました。
当時のキャッチコピーは「お湯をかけるだけ2分でOK」というもので、価格は35円でした。
その頃のうどん玉は6円で乾麺は25円だったこともあり、35円のチキンラーメンを卸問屋に持ち込んでも最初は相手にしもらえませんでした。
しかしチキンラーメンは店頭に置かれるとすぐに売れてしまうことから、問屋からの注文が相次ぐようになったといいます。
サンシー殖産として始まった安藤氏の会社は、チキンラーメンが発売された年に日清食品となりました。
その翌年には、インスタントラーメンは年間7,000万食(!)も生産さるようになり、昭和35(1960)年に森永製菓が発売した「インスタントコーヒー」が人気商品となったこともあって、「インスタント」という言葉がこの時代のキーワードとなり、インスタントラーメンの需要は急速に拡大していくことになります。

          ○

Noodle_1 昭和37(1962)年には明星食品が麺とスープを別にした「支那筍入り明星ラーメン」の発売を始め、これによりスープの味を調合することが容易になりました。
昭和41(1966)年にはサンヨー食品が発売を始めた「サッポロ一番」に初めて乾燥ねぎがつけられています。
同じ年に発売された明星食品の「明星チャルメラ」のスープの味はホタテがベースにされ、麺にはより質の高い小麦が使われて味の差別化が図られるようになります。
昭和43(1968)年にはダイヤ食品がノンフライ麺を発売するなど、1960年代には様々なインスタントラーメンが次々と登場したわけですが、最初のインスタントラーメンであるチキンラーメンの製法はその後の多種多様なインスタントラーメンが作られるときの基本となりました。

          ○

富士総合研究所が行った「20世紀の世界をうならせたメイド・イン・ジャパン」という意識調査では、二位のカラオケや三位のヘッドホーンステレオを抑えてインスタントラーメンが一位に選ばれています。
(四位以下は、家庭用ゲーム機、コンパクトディスク、カメラ技術、黒澤明、ポケットモンスター、自動車技術、寿司と続きます)

最初は問屋に相手にされなかったインスタントラーメンですが、日本即席食品工業協会のホームページにある資料によれば、現在の日本でのインスタントラーメン消費量は年間54.4億食、世界中では年間857億食のインスタントラーメンが食べられているそうです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店

<ラーメン関連>

インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福 インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福
中尾 明

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魔法のラーメン発明物語―私の履歴書 魔法のラーメン発明物語―私の履歴書
安藤 百福

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食欲礼賛 食欲礼賛
安藤 百福

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安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない 安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない
鈴田 孝史

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インスタントラーメン発明物語 インスタントラーメン発明物語
インスタントラーメン発明記念館

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2006/08/22

かつお節の作り方

かつお節はその製造工程の段階によって節に名前がつけられ、それぞれ異なったかつお節として区別されています。
まず「生利節(なまりぶし)」が作られ、その後は手が加えられるごとに「荒節(あらぶし)」、「裸節(はだかぶし)」となり、最終的には「本枯節(ほんがれぶし)」が作られます。

          ○

工程の最初にかつおが捌かれますが、小型のかつおは三枚に下ろされ、大型のものは三枚に下ろされたものが更に背と腹に分けられて四本の節がつくられます。
節が四つに分けられたときは背側の身が雄節(おぶし)、腹側は雌節(めぶし)と呼ばれ、小型のかつおが3枚に下ろされた場合には、その半身は亀節(かめぶし)と呼ばれます。
亀節からは繊細な味の出汁がとれるとして、吸い物用には亀節を使うというこだわりをもつ料理人もいるそうです

          ○

かつおを下ろしたときに出るかつおのハラワタはかつお節には使われないので、土佐では江戸時代の頃からこのワタを塩辛にするようになりました。
この塩辛は「酒盗(しゅとう)」 と名付けられ、酒に合うつまみとして今でも作り続けられています。

          ○

かつおの切り身は大釜で1時間から1時間半程度煮られた後に、身から小骨が取り除かれ乾燥させられます。
ここまでの状態になったものが「生利節(なまりぶし)」とよばれます。
乾燥作業が施されているとはいっても生利節はまだ水分を多く含んでいて柔らかく、魚臭さが残るため出汁を取るためには使えず、和え物や酢の物にして食べられます。
生節を削いだものは、しょうが醤油につけたり大根おろし醤油につけてもおいしく食べられます。

          ○

生利節には、蒸籠に並べて煙と熱をあてて乾燥する「焙乾(ばいかん)」という作業と、常温で一晩冷やす「罨蒸(あんじょう)」という作業が何度か繰り返し施され、「荒節(あらぶし)」とよばれる節に変わります。
罨蒸作業によって節内の水分は均等に行き渡るようになります。
罨蒸中に節の外側にも水分は染み出てきますが、節には布が被せられて水分の蒸発が防がれます。
10〜15回も焙乾と罨蒸が繰り返されると節はカチンコチンに堅くなります。
荒節の段階でもまだ魚臭さは残っていますが、濃厚な出汁を必要とする麺つゆや味噌汁などの出汁をとるのに荒節は向いており、削り節などにも加工されます。

          ○

荒節を削って整形したものが「裸節(はだかぶし)」で、別名「鬼節(おにぶし)」とも呼ばれるものです。

          ○

裸節は1〜2日程度天日で干された後、「カビつけ」のために通気のよくない部屋に置かれます。
カビつけは、裸節にカビを繁殖させて節内の水分をカビに吸収させることで水分を更にとばす作業です。
カビつけにより節内の水分含有量は10数パーセントにまで下がります。

かつお節づくりには麹カビの一種の鰹節菌が利用されますが、もちろんこの菌は人体には無害です。
この鰹節菌がかつお節の水分を取り除くだけでなくカツオの脂を分解する酵素を出す役割を果たしています。
酵素により魚臭さの元になる脂質は分解され、旨味の素になるイノシン酸は増加します。

ヨーロッパのような乾燥している地域では、カマンベールチーズやブルーチーズなどで例外的に使われる以外は、乾燥を嫌うカビを使って保存性を高める方法はあまり使われていません。
日本は雨量も多く湿度も高いため、カビを繁殖させるには適しており、かつお節のカビつけのような製法も生み出されてきたのです。

節の表面がカビで覆われる度にカビは払い落とされ、払い落としては再び鰹節菌の胞子が植え付けられる作業が何回か繰り返されて、カビつけの工程には約100日程が費やされます。

          ○

カビつけ作業が施されると成分が濃縮され香りの良い本枯節(ほんがれぶし)がついにできあがります。
ここまでの工程の中で繰り返される乾燥と熟成によって節内の水分は殆ど無くなるため、上等のかつお節二本を互いに打ちつけると、カキンカキンと金属バットで硬球を弾き返すときのような音が響きます。
味と香りが研ぎすまされた本枯節は幅広い用途に使うことができます。

<参考書籍>

高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店
一島英治(2002)『発酵食品への招待—食文明から新展開まで』裳華房
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<かつお節関連>

木曽工芸 木曽檜鰹節削り器 木曽工芸 木曽檜鰹節削り器

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味一番 鰹節 削器 大 H-5045
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日曜日の遊び方 手作りかつお節図絵
大海 淳
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2006/08/21

酢漬けいろいろ

日本での酢の大量生産は江戸時代に始まり(関連:「酢の歴史」)、同時期に漬け物が発展したこともあり、この頃から酢漬け食品が一般家庭で食べられるようになりました。
現代の日本人にも馴染み深い酢漬けといえばらっきょうとしょうがの酢漬けでしょうか。

          ○

昔作られていたらっきょう漬けは食塩水に3週間漬けられ、乳酸発酵させることで作られていましたが、今のらっきょう漬けの作り方は、一度らっきょうを食塩水に浸けてから塩抜きして、その後甘酢に2週間ほど漬けるのが一般的です。
甘酢の作り方は、酢カップ1に砂糖を大さじ4〜6、塩を小さじ0.5〜1を加え一度沸騰させて作ります。
一度煮きることで酢の味の角が取れてトゲトゲしさがなくなります。

          ○

寿司屋でガリとよばれるしょうがの甘酢漬けは今やすしには欠かせません。
しょうがに含まれる芳香成分が魚の生臭さを隠す働きをし、しょうがの殺菌作用や抗酸化作用と酢がもつタンパク質分解酵素が生魚を食べたときの胃腸の負担を減らし消化の手助けをしてくれます。
もちろん、すしを食べる合間にガリをつまめば口中が爽やかになってすしの食が更に進むという効果もあります。
寿司店で出されるガリは根しょうがを使ったものが多いかもしれません。
新しょうがを甘酢漬けにするときれいなピンク色になりますが、根しょうがは白っぽい仕上がりになります。(関連:「しょうがの甘酢漬け」)

          ○

酢漬けは世界各地にあります。
中国にはにんにくを甘酢に漬けた「糖醋蒜」というものが煮物に使われたり、「醋薑」と呼ばれるしょうがの甘酢漬けがそのまま食べられたり炒め物に使われたりしています。

東南アジアでよく食べられる輪切りとうがらしの酢漬けは、麺料理やチャーハンの類いに入れられたりします。
タイの食堂のテーブルの上には、調味料セットとして唐辛子や砂糖、ナンプラーの他に「ナムソム」と呼ばれるとうがらしの酢漬けも置かれています。
シンガポールのサンドイッチ店のサブウェイでは、野菜類を全部入れて下さいと頼んだら、とうがらしの酢漬けも入れてくれた記憶があります。

          ○

日本人に有名なヨーロッパの酢漬けといえばきゅうりのピクルスでしょうか。
英語の「ピックル(pickle)」は塩水や酢に漬けるという動詞で、複数名詞の「ピクルス(pickles)」になると野菜や果物を漬けた漬け物全般を指します。

ザウアークラウトがキャベツの酢漬けと和訳されることもあるようですが、ザウアークラウトに酢は使われておらず、塩に漬けられたキャベツの乳酸発酵によって酸味が出されています。(関連:「ザウアークラウトの作り方」)

日本に輸入されるピクルスの多くは酸味の強くない甘酢のピクルスですが、ヨーロッパで好まれるピクルスはもっと酸味の強いものだといわれます。
油を入れすぎた料理やラーメンのスープに酢をほんの少量入れるとくどさが和らぐ感じがしますが、それと同様に油を多く使う欧米の料理には酸味が強い漬け物のほうが合うのでしょう。

ピクルスは日本に浸透しているとは言えませんが、その一つの現れでしょうか、日本ではピクルス用の短いきゅうりの品種が殆ど開発されてきませんでした。
アメリカやロシアではピクルス用きゅうりの品種は多く作られましたが、日本には江戸時代にシベリアから伝来したと言われる「酒田」とその改良型の「最上」の二品種くらいしかありません。

          ○

酢に漬けられるのは野菜だけではありません。
ヨーロッパで魚のマリネは北イタリアやフランスのプロバンス、スペイン、トルコ、バルカン半島などで食べられ、にしんの酢漬けは北欧のビュッフェ形式の食事スモーガスボードに欠かせません。
塩漬けにしんを三枚におろして酢に漬けるのがにしんの酢漬けの一般的な作り方ですが、ドイツのブラートヘーリングと呼ばれるにしんの酢漬けは、にしんが油で揚げられてから酢に漬けられます。

          ○

日本で有名な魚の酢漬けに岡山県のままかり漬けがあります。
関東でサッパとよばれるにしん科の小魚の腹と頭が取り除かれ、塩で身がしめられてから酢で洗われ、酒や砂糖が加えられた酢の中にしょうがや昆布などと一緒に漬けられ作られます。

サッパのことを瀬戸内地方ではママカリと呼びます。
明治初期のジャーナリストの成島柳北がこの魚を食べたときのことを、「その魚、初めて漁船に上がる 魚人、これを食うに美味なり、一船の飯を喫しつくし、ついには隣船より飯を借りて食う」と随筆に書き、この文章の中の「飯借」が魚の名の「ままかり」になり、「ままかり漬け」の名前の由来になったといわれます。

ままかり漬けはご飯に合い、隣の家からご飯を借りなければならないほど食べ過ぎてしまうことから、この漬け物に使われる魚がママカリと呼ばれるようになったのだという説もあるようです。

<参考書籍>

成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店

<酢・漬け物関連>

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2006/08/18

からすみ親子

からすみの名産地の長崎では「からすみ親子」という言い方があるそうです。
これは「鳶が鷹を生む」と同じで「平凡な親から非凡な子が生まれる」ことの喩えです。

ボラが「平凡な親」の喩えにされるのは、ボラの卵を原料とするからすみが高価な珍味として扱われるのに、親の方のボラの身は臭みがあっておいしくないという思い込みがあるからでしょう。
たしかに、ボラは微生物を食べるために、川底に溜る生物の遺体や排泄物を泥と一緒に取り込んでしまうため、水底が汚れているとボラの身は臭くなってしまいます。
ボラの若魚は暖かい季節に河口近くまでやってくるのですが、この身は特に泥臭いといわれます。

          ○

ボラは出世魚で、ハク→オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドと成長するにつれ名が変わります。
老成魚のトドが「とどのつまり」の由来だと一般的にはいわれており、世間知らずを意味する「おぼこ」という言葉はボラの稚魚の名前のオボコが語源になっているといわれています。

          ○

ボラは生まれてから2〜3年は内湾で過ごしますが、4歳くらいの秋になると産卵のために外海に出て行きます。
外洋に出ると臭みが薄れるため、産卵期の1〜2月のボラは寒ボラと呼ばれおいしいとされます。
ボラの目は脂瞼という膜で覆われており、冬期にはこの脂肪の膜は厚さを増すのですが、目が潤んで見えるほど脂質が厚くなっているものの方が味が良いとされています。
ボラは刺身やあらい、塩焼き、バター焼き、味噌汁などにして食べられます。

ボラが食べる泥の中に含まれる有機物の影響でボラの胃壁は発達しており、胃の出口付近が固い塊のようになっています。
この塊の形が算盤(そろばん)の玉に似ていることから「ソロバン玉」と呼ばれ、塩焼きにするとコリコリとした食感が楽しめる珍味中の珍味として扱われています。

台湾ではボラの胃を乾燥させたものが食べられますが、これはガムのように弾力があるそうです。

名古屋には、ボラの内臓を取り除き、空いた隙間に具を詰めて焼く「イナまんじゅう」という料理などもあります。

          ○

カラスミボラと呼ばれる産卵期をむかえた4歳のボラは群れとなって長崎県の野母崎(のもざき)(左の地図マークの辺り)の沖を回遊して産卵場所に向かいます。この頃に取られるボラの卵巣の質は最高だとされています。 国内では和歌山や静岡、高知などでもからすみはつくられています。 最近はエジプトやオーストラリアからも輸入されていますが、最高な時期にとれた卵巣を使う長崎野母崎産からすみは別格扱いで、その中でも左右対称のからすみは特に上物として扱われます。

野母崎にはからすみの語源についての言い伝えがあります。 1588年に、当時は単に「ボラの真子」とよばれていたからすみを、長崎代官が長崎名産として豊臣秀吉に献上しました。 秀吉はこれを気に入り、代官にこの珍味の名を聞きました。 「ボラの真子」では面白みがないので何か気の利いた名前はないかと代官は思案し、「唐の墨」に似ていることから「からすみ」という食べものですと答えたといいます。それ以来からすみの名が使われるようになったという話しがあるそうです。

          ○

江戸時代の野母崎は、九州地方の大名の参勤交代時の献納品を運搬するための寄港地として使われ賑わいました。
野母崎を利用する商人や大名から大量のからすみの需要があったため、長崎奉行の大事な仕事の一つはからすみの確保と管理だったといいます。
その頃から、越前のうにや三河のこのわたと並んで、からすみは三大珍味の一つとされていたのです。

          ○

からすみを製造するときは、まず雌のボラの腹が特殊な包丁で開かれ、卵巣が傷つかないように取り出されます。
取り出された卵巣は水で洗われてから、表面に塩がすり込まれ、その後一週間ほど塩に漬け込まれます。
それから、水に7〜8時間程度浸けられて塩が抜かれてから板に並べられ、重しで軽く圧力を掛けられたり形が整えられたりしながら寒風と天日の下で10日間ほど乾かされて完成します。

          ○

台湾ではボラを烏魚(ウーユイ)といい、からすみを烏魚子(ウーユイツー)といいます。
福建省や広東省の中国人が高雄の辺りに漁に行き、一部の漁師達がそこに住みついたときにボラとからすみが台湾に伝わったとされています。
台湾のからすみは日本のように高級品扱いされず、屋台で売られるビーフンにもからすみが入れられたりするようで、これはイタリア料理でパスタに粉末からすみを入れるのと同様に調味料のようにして使われているわけです。
からすみを火で炙ってからスライスしてにんにくや大根の薄切りと一緒に食べたりもしますが、これは正月によく食べられるようです。

          ○

イタリアのシチリア島では、薄皮を破らないように取り出されたマグロの卵に塩を染み込ませ、重しがのせられて更に塩漬けにされ、その後風通しの良いところで乾燥されたものが作られており、これがブータルグと呼ばれています。
マグロの卵のブータルグは最終的には四角く形が整えられ重さは7キロになるといいます。
ボラの卵を使った同様の製法でつくられるもの、つまりはからすみ状のものは、イタリアのサルデーニャ島、フランス領のコルシカ島、チュニジア、エジプト、トルコなどで作られており、スライスしてオイルや酢、コショウをかけて食べられています。

<参考書籍>

講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典 』講談社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
岩井保 (2002)『旬の魚はなぜうまい』岩波書店
周 達生 (1994)『中国食探検—食の文化人類学』平凡社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋

<酒の肴関連>


iwaki パイレックス 村上祥子のレンジで早うま!おつまみ 7001-MU iwaki パイレックス 村上祥子のレンジで早うま!おつまみ 7001-MU

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おつまみ大事典519レシピ—酒を楽しむ肴の極意! おつまみ大事典519レシピ—酒を楽しむ肴の極意!

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特選 おうちで居酒屋—酒の肴つくり方読本 魚介13種のさばき方付 特選 おうちで居酒屋—酒の肴つくり方読本 魚介13種のさばき方付
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2006/08/17

米と糠(ぬか)

毎月8日、18日、28日は全国農業協同組合が決めた米の日です。
岩手農政部農産物流通課は明日8月18日を米の日としているそうです。
どちらも漢字の「米」の字が「八」や「十」を含んでいることに因んでいます。

          ○

稲の「籾(もみ)」という語句は、外皮が付いたままで脱穀される前の米である「籾米(もみごめ)」の意味で使われたり、外皮の「籾殻(もみがら)」の略語として使われる場合があります。
穂からもみ米が落とされることを「脱穀」、もみ米からもみ殻が取り除かれ作業を「籾すり」といいます。

          ○

もみ殻が取り除かれたものが、最近は健康ブームで何かと取り上げられている「玄米(げんまい)」です。 玄米のまわりには「糠層(ぬかそう)」と呼ばれる層があります。Komenuka_1  ぬか層は、外側から順に「果皮」、「種皮」、「アリューロン層」からなり、これらが粉になったものが「糠(ぬか)」と呼ばれるものでぬか漬けに使われるぬか床になるものです。 米だけでなく麦などにも同様にぬかはついていますが、日本人にとってのぬかは一般的には米ぬかを指します。

玄米には、芽を出して成長する部分である胚芽(はいが)もついています。 最近は「発芽米」というものがありますが、あれは胚芽から芽が出ている玄米です。 玄米を炊くときには長時間水につけたり、圧力を掛けて加熱しなければなりませんが、発芽米は白米と一緒に普通に炊くことができます。 これは、発芽が始まると玄米の細胞壁の分解が始まるため、単なる玄米よりも発芽米の方が柔らかくなるためです。

          ○

玄米からぬか層と胚芽を取り除くことを「精米」といい、玄米を精米すると白米になります。
「搗(つ)きたてのお米」という言い方がされますが、昔は杵などでついて精米していたために今でも「搗(つ)く」という言い方をするわけです。
現在は精米機によって表面が磨かれたり削られたりしてぬか層が取り除かれています。

          ○

ドラマなどで戦時下の家庭を描写するときに、女性が一升ビンに入れた米を棒でザックザックとついている光景が出てきたりしますが、あれも精米をしているところです。
戦争中の米不足の際に、配給米の量を維持するために、国は精米業者に対して精米の程度を70%に制限し、これにより糠層が多く残る米が出まわりました。
ぬか層が多く残る米は量は増えても味は悪いし消化しずらく腹に悪いため、家庭内で再度精米をするようになったのです。
ビンに詰められた米に棒を挿して米同士を擦り合わせて、米表面に残ったぬか層を取っていたのです。

          ○

「無洗米」というものがありますが、これは普通の白米の外側につくサブアリューロン層までが取り除かれているもので、表面を削る量が多い分、無洗米は白米より少し小粒になります。
しかし無洗米にはないこのサブアリューロン層がうま味のもとになるともいわれています。

          ○

現在一般に売られている白米は精米機によって磨かれたものなので、サブアリューロン層すら残っておらず、ほとんど無洗米同様に表面が削られています。
昔の米にはぬか層の破片が残っていたため、力を入れてギュッギュッと研いでアクをとりましたが、今は米に水を入れて数回かき混ぜることを2〜3回も行えば十分なのです。
今の米でもとぎ汁が白く濁るのは米表面から澱粉が流れ出しているためで、あれは糠ではありません。
ただし古米で臭いがある場合は研いだ方が美味しくなる場合もあります。

<参考書籍>
高橋素子(2004)『Q&A ご飯とお米の全疑問』講談社

<米関連>


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2006/08/16

そうめんの元祖

「そうめん」と「うどん」と「ひやむぎ」は何が違うのでしょう。
日本農林規格(JAS)では、そうめんのことを「小麦粉を原料とした直径1.3mm以下の乾麺」と規定しています。
直径が1.3mmから1.7mmまでのものは「ひやむぎ」、1.7mm以上の太さになると「うどん」に分類されます。
現在これらの麺はほとんど同じ原料を使って機械で製麺されているため、太さで分類されているのですが、そうめんとひやむぎ、またはそうめんとうどんは本来異なるタイプの麺です。

          ○

そうめんは、小麦粉に塩と水を加えてこねたものの表面に粘りを出すための油を塗り、これをロープのように延ばして二本の棒に巻き付けた後、それらの棒を反対方向に引き離してロープ状の生地を糸のように細長く引き延ばすことで作られます。
うどんを作るときも小麦粉に水と塩を加えて練りますが、油は使われず塩だけでねばりが出され、これがワンタンの皮のように広げられてから包丁で細長く切り出されます。

          ○

そうめんのように作られる麺を「延べ麺」、うどんのような麺を「切り麺」として区別できます。
うどんを冷やして食べるようになったとき、うどんをより細く切ったことからひやむぎが生まれたといわれ、うどんとひやむぎは兄弟とも言えます。
うどん・ひやむぎの切り麺兄弟とそうめんとでは家系が異なるようなものなので、これらの麺が全て従来の製法でつくられているならば、体型が太いか細いかの外見だけで区別されることはなかったでしょう。
ただし日本農林規格でも、そうめんの原料に油が使われる場合には、これを「手延べそうめん」に分類しています。

          ○

麺生地を延ばすそうめんの製法は鎌倉時代に中国から伝わり、僧院などで盛んに作られ、室町時代にはそうめん作りの技法が確立されたと考えられています。
そうめんは仏への供え物として扱われたり精進料理に使われたことから一般にも広く普及しました。
伝来時には中国語の「索麺(ソーミエン)」として持ち込まれたのに、室町時代になって「索麺」と書き表すだけでなく「素麺(そうめん)」という表記も使われ始めたのは、中国語で精進料理のことを「素菜(スーツァイ)」といい、索麺が精進料理として食べられたために素麺とも書くようになったのだという説もあります。

          ○

では鎌倉・室町時代に伝わった索麺がそうめんの始まりかというとそうとも言えません。
それ以前の食べものにそうめんの原型ともいえるものがあるからです。
それは奈良時代に中国から伝わった「索餅(さくべい)」で、日本では「麦縄(むぎなわ)」とも呼ばれたものです。
この索餅が登場する文献の『延喜式』には、材料として米粉と小麦粉と塩を1:2.5:0.09程度の割合で使うことが書かれていますが、作り方は詳述されておらず、どのように食べられたかについては後世になって二つの説が唱えられました。

          ○

一つは、索餅とは麺であり、太い麺だった索餅が鎌倉時代に普及した細いそうめんの源流だとする「索餅 = 麺」説で、以前はどちらかというとこの説の方が有力でした。

しかし伊藤汎氏の著書『つるつる物語—日本麺類誕生記』で、江戸時代の文献で「索餅」と「素麺」という言葉が同じ箇所で使われているものがあることが指摘されたり、『延喜式』に記された材料で細長い麺状の食べものができるのかなどの疑問もあって、次第にもう一つの説である「索餅 = 菓子」説が支持されるようになってきたようです。
中国語で「索餅」とは「索(なわ)のような小麦粉製品」という意味だから、練った小麦粉を延ばして二本の縄をより合わせたようにしたものが索餅だと考え、小麦粉を練って延ばすところは素麺と共通するところではあるが、索餅は麺ではなく菓子だったと捉えているのが「索餅 = 菓子」説です。

以前「七夕と索餅と酒」という題で索餅のことにふれたときは、「索餅 = 麺」説をとる石毛直道氏の『文化麺類学ことはじめ』などを参考にしたため、「索餅は蒸したり茹でたりして汁につけて食べた麺だと考えられているが、油で揚げた菓子だという説もある」と多少「索餅 = 麺」説よりの書き方になりました。
索餅は麺だったのか菓子だったのかを示す決定的な証拠はまだ出ていないようですが、今は「索餅 = 菓子」説の方が定説として扱われていることが多いようです。

<参考書籍>

石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店
NHK取材班(1990)『麺、イモ、茶人間は何を食べてきたか 麺、イモ、茶 』日本放送出版協会
伊藤汎氏(1987)『つるつる物語—日本麺類誕生記』築地書館

<そうめん関連>


山一の島原手延胡麻めん 黒胡麻 白胡麻 山一の島原手延胡麻めん 黒胡麻 白胡麻

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2006/08/15

ゴーヤー料理とビタミンC

「苦瓜(にがうり)」は別名「つるれいし」といい、沖縄の方言では「ゴーヤー」と呼ばれますが、沖縄の中でも宮古島ではゴーラー、与論島ではゴーウイとなります。
今やゴーヤーという呼び名の方がにがうりより一般的になってしまっているようなので、ここでもゴーヤーと呼ぶことにします。

          ○

ゴーヤーの原産地は東南アジアで、14世紀末に中国に伝わったといわれています。
16〜17世紀頃、日本に伝わったと考えられていますが明確には分かっていません。
中国語で苦瓜(にがうり)を「クーグヮー」と言い、これがゴーヤーの語源ではないかという説があります。

          ○

調査によると、2000年以前は日本人の約半数しかゴーヤーの名を知りませんでしたが、九州・沖縄サミットやNHK朝の連続ドラマ小説「ちゅらさん」の「ゴーヤーマン」などのおかげでゴーヤーの呼び名が全国的に広まりました。
現在では99.7%と日本人のほぼ全員がゴーヤーを知るようになっています。

          ○

インドには手のひらサイズで色の濃い細かいイボがついたゴーヤーがあったり、台湾ではイボが大きくクリーム色のものが出まわっていたりします。
タイでは長くて色が薄い種類がマラ・チーン、丸く色が濃いものがマラ・キーノックと呼ばれています。

          ○

名護市にある「ゴーヤーパーク」ではアジアや北南米など世界中のゴーヤーが栽培されているそうです。
ゴーヤーパークのサイトにはゴーヤーの歴史やレシピ情報があり、ゴーヤー茶やゴーヤー青汁なども販売され、もちろんゴーヤーパークの情報もあります。

          ○

今はハウス栽培があるので一年中店頭に並ぶゴーヤーですが、露地栽培されたゴーヤーは6〜8月に掛けてが旬です。
日照時間が長いほどゴーヤーの苦味は増すといわれています。
形が大きくて白っぽい色で、イボの一つ一つが大きいゴーヤーは苦味が比較的少ないものです。
持ったときにズシリと重く表面に弾力のあるものが良いゴーヤーで、反対に古くなってくると表面のイボからしなび始め、皮に黒っぽい斑点が出てきます。
ゴーヤーは中の白いワタの部分から傷みだすので、ワタと種を取り除きラップで包んで冷蔵すると保ちが長くなります。

          ○

レモンの約1.5〜2倍、キュウリの約5〜6倍のビタミンCがゴーヤーには含まれているともいわれ、ゴーヤーはビタミンC含有量が多い野菜の一つです。
しかもゴーヤーのビタミンCは加熱しても壊れ難いといわれています。
ゴーヤーには肌に良い成分も含まれているらしく、沖縄ではゴーヤーの葉は汗もを治すとされ、小さい子供を行水させるときにゴーヤーの葉を揉んで入れたりもしたそうです。

          ○

栄養が摂れて食欲を増進するゴーヤーを使った料理も様々です。
イタリア料理のパプリカのマリネのように、ゴーヤーを直火で黒く焼いてから水で洗って皮をとり、種などを取り除いて薄切りにしてオリーブ油とポン酢を混ぜたものをかけたり、鰹節と醤油をかけてみても美味しいですね。

タイの中華系の家庭では、厚めに輪切りにしたゴーヤーの中をくり抜いてそこに豚のひき肉を詰め、これをスープで煮込んだものがよく作られます。
ゴーヤーの苦味が豚肉のうま味と相まって爽やかな感じのするスープで、暑いところで食べるのにはピッタリです。

純和風にゴーヤーをぬか漬けにすると、暑い時期に合う夏の味の漬け物ができます。

ゴーヤーや紅イモをスライスして水気をきってから片栗粉をまぶし、170〜180℃の油で揚げたものに塩をふるゴーヤーチップスや紅イモチップスが沖縄では食べられるようです。
先日のTBS系の番組「チューボーですよ!」でも作られていましたが、なるほど美味しそうでした。

しかし日本で一番有名なゴーヤー料理といえばやはりゴーヤーチャンプルでしょう。
元々は、豆腐が入った炒め物がチャンプルーで豆腐抜きのものはタシヤーと呼ばれていたのが、戦後になってから豆腐を入れるかどうかに関係なくチャンプルーとよばれるようになったようです。
沖縄と同様に豚肉がよく食べられるベトナムでもゴーヤーと豚肉を炒めた料理は作られています。

<参考書籍>

吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
宮城重二(2003)『沖縄の食材・料理—長寿日本一を支える沖縄の食文化』東方出版
吉川敏男・上野年勇(2004)『体にいい沖縄野菜健康法』実業之日本社
タキイ種苗株式会社出版部(2002)『都道府県別地方野菜大全』農山漁村文化協会
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館

<ゴーヤー関連>


おいしいゴーヤを召し上がれ―春夏秋冬を楽しむ健康レシピ&カラダに効く知識 おいしいゴーヤを召し上がれ―春夏秋冬を楽しむ健康レシピ&カラダに効く知識
秋好 憲一

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ちゅらさんファンブック 新装版 ちゅらさんファンブック 新装版
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天下無敵のゴーヤーマン☆ 天下無敵のゴーヤーマン☆
ガレッジセール 岡田憲和 丸山和範

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2006/08/14

ピタはなぜ薄いパンなのか

最近、「ピタ」というパンを使った商品をファーストフード店が期間限定で売り出していますね。
このピタはパンの原型ともいわれ、中近東やバルカン半島などで食べられているパンです。
古代の昔からパンを作ってきたエジプト(関連:「古代のパン」)でも食べられており、エジプトではピタのことを「アイシ」と呼んでいます。
「アイシ・バラディ」という「我々の命」という意味の言葉が縮まって「アイシ」という名になりました。
トルコにはピデと呼ばれる少し厚めのお焼き風のパンがありますが、これはピタが語源だといわれ、イタリアのピッツァの呼び名もピタに由来するといわれています。

          ○

ピタの特徴は平たい形と中が空洞になっていることにあります。
平たいパンは「平焼きパン」として分類され、ふっくらと焼き上げたパンと区別されますが、ピタはこの平焼きパンにあたります。
また、ピタには生地を発酵させてから焼いたものと、発酵させないで焼いたものがあります。
どちらのタイプも平たいパンですが、無発酵タイプのピタの方がより薄いパンに仕上げられます。

          ○

ピタの作り方は、小麦粉を水で溶いて薄い生地をつくり、これを短時間に高温で焼いて生地をプクッと膨らませます。
膨らんだところはまるで自動車のエアバッグが開いたような感じになります。
ピタの詳しいレシピについては『ニューヨークスタイルの人気のパン』のピタの項や、『パンの基本大図鑑』のアイシの項などが参考になります。

          ○

膨れたピタを半分に切ると中は空洞になっているので、ここに煮込み料理や豆のペーストなどのおかずがつめられてサンドイッチのようにして食べられます。
平焼きパンは焼いている間に水分がとんでしまいパン表面にあく穴が細かくなり、煮込み料理などを載せたり挟んだりしても直ぐに水分を吸い込んでグチャグチャと柔らかくなるようなことはありません。
ふっくらとした食パンがスポンジのように水分を吸ってしまうのとは対照的です。

          ○

ピタなどの平焼きパンを食べる地域にはいくつかの共通する特徴があります。
まず材料ですが、タンパク質の含まれる量が少ない小麦粉を使ったり、小麦粉以外の穀物をつかってパンをつくる地域では無発酵パンが作られる場合が多く、無発酵のパンは焼き上がっても気泡ができず固くなってしまうので、どうしても薄い平焼きパンを作ることになります。
トウモロコシ粉でつくるメキシコのトルティーヤや小麦全粒粉(小麦を殻ごと粉にしたもの)でつくるインドのチャパティなどがこの例です。

          ○

パンを焼く燃料に乏しい地域では平焼きパンをつくる場合が多いということもあります。Pita250_3 ピタが食べられる中近東などの地域には、ピタを作ったりするためのサージとよばれる中華鍋を裏返したような鉄製の調理器具があります。地面に石を置き空間をつくり、そこに木材などの燃料を入れ、それらの上に凸面が上になるようにサージが置かれます。傘のように覆いかぶさるサージによって熱が外に逃げ難くなっており、しかもサージ全体に熱が均等にまわるようになっています。

サージは移動時に便利でこのサージ一つを背中に担いで移動することができます。 パンを焼くだけでなく凹面を上にして鍋として使うこともでき、まるで優れもののアウトドア用品のようなものです。

          ○

燃料が少ない地域で平焼きパンを作るのとは反対に、ヨーロッパなどの森林地帯では燃料を手に入れるのは容易なため、薪をふんだんに使って焼くタイプのパンが発達しました。

その地域で穫られる穀物の種類や手に入る燃料の量によってパンを焼く方法や道具に特色が生まれました。
地域によってパンの焼き方や道具が異なったことで、世界の各地で形や厚さの違う多種多様なパンが作られることになったのです。

<参考書籍>

舟田詠子(1998)『パンの文化史』朝日新聞社
鈴木薫(2003)『世界の食文化 (9) トルコ』農山漁村文化協会
大阪あべの辻製パン技術専門カレッジ (2003)『パンの基本大図鑑—パン・マルシェ』講談社

<パン関連>

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2006/08/11

鮑(あわび)はパワーの象徴

鮑(あわび)と日本人の結びつきは古来から続いてきたものです。
縄文時代の貝塚から鮑の貝殻が発掘されたり、弥生時代の日本人の風習を伝える『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には日本人は鮑を好むと記されたりもしました。
804年頃の伊勢神宮の最古の儀式記録にも鮑が奉納されたという記述があります。
武士の時代になっても鮑は不老不死の象徴として出陣や帰陣の際の祝いの食膳に出されたりしました。
古代から日本人は鮑を食べるだけでなく、鮑には特別なパワーが秘められていると考え、神仏に供えたり儀式に使ったりしてきたのです。

          ○

祝儀で使われる「熨斗(のし)」とはもともと熨斗鮑(のしあわび)のことを指しました。
熨斗鮑とはあわびをごく薄くスライスして伸ばして乾燥させたもので、「伸ばす」ということが「末永く続く」ということにつながり、お祝い事の進物に熨斗をつけるようになったといわれています。Noshi

平安時代に残された文献の『延喜式(えんぎしき)』の中にも朝廷への貢ぎ物として熨斗が記録されており、この頃から熨斗は存在していたことが分かっています。

ただし、現在一般的には熨斗と言っても鮑は使われず印刷か熨斗を模した代用品が使われています。
家にあった祝儀袋をスキャンしてみました。真ん中の黄色く長細いものが熨斗鮑を模したものです。(画像をクリックすると拡大します)

          ○

鮑は片思いの恋の喩えとして和歌などにも詠まれてきました。
鮑は巻貝なのですが、まるで二枚貝が割れてしまったような外見をしていることから片思いの象徴とされ、歌の中で隠喩的に使われたのです。

 伊勢のあまの 朝な夕なに 潜(かづ)くとふ 
  鮑(あわび)の貝の 片思(かたも)ひにして
            『万葉集』詠み人しらず

          ○

このような歌が詠まれたからか、寿司職人の隠語ではあわびを「片思い」と呼びます。
寿司職人用語では、鮑の貝殻につく筋肉を「ホシ」、身のざらざらした部分は「ミミ」、外套幕(がいとうまく)は「ヒモ」、内臓を「ワタ」と言い表します。

          ○

日本近海で食用になる鮑にはメガイアワビ、クロアワビ、マダカアワビ、エゾアワビの4種類があります。
クロアワビは生息数が減少していることもあり、この中でも特に高級品として扱われています。
クロアワビの北方系の鮑がエゾアワビであることから、北海道で獲ったエゾアワビを暖流の海域に移して養殖することも行われています。
マダカアワビは秋が旬ですが、クロアワビなどは夏の今が旬です。

<参考書籍>
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

<鮑関連>

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし 五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし
古今亭志ん生(五代目)

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祝儀袋・不祝儀袋 表書きのマナー 祝儀袋・不祝儀袋 表書きのマナー
岩下 宣子

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食材魚貝大百科 全4巻
多紀 保彦 中村 康夫
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2006/08/10

トマトの語源

トマトの祖先の植物は南アメリカ西部のアンデス山脈周辺が原産地だというのが定説になっています。(関連:「トマトの原産地」)
現在は世界中でトマトが食べられていますが、コロンブスの航海以降にヨーロッパ人が中南米大陸の存在を知るまではアメリカ大陸以外に住む人達はトマトという野菜があることを知りませんでした。

          ○

1519年にスペイン軍がアステカ帝国を侵略したときに、スペイン人がヨーロッパ人としては初めてトマトのことを知り記録に残しています。

1575年になってフランシスコ会のベルナルディーノ・デ・サアグン修道士がアメリカ大陸について書いた著書の中でメキシコで見たトマトについて更に詳しい様子を伝えています。Tomato150

アステカの一種族であるナファ族の女性がアユィ(aji = 赤唐辛子)とペピタス(pepitas = カボチャの種)、香草、そしてトマトゥル(tomatl)を混ぜてソースを作ったとサアグン修道士は書き残しました。
この「トマトゥル」がトマトのことです。
特別な宴会などで出される魚や肉の料理に限ってこのトマトソースは使われたといいます。

          ○

ちなみにトマトゥルには赤いトマトと食用ホウズキの両方の意味がありました。
現在のメキシコでも、緑色のトマトを意味する「トマト・ベルデ (tomate verde)」という言葉が食用ホウズキの名としても用いられ、赤いトマトは「ヒトマテ(jitomate)」と呼ばれています。

          ○

トマトソースも登場するサアグン修道士の本の中では、スペインが滅亡させたアステカ帝国が如何に発達した文明を持っていたかが盛んに強調されていたためにスペイン国王の不評を買い、結局この本はスペインで発禁処分となってしまい、アステカのトマトソースのことがその当時に公にされることはありませんでした。

          ○

トマトの語源は、サアグン修道士が記録したように古代アステカ語でトマトを「トマトゥル (tomatl = 膨らむ果実)」と呼んでいたことに由来しており、世界的にこの野菜を「トマト」と呼んでいます。

16世紀前半にスペイン人がトマトをヨーロッパに持ち帰り、スペインではトマトを「トマテ」と呼ぶようになります。

1544年にイタリア人博物学者のマッティオーリが著した『博物誌』の中で、トマトは「熟すと黄金色になる」と説明されたことから、イタリアではトマトを「ポモ・ドーロ(pomod'oro = 黄金の果実)」と呼ぶようになりました。
現在でもイタリアでのトマトの呼び名はポモドーロです。
イタリアではアラブ人が好んで食べていたナスを「pomi di mori(黒人の果実)」と呼んでいたことから、同じナス科植物のトマトもナスと同じ呼び名になり、後にそれが縮まってポモドーロになったという説もあります。

フランスでトマトは「ポム・ダムール(pomme d'amour = 愛の果実)」と呼びましたが、この呼び名は19世紀になるまで使われていました。

<参考書籍>
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社)
内田洋子 (2003)『トマトとイタリア人』文藝春秋
橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社

<トマト関連>

トマトの絵本 トマトの絵本
もり としひと ひらの えりこ

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Le Creuset ココット・トマト チェリーレッド 25130-02-06 Le Creuset ココット・トマト チェリーレッド 25130-02-06

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ママゴトファミリー しゃべっておやさい ママゴトファミリー しゃべっておやさい

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2006/08/09

塩辛は調味料

古代メソポタミアでは魚の塩漬けと大麦の粥が主食になっていたといわれています。
昔のアラビア海沿岸などの乾燥地帯でもマグロやサーディーンを塩漬けにして食べており、古代エジプトの遺跡からも魚を塩漬けにする様子が描かれたレリーフが発掘されています。
魚の塩漬けや塩水漬けは古代から続く保存方法なのです。

          ○

魚に塩をして乾燥させる食品には干物や鰹節がありますが、魚を乾燥させずに生のまま塩に漬けておくと、酵素の作用や微生物の働きで発酵が起こり魚のタンパク質は分解されていきます。
うま味成分がつくられながら魚の形は次第に崩れていき塩辛状になりますが、さらに発酵がすすむと液状の魚醤になってしまいます。

          ○

魚を塩漬けにして発酵させたものは液状になった魚醤と完全に液状になっていない塩辛の二つに大別できますが、更に塩辛を、液体に固形状のものが含まれるものと、材料をすり潰してから発酵させたペースト状になったものとに分けることができます。
日本人にとって固形が残った塩辛の最も一般的な例はイカの塩辛ですね。
ペースト状塩辛の例にはベトナムのマム・ロク、マレーシアのプラチャン、インドネシアのトラシなどがあって、これらの材料には小エビなどが使われています。

          ○

室町時代以前の日本人は塩辛のことを「ししびしお」と呼んでおり、魚だけでなく鹿肉や兎肉も塩辛状に塩漬けしていました。
これが中世になって「うおびしお」と呼ぶようになります。
この頃になると獣肉の塩辛が作られなくなったことからこの呼び名に変わったのだといわれています。

          ○

江戸時代の初めころまで塩辛は調味料としても使われていました。
江戸時代初期に刊行された『百姓伝記』(1680年)には、東海地方の農漁村で味噌の代わりに塩辛をすり潰したものを大根や菜っ葉を煮るときの調味料として使っていたことが記録されています。

          ○

しかし江戸時代も中期・後期となるにつれ、イカやカツオ、アミ、ウニ、ナマコの腸(このわた)、鮎の内臓や卵(うるか)(関連:「鮎の香り」)などが塩辛にされるようになり、次第に塩辛は調味料として使われるのではなく珍味として食べられるようになっていきます。
それにつれ「うおびしお」と呼ばれていたものが「塩辛」の名に変わってしまいました。

          ○

テレビでグッチ裕三さんが茹でたジャガイモの上にバターとイカの塩辛をのせた一品料理を作っていたり、道場六三郎さんがイカや野菜を古いイカの塩辛で炒めたり、パスタ本にイカの塩辛パスタなどのレシピが載っているのを見たときに、「ワァ〜、新しい料理法だ」と感心したことがありましたが、塩辛を調味料に使うのは新しいどころか昔からあった料理法で、今の日本人が忘れかけている使い方なのですね。

<参考書籍>
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語』文藝春秋
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語 』岩波書店
江原 恵 (1986)『江戸料理史・考—日本料理草創期』河出書房新社
石毛 直道 (2004)『考える胃袋—食文化探検紀行』集英社
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会

<塩辛・グッチ裕三関連>

手作りの味 塩辛づくし 手作りの味 塩辛づくし
内山 高典 室橋 裕和

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グッチ裕三のパパッとレシピ
グッチ裕三

グッチ裕三のパパッとレシピ
グッチ裕三の早うまレシピ グッチ裕三のハッピー晩ごはん グッチ裕三のスマイルクッキング グッチ裕三のこれは旨い! 新・グッチ裕三のこれは旨い!
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2006/08/08

マグロの格付と冷凍技術

日本人にとってマグロは魚類の中で最も人気がある魚の一つですね。
最近は刺身や寿司だけでなく、マグロとアボガドを和えてサラダ風にしたり、イタリア料理でもマグロがカルパッチョにされるなどマグロ料理のレシピも多彩になってきました。

          ○

マグロの語源は外皮が「真っ黒」で肉も黒ずんだ赤であることからこの呼び名がついたとする説と、眼が黒いことから「眼黒」になり、それが転じてマグロになったという説があります。
眼が鼻に近いことから地方によっては「メジ」とか「メジカ」と呼んだりもします。

          ○

従来、日本で鮪といえば「ホンマグロ(本鮪)」と呼んでいる「クロマグロ」を指しますが、マグロ属にはその他にも種類があり、体型の特徴で区別して名前がつけられています。
「キハダマグロ」はヒレと尾びれの色が黄色いため「黄肌」の名が付けられました。
「メバチマグロ」は眼が大きいからで、「ビンナガマグロ」は胸びれが長いということに名前の由来があります。(関連:「マグロのトロはなぜ高いか」)

          ○

5000年前の貝塚からマグロの骨が出土していることから、縄文時代には既にマグロが食べられていたことが分かっており、古事記でもマグロは「シビ」として記されています。
「し」とは獣を意味する「宍」という字を書き、「び」は魚を意味しました。
つまり、獣のような魚という意味で「しび」とよばれたと言われています。
マグロという呼び名は江戸時代に始まりました。

          ○

マグロの身は傷み易く冷蔵庫のない時代には扱い難い魚でした。
そんなことも理由にあったのか、江戸時代のマグロは下魚扱いされていました。
マグロの昔からの呼び名の「シビ」が「死日」に通じるとして特に武士に嫌われたといいます。
ちなみに江戸時代の高級魚の格づけは、一番に鯛、その次にヒラメ、それからスズキ、マナガツオ、ボラの順になっていました。

          ○

近年になっても昭和20年代頃までは、漁船に備え付けられた冷凍庫では-20℃程度にしか冷やすことができず、冷凍したマグロを解凍すると肉が変色したり劣化したりして、冷凍マグロといえば不味いものと考えられていました。

しかし現在の遠洋漁業で獲られたマグロは水揚げ後すぐに漁船の冷凍庫で-60℃で凍らされ、30時間を掛けてカチンコチンに冷凍されてしまいます。
しかも-60℃で一度冷凍されたマグロは水に浸けられてから-15℃で再度凍らされ、マグロの体表を氷の膜で覆うように処理しています。
このマイナス60℃で冷凍して氷の膜で覆う方法で保存すると、冷凍後2年間はマグロの味が変質しません。

現在は全国で常に5万トン前後の冷凍マグロが貯蔵されており、国内で食べられているマグロの九割が冷凍物だといわれています。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
上田武司(2003) 『魚河岸マグロ経済学』集英社
堀武昭 (1992)『マグロと日本人』日本放送出版協会
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<鮪関連>

まぐろ土佐船
斎藤 健次
4094080171
刺身の教科書—基本のおろし方から新しい刺身料理の作り方まで徹底解説
鈴木 隆利
4751105795
三条 辰守作 鋼付け 柳刃包丁 210mm YNH-210
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三条 辰守作 鋼付け 柳刃包丁 360mm YNH-360
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2006/08/07

唐辛子とカプサイシン

「辛味」という言葉はよく使われますが、人が辛いと感じるのは味を感じているのか、それともただ単に刺激を感じているだけなのかという問題は学者達の間で長い間論じられてきました。
しかし、1997年に人が辛さを感じる仕組みについての論文が発表され、この議論にも終止符が打たれました。
その論文での結論は、人が辛さを感じるのは、唐辛子などに多量に含まれる無味無臭の「カプサイシン」が口の中にある熱や痛みを感じる器官に吸着し刺激を与えることで辛さが生じるのだということです。
つまり日常的に「辛味」とは言いますが、「辛い」という感覚は味ではなく刺激なのです。

          ○

唐辛子ダイエットの話題で頻繁に取り上げられるせいか、最近は唐辛子とカプサイシンがワンセットで語られることが多くなりました。
唐辛子の種がついている胎座とよばれる部分と実と胎座をつなぐ隔壁部が特に多くカプサイシンを含んでおり、高い温度と乾燥した環境下で唐辛子を栽培すると、唐辛子が含むカプサイシンの量は増すといわれています。

          ○

Yun_538唐辛子が入った料理を食べると辛くても止められずに食べ続けたり、しばらく間を開けるとまた食べたくなるようなことがあります。
これはカプサイシンが「陶酔感」を作り出しているからなのです。
「辛さ」とは「痛み」であるため、辛いものを食べたときに生じる痛みを和らげるために脳内からβ-エンドルフィンという鎮痛作用をもつ物質が分泌されます。
β-エンドルフィンは麻薬のモルヒネに似た物質であるため痛みを止めるだけでなく人に至福感や陶酔感、多幸感を持たせる作用もあるのです。
このため我慢ができる程度の辛さであれば、辛い料理を食べることには常習性や習慣性、依存性が生じることになり、ヒーヒー言いながらも唐辛子料理を食べ続けることになります。

          ○

一口に辛いと言っても辛さにも程度があります。
一般的には「ピリピリする」とか「ヒリヒリする」とか「ビリビリする」のように辛さのレベルを主観的に表現しますが、これを客観的な数値で表す方法をつくった学者がいました。
1912年に、米国の薬剤師ウィルバー・L・スコヴィルが唐辛子の辛さの程度を測定する技術を開発したのです。
この方法は現在もスパイスメーカーなどで使用されており、辛さを表す単位には発明者の名をとって「スコヴィル」が使われています。
今日までに存在が知られている唐辛子の中で一番辛くない唐辛子はベルペッパーでスコヴィル値は0度、一番辛いのは日本でも最近は有名な「暴君」の異名をつけられたハバネロで35万度あります。

          ○

唐辛子のカプサイシンは自律神経を刺激してアドレナリンの分泌を促し血管を広げるため、摂取すると血液循環が良くなって体温が上昇し発汗します。
そのため唐辛子を食べると入浴後のようなスッキリ感が残ってストレス解消にもなります。
アフリカのある地域ではミルクティーに白唐辛子を入れたものを風邪薬代わりにして飲むそうです。
唐辛子に含まれるビタミンCを摂取しつつ血流を良くすることで風邪をなおすという意味があるのでしょう。

また、エネルギー代謝が促進されるために体内脂質が分解されるといわれ、「唐辛子ダイエット」と称してダイエット食品としても販売されています。

更に、唐辛子のカプサイシンには抗菌作用や抗酸化作用があるため、食品の腐敗を防止する働きをします。
これを利用している一つの例が唐辛子などに漬けられた韓国のキムチです。

<参考書籍>
アマール ナージ(1997)『トウガラシの文化誌』晶文社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社
山本隆(2001)『美味の構造—なぜ「おいしい」のか』 講談社
鄭 大声 (2001)『焼肉は好きですか?』新潮社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

<唐辛子関連>

こころと体に効くハーブ栽培78種—ハーブのすばらしい魅力を味わうために
宮野 弘司 宮野 ちひろ
4415015158
ケンタロウのにんにく・とうがらし—Hot + strong recipes
ケンタロウ
4418001417
ピリッカラ唐辛子料理
西川 治
4861900433

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2006/08/04

アナゴと江戸前

アナゴは一年中獲れますが、夏場に大量に獲れることから旬は夏とされています。
アナゴを選ぶ時には体表にヌメリがあるものがよく、開いたものを選ぶときは身が厚くついて血液が真っ赤なものが味のよいものです。
しかし食べ過ぎで太っているものは腹から腐るのが早いと言われています。
太めのアナゴを選ぶのであれば下半身の身が旨く、細いものだったら上半身の味が良いとされています。

          ○

アナゴといえば「江戸前の穴子」が有名ですが、「江戸前の海」とはもともと「江戸城の前の海」のことを指しました。
しかし、江戸時代にも「江戸前」の範囲は明確になっていなかったことが当時の記録から分かっています。
江戸時代の何人かの漁師が奉行所に漁業権に関する訴状を何度か提出していますが、それらには異なった範囲で「江戸前」の定義がされています。
江戸前の海はそこに面したいくつかの村で共用されていましたから、範囲の定義が認められるかどうかは江戸前の魚の漁業権を獲得できるかどうかに関わる大問題だったのです。

          ○

このように江戸時代にも問題になった「江戸前」の範囲ですが、2005年になって水産庁の「豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会」(小泉武夫会長)が「江戸前とは東京湾全体を指す」と定義しました。
これは歴史上最も広い範囲を指す「江戸前」の定義になるのでしょうが、本来の「江戸前」の海域で今は漁が行われていませんので、魚を獲っていない場所を「江戸前」と呼んでも仕方がなく、現在の漁場を網羅するには東京湾一帯に江戸前の範囲を広げなければならなかったという訳があったようです。

          ○

それだけ範囲を広げても近頃市場で流通するアナゴで江戸前のものは少なくなっています。
国産アナゴ自体が最近は少なくなり韓国産が多く出まわっていますが、国産のものより味は落ちるといわれます。
韓国産アナゴは魚体がくすみ光沢がなくて皮が固そうに見えます。

          ○

ところで穴子の人気料理といえばやはりにぎり寿司でしょう。
寿司職人の間では、握る前にネタに手を加えることを「仕事をする」といい、この仕事を必要とするネタを食べるとその店のレベルが分かるといわれています。
そして穴子も「仕事」に手間が掛かるネタの一つです。

穴子は生では食べられないので煮たものを握りますが、穴子を煮るときに酒を入れないで煮ると冷めてから穴子のゼラチン質が固まり、握るときに穴子の身が崩れ易くなります。
穴子の握り寿司を食べた感想で「握る直前にアナゴをサッと炙っており手が込んでいる」という寸評を目にしたりしますが、穴子が柔らかく煮られて身を固くしないように置かれているならば、握る前の一炙りは必要ないのだという意見もあります。

穴子などにつかう「ツメ」は穴子などを煮た後の煮汁を濾してから砂糖、醤油、味醂、酒を加え、穴子の骨などと一緒に煮詰めたものです。
真新しい煮汁で穴子を煮ると穴子の脂が煮汁に溶け出して身がパサついてしまうため、脂の混じった煮汁が濾されて何度も使われます。
ツメをつくるにはコトコトと時間を掛けて煮詰める必要があります。
時間を短縮するために片栗粉を入れて手抜きをする店もありますが、これでは食感が悪くなりツメを冷蔵保存する間に水っぽくなって味は落ちてしまいます。

<参考書籍>
セマーナ(2002)『スーパーで買える魚図鑑—これであなたもサカナ通!』日本文芸社
講談社(2002)『カラー完全版 魚の目利き食通事典  』講談社
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
旅の文化研究所 (2000)『落語にみる江戸の食文化』河出書房新社

<すし・穴子関連>

木曽工芸 太巻き・押し寿司作り器セット
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内堀醸造 有機すし酢 360ml 瓶
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最先端の渓流釣り—ヤマメ、アナゴ、イワが簡単に釣れる-ビギナーのための入門書
横塚 鴻一
4391602369

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2006/08/03

なすの生まれ故郷

茄子(なす)は熱帯アジアのインドが原産地です。
インドのベンガル湾からその北東にかけての地域では現在でも野生種の茄子が生息しています。

          ○

夏に収穫される夏の実、つまり「夏実」が転じて「なすび」になったという説があります。
温帯気候の日本では夏にのみ露地栽培されますが、熱帯地方では多年草として栽培することができます。
江戸時代中期ころのある日本人が熱帯地方で35年間生育したなすの「巨木」を見て驚いたことを記録しています。

          ○

16世紀頃に、野生種の茄子を薬用に採取していたアラブ人がアジアからヨーロッパになすを伝えました。
その当時のヨーロッパの植物学者がなすは栄養価が無いだけでなく精神を錯乱させ気を狂わせる有毒な果実だと断じたため、ヨーロッパでなすが食べられることはありませんでした。
なすは観賞用植物としてヨーロッパで徐々に広まり、17世紀になってやっと限られた地方で食べられるようになります。
しかし、なすに毒があるという話しは19世紀後半になってもヨーロッパに残っていました。

          ○

イランでバンディンジャといえば肉と茄子の煮込み料理の名前です。 Eggpl
6世紀のアラブのある記録では、なすそのものの名が「バンディンジャ」とされています。
この言葉にオウがつけられて「オウバンディンジャ」となり、それが転じてイギリスではなすのことを「オウバージン(aubergine)」と呼ぶようになったのですが、これもアラブ人がヨーロッパになすを伝えたことを示す名残のようなものといわれています。

          ○

インドを発したナスがヨーロッパとは反対方向の東回りで中国に伝わったのは6世紀から7世紀の初め頃です。
6世紀に書かれた中国の農業書『斉民要術』になすについての短い記述があり、そこでは形は丸く生で食べられる瓜の一種として説明されています。

          ○

タイにはマクア・ヤーオと呼ばれるビー玉くらいの大きさのなすで緑色の種類のものがありますが、熟す前で皮が薄く柔らかいマクア・ヤーオをタイの人は生のままナムプリック(魚や野菜などの材料にトウガラシを加えたペースト)につけて食べています。
日本でも地方によって様々な形のなすがつくられていますが、あの小粒のなすを漬け物にしたらお茶漬けに合う新しい名産品ができるかもしれません。

          ○

8世紀頃に、なすは日本にも伝わったことが『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』から分かっています。
奈良時代のなすの殆どは漬け物にされていたようで、『正倉院文書』にも醤油や味噌、酒粕、塩などになすを漬ける保存法が記されています。
江戸時代になってなすの生産量は急増し、この頃から様々ななす料理が考案されました。

<参考書籍>
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房

<茄子関連>

茄子 (1)
黒田 硫黄
4063142728
森からの贈り物 自然が大好き - サオの木 茶さじ ナス 5本組 5ST37SW
B000FXGM0E
ぬか漬け用 鉄ナス 南部鉄 NZ-TN
B000EOLPZQ

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2006/08/02

沖縄料理の中の琉球史

沖縄には「ヌチグスイ」という言葉があります。
「ヌチグスイ」のもともとの意味は「命の薬」ですが、「食事」を指す言葉として使われます。
昔の沖縄では食事が終わると「ごちそさまでした」と言う代わりに「クスイナイビタン」と言いました。
これは「薬になりました」という意味です。

          ○                     P9710_6

病気を治療するのと同じで普段の食事は生命を育み健康を保つ働きがあり、その源は同じであるという中国の「薬食同源」という考え方があります。
「薬食同源」が日本に伝わり、日本では「医食同源」という言い方になったようです。
沖縄の「ヌチグスイ」も「クスイナイビタン」も中国の「薬食同源」の考え方が基になっています。

          ○

15世紀頃の琉球王国は、中国からの国賓を招いて祝宴を催すときのために自国の料理人を中国へ送り中華料理を学ばせました。
そのため中国の料理の手法や食に対する考え方が琉球の宮廷料理の中に取り入れられていきました。
「薬食同源」の思想は中国から取り入れたものですし、沖縄料理で豚や豆腐などの食材が頻繁に使われるようになったのも中華料理の影響を受けてのことです。

          ○

P9710_1_117世紀になると琉球は日本の影響を強く受けるようになります。
1609年に徳川家康は薩摩藩が琉球を統治することを許可し、これにより琉球は中国と日本の両国に属することになりました。
それ以降、琉球宮廷は薩摩武士も接待しなければならなくなり、琉球の料理人は日本料理についても勉強をしてその技法を習得しつつこれを琉球宮廷料理に取り入れていきます。
日本から伝わったもので沖縄料理に大きな影響を与えたものの一つは、沖縄では採れない昆布や昆布出汁を使う料理法でしょう。

          ○

その当時の琉球は東南アジアとの交易を行っていたため、東南アジアからも琉球食文化は影響を受けたと言われます。
炒め物を意味する「チャンプルー」という言葉はインドネシア語に語源があると考えられています。

          ○

沖縄の三大郷土料理のチャンプルー(油炒め)、イリチー(炒めてからの煮物)、シプシー(出汁や調味料での煮しめ)などの料理法や、好んで使われる豚や豆腐、昆布などの食材をみると、琉球が中国や日本、東南アジアの国々と色々な形で関係を持ちつつその文化に影響されたことが垣間見られ、沖縄で独特な食文化がつくられた理由の一端が伺えます。

<参考書籍>

赤嶺政信 (2003)『沖縄の神と食の文化』青春出版社
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
原田信男(2005)『和食と日本文化—日本料理の社会史』小学館

<沖縄関連>

沖縄産 もろみ酢 無糖 900ml
B000BT8TSA
島唄の風~沖縄ベストコレクション~
オムニバス 夏川りみ THE BOOM
B000BX4CNM
なんくるなく、ない—沖縄(ちょっとだけ奄美)旅の日記ほか
よしもと ばなな
4101359261

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2006/08/01

タロイモ・ヤムイモが渡った南の海

8000〜10000年前に、タイ西北部の照葉樹林帯で生育していた野生のタロイモやヤムイモを人間が採取して栽培を始めたといわれています。
野生のイモを掘り出した時にイモの根や小イモが堀跡の穴に落ち、しばらくするとイモを掘り出したはずの場所にまたイモが育つことに気づいた人間がこれを意図的に行うようになったのがイモ栽培の始まりであり、人間が始めた最初の農耕だったと考えられています。
今でもタイ西北部では、山中の湿地に群生する野生のタロイモや山の斜面に育つ野生のヤムイモが見られます。

          ○

タイ西北部のタロイモやヤムイモ栽培はマレーシアやインドネシアの東南アジアに伝わり、その後伝播経路は東と西に分かれたと考えられています。
東回り経路ではフィージーやサモア、トンガ、果てはポリネシアなどのオセアニア地域に伝わり、西廻りではアフリカのマダガスカルを経由して、そこから陸路と海路を通じて西アフリカに伝わったといわれています。
東南アジアより先の伝播経路の殆どは海路だったのです。

Map_oceania4_4_1

これは、太古の昔に小さな船に乗って大海原を何日も掛けて渡る時に、タロイモやヤムイモを食糧として船に載せていたから長い航海に耐えることができたとも言えます。

仮に食糧がふんだんにあったとしてもビタミンCを摂取しなければ壊血病に掛かって命を落としてしまいます。
海を渡った人達が持っていたものの中にタロイモやヤムイモが入っていたというよりも、ビタミンCを含むタロイモやヤムイモを携帯していた人々だけが古代の海を渡ることができたとも考えられるかもしれません。

          ○

16世紀まで、アメリカ大陸以外の国々ではイモといえばタロイモとヤムイモのことでしたが、アメリカ大陸からヨーロッパにジャガイモとサツマイモが伝わると、これらはタロイモやヤムイモより収穫量が多かったため世界中に瞬く間に広まり、17〜18世紀になるとタロイモやヤムイモを栽培していた熱帯地方にも普及していきました。
しかしアメリカ大陸で栽培されていたイモは水はけの良い土地を好むため、湿潤地域を中心に現在でもタロイモやヤムイモが常食されています。

          ○

タロイモの故郷のタイでは、タロイモを米と一緒に炊き込んで食べたりした時代が一昔前まであったようですが、今はヤムイモもタロイモもおかずとしてではなく、甘く味付けたおやつのような食べものをつくるときの材料にしているのが殆どで主食としては食べられていません。

          ○

サモアやトンガ、ポリネシアでは今でもタロイモやヤムイモが主食となっています。
フィージーのポリネシア系の住民は水田でタロイモを栽培しています。
田んぼでタロイモをつくる方法は他のミクロネシアの島々や沖縄でも行われています。
タロイモを連作すると土壌の栄養がなくなり収量が年々減少してしまいますが、水田で栽培すると水の入れ替えによって栄養分が補給されるため連作をしても安定的に収穫量を確保することが可能なのです。

          ○

イモは穀類に比べれば栽培に掛かる手間が少なく収穫も安定しています。
安定的に収穫できるイモが常食作物になったことが、オセアニア地域の人々のおおらかな気質を形成した一因だとも言われています。

その反面、イモは多量の水分を含み穀類に比べて貯蔵性が劣り、容積がかさ張るため携行には不向きです。
年貢として取り立てて計画的に食料を再分配したり、他国を侵略する大軍の糧食に用いるにはイモは向いていませんでした。
それ故にタロイモやヤムイモを主食としたオセアニア地域の民族は大きな社会や国家を形成できなかったのだという説もあります。

<参考書籍>
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか 麺、イモ、茶 』日本放送出版協会
山田均(2003)『世界の食文化 (5) タイ』 農山漁村文化協会
吉田 豊(1995)『食卓の博物誌』丸善

<イモ関連>

ホーロー 焼いも器 24cm 石付き HA-Y
B000BY4AWY
サツマイモの絵本
たけだ ひでゆき にしな さちこ
4540961691
きょう・すぐ・レシピ〈13〉根菜・芋のおかず
日本放送出版協会
4140332085

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