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2006/07/31

とうもろこしと神様

日本列島各地で次々と梅雨が明けてきましたね。
スーパーや八百屋では旬のとうもろこしが店頭の目立つところに置かれるようになりました。
やっと夏が来たなという感じがします。

          ○

Coneとうもろこし栽培は紀元前6000〜5000年頃にメキシコで始まったと考えられています。
メキシコ人の祖先が栽培に使った原種の植物が何なのかについては定かになっていません。
南米に自生していた植物ではないかとか、メキシコ高原に生えるテオシントという植物ではないかなど色々な説は出されています。
紀元前2000年頃にはペルーでも栽培が始まり、その後とうもろこし栽培は北米を含むアメリカ大陸で広がりました。

          ○

古代からとうもろこし栽培を行っていたアメリカ大陸のどの地域でもとうもろこしは「聖なる植物」とみなされ、神への供物として大切に扱われました。
とうもろこしの植物学的な起源は定かではありませんが、その始まりについての伝説は至る所に残されています。

その一つの北アメリカの先住民アルゴンキン族の神話です。
あるアルゴンキン族の少年のところに頭に羽飾りをつけた若者が現れ、少年と毎日レスリングをするようになります。
何日かレスリングをした後、その羽飾りの若者は自分を殺して土に埋めるよう少年に命じ、少年は若者の指図通りにしました。
しばらく経ってから少年が羽飾りの若者を埋めた場所を見に行くと、その場所からは羽飾りのような毛を付けた植物が生えていました。Hero
これがとうもろこしだったのです。
狩猟で生計を立てていた少年の父は年老いて狩りに出られなくなることを憂いていましたが、とうもろこしのお陰で狩りに行かなくても生活ができるようになり親子で喜んだというお話しです。

余談になりますが、このように神や祖先の体の一部を土に埋め、埋めたところから主食となるような大事な穀物などが生えたという伝説はなぜか太平洋文化圏を中心に世界中に残されています。

          ○

1493年にアメリカ大陸に到達したコロンブスによって、それまではアメリカ大陸だけで栽培されていたとうもろこしがヨーロッパにも伝えられます。
イタリア人はとうもろこしがトルコから来た穀物だと考え「トルコの穀物」という名で呼びましたが、とうもろこしの原産地をアフリカだと考えたヨーロッパの他の地域では「ギニア・コーン」と呼んだりもしました。

          ○

16世紀にはスペインのカスティーリャ、アンダルシア、カタローニャで、とうもろこしは栽培されました。
1530年代には北イタリアのヴェネトなどでも栽培が始まります。
ヨーロッパで栽培が始まった当初はとうもろこしに対する偏見がありましたが、17世紀になるとそれも徐々になくなり、主食とする地方も出始めました。
北イタリアのとうもろこしのポレンタはこの地域の伝統料理になっています。

<参考書籍>
J・キャンベル, B・モイヤーズ(1994)『神話の力』早川書房
シルヴィア・ジョンソン(1999)『世界を変えた野菜読本—トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシ』晶文社
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
ダナ・R. ガバッチア(2003)『アメリカ食文化—味覚の境界線を越えて 』青土社

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2006/07/28

カレーを初めて見た人達

現在「カリー」と呼ばれる料理にヨーロッパ人が初めて出会ったのは16世紀の終わりから17世紀初め頃のことです。
何人かのオランダ人やポルトガル人がその食べもののことを記録しています。
例えば16世紀末の西インドのゴアに住む人達の様子を記録したオランダ人のリンスホーテンは、インド人達がスープ状のものをご飯の上に掛けて食べていることについて書き残しており、その食べものが「カリ」と呼ばれているとも記しています。

          ○

日本語の「カレー」は英語の「カリー(curry)」が訛ったものですが、「カリー」の語源となったのが、16〜17世紀頃にヨーロッパ人達が記録した言葉「カリ」なのです。
しかし、「カリ」とはタミル語で「油や香辛料で味付けする」とか「調理した野菜または肉」、「焦がす」などの意味を持っていますが特定の料理名を指す言葉ではありません。
カレーを最初に見たヨーロッパ人達の勘違いから「カリー」という料理名が生まれたわけです。

          ○

日本人が最初にカレーを見たのは記録上では1863年のことでした。Indean1
日本人34名の使節団がフランス軍艦に乗船して航海中に、中国の上海でインド人の一行が同じ船に乗ってきました。
食事時になると、日本人がそれまでに見たこともない何かをそのインド人達は食べ始めます。
その様子を日本人団員の一人が記録しています。
「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のドロドロのようなものをかけ、これを手にまぜ、手にて食す。至って汚く人物の者なり」と書いており、カレーという食べものに驚いただけでなく、インド人達が手づかみで食事をしていることにも吃驚しているようです。

          ○

日本人で最初にカレーを口にしたのは1871年に国費留学生として渡米した会津藩士の山川健次郎(当時16歳)だといわれています。
山川さんの記録によると、アメリカに渡る船中で出された食事は若い会津藩士にとっては未経験で口にできない肉料理ばかりで、食べられるものがなくホトホト困ってしまったようです。
そんな中である日の食事に食べ馴れた米の飯が出されました。
しかしご飯の上にはカレーが掛けられてあったのです。
山川さんがカレーを見たのはこの時が初めてで、ドロドロした食べものが気色悪くはありましたが、米の飯を渇望していた最中だったために渋々これを食べました。
これが日本人がカレーを食べた最初だとされています。
しかし、山川氏はカレーのルーが掛かっていないご飯の部分だけを付け合わせの杏の砂糖漬けをおかずにして食べたのだという説もあるようです。

<参考書籍>
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
NHK取材班(1990)『人間は何を食べてきたか カレー、醤油』日本放送出版協会
森枝卓士(1989)『カレーライスと日本人』講談社
井上宏生(2000)『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』平凡社

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2006/07/27

ベトナムの麺料理 フォー

ベトナムの麺といえばまず「フォー」の名前が上がるのではないでしょうか。

フォーの原料は米粉です。
ベトナム南部地方でよく食べられる「フーティエウ」も殆どフォーと同じ作り方になりますが、フーティエウには米粉だけでなくキャッサバも加えられるため、フォーよりもフーティエウの方がコシがあります。

          ○

フォーの作り方は、最近の日本人にはおなじみの「ゴイクォン(生春巻き)」で使われるライスペーパーを作る工程と途中までは同じです。05phbk06
ライスペーパーを細く切り出したものがフォーになります。

ライスペーパーの伝統的な作り方は、最初に米を水にしばらく浸けます。
次に米と米を浸けていた水を一緒に石臼で挽きます。
臼からは水溶き米粉のようなものが出てくるので、この白い液を薄く広げて蒸し固めます。
これを乾燥させるとライスペーパーになるのですが、ライスペーバーが半乾きの状態のときに麺状に切るとフォーになります。

          ○

粉に水などを加えてある程度の硬さにしてから包丁で細く切る麺の作り方は唐代の中国で考案された方法で、その後アジアに広がりました。
ベトナムのフォーもこの切り出し麺タイプになります。

フォーを作る時に蒸す工程が入っていることからも、フォーが中国料理の影響を受けているのが分かります。
蒸すという調理法は古代中国の時代から使われてきました。
点心などで見られるように蒸す方法は中国料理を特色づける要素の一つです。
そしてベトナム料理でも蒸し料理は多くあり、ベトナム食文化に中国食文化が取り入れられた現れの一つでもあります。

          ○

秦の始皇帝が中国を統一したときにベトナム北部も中国の植民地となり、約1000年ものあいだベトナムは中国から支配を受けました。
約10世紀にわたり中国の支配下にあった北部ベトナムのキン族は、中国支配の時代が終わった後に南下して中部ベトナムと南部ベトナムに攻め入り、現在ベトナムとなっている領土を統治することになります。
そのため全国的にベトナムの料理には中国料理の影響が色濃く出ており、まるでベトナム料理が中国料理の一地方料理であるかのように「中国料理化」されている部分も見られるのです。

          ○

その反面、ベトナムは中国文化に対する反発も持っていたようで、ベトナム文化が完全に中国文化と同化することはありませんでした。
キン族がベトナム統治を押し進めるにつれ中国料理の技法もベトナム全土に広まりましたが、一方では、中部ベトナムに影響したインド文化や南部ベトナムに影響した東南アジア文化が中国料理の影響を受けたキン族の食文化と混じり合い、独特なベトナム食文化を形作ることになりました。

          ○

その食文化混合の跡がフォーの中にも残っているのです。

フォーには、牛骨スープをつかう 「フォー・ボー」と鶏スープをかける「フォー・ガー」があり、それぞれの動物系スープがそれぞれのフォーの味のベースになりますが、フォー・ボーとフォー・ガーのどちらのスープにも加えられて味の土台となるのが「ニョクマム」です。

05phbk10_1 ニョクマムは、イワシやムロアジの類いの魚を原料とした魚醤で、ベトナムの代表的調味料として頻繁に料理に使われるため、ベトナム料理の味の核になるといってもいいくらい重要な調味料です。
中国で発達した大豆発酵食文化は日本を含む東アジアでは受け入れられましたが、厳重に発酵温度をコントロールする必要がある麹菌を使う味噌などは気温の高い東南アジアでは造ることが難しく、ベトナムではニョクマム、タイではナンプラー、カンボジアではトゥックトレイなど、東南アジアでは魚醤文化が発達しました。

中国の麺料理に非常に似通ったフォーですが、醤油ではなく東南アジア料理の特色となる魚醤のニョクマムが使われ、ニョクマムや香菜の味と香りが相まうベトナム料理独特の風味を持つ麺料理になっているのです。

          ○

また、フォーには酸味を加えるのにライムを絞り入れたりしますが、ここにも東南アジア料理の要素が見られます。
東南アジアでは酢よりも柑橘類が多く使われました。
これは、この地域ではドブロクが主流だったことに関係があるという説があります。
酢が造られるようになるには酒が大規模に醸造される程に文明が発達する必要があるといわれます。
各家で小規模に酒を造っている程度では、酒は酢に転換される前に消費されてしまいます。
家庭でつくられるドブロクが主流の地域では、貴重品の酒がもとになる酢ではなく、もっと手に入り易いレモンやライムが料理に使われたのだろうと推測されています。
日本でも酢の大量生産が始まったのは酒の大規模醸造が安定的に行えるようになった江戸時代以降からでした。(「酢の歴史」

          ○

中国料理の製法で作られた米粉の麺、東南アジアの味を代表する魚醤のうま味と塩味、ライムの酸味、それらが器の中で渾然一体となっている一杯のフォーを味わうとき、地理的そして歴史的要因によってベトナムが中国や東南アジアの他国から影響され、独特の食文化を形作ったことが実感できるのです。

<参考書籍>
森枝卓士(2005)『世界の食文化 (4) ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』 農山漁村文化協会
石毛直道(1995)『文化麺類学ことはじめ』講談社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店

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2006/07/26

レタスやサラダ菜

「レタス」とはもともと英語であり、野菜の「チシャ」を指す言葉です。
葉が重なって玉状の形になることを結球するといいますが、チシャの結球するタイプで白っぽい色をしたものを日本ではレタスとよび、結球しないものをサラダ菜と呼んでいます。

          ○

チシャはキク科植物です。
キャベツはレタスに形が似ていますがアブラナ科の植物です。

          ○

チシャの歴史は古く、紀元前6世紀のペルシャ王宮で食されていた記録があります。
ローマ時代には、チシャの茎を切ったときに出る白い乳液には催眠や鎮痛作用があると信じられていました。

          ○

チシャがなにから作られた野菜であるかは定かになっていませんが、ラクトゥカ・セリオラが原種ではないかといわれています。Lettuce_1
ラクトゥカ・セリオラはヨーロッパや北アフリカ、西南アジアに生える雑草です。
先祖が雑草であったせいか、レタスやサラダ菜には野生種の植物との交配が安定的に行える性質があり、これまでにも色々な品種が誕生してきました。

          ○

チシャの種類分けは色々ありますが、「カキチシャ」、「タマチシャ」、「チリメンチシャ」、「タチチシャ」の四つのタイプに分けることもできます。

「カキチシャ」はチマサンチュという名で出まわり最近は焼肉店などで使われています。

「タマチシャ」は日本ではレタスの名で売られているタイプのものです。
16世紀ころにヨーロッパで開発されたました。

「チリメンチシャ」はリーフレタスともよばれ結球はしません。
サニーレタスなどがこのタイプになります。

「タチチシャ」は短い茎に葉がびっしりと付いており白菜の様な形をしています。
フランス語で「ローマの」という意味の「ローメイン(romaine)」という言葉に由来してローメインレタスともよばれます。
日本ではまだあまり一般的ではありませんが欧米ではよく食べられます。

          ○

チシャは西域からシルクロードを通って東に伝わり、唐代の頃には中国でも使われていました。
日本へは中国から伝来したと考えられています。
9〜10世紀頃の日本の文献に「知佐(チサ)」として、この野菜のことが記されています。
チサが転じてチシャになりましたが、この「知佐」はカキチシャだったようです。

江戸時代末期の記録には、現在の日本人がレタスと呼んでいる結球タイプのタマチシャが日本に伝わったことが記されています。
しかし、江戸時代にはタマチシャの種子が伝来しただけのようで、栽培は明治時代になって北海道で初めて行われました。
一般家庭に普及したのは第二次大戦後のことです。

          ○

Sarlad_1 レタスの旬は7月から8月にかけてですが、今年は日照不足や長雨が続き、繊細なレタスにどの程度影響するかが気になるところです。

レタスは手に持ってみたときに重量が軽く感じ、裏の切り口が10円硬貨程度に小さいものが良いものです。

レタスを切った後に水につけるとレタス内の酵素が空気に触れないため、切り口の酵素が酸化して赤茶色に変色するのを抑えることができます。
しかし、この方法はレタス内のビタミンCを水中に流出させてしまいますので、長時間水に浸けておくのは避けるべきです。
包丁で切るよりも手でちぎった方が細胞の断面が不揃いになり酵素とポリフェノールが結びつきにくくなるため、変色を抑えることができます。

<参考書籍>
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方』小学館
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社

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2006/07/25

トリュフはなぜ珍味か

トリュフが「世界三大珍味」の一つとされるのは、他のキノコとは異なる独特の繁殖の仕方に謎が多く、人工栽培ができないため希少価値が高いということにも因ります。

まだ詳しくは分かっていませんが、トリュフは柏やハシバミなどの木の根を必要とし、樹木に何かを供給して木の根から何かをもらっているようなのです。
そのため、トリュフは人工的に栽培できず自生したものを採取するしかないのが現状です。
しかもトリュフは地中で生育するため採取するには掘り出さなければならず、見つけだすのに手間が掛かります。

          ○

初めてトリュフを食べたのはユダヤ人の祖とされるヤコブだとする話しがあるようですが、これはまったくの嘘で旧約聖書にそのような記述はありません。

古代ギリシャン時代には健康維持にトリュフを食べるのが良いとピタゴラスが著書に書いたり、紀元1世紀に書かれたローマの料理書にもトリュフ料理のレシピが記されているなど古い文献にもトリュフは登場しています。
しかし、これら古代ギリシャやローマで食されたトリュフは現在のものとは異なるテルファスという食用キノコだったのではないかとう説もあります。

中世になるとトリュフは媚薬的な扱いをうける程度で料理の食材としてはあまり使われなくなりました。

トリュフが再び盛んに用いられるようになったのは14世紀になってからのことです。
フランス料理で、潰したトリュフを肉汁に和えて肉料理に掛けたり、トリュフと牛乳やバターを合わせたものを野菜に掛けるなどソースとしての使われ方が発達し、トリュフは食材としての人気を盛り返しました。

          ○

フランスではトリュフ探しに雌豚、犬、青蝿、人間の鼻などが使われています。
面白い方法にはオート麦を使うものがあります。
これはトリュフの違法採取者が使う方法で、トリュフが生育しそうな木の根元にオート麦の種を蒔いておき、数ヶ月後にオート麦が枯れて育っていない場所を掘り起こすというものです。
理由は分かりませんが、トリュフが育つ場所では他の草が生えないためにこのような方法が使えるのです。

          ○

トリュフはフランスだけで生育するわけではなく、世界十数カ国で30種類以上のトリュフが採られています。
フランスで採られるものではペリゴール産黒トリュフが有名で、「黒いダイヤモンド」とよばれています。
イタリアにはウンブリア産の黒トリュフがありますが、それよりも高価で騒がれるのはピエモンテ地方で採れる白トリュフです。
これらのトリュフに比べて安価なものに中国産があり、これは松の木で繁殖するものです。
日本の中国産トリュフの輸入は1994年に始まっています。
2002年に日本に輸入されたトリュフの70%は中国産だったそうです。

          ○

輸入トリュフには冷凍物か冷蔵物かの違いがありますし季節や気候条件によって価格は変わってきますが、あるサイトでは中国産トリュフが1キロ1万円をきる価格で販売されていました。
フランス産トリュフは中国産の20倍近い価格で、イタリアのピエモンテ産白トリュフはフランス産黒トリュフの3倍以上の値がついていました。
「宝石」だとか「ダイヤモンド」などと呼ばれるのも納得の価格です。
(私事ですが昨晩のおかずは舞茸のバター炒め)

<参考書籍>
宇田川悟(1994)『食はフランスに在り—グルメの故郷探訪』 小学館
池上俊一 (2003)『世界の食文化 (15) イタリア』 農山漁村文化協会
末永徹 (2005)『食材はどこから』料理王国社

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2006/07/24

酢の歴史

バビロニアとは古代の地域名で、メソポタミア(現在のイラク)の南部地方のことです。
紀元前1894年にはこの地方からバビロニア王国が興り繁栄したこともありました。

この古代帝国ができるより以前の紀元前5000年には、バビロニアでナツメヤシや干しぶどう、ワインなどから酢が作られていたことが分かっています。

          ○

酢が登場するヨーロッパの最も古い文献は旧約聖書のルツ記だといわれています。
「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べるものを酢に浸しなさい」という記述です。
新約聖書にも酢は登場しています。
キリスト臨終の場面でも、キリストが最期に酸っぱいブドウ酒を口にしています。

          ○

酢は、空気中の酢酸菌がアルコールを分解して酢酸に変えることでつくられます。
酒が酢に変わるということは言葉の由来にもなってきました。

英語の「vinegar」の語源はフランス語の「vin(ワイン)」と「naigre(酸っぱい)」の合成語に由来しています。
つまりビネガーとは酸っぱいワインという意味を持っているのです。
中国でも酢のことを昔は「酸っぱくなってしまった酒」の意味で「苦酒(クオウチュウ」と書きました。
6世紀のころ中国から日本に酢が伝わった当時、日本でも酢は「酸酒(からさけ)」と呼ばれました。

          ○

日本で酢の大量生産が始まったのは江戸時代になってからのことです。

奈良時代の頃に中国から日本に伝えられた酢の作り方は米と麹と水を原料としたものでした。
しかし、江戸時代になって酒粕を使って酢を造る方法が考案されます。
酒粕を2〜3年貯蔵するとアルコール分とうま味成分が増え、これを水に混ぜた後に濾過すると「酢もと」とよばれるものができます。
酢もとを酢酸発酵させると酢ができあがります。
尾張の造り酒屋だった中野又左衛門がこの方法を考案し、1804年に中埜(なかの)酢店を開業しました。
これがあのミツカン酢の株式会社ミツカングループの始まりとなりました。

          ○

戦後の米不足の時代には氷醋酸と水にグルタミン酸ソーダやブドウ糖を混ぜた合成酢が出まわりました。
その後食料事情が改善し合成酢は減り、一般には醸造酢がお店の棚の殆どを占めるようになります。

醸造酢とはいっても現在は二種類が販売されています。
一つは二ヶ月以上の時間を掛けて昔と同じやり方でつくる醸造酢で、もう一つは発酵時間を2〜3日に短縮させてつくられるものです。

また、関東の寿司屋では酒粕から造る粕酢が好まれ使われたりしますが、関西では米酢が主流になっています。

<参考書籍>
小泉武夫 (2000)『漬け物大全—美味・珍味・怪味を食べ歩く』平凡社
石毛直道(2004)『食卓の文化誌』岩波書店
柳田友道(1991)『うま味の誕生—発酵食品物語』岩波書店

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2006/07/21

うなぎと蒲焼きの語源

今年の土用丑の日は7月23日です。

          ○

うなぎは胸(腹)の部分が淡い黄色になっていることから昔は「むなぎ」とよばれていたといいます。
うなぎの形が屋根に使う丸太の棟木(むなぎ)に似ているからむなぎと呼ばれていたのだという説もあります。

          ○

うなぎが海で産卵することが分かる以前は、うなぎがどのように生まれるかは謎であり人々の想像を刺激しました。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは自然学関係の著書『動物誌』に、ミミズがうなぎになると説明しています。
日本でも江戸時代の百科事典『和漢三才図絵』には、渓流脇の土手から出た山芋がウナギに変身するとされており、半分山芋で半分うなぎという生き物を見た人もいるのだと真しやかに説明されています。

          ○

既に奈良時代の頃、うなぎは夏場の体力が落ちた時期に食べると良いと考えられていました。
『万葉集』の中の大伴家持の歌で、吉田石麻呂に対して夏痩せには鰻を食べると良いぞと忠告しているものがあります。

石麻呂に 吾れもの申す夏痩せに
よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とり食せ

          ○

1399年に記された『鈴鹿家記』に「うなぎかば焼」という記述が残されていることから、室町時代の末には、うなぎの調理に蒲焼きという料理法が使われていたことが分かっています。
ただし、その当時の蒲焼きはうなぎを開かずにそのまま串に刺して焼いていました。

「蒲焼き(かばやき)」の名の由来は、このうなぎの丸焼きの様子が蒲の穂に似ているため「蒲焼」と名付けられたという説があります。
他に、焼いた色が樺(かば)の木の皮に似ていたからという説や、焼いた時の香りが瞬く間に辺りに届くので「香疾焼き」とよび、転じて蒲焼きになったという説もあります。

          ○

土用丑の日にうなぎを食べるようになったのは江戸時代中期のことですが、最初に考案したのは学者の平賀源内だという説と鰻屋の春木屋善兵衛だという説があります。
その当時のグルメの間では中串(300〜500グラム程度のうなぎ)が好まれ、特に尻尾近くの身は胴に比べて脂が少な目であっさりとしていて美味しいとされていました。

          ○

関東ではうなぎを背開きにして白焼きにして蒸し、その後タレをつけて焼きます。
関西では腹開きにして蒸さずに焼きます。

関東では江戸時代に、武士の町で腹を開くことは切腹のようで縁起が悪いとしてうなぎを背開きするようになったといわれています。

関西でうなぎをなぜ蒸さないのかについて、関西のうなぎが生息した水は関東のものに比べて清らかだったため泥臭さを消すための蒸しの作業が省かれたのだと主張する人達がいます。
一方で、うなぎの過剰な脂分を落とすために関東の蒲焼きでは蒸すのだとも考えられています。
また、関西ではうなぎを「マムシ」としてご飯の間に入れて蒸すようなかたちにするので焼く前に蒸す必要がないのだという説もあります。

<参考書籍>
月刊食生活編集部(1992)『グルメのおもしろ語源集—食べものふしぎ博物館』コア出版
岩井保 (2002)『旬の魚はなぜうまい』岩波書店
主婦と生活社(2003)『おいしい言葉食べる言葉ものしり事典—食卓に一冊。うまさ倍増!話の調味料』主婦と生活社
浪川寛治三(1996)『野菜物語—たべもの探訪』一書房
樋口清之(1996)『食べる日本史』朝日新聞社
高橋素子(2003)『Q&A 食べる魚の全疑問—魚屋さんもビックリその正体』講談社
マルハ広報室(2000)『お魚の常識非常識「なるほどふーん」雑学』講談社

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2006/07/20

豆が頼りの細菌と穀物

豆の仲間を数えれば1万3000種になるとも1万8000種になるともいわれています。
世界中の畑や高い山の中ですら豆は栽培されてきました。
豆が至る所で生育し種類を増やしてこられたのは、通常の植物にとっては栄養の足りない痩せた土地であってもマメ科植物は生き抜くことができたからです。

          ○

植物が生育するには窒素が欠かせません。
その窒素も植物が取り込める形の窒素化合物になっている必要があります。
空気中の窒素ガスを窒素化合物に変える細菌がいて、この細菌を「根粒バクテリア」といいます。

豆科植物はその根の細胞の中で根粒バクテリアを育てることができるのです。
根粒バクテリアは豆科植物に窒素を供給し、豆科植物はバクテリアに光合成で得た栄養を与えます。
植物に必要不可欠な窒素を供給する菌と共生することで、豆は貧土の中でも生育することができるのです。

          ○

そして、この豆科植物の働きを人間は昔から体験的に知り農耕に利用してきました。Ricefield
豆と穀物などを輪作したり、日本でいえば稲田の空いた土地で豆を栽培してきたのがそれです。

豆を栽培した土壌で穀物を育てたり豆と穀物を一緒に栽培すると、マメが使い残した根粒バクテリア産の窒素肥料の余りを穀類が吸収し穀物 の収穫量が増えるのです。

          ○

しかも、豆と穀類を一緒に食べることは栄養学的にも理にかなったことです。

人間が生きていくには20種類のアミノ酸が必要です。
その内の9種類のアミノ酸は人間の体内では作ることができず食事でしか摂れません。
それらのアミノ酸を特に「必須アミノ酸」とよびます。

穀類だけを食べているとこの必須アミノ酸の中のリジンが不足してしまいます。
豆類はリジンを含んでいますが、穀類に含まれる必須アミノ酸のメチオニンやシスティンなどを十分に含有していません。

穀類の10〜20%のマメを食べるとバランスよく必須アミノ酸が摂取できるといわれており、そう見ると納豆掛けご飯などは理想的な食べものということになります。
昔の人達は根粒バクテリアや栄養学などを知らなくても豆類と穀類を同じ土地で栽培して一緒に食べていたわけです。

          ○

豆と稲を一緒に育てると稲の収穫が増えることに日本人がいつ気づいたのかは分かっていません。

大規模な稲作が行われるようになった弥生時代に豆類の栽培も既に行われていたのはほぼ間違いないといわれていますので、豆の栽培が米の収穫量を増やすことを当時の日本人も知っていたかもしれません。

<参考書籍>
増田芳雄 (1990)『モヤシはどこまで育つのか—新植物学入門』 中央公論社
吉田よし子(2000)『マメな豆の話—世界の豆食文化をたずねて』平凡社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社

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2006/07/19

羊とチンギス・ハーンの子孫達

最近は大相撲でモンゴル勢が場所を盛り上げていますね。
モンゴルのチンギス・ハーンの時代には兵士達を鍛える訓練の一貫として相撲が行われていたといいますから、あちらの相撲にも長い歴史があります。

          ○

チンギス・ハーンは1206年にモンゴル全土を支配下に置き、遊牧国家モンゴル帝国を創り上げました。

チンギス・ハーンを支えたモンゴル軍といえば今日でも草原を駆け抜ける騎馬軍団を連想するように、馬はモンゴル軍の最も重要な軍事力でした。
しかし、軍にとって大事なのは馬だけではなく、羊も歩く食糧貯蔵庫としてモンゴル軍の大遠征を支える重要な兵站戦略の一部になっていました。

          ○

高原に住むモンゴル人が牛よりも羊を多く飼った理由は環境との適合性だけでなく、彼ら遊牧民の家族構成や生活様式にも関係しています。
冷蔵庫どころか電気もないモンゴル高原では、夏場に家畜をつぶすときには大勢で一気に食べてしまう必要がありました。
牛を一頭食べきるには700人以上の人数が必要ですが、羊であれば10人程度で一頭を食べ尽くすことができるのです。

          ○

ところで、フランスやイタリアのレストランで料理されるラム肉の殆どはオスであることが多いはずです。
羊の群れの中にオスが多いと争いが起きて群れが分裂してしまうため、ヨーロッパでは羊のオスが生まれると種オスに選ばれたもの以外は小さいうちに間引かれてラム肉にされてしまうのです。

生まれる子羊の内ほぼ半分はオスですから、子を産んだメス羊の約半数が子供を失います。
しかし、それらのメスも乳は出します。
その子羊に飲まれることのない乳を人間が乳製品に利用したりしてきたのです。

          ○

Photo_1 しかし、モンゴル高原ではオスの羊も種オス以外は去勢され群れに残されます。
このモンゴル高原の去勢オス羊の文化は、モンゴルやその周辺でオスの子羊を売却する市場が存在しなかったことや、オスを生かしておいても飼育できる環境があったことなどから生み出されたものと考えられています。
モンゴルの遊牧民にとっては大量のラム肉を抱えて移動するよりも、歩く冷蔵庫のような生きたオス羊を連れて歩いた方が経済的だし労力が少なくて済んだのです。

          ○

オス羊を去勢した時に切除された睾丸は捨てられずに穀類などと一緒に煮て食べられてしまいます。
羊の去勢は春から夏にかけて行われます。
冬の間に保存肉を食べきり家畜の乳もまだあまりとれない時期に去勢が行われるので、睾丸は貴重なタンパク源になります。

          ○

高原に住むモンゴル人は、肉に火を直接あてて焼くと火の神様が怒ると信じているため肉を直火で調理しません。
肉の料理に石焼などはありますが、通常は水煮が多いのです。

また、味付けはたいてい塩のみで、ネギの類いを薬味程度に入れることはあってもコショウなどの香辛料を使いません。

冷蔵庫のないモンゴル高原では、保存が難しいため基本的に夏場は家畜をつぶさず肉は食べません。
冬の間は日中でも最高気温が零度を下回るくらい寒くなるので、家の外に出しておけば自然に肉をチルドの状態で保存できます。
肉を食べる冬の時期は肉が傷まないので匂い消しのために香辛料を使う必要がなく、料理の味付けがシンプルになったのかもしれないという推測もされています。

          ○

作家の開高健さんがモンゴルでイトウ釣りに挑戦したときの記録に羊の水煮の話しが出てきます。

「食事といっても主食と副食のけじめがないのである。 たいていは羊のこまぎれ肉の水煮であって、ひとつまみの岩塩だけが調味料である。 これをスプーンでチャポチャポとすすったらそれでおしまい。 朝がそれ、昼がそれ、夜もそれである。 昨日もそれ、今日もそれ、明日もそれである。 夏もそれ、冬もそれである。」

食事に使う調味料が一切ないだけでなく、モンゴルの草原での暮らしには、キッチンやトイレ、書斎、居間などがなく、所番地などなく、モンゴル人が草原に残すゴミは一切なくて、何から何までないと書いた後で開高さんは次のように続けています。

「この徹底ぶりをいちいち眺めていくうちに、”自然”を守るためにはここまで無欲にならなければならないのか、これより他に道はないのだろうかと、感嘆と同時に絶望めいたものも痛感させられる。 この高原の大草原は十三世紀のジンギス汗の時代もまったくこのままであっただろうし、それよりはるか一千年前も、さらに二千年前もこのままであっただろうという思いが胸にくる。」
(開高健(2000)『オーパ、オーパ!!〈モンゴル・中国篇・スリランカ篇〉』 集英社)

<参考書籍>
小長谷有紀(2005)『世界の食文化 (3) モンゴル』農山漁村文化協会
佐々木道雄 (2004)『焼肉の文化史』明石書店

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2006/07/18

きゅうりの白い粉

きゅうりのおいしい時期は本来7月から8月です。
イボが張ってトゲのようになっているものが新鮮なきゅうりです。
枝から切った切り口付近に白いトゲが付いているものは特に新しいものです。

          ○

きゅうりの属名は「cucumis」ですが、これはラテン語に由来しています。
そしてきゅうりを意味したラテン語の「cucumis」はメロンをさす言葉でもありました。
この「cucumis」という言葉を根拠に、一般的古代ローマ人はきゅうりが熟すとメロンになると信じていたのではないかと考えられています。

          ○

もちろんきゅうりをとらずにおいてもメロンにはなりませんが、きゅうりはメロンの仲間ではあります。
きゅうりに形が似ているズッキーニは植物分類学上ではカボチャの一種であり、メロンはきゅうりの一種に分類されるのです。

          ○

以前は、夏に収穫されるきゅうりは皮が薄くパリッとした歯ごたえがあるのに対して、春きゅうりは皮が硬く果肉も歯切れ悪いのが普通でした。
しかし、日本では春に夏きゅうりを食べたいという消費者の要望が強かったため、夏きゅうりをカボチャに接ぐという方法によって春キュウリの品種改良が行われ、これによって春でも夏きゅうりが収穫できるようになり、ついには従来の春きゅうりは殆ど市場から消えることになりました。

          ○

また、きゅうりをカボチャに接ぐ方法はきゅうりの味を改良するだけでなく、外見に対する消費者の要望に応える栽培方法でもあります。

昔のきゅうりには白い粉がついているものがありました。
これは水分の蒸発を防いだり水をはじくためにきゅうり自体が分泌するもので「ブルーム」とよばれる粉です。
スモモやブルーベリーにもできます。
このブルームの量できゅうりの鮮度が見極められていた時代もあったくらいで、もちろんブルームに毒性はないのですが、これを農薬がついていると消費者が勘違いして嫌ったため、ブルームがついたきゅうりが売れなくなったことがありました。

そこで「ブルームレス」とよばれるブルームの出ないきゅうりが開発され、その栽培法がきゅうりをカボチャに接ぎ木するやり方でした。
また、カボチャに接いだきゅうりの方が病気や低温環境に強いきゅうりができることも分かっています。
しかし一方で、ブルームが出ているきゅうりの方がブルームレスのきゅうりより歯切れがよくておいしいという意見もあるようです。

<参考書籍>
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会(2003)『野菜のソムリエ—おいしい野菜とフルーツの見つけ方 』小学館
大場秀章(2004)『サラダ野菜の植物史 新潮選書』新潮社
高橋素子(2001)『Q&A 野菜の全疑問—八百屋さんも知らないその正体』講談社

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2006/07/17

クローブの香り漂う島と大航海時代

カレーの香りづけや肉料理の匂い消し、ソースやケチャップの材料として使われるクローブはインドネシアのモルッカ諸島が原産地です。

          ○

クローブの名はフランス語で「釘(くぎ)」を指す言葉「クルウ(clou)」に由来します。
これはクローブの形が釘に似ているためです。
中国語でもクローブを「丁子」や「丁香」と書きますが、「丁」は釘を意味します。
中国漢代の文献では、クローブが「ヒヨコの舌」という名で記録されています。
これもやはりクローブの形状から名付けられたものと考えられます。

          ○

2世紀には既にアレキサンドリアがクローブを輸入していたという記録が残っています。
4世紀にはクローブがローマ帝国に伝わっていたことが、その当時のものとされる埋葬品の中からクローブが発見されたことで分かっています。
8世紀頃、クローブはアジアの重要な輸出品になっており、アラブ人がアジアとヨーロッパ間のクローブ貿易を仲介していました。

          ○

中世ヨーロッパでのクローブは貴重品で、クローブなどの香辛料を使うことは一種のステータスシンボルになっていました。
イギリスのヘンリー5世(1387-1422)の時代、ある豪商がヘンリー王に金を貸し、後にこの借金の返済を免除しましたが、王への借金を帳消しにした証と自分の財力を示すために、貴族や他の商人が集まる場で王への借用証書を大量のシナモンとクローブを燃やした火の中に投げ入れてみせました。
これを見たヘンリー五世は「いかなる王もこのような贅沢はできない」と言ったといいます。

          ○

ヨーロッパからクーロブの原産地のモルッカ諸島に最初に乗り込んでいったのはポルトガル人でした。
1500年代の初め頃、フランシスコ・セラーノというポルトガル人を船長とした船がジャワ島などを探検した後、モルッカ諸島のバンダ諸島に到達し、ヨーロッパでは貴重品扱いのクローブがその島々では無造作に生い茂っているのを発見します。
その後、ポルトガルはモルッカ諸島の香料を独占し莫大な利益をあげました。

          ○

バンダ諸島にクローブが林立していたのはこの地がクローブの生育に適していたのはもちろんですが、クローブの生命力の強さにもよります。
クローブの木は土中の水分や養分を吸い取る力が強いため、クローブの周りには他の樹木が生えなくなり、クローブ林が生まれるのです。
また、インドネシアのこの地域では、子供が生まれるとクローブの木を植える習慣が且つてあり、この習慣もバンダ諸島にクローブが繁茂していた理由の一つとされています。

          ○

ポルトガルの成功を見たオランダも17世紀になって東南アジアへの航路を開拓し始めます。
そしてポルトガル人とモルッカ諸島現地人との不仲や、ポルトガルの国力低下に乗じてオランダがポルトガルに代わってモルッカ諸島の香料を占有するようになります。

クローブの価格をコントロールするため、オランダはモルッカ諸島の人々に対してオランダ人以外にはクローブを売らないように命じました。
栽培地もモルッカ諸島の特定地域に限定し、指定地以外に生えていたクローブは伐採したり焼却したりしてしまいます。
約200年もの間、オランダは世界のクローブ貿易を独占し続けました。

しかし、そのうちオランダ人以外へのクローブの密売が増え、1770年にはフランス人がモルッカ諸島からクローブの苗木を持ち出し、フランス領の島でクローブ栽培を成功させます。
その後、南米や西インド諸島、アフリカなどでもクローブの栽培が始まり、オランダのクローブ貿易独占は終焉を迎えます。
現在、アフリカのタンザニアのザンジバル諸島は原産地のモルッカ諸島をしのぐクローブの産地になっています。

<参考書籍>
井上宏生(2002)『スパイス物語—大航海からカレーまで』集英社
石井美樹子 (1997)『中世の食卓から』筑摩書房
吉田よし子(1998)『野菜物語—大地のおいしい贈りもの』TOTO出版

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2006/07/14

オクラとアフリカ

オクラの露地ものの旬は7月から9月にかけてです。
オクラの表面にはうぶ毛が生えていますが、この毛がびっしりと生えたオクラは出荷されてまだ間がなく新鮮であることを示しています。

          ○

(上の地図が見られない方はこちらをどうぞ)

オクラの原産地はアフリカです。
東アフリカのビクトリア湖(上の地図ではケニヤの西端、タンザニアの北端に接している殆ど赤道上に位置する湖)の北、エジプトの南にスーダンがありますが、そのスーダンの都市ハルツーム(Khartoum)を流れる白ナイル川付近で完全な野生のオクラが発見されたことから、この地域がオクラの原産地だとされています。

          ○

2000年前のエジプトでもオクラが栽培されていた記録が残されており、人間とオクラのつきあいは意外と長いことが分かっています。

          ○

英語でもオクラは「okra」とよびます。
「オクラ」の語源は西アフリカの言葉だというのが定説です。

しかし、西アフリカのどの国の言葉が元になっているのかは分かっていません。
ナイジェリア(Nigeria)に「igbo」という「淑女の指」を意味する言葉があり、これが語源だという説や、ガーナ(Ghana)の言葉に由来するという説もあります。

          ○

フランス語でオクラは「ゴンボ」ですが、これはアンゴラ(Angola)でオクラを意味する「キンゴンボ」という言葉が語源になっています。

米語になると転じて「ガンボ」になり、アメリカ南部のオクラが使われる代表的ケイジャン料理の名前にもなりました。

18世紀頃に、西アフリカから奴隷として連れてこられた人達がオクラをアメリカに持ち込んだのですが、この奴隷の歴史が料理名の「ガンボ」に名残をとどめているのです。

          ○

検索してみたところガンボのレシピがいくつか出てきました。

cotton@dltさんのサイト「The Kitchen DLT」ではガンボスープの写真や非常に詳細なレシピが紹介されています。
こちらのサイトではアメリカ南部の食文化の情報が盛り沢山です。

”基本的に実在しないレストラン”のサイト「The Kolis Inn Restaurant」ではこちらにガンボの作り方があります。
こちらのサイトでも、アメリカ料理やケイジャン/クレオール料理のレシピが山ほど紹介されています。

          ○

江戸時代の終わり頃に初めて日本へオクラが持ち込まれましたが、この時は普及せずに終わりました。

明治になって、再度アメリカから日本にオクラ