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2006/08/31

くさやとくさや汁とくさや菌

くさやが作られ始めたのは八丈島であるとも、新島であるともいわれています。
くさや発祥地と考えられている八丈島や新島だけでなく、現在は、大島、式根島、三宅島、神津島など他の伊豆諸島や小笠原諸島でもくさやは生産されています。

            ○

くさやの原料には脂の少ない魚が向くとされており、伊豆諸島近海で獲れるトビウオ、ムロアジ、クサヤムロなどが使われています。
地元では、自分の家で食べるくさやにはブダイやサメ、時期が過ぎて脂が落ちたさんまなどが使われたといいます。

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くさやの作り方は、まず材料となる魚を開き内臓を取り除きます。
昔はくさやの加工場から出る魚のアラは豚の餌にされて、魚は余すところなく使われました。
開いた魚を少しとろみがあって茶色い「くさや汁(くさや液)」に漬けます。
魚をくさや汁に浸けて暫くすると魚の身に塩分が入り込み、比重が変化することで魚はくさや汁の表面に浮き上がってきます。
くさや汁には10〜24時間程度つけ込み、その後天日に干して完成です。

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くさや作りがいつ頃始まったのか定かではありませんが、江戸時代中期以降のことだと考えられています。
江戸時代の伊豆諸島は幕府の直轄地であり、新島などは流刑地でもありました。
耕地が少なく漁業を生活の糧としていたため、元禄の頃まで年貢は米ではなく塩で納めていました。
そのため自分たちが使う塩にもこと欠くほどで、年貢の塩を確保するために塩を節約せねばならず、魚の塩干しを作るときに使う塩水を捨てずに繰り返し使うようになったのです。
繰り返し使われた塩水の中には魚のタンパク質が溶け出して発酵し、これが後にくさや汁と呼ばれるくさやを作るときに欠かせない浸け汁となりました。
くさや汁に浸けて作った魚の干物は普通の塩水に浸けて干したものより長期間保存できることを当時の伊豆諸島の人達は経験的に知りました。
海が少し荒れると船が出せなくなる時代に、保存期間を延ばせるくさやの技法は島の人達にとっては生活を支える画期的な新技術だったのです。

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江戸の市場でくさやは他の干物よりもランクが下で、現在のように酒の肴として珍重されてはいませんでした。
1829年の江戸の記録には、伊豆諸島から送られたくさやのことが単に「干し魚」と記されており、「くさや」の呼び名は明治時代になってからできたといわれています。
焼いた時のに匂いがとても臭いことから明治時代の東京でくさやと呼ばれはじめたのが語源になったといわれています。
昔の新島ではくさやを「しょっちるぼし」とよんでいたようです。
「しょっちる」は秋田の「しょっつる」と同様に塩汁のことを意味しました。

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現在のくさやの老舗店には300年以上も使われ続けているくさや汁があり、大きな店の地下には100年以上も熟成を重ねたくさや汁が10トン以上も貯蔵されているそうです。

同じくさや汁を連続して使うとくさやができなくなるので、何回か使用したくさや汁は暫く休ませる必要があります。
暫く使わなかったくさや汁には新しい魚の切り身を入れて栄養が補給されます。
このように維持管理され長期間使われ続けるくさや汁は古いものほど干物の旨味がよく出るといわれています。

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くさや汁にはコリネバクテリウム・クサヤ(通称くさや菌)という乳酸菌の一種が繁殖しており、くさや菌が発酵を起こすことで魚の中に含まれるタンパク質や脂質が分解されます。
臭いの素となるアンモニアや硫黄化合物、油状の液体で強い臭いの酪酸などもくさや菌によって作られます。
くさや菌は繁殖力が強く雑菌を寄せ付けません。
そのため、くさや汁は腐敗せずに長期間保存することができるのです。

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くさやの生産地ではお腹の具合が悪くなったときに、くさや汁をぬるま湯で薄めて整腸剤の代わりに飲んでいたこともあるようです。
乳酸菌の一種のくさや菌を体内に取り入れ、腸内の雑菌などを排除するのです。
また、乳酸菌が腸内でつくるビタミンも体調回復に役立ちます。
江戸時代の人はお腹の調子が悪くなると、同様に糠味噌をぬるま湯に溶いて飲んだといいます。

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明治時代の新島地方の嫁入りでは、家のくさや汁を嫁ぐ娘に持たせることもあったといいます。
かつて地方によっては、嫁入りの娘に一つかみの糠を持たせるという習慣がありました。
モンゴルでも娘が嫁ぐ時に羊の発酵乳を一杯持たせ、相手方の発酵乳の容器に入れる習慣があるといいます。
発酵食品が生活に根付いている地域での似通った婚礼習慣です。

<参考書籍>
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
吉田豊(1995)『食卓の博物誌』丸善
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会

<珍味・焼物関連>

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杉浦 日向子

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2006/08/30

ホットドッグとアメリカ人

アメリカでは年間百数十億個のホットドッグが食べられているといわれ、「National Hot Dog & Sausage Council」のサイトの資料によると、2005年にアメリカ人がホットドッグとソーセージに使った費用は39億ドル(約4,563億円)だそうです。
ホットドッグはアメリカの地域によって食べ方が異なり、ドイツ系移民の多い地方ではザウアークラウトが添えられ、中西部ではチリをかけたもの、ニューヨークではミートソース、カンザスではトロリと溶けたチーズとマスタードが掛けられ、シカゴではケシの実付きのパンが使われます。
今やアメリカの国民食ともいえるホットドッグですが、その始まりと名前の由来についてはあまりはっきりとはしていません。

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一説では、1904年のセントルイス博覧会の会場でソーセージを売っていた発明家が、客が熱いソーセージを手でも持てるようにと、ソーセージと手袋をセットにして渡していましたが、コストを削減するためにソーセージをパンに挟んで渡すことにしたのがホットドッグの始まりとされています。

別の説では、1867年頃にドイツ系移民のチャールズ・フェルトマン(Charles Feltman)というミートパイ売りがワゴンでお湯を湧かしソーセージを茹でてサンドイッチにした新商品を「フランクフルター・サンドイッチ」と名付けてニューヨークのブルックリンで売り出したのがホットドッグの最初だとしています。

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最初のホットドッグについての話しはその他にもいくつかあり、その始まりは定かではありませんが、パンにソーセージを挟んだ食べものは好評を得て急速に広まり、その食べやすさから1890年代末には野球場でも販売されるようになります。
1934年には「ホットドッグ・スタンド」や「ホットドッグ・ビジネス」という言葉が使われるようになりました。Hotdog1

当時のホットドッグ人気を示す確かな記録が残されています。
1939年6月に、現在のエリザベス女王の父母にあたるジョージ6世とエリザベス王妃がアメリカを訪問した際に、フランクリン・ルーズベルト大統領は二人をニューヨークのハイドパークでのピクニックに誘い、公園でホットドッグを振る舞ったのです。このときのメニューはニューヨーク・タイムスの一面で報じられたそうです。

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ホットドッグについてのもう一つの謎はその名前の由来です。
よく使われる話しでは、ある町のフランクフルトソーセージで有名な店で、炒めたソーセージを買って食べた一人の客が「なんだ、ただ熱いだけの犬肉じゃあないか」と憎まれ口を叩いたところ、店の主人は怒らず騒がずそれを商品名に使ってしまい、「Hot Dog」という名が生まれたといいます。

別の説では、球場の売り子が「熱いダックスフンド・ソーセージだよ!!」という売り声と共にホットドッグを売っていたことからヒントを得て、スポーツ漫画家のタッド・ドーガン(Tad Dorgan)がパンの間に入って気持ち良さそうにしている犬の漫画を描き、「ホット・ドッグはいかが」というキャプションをその漫画につけたことからホットドッグの名前が生まれたといいます。
これは話しとしては良くできていますが、実際にこの漫画を目にした人はいないようで、誰かの作り話しだろうといわれているようです。Hotodog2

1800年代にアメリカに移り住んだドイツ人はアメリカにソーセージを持ち込んだだけではなく犬のダックスフンドも連れてきたといわれ、ソーセージとダックスフンドが似ていることから冗談やからかいの意味でHot Dogという言葉が生まれたのではないかともいわれています。
あまり劇的な話しではありませんがこれが最も本当らしい話しではあります。

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アメリカのホットドッグの歴史について語られるとき必ず出てくるのがネイサン・ハンドワーカー(Nathan Handwerker )という人です。
ポーランド系移民のネイサンは、前述のミートパイ売りからホットドッグ売りになったフェルトマンのお店の「Feltman」で雇われ、ホットドッグのパンに切れ込みを入れる仕事に就きました。

あるときにある男が、フェルトマンの店で売られている10セントのホットドッグがもしも5セントだったらもっと売れるだろうにと何気なくネイサンに言ったところネイサンはこれを真に受け、「フェルトマン」や他の店のアルバイトで働いて貯めた300ドルの貯金を全て投資して、1916年にニューヨークのコニーアイランドに自分のホットドッグスタンドを開業し、本当に5セントで売り出したそうです。
価格破壊のホットドッグは大当たりして、その後ネイサンのお店の「Nathan's Famous」は全米にチェーン店をもつ一大企業にまでなります。

ネイサンは休むことなく働いた人のようで、歳をとり引退して息子が社長になってからも、バスに乗って店に様子を見に行っていたそうです。
ある人が「あなたの息子は運転手付きの車で出勤するのに、あなたは何で今だにバスに乗って店に行くんだ」とネイサンに聞いたところ、ネイサンは「私は金持ちの親を持たなかったのでね」と答えたといいます。
ネイサンの店が流行ったのは値段が安かったからだけではなかったようです。

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Nathan's Famous」は最近日本にも進出しましたが、日本での知名度はあまり高いとはいえません。
しかし、毎年7月4日にコニーアイランドで行われるホットドッグの早食い競争の映像をニュースで見たことがある人は多いのではないでしょうか。
2001年から今年まで、日本人の小林尊氏が連覇している大会で、2006年には50本半のホットドッグを12分で食べて小林氏が優勝しました。
この大会のスポンサーが「Nathan's Famous」で、出場者が食べているのももちろん「Nathan's Famous」のホットドッグです。
この大会は1900年代の初めに「愛国心」を見せるために始まったといわれています。
早食いと愛国心がどうつながるのかいま一つ分かりませんが、これはこれでアメリカ人のホットドッグに対する思い入れの強さを現しているのかもしれません。

<参考書籍>

橘みのり(1999)『トマトが野菜になった日—毒草から世界一の野菜へ』草思社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
本間千枝子, 有賀夏紀(2004)『世界の食文化〈12〉アメリカ』農山漁村文化協会

<ホットドッグ・アメリカ関連>

ホットドッグの丸かじり ホットドッグの丸かじり
東海林 さだお


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ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド ニューヨーク食べ歩き徹底ガイド

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2006/08/29

トルティーヤとタコスとメキシコ人

中南米で有名な平焼きパンにメキシコの「トルティーヤ」があります。
メキシコの風土の中で生まれたトルティーヤとトルティーヤを使うタコスは、メキシコの地で昔から食べ続けられてきた伝統料理です。

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トルティーヤの名はスペイン語で「小さなパン」を意味する言葉が語源になったという説があります。
スペインに「トルティージャ」という丸く薄いオムレツ料理があり、これにメキシコの薄いパンが似ていたことからトルティーヤの名がついたという説もあるようです。

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昔のメキシコでトルティーヤの原料となるとうもろこし粉をつくるときには、05ilaj05_1 乾燥させたとうもろこしの粒を石灰水に一晩浸けて柔らかくして、サドルカーンで挽きつぶしていました。サドルカーンとは厚い石の皿と棒状のすり石からなる石臼の一種で、穀物などの材料を石皿の上に置き、すり石を石皿にグイグイと押し付けるようにして穀物を擂って粉に挽く古代につくられた道具です。

挽いた粉は水で捏ねられ、これを両手で弾くように叩き付けながら薄くのばすか、台の上で生地をまわしながら手のひらでグイグイ押しながら薄い生地にして石板や鉄板の上で強火で焼かれました。

メキシコの気候がイースト菌を繁殖させるのには適さなかったという事情もあったのでしょうが、主食となるとうもろこしの粉では粘り気が出し難いということもトルティーヤのような平焼きパンがつくられた理由となっていると考えられます。(関連:「ピタはなぜ薄いパンなのか」)

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とうもろこし粉に水を加えて捏ねたトルティーヤのパン種は「マサ」というスペイン語名で呼ばれています。
バイオリニストの黒沼ユリ子氏が書かれた『メキシコのわが家へようこそ』という本には、現在のメキシコの家庭でどのようにトルティーヤが作られているかが説明されています。
その中で、メキシコではインスタントのマサも売られているとあります。
また、マサを平たく延ばすのには専用の小型プレス機が家庭で使われているようです。
プレス機と言っても、手のひらよりもちょっと大きいマンホールの蓋の様な形をした二枚の円形の金属板らしきものが蝶番(ちょうつがい)か何かでカスタネットのようにつなぎ合わせてあるもので、二枚の板の間に小さく丸めたマサを挟みパタンと閉じてギュッと押さえつけると二枚の金属板の間に薄いトルティーヤの生地ができあがっているという仕組みのもののようです(こちらのブログに写真がありました)。

『メキシコのわが家へようこそ』では色々なメキシコ料理のレシピがきれいな写真と一緒に紹介されています。
日本語で書かれたメキシコ料理の書籍が少ない中で、『メキシコのわが家へようこそ』は貴重な本になっています。

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調理した肉や野菜をトルティーヤに挟んでソースを掛けたものがタコスとよばれる料理で、メキシコではタコスを売る店は「タケリア」と呼ばれています。
タコスは古代から食べられてきた料理で、特にトルティーヤにいんげん豆をのせてとうがらしのソースをかけたものはメキシコ・インディアンの大切な伝統食でした。
トルティーヤに使う乾燥とうもろこしの粒を水に浸けるときに石灰が加えられるのは、とうもろこしを粉に挽き易くするのと同時に生地に粘りを出す意味がありましたが、石灰が加わることでトルティーヤにはカルシウムが豊富に含まれるという利点もあります。05phai14
いんげん豆にはタンパク質が豊富で、ソースに使われるとうがらしにはビタミンが多く含まれます。
いんげん豆をトルティーヤで挟んで唐辛子のソースをかけたタコスは伝統から生まれたバランス食品だったのです。

しかもトウモロコシといんげん豆を同じ土地で栽培すると、いんげん豆の根に繁殖する根粒バクテリアが地中に窒素化合物を供給するために、とうもろこしの生育が良くなるという栽培する上での利点もありました。(関連:「豆に頼る細菌と穀物」)

            ○

ところで、トルティーヤを使った料理でナチョスというものがあります。
ナチョスを考案したのはメキシコ人ですが、ナチョスはメキシコの伝統料理ではありません。

アメリカの国境近くのメキシコのピエドラス・ネグラスにあるレストランで働いていたイグナチオ・アナヤ(Ignacio Anaya)という人が、食材が限られた中でアメリカの将校夫人達のために軽食を作ることを命じられ、パリパリに焼いたトルティーヤの上にチーズとトウガラシを載せて出したのが「ナチョス」の始まりだといわれており、ナチョス(Nachos)の名は考案者の名前のイグナチオ(Ignacio)に由来しているようです。
イグナチオ・アナヤは1975年に亡くなっています。

<参考書籍>
黒沼ユリ子( 1996)『メキシコのわが家へようこそ』主婦と生活社
井上勝六(1993)『「薬喰い」と食文化』三嶺書房
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
舟田詠子(1998)『パンの文化史』朝日新聞社
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社)
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社

<メキシコ関連>

旅の指さし会話帳 (28) メキシコ 旅の指さし会話帳 (28) メキシコ
コララテ

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世界遺産 メキシコ編 世界遺産 メキシコ編
緒形直人 鳥山雄司

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メキシコの夢ホテル—ベストセレクション メキシコの夢ホテル—ベストセレクション
せきね きょうこ

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2006/08/28

かつお節と漁師の甚太郎

インドとスリランカの西南に位置するモルディブ諸島にはモルディヴ・フィッシュとよばれるかつお節に似た食材があります。
モルディブ・フィッシュは水分含有量が20%以上あり、ナイフで削ることができる程度に柔らかく日本の荒節に似たものです。
モルディブ・フィッシュと日本のかつお節の関係は定かになっていませんが、モルディブ・フィッシュが南方から日本に伝わったのではないかと推測している人達もいるようです。

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モルディブ・フィッシュが太古の日本に伝来したかどうかは謎ですが、日本でかつお節は鎌倉時代より以前には作られていたことが分かっています。
しかし当時のかつお節はかつおを蒸してから天日で干し固めて作られるだけのもので、生のものより保存性は高くても旨味は外ににじみ出てしまっていて、とても出汁を取る目的には使えない代物だったようです。

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現在に伝わるかつお節の製法(関連:「かつお節の作り方」)が開発されたのは江戸時代のことです。
藁を燃やして乾燥させるだけだった昔ながらの製法を改良したのが、江戸時代に生きた甚太郎という名の紀州出身の漁師だったといわれています。
1674年に甚太郎がナラやカシの薪を焼いてかつおの切り身を燻し、冷やしてはまた燻す「燻乾法」を考案したのだという話しが残されています。
燻乾法でつかわれる燻煙によってかつお節の保存性は増し、魚の臭いも消す効果が得られました。

           ○

更にかつお節の質を高めた技術が、やはり江戸時代中期頃から行われるようになった「カビ付け」です。
カビ付けは鰹節の表面に「鰹節菌」という人体に無害のカビを繁殖させ、かつお節内に残る水分を吸収させて節内の水分量を減じる作業です。
鰹節菌が分泌する酵素がかつおの脂を分解するため、この技術を使って作られるかつお節を出汁に使ってもだし汁に脂は浮きません。

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甚太郎が考案したとされる燻乾法とその後に開発されたカビ付け技術はかつお節を木材のように硬く仕上げて保存性を高め香りと旨味が増す画期的新技術で、一世紀の間にこれらの製法が日本全国に広まったといわれており、それ以降かつお節は出汁として多用されるようになります。

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燻乾法とかび付け技術開発以前、かつお節は「堅魚」とか「煮堅魚」などと書いて単に「かつお」と呼ばれていましたが、甚太郎の鰹節が出まわるようになってから「鰹節」の名がついたといわれています。
かつお節の語源ははっきりしませんが、「燻し」の「ぶし」をとってかつおぶしになったという説や、木のように節があることからかつおぶしになったという説もあるようです。

           ○

実は、燻乾法やカビ付け技術の開発経緯については確かな記録が残っている訳ではなく、漁師の甚太郎のこともなかば伝説的な話しとして残されています。
一説では、紀州で漁をしていた甚太郎が海難事故にあって土佐に流され、紀州で作られていたかつお節の製法を土佐に伝え、土佐のかつお節が全国的に有名になって燻乾法も日本中に広まったという話しになっています。
その他にも、土佐の播磨屋という店の宮尾佐之助が甚太郎のスポンサーとなって新式のかつお節の製法を開発させたという話しがあったり、カビつけ技術を開発したのはこの播磨屋の宮尾佐之助だったなどの言い伝えすらあるようです。

少なくとも甚太郎という伝説的漁師が生きたとされる江戸時代中期を境にかつお節の質が格段に向上したことは確かなようです。

<参考書籍>
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
江原 恵 (1986)『料理物語・考—江戸の味今昔』河出書房新社
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<鰹節・出汁関連>

男に生まれて  江戸鰹節商い始末 男に生まれて  江戸鰹節商い始末
荒俣 宏

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2006/08/25

パスタとマルコ・ポーロ

イタリア料理といわれてパスタを連想するだけでなく、単にイタリアと聞いただけでもパスタを思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。
イタリアとパスタの関係は深いものですが、そのイタリアでどのようにパスタが食べ始められたのかやパスタの歴史についてはよくわかっていないことが多いのです。

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当のイタリア人の中にも、あのマルコ・ポーロが中国から乾麺を持ち帰り、それがヨーロッパでパスタになったと信じている人達もいるそうです。
一昔前はイタリア人だけでなく世界中で多くの人がこの伝説じみた話しを信じていました。
この嘘の出所を調べ上げたのは、フランス人の食物史研究家で現在は日仏会館 副理事でもあるフランソワーズ・サバン氏で、全米マカロニ生産者協会(The American National Macaroni Manufacturers Association)が発刊していた「マカロニ・ジャーナル」という業界紙の1929年10月号にマルコ・ポーロとパスタの話しが載せられたことによって、この説が真しやかに広まったということを突き止めました。

          ○

他の学者の指摘で、マルコ・ポーロの口述をまとめた東方見聞録が筆記されるより約20年前の1279年に、ポンチョ・パストーネという人がマカロニが目一杯入った箱を財産として残したことをジェノバの公証人が記録していたことが分かっています。
財産に残すくらいなのでこれは生パスタではなく乾燥パスタだと考えられており、この公式記録によってマルコ・ポーロ以前にもイタリアにパスタがあったことが分かっているのです。

          ○

Pasta1また、マルコ・ポーロがヨーロッパに帰国する100年も前に、シチリア島から30キロ離れたトレビアで製造されていた粉食製品について、アラブの地理学者が書き残しています。
記録で使われている語句から、これは乾燥パスタだったと考えられています。
この記録の中のシチリアの乾燥パスタの説明にアラブ語の「itriyah」という言葉が使われています。
この「itriyah」はアラブで食べられていた麺であったらしいということが分かっており、アラブからシチリアに伝わった麺がパスタになったのだろうと推測され、現在はこれが定説のように扱われることが多いようです。

          ○

事実として、シチリアはアラブの支配下にあった時代もあり、当時のシチリア地方とアラブ間との結びつきは強く、イスラム教徒も多く住んでいました。
このシチリア地方から当時は独立国家だった南イタリアの国々やアラブ方面へ乾燥パスタが輸出されていたことが分かっています。

          ○

シチリアで乾燥パスタが作られていたことが記録された12〜14世紀より以前のイタリアにパスタまたはパスタ状の食べものがなかったのかについては、はっきりとしたことが分かっていません。

古代ローマが建国されるよりも前に、アジアの西部からイタリア半島にやってきたエトルリア人がイタリア中央部に都市国家を創り、紀元前6〜7世紀に繁栄しましたが、このエトルリア人の古墳で見つかったレリーフにラザニアを作る道具らしきものが描かれているという説があります。
はっきりとラザニア作りの道具だと判別できるようなレリーフではないようで、「言われてみれば確かに見える」という程度のもののようです。

今の北イタリアの伝統料理のポレンタのように古代ローマ時代には小麦粉を粥状にしたプルテスと呼ばれるものが食べられていたり、小麦粉を捏ねて薄く焼き、細長く切ってスープに入れるテスタロイという料理もあったようです。
しかし、これらは現在パスタと呼ばれている食品とはかなり異なった食べものです。

          ○

ローマ時代に食べられていた粉食食品とシチリアで作られていたという乾燥パスタの間にはポッカリと穴が空いたように記録につながりがありません。
だからこそマルコ・ポーロがヨーロッパにパスタをもたらしたという話しが信じられてしまう余地があったのです。

          ○

Pasta2 15世紀の初めになるとパスタはナポリでも流行しました。
16世紀になるとイタリア南部はスペインの支配下に入り、政情が安定したことからナポリの町は発展し始めます。
するとナポリとその周辺の農村部との間には格差が生まれ、ナポリ周辺に住む農民がナポリに流入するようになり、17世紀になるとナポリはヨーロッパで最も人口が多い都市になりました。

その頃にナポリでパスタ製造は発展しました。
その理由の一つは、17世紀前のナポリでは生鮮食料品の供給が行き渡っていたため、粉食はあまり重視されていませんでしたが、人口増加によってナポリでの生鮮食料品の供給が追いつかなくなったためだと考えられています。

          ○

日本の江戸時代にも都市部の発達と共に人口が急増したため、米の不足を補い安定的に食糧を供給するために麦や蕎麦をつくることを幕府は奨励し、これがうどんやそうめん、そばなどの粉食の発達につながったことがあります。
ナポリでパスタが発展した状況は、日本の江戸時代の粉食発達の過程と似ていたのではないでしょうか。

          ○

ナポリでのパスタ製造技術発達を後押ししたものに17世紀にナポリでつくられた押し出し式パスタ製造機があります。
これによりパスタは種類を増やし、質が高められ、イタリアを代表する食品の地位を得ていくことになるのです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
大塚滋(1997)『パンと麺と日本人—小麦からの贈りもの』集英社
大矢復(2002)『パスタの迷宮』洋泉社
内田洋子 (2003)『トマトとイタリア人』文藝春秋
安達巌(2004)『日本型食生活の歴史』新泉社

<パスタ関連>

コールマン パスタフォーク 170-9073 コールマン パスタフォーク 170-9073

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2006/08/24

クレソンの繁殖力

葉や茎に辛味があってサラダに使うことができる野菜を総称してクレスといいます。
クレスにはウォータークレス、アメリカンクレス(別名ウィンタークレスまたはランドクレス)、ガーデンクレス、インディアンクレス、パラクレスなどがあります。

          ○

クレソンとはもともとクレスのフランス語で、日本でクレソンと呼んでいる野菜は英語名のウォータークレスのことになります。
クレソンの和名はオランダガラシで、これは明治元年前後にオランダ船によってクレソンが日本にもたらされたからだといわれており、同様にパセリはオランダゼリと名付けられました。
クレソンは本来多年草で水辺に群生します。
クレソンが日本に持ち込まれた当初は主に外国人居留地で栽培が始められましたが、水があれば何処でも育つクレソンなので、外国人が住む家から排水溝を通じて小川などに流れたものが野生化するようなかたちで繁殖したり、各地で栽培されるようになってからも栽培地周辺に勝手に生息域を広げていくことになりました。
明治のころに上野精養軒で付け合わせに使ったクレソンの残りが排水溝を通じて不忍池に流れ込み、池の周辺でクレソンが繁殖したこともあったそうです。
日本で野生化したクレソンは現在各地の渓流沿いなどで雑草のように繁茂しており、それらは4〜5月頃に食べられるようになります。

          ○

クレソンの原産地はヨーロッパから中央アジアにかけての温帯地域で、人類が最も古い時代に栽培した野菜の一つだと考えられています。
14世紀にフランスで野生種が品種改良され、17世紀になるとドイツでも栽培用に改良されたものが出回るようになりました。

          ○

クレソンの自宅での育て方としては、湿った土に植えるのが簡単な栽培法のようです。
スーパーで買ったクレソンを水の入ったコップにさして日当たりの良い場所に置いておく水栽培をすることもできます。
夏は涼しく冬は温暖な地域のきれいな水のある環境を好むクレソンなので、極端に暑いところや寒いところに置かず、こまめに水を変えることなどに気をつけた方が生育は良くなるはずです。
水栽培で水に浸けたままだと十分な酸素が供給されずにクレソン内に有毒成分ができることもあるらしく、食べるつもりで水栽培するのであれば、たまに根を水から出して空気に触れさせる手間も必要になるようです。
水に浸かった葉から腐ってしまったり、水中の養分が十分でないために、生い茂るところまではいかないかもしれませんが、クレソンの水栽培を今から始めれば夏休みが終わるまでには根が出るところくらいは観察できると思いますので、夏休みの自由研究には良いかもしれません。

          ○

ステーキの付け合わせに使われることが多いクレソンには血液酸化を防止する働きがあるため、肉と一緒に食べると良いといわれます。
ステーキの付け合わせ程度の少量のクレソンでは血液酸化は防げないという専門家の意見もありますが、クレソンには鉄分やビタミンA、ビタミンCの栄養があり、加えてロ臭抑制効果をもつクロロフィルも含んでいるため食事の合間の口直しにもなりますので、皿の端によけて残すのはもったいない野菜です。

          ○

海外で暮らす日本人の方で小松菜のお浸しを作りたくても容易に小松菜が手に入らないので、川辺でゴッソリ刈り取られて無雑作に大きな束にされたようなクレソンを八百屋で買ってきて、小松菜の代用品としてお浸しにしている話しを聞いたことがあります。
クレソンは天ぷら、胡麻和え、漬け物などに料理してもおいしい野菜です。
また、ヨーロッパでは解熱効果があるとして熱があるときに薬のように用いられたりもするそうです。

<参考書籍>
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体TOTO出版
大場秀章(2004)サラダ野菜の植物史 新潮選書新潮社
吉田よし子(1988)『香辛料の民族学—カレーの木とワサビの木』中央公論社

<サラダ関連>

世界43か国のサラダレシピ114—パリ発!ユニークなサイドメニュー 世界43か国のサラダレシピ114—パリ発!ユニークなサイドメニュー
宮内 好江

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Coleman メラミンサラダボール 170-9142 Coleman メラミンサラダボール 170-9142

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あさサラダ 角型漬物器 1.0L C-158 あさサラダ 角型漬物器 1.0L C-158

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2006/08/23

インスタントラーメンの誕生

8月25日は「ラーメン記念日」に定められています。
今から48年前の8月25日に最初のインスタントラーメンが市場に登場したのを記念してのことです。
「ラーメン記念日」の頃に「インスタントラーメン発明記念館」で過去に開催された「ラーメン記念日フェスタ」では、世界初の量産インスタントラーメンであるチキンラーメンの無料試食会などが行われたりしています。

そのチキンラーメンを創ったのは日清食品の創業者である安藤百福氏です。

          ○

昭和22〜23(1947〜1948)年頃の戦後間もない大阪梅田で、安藤百福氏は二つのことに気づきこれがインスタントラーメン開発の切っ掛けになったといいます。
一つは、食べものは気力や体力、知力の源であって、食こそが大事なものだということです。
食糧難で飢えに苦しむ人達を見たり、戦争中に冤罪で拘留された際に留置場内で食べものを奪い合う拘留者を見たときに、「食こそが最も崇高なものだ」という考えに安藤氏は至りました。
食足りて世は平らかになるという意味の「食足世平(しょくそくせへい)」は安藤氏が好んで使う言葉です。

インスタントラーメン開発の切っ掛けになったもう一つの出来事は、この時代の大阪梅田で中国からの引揚者がラーメン屋台を始めたことで、この店が大変に繁盛しているのを見て、安藤氏は日本人は本当に麺類が好きなのだと感じたといいます。

          ○

これらの光景を見たことや、当時は米よりも小麦粉の方が入手し易かったという事情があったり、国が援助物資の小麦粉を日本人に馴染みのある麺に使うことを奨励せずにパン製造を支援していたことに疑問を持ったこともあって、国がやらないのであれば自分が一般の人達が気軽に食べられるラーメンを創ってやろうと安藤氏は決意し、自宅の庭に小さな小屋を建ててここでインスタントラーメンの開発を始めました。
開発にあたって「美しくて飽きのこない味」、「保存性の高いもの」、「調理に時間や手間が掛からないもの」、「安価なもの」、「安全で衛生的なもの」をつくることを安藤氏は目標に立てました。

          ○

ラーメンのスープは、西洋でも東洋でも受け入れられ、ヒンズー教徒やイスラム教徒でも食べることができる鶏を使ったチキン味にしました。 Chicken2 スープを開発していた頃、家で食べるために仮死状態にしておいた鶏が突然暴れだしてしまい、これを見た安藤氏の息子さんは鶏肉が食べられなくなってしまったそうです。 しかし鶏肉を食べることができない子でも鶏ガラスープのラーメンは喜んで食べました。 このことから、チキンスープを使うことに安藤氏は自信を深めたといいます。

          ○

インスタントラーメンが創られる中で開発された最も重要な技術の一つは麺を油で揚げることです。
お湯を掛けるだけで短時間に復元する乾燥麺の開発は、天ぷら屋で天ぷらが揚がるところを見ていてヒントを得たといいます。
麺を油で揚げると、水分が蒸発するときに麺に細かな穴があくため、短時間でお湯を麺に浸透させることができることに気づいたのです。(関連:「コシヒカリやデンプンのα化」)
しかも、高温の油で揚げることは麺の殺菌にもなります。

          ○

開発を決意してからなんと10年の歳月をかけインスタントラーメンは完成されました。
最初は手作業で一日に300食程度が作られ、昭和33(1958)年8月25日に、大阪市中央卸売り市場に最初のチキンラーメンが卸されました。
当時のキャッチコピーは「お湯をかけるだけ2分でOK」というもので、価格は35円でした。
その頃のうどん玉は6円で乾麺は25円だったこともあり、35円のチキンラーメンを卸問屋に持ち込んでも最初は相手にしもらえませんでした。
しかしチキンラーメンは店頭に置かれるとすぐに売れてしまうことから、問屋からの注文が相次ぐようになったといいます。
サンシー殖産として始まった安藤氏の会社は、チキンラーメンが発売された年に日清食品となりました。
その翌年には、インスタントラーメンは年間7,000万食(!)も生産さるようになり、昭和35(1960)年に森永製菓が発売した「インスタントコーヒー」が人気商品となったこともあって、「インスタント」という言葉がこの時代のキーワードとなり、インスタントラーメンの需要は急速に拡大していくことになります。

          ○

Noodle_1 昭和37(1962)年には明星食品が麺とスープを別にした「支那筍入り明星ラーメン」の発売を始め、これによりスープの味を調合することが容易になりました。
昭和41(1966)年にはサンヨー食品が発売を始めた「サッポロ一番」に初めて乾燥ねぎがつけられています。
同じ年に発売された明星食品の「明星チャルメラ」のスープの味はホタテがベースにされ、麺にはより質の高い小麦が使われて味の差別化が図られるようになります。
昭和43(1968)年にはダイヤ食品がノンフライ麺を発売するなど、1960年代には様々なインスタントラーメンが次々と登場したわけですが、最初のインスタントラーメンであるチキンラーメンの製法はその後の多種多様なインスタントラーメンが作られるときの基本となりました。

          ○

富士総合研究所が行った「20世紀の世界をうならせたメイド・イン・ジャパン」という意識調査では、二位のカラオケや三位のヘッドホーンステレオを抑えてインスタントラーメンが一位に選ばれています。
(四位以下は、家庭用ゲーム機、コンパクトディスク、カメラ技術、黒澤明、ポケットモンスター、自動車技術、寿司と続きます)

最初は問屋に相手にされなかったインスタントラーメンですが、日本即席食品工業協会のホームページにある資料によれば、現在の日本でのインスタントラーメン消費量は年間54.4億食、世界中では年間857億食のインスタントラーメンが食べられているそうです。

<参考書籍>
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
岡田哲(2002)『ラーメンの誕生』筑摩書房
奥山忠政(2003)『文化麺類学・ラーメン篇』明石書店

<ラーメン関連>

インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福 インスタントラーメン誕生物語—幸せの食品インスタントラーメンの生みの親・安藤百福
中尾 明

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魔法のラーメン発明物語―私の履歴書 魔法のラーメン発明物語―私の履歴書
安藤 百福

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食欲礼賛 食欲礼賛
安藤 百福

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安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない 安藤百福のゼロからの「成功法則」―人生に遅すぎるということはない
鈴田 孝史

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インスタントラーメン発明物語 インスタントラーメン発明物語
インスタントラーメン発明記念館

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2006/08/22

かつお節の作り方

かつお節はその製造工程の段階によって節に名前がつけられ、それぞれ異なったかつお節として区別されています。
まず「生利節(なまりぶし)」が作られ、その後は手が加えられるごとに「荒節(あらぶし)」、「裸節(はだかぶし)」となり、最終的には「本枯節(ほんがれぶし)」が作られます。

          ○

工程の最初にかつおが捌かれますが、小型のかつおは三枚に下ろされ、大型のものは三枚に下ろされたものが更に背と腹に分けられて四本の節がつくられます。
節が四つに分けられたときは背側の身が雄節(おぶし)、腹側は雌節(めぶし)と呼ばれ、小型のかつおが3枚に下ろされた場合には、その半身は亀節(かめぶし)と呼ばれます。
亀節からは繊細な味の出汁がとれるとして、吸い物用には亀節を使うというこだわりをもつ料理人もいるそうです

          ○

かつおを下ろしたときに出るかつおのハラワタはかつお節には使われないので、土佐では江戸時代の頃からこのワタを塩辛にするようになりました。
この塩辛は「酒盗(しゅとう)」 と名付けられ、酒に合うつまみとして今でも作り続けられています。

          ○

かつおの切り身は大釜で1時間から1時間半程度煮られた後に、身から小骨が取り除かれ乾燥させられます。
ここまでの状態になったものが「生利節(なまりぶし)」とよばれます。
乾燥作業が施されているとはいっても生利節はまだ水分を多く含んでいて柔らかく、魚臭さが残るため出汁を取るためには使えず、和え物や酢の物にして食べられます。
生節を削いだものは、しょうが醤油につけたり大根おろし醤油につけてもおいしく食べられます。

          ○

生利節には、蒸籠に並べて煙と熱をあてて乾燥する「焙乾(ばいかん)」という作業と、常温で一晩冷やす「罨蒸(あんじょう)」という作業が何度か繰り返し施され、「荒節(あらぶし)」とよばれる節に変わります。
罨蒸作業によって節内の水分は均等に行き渡るようになります。
罨蒸中に節の外側にも水分は染み出てきますが、節には布が被せられて水分の蒸発が防がれます。
10〜15回も焙乾と罨蒸が繰り返されると節はカチンコチンに堅くなります。
荒節の段階でもまだ魚臭さは残っていますが、濃厚な出汁を必要とする麺つゆや味噌汁などの出汁をとるのに荒節は向いており、削り節などにも加工されます。

          ○

荒節を削って整形したものが「裸節(はだかぶし)」で、別名「鬼節(おにぶし)」とも呼ばれるものです。

          ○

裸節は1〜2日程度天日で干された後、「カビつけ」のために通気のよくない部屋に置かれます。
カビつけは、裸節にカビを繁殖させて節内の水分をカビに吸収させることで水分を更にとばす作業です。
カビつけにより節内の水分含有量は10数パーセントにまで下がります。

かつお節づくりには麹カビの一種の鰹節菌が利用されますが、もちろんこの菌は人体には無害です。
この鰹節菌がかつお節の水分を取り除くだけでなくカツオの脂を分解する酵素を出す役割を果たしています。
酵素により魚臭さの元になる脂質は分解され、旨味の素になるイノシン酸は増加します。

ヨーロッパのような乾燥している地域では、カマンベールチーズやブルーチーズなどで例外的に使われる以外は、乾燥を嫌うカビを使って保存性を高める方法はあまり使われていません。
日本は雨量も多く湿度も高いため、カビを繁殖させるには適しており、かつお節のカビつけのような製法も生み出されてきたのです。

節の表面がカビで覆われる度にカビは払い落とされ、払い落としては再び鰹節菌の胞子が植え付けられる作業が何回か繰り返されて、カビつけの工程には約100日程が費やされます。

          ○

カビつけ作業が施されると成分が濃縮され香りの良い本枯節(ほんがれぶし)がついにできあがります。
ここまでの工程の中で繰り返される乾燥と熟成によって節内の水分は殆ど無くなるため、上等のかつお節二本を互いに打ちつけると、カキンカキンと金属バットで硬球を弾き返すときのような音が響きます。
味と香りが研ぎすまされた本枯節は幅広い用途に使うことができます。

<参考書籍>

高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店
一島英治(2002)『発酵食品への招待—食文明から新展開まで』裳華房
小泉武夫(2005)『小泉武夫 食のワンダーランド』日本経済新聞社
服部 幸応 (2004)『大人の食育』日本放送出版協会

<かつお節関連>

木曽工芸 木曽檜鰹節削り器 木曽工芸 木曽檜鰹節削り器

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味一番 鰹節 削器 大 H-5045
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日曜日の遊び方 手作りかつお節図絵
大海 淳
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2006/08/21

酢漬けいろいろ

日本での酢の大量生産は江戸時代に始まり(関連:「酢の歴史」)、同時期に漬け物が発展したこともあり、この頃から酢漬け食品が一般家庭で食べられるようになりました。
現代の日本人にも馴染み深い酢漬けといえばらっきょうとしょうがの酢漬けでしょうか。

          ○

昔作られていたらっきょう漬けは食塩水に3週間漬けられ、乳酸発酵させることで作られていましたが、今のらっきょう漬けの作り方は、一度らっきょうを食塩水に浸けてから塩抜きして、その後甘酢に2週間ほど漬けるのが一般的です。
甘酢の作り方は、酢カップ1に砂糖を大さじ4〜6、塩を小さじ0.5〜1を加え一度沸騰させて作ります。
一度煮きることで酢の味の角が取れてトゲトゲしさがなくなります。

          ○

寿司屋でガリとよばれるしょうがの甘酢漬けは今やすしには欠かせません。
しょうがに含まれる芳香成分が魚の生臭さを隠す働きをし、しょうがの殺菌作用や抗酸化作用と酢がもつタンパク質分解酵素が生魚を食べたときの胃腸の負担を減らし消化の手助けをしてくれます。
もちろん、すしを食べる合間にガリをつまめば口中が爽やかになってすしの食が更に進むという効果もあります。
寿司店で出されるガリは根しょうがを使ったものが多いかもしれません。
新しょうがを甘酢漬けにするときれいなピンク色になりますが、根しょうがは白っぽい仕上がりになります。(関連:「しょうがの甘酢漬け」)

          ○

酢漬けは世界各地にあります。
中国にはにんにくを甘酢に漬けた「糖醋蒜」というものが煮物に使われたり、「醋薑」と呼ばれるしょうがの甘酢漬けがそのまま食べられたり炒め物に使われたりしています。

東南アジアでよく食べられる輪切りとうがらしの酢漬けは、麺料理やチャーハンの類いに入れられたりします。
タイの食堂のテーブルの上には、調味料セットとして唐辛子や砂糖、ナンプラーの他に「ナムソム」と呼ばれるとうがらしの酢漬けも置かれています。
シンガポールのサンドイッチ店のサブウェイでは、野菜類を全部入れて下さいと頼んだら、とうがらしの酢漬けも入れてくれた記憶があります。

          ○

日本人に有名なヨーロッパの酢漬けといえばきゅうりのピクルスでしょうか。
英語の「ピックル(pickle)」は塩水や酢に漬けるという動詞で、複数名詞の「ピクルス(pickles)」になると野菜や果物を漬けた漬け物全般を指します。

ザウアークラウトがキャベツの酢漬けと和訳されることもあるようですが、ザウアークラウトに酢は使われておらず、塩に漬けられたキャベツの乳酸発酵によって酸味が出されています。(関連:「ザウアークラウトの作り方」)

日本に輸入されるピクルスの多くは酸味の強くない甘酢のピクルスですが、ヨーロッパで好まれるピクルスはもっと酸味の強いものだといわれます。
油を入れすぎた料理やラーメンのスープに酢をほんの少量入れるとくどさが和らぐ感じがしますが、それと同様に油を多く使う欧米の料理には酸味が強い漬け物のほうが合うのでしょう。

ピクルスは日本に浸透しているとは言えませんが、その一つの現れでしょうか、日本ではピクルス用の短いきゅうりの品種が殆ど開発されてきませんでした。
アメリカやロシアではピクルス用きゅうりの品種は多く作られましたが、日本には江戸時代にシベリアから伝来したと言われる「酒田」とその改良型の「最上」の二品種くらいしかありません。

          ○

酢に漬けられるのは野菜だけではありません。
ヨーロッパで魚のマリネは北イタリアやフランスのプロバンス、スペイン、トルコ、バルカン半島などで食べられ、にしんの酢漬けは北欧のビュッフェ形式の食事スモーガスボードに欠かせません。
塩漬けにしんを三枚におろして酢に漬けるのがにしんの酢漬けの一般的な作り方ですが、ドイツのブラートヘーリングと呼ばれるにしんの酢漬けは、にしんが油で揚げられてから酢に漬けられます。

          ○

日本で有名な魚の酢漬けに岡山県のままかり漬けがあります。
関東でサッパとよばれるにしん科の小魚の腹と頭が取り除かれ、塩で身がしめられてから酢で洗われ、酒や砂糖が加えられた酢の中にしょうがや昆布などと一緒に漬けられ作られます。

サッパのことを瀬戸内地方ではママカリと呼びます。
明治初期のジャーナリストの成島柳北がこの魚を食べたときのことを、「その魚、初めて漁船に上がる 魚人、これを食うに美味なり、一船の飯を喫しつくし、ついには隣船より飯を借りて食う」と随筆に書き、この文章の中の「飯借」が魚の名の「ままかり」になり、「ままかり漬け」の名前の由来になったといわれます。

ままかり漬けはご飯に合い、隣の家からご飯を借りなければならないほど食べ過ぎてしまうことから、この漬け物に使われる魚がママカリと呼ばれるようになったのだという説もあるようです。

<参考書籍>

成瀬宇平 (2003)『すしの蘊蓄 旨さの秘密』講談社
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
スー シェパード(2001)『保存食品開発物語 』文藝春秋
外山健三(1991)『イワシ読本—頭の良くなる魚』成山堂書店

<酢・漬け物関連>

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